第2話 獣臭


 まだ蒼貂熊アオクズリは姿を見せていない。

 バリケード越しに見る廊下は、長く無機質なくせに日常で、これから現れるであろう恐怖を感じさせない。なんか、ひたすらに悪い夢を見ているような気すらする。


 僕たちの後ろにもバリケード。そこには1階から逃げてきた1年生たちが立てこもっている。2年生は修学旅行で誰もいないから、この規模での立てこもりができているのは不幸中の幸いだ。あと、昔に比べて少子化で定員が減っているから、余り教室が多く、その一つ一つの教室が広いってのもいい。昔は1学年当たり3クラスも多かったらしいし、その1クラスあたりも今より10人は多かったらしいんだ。


 後輩を守るのは先輩の務めだ。とはいえ、机を積み重ねただけの頼りなさ。いくらかの時間稼ぎがせいぜいで、蒼貂熊は簡単にこのバリケードを破壊するだろう。

 だけど、後ろのバリケードは僕たちが逃げることを拒絶している。1年生がトイレに行けるよう、潜り込むようにして通れる隙間はあるけど、蒼貂熊に襲われたときに僕たちが逃げようとしても数人しか逃げられないだろう。

 つまり、前のバリケードに依って蒼貂熊を仕留めない限り、僕たちの人生に明日は来ない。


 廊下の2つのバリケードの間にも1つ教室があって、そこには3年生がみっしりと押し込まれている。

 そこから空手部主将の坂本が顔を出したけど、その顔色は紙のように白い。まぁ、むりもない。僕たちがやられたら、次に戦力になるのはコンタクトスポーツをやっている彼らだ。

 だけど、蒼貂熊は銅線の束のような体毛と鉄板のような筋肉の壁を持つ。そして15cmにも及ぶ爪と牙を誇る。一発殴られただけで牛ですら首がもげてしまうし、押さえつけられたらそのまま内蔵から喰われる。こんなの相手に、格闘技の技術があっても素手の人間が戦えるわけない。高校生の空手部のレベルではというより、ヒトではどうやっても勝てない。


「まだ来ないか?」

「ああ」

 僕は弓を持ったまま顔だけ坂本に向ける。

 坂本の心細さは、僕の心細さだ。僕と宮原の放つ矢は、間違いなく蒼貂熊の筋肉を抜けない。吹奏楽部の間藤と中島の持っている吹き矢だって同じことだ。


 この吹き矢、掃除道具のモップのアルミ伸縮柄から外してきた細いアルミ管だ。そこには生徒会本部室から持ち込んだ釘に紙を巻き、セロテープで止めた矢が仕込まれている。ありあわせで作った吹き矢だけど、試し吹きしてみたら10mくらいは軽く飛ぶし命中率も高い。ぎりぎりまで蒼貂熊を引き寄せて、その目を狙う作戦だ。

 だけど、実はこれも大して期待できない。なぜなら、蒼貂熊には3対、6つもの瞬きしない平らな目があるからだ。


 それでも、バリケードで足止めさせて、他の攻撃で一瞬でも蒼貂熊の動きが止められたら、長尾が居合刀を突きこむことになっている。刃がついていない亜鉛合金製の刀でも、切っ先だけは尖っている。頼りないけど、今の僕たちにこれ以上に有効な武器はない。



 不意に、蒼貂熊独特のニオイが鼻を突いた。

 初めて嗅ぐ臭いだけど、絶対に間違えることはない。

 獣臭なんて言葉もあるけど、それは地球に昔からいる猛獣本来の臭いだ。だけど、魔界から来た蒼貂熊の臭いは、甘くさえあると聞いている。だけど、その甘さは食べものを連想させない。悪甘く、腐臭に似た胸をムカつかせる臭いなのだという。

 繰り返すけど、そんな臭いだから、話に聞いただけであっても間違えるはずがない。


 いよいよ蒼貂熊が近づいて来ている。

 僕と宮原は視線を交わし合い、矢筈を弓弦につがえた。僕たちはいくらか古い射法を知っている。

 委託されて指導に来てくれている師範が、「本当はまだ良くないんだが……」と言いながらも戦国時代に使われていた射法を教えてくれていたんだ。伝統流派の腰矢というやつで、狙いを付ける「会」の間は短いし、射たあとに弓を半回転させる弓返りもない。蒼貂熊の被害が出るようになったからとはいえ、基礎も固まっていない僕たちが射法八節から外れることを、師範、本当は嫌がっていたんだ。

 だけど、まさか、その知識を実際に使う日が来るとは僕も思っていなかったな。



あとがき

第3話 意地

に続きます。

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