境工(きょうく)

綿野 明

境工アケの仕事について


 朱木しゅぼくという木は、森の珊瑚さんごとも呼ばれる美しい樹木である。


 樹皮の肌合いこそ百日紅さるすべりによく似ているが、その色はなんとも華やかな朱色。薄い皮を剥けばさらに鮮やかに、彼岸花の花弁のごとく輝く。繊細緻密に枝を広げ、神秘的な漆黒の葉を繁らせる。


 境工きょうくというのは、そんな神が宿ったような樹木を「神域の門」に仕立てる職人である。黒真珠めいた小さな果実をふたつ、しかるべき日にしかるべき場所へうずめ、夜明けと同時に欠かさず水をやり、編枝へんしを重ねながら曲付きょくづけし、いずれは二本の木をつなぎ合わせて優美な門と成すのだ。



 この日も、アケは編枝に勤しんでいた。やしろの屋根ほどの高さに育った梢に、履き物を脱いで絹の足袋たびで軽々と登る。当然、枝元に命綱を結ぶなんて乱暴な真似はしない。ほんのわずかも傷が入らぬよう、絹の足袋に絹の服を着て、爪は短く切り揃えられている。体力は必要だが、筋肉はつけすぎず。細い枝を折ることがないよう、体重は羽のように軽く保たれている。


 白装束を纏った小柄なアケが朱木に登ってゆくさまは、まるで蝶が舞うように軽やかだ。顔見知りの里人ですら、ただびととは思えぬ身軽さをもつこの少年を、社の神使か何かではないかと、心の底でひっそりと疑っている。


 彼は細くしなやかな両脚を器用に枝にからませ、逆さ吊りになって枝に手をかけた。指先が枝先の特別繊細な枝を数本とり、やわらかな生木が折れずに曲がるぎりぎりの力加減で編み合わせてゆく。三寸ほど作り込んで、短い枝先が隙間から飛び出さぬよう、白い絹糸で結わえ固定する。細い枝を編み終えたら、ところどころ絹糸のついたその束をさらに五本取り、大胆に角度をつけてり合わせる。


(ひとまず、ここまでか)


 アケは極度の集中で瞬きを忘れていた目をしぱしぱとさせ、手にした黒い葉を丁寧に懐へ仕舞った。この編枝の作業で枝を切り落とすことは、たとえ微細な小枝であっても決してないが、編み目に巻き込まれそうな葉は適宜摘んでゆく。摘み取った葉は一枚残らず社の巫女に渡さねばならない。乾燥させて茶や香にするのだ。故に、ふところの中が木の葉でいっぱいになったらアケの仕事はひと段落である。特に上下逆さまになっているときだと、だいたいそのくらいで頭に血がのぼってくるので、ちょうどよい頃合いでもある。


 絹糸の束と小刀を仕舞い、枝に絡めていた脚をパッとほどくと、アケは優雅に空中で一回転しながら八間下の地面に着地した。幼い頃は足がじいんと痺れて痛かったものだが、今では足裏に軽い衝撃を感じるだけだ。居眠りでもしていない限り危険はないし、当然恐怖もない。何度そう説明しても、境工仲間たちは「危ない」「いつか死ぬぞ」「横着しないでちゃんと降りろ」と言ってきかない。


 アケは朱木に向き直って一礼し、少し離れた木陰に座ってふところから葉の束を取り出した。二十枚ずつ懐紙に包まれたものが五束。矢立から筆を出して悪筆な表書きを入れると、パタパタ振って墨を乾かした。小刀に絹糸、懐紙に矢立に葉を百枚。全部服のなかに押し込むのは正直邪魔で仕方ないし、逆さになった拍子に勢い余って落っことすこともあるが、帯に挟んだりすれば何かの拍子に木を傷つけるかもしれない。そこは我慢が必要なのである。


 墨が乾いたのを確認すると、午前中に集めた葉の包みをまとめて抱え、作りかけの境の下を通って社へ向かう。里の神職と宮大工、そして境工だけに伝えられる独自の歩みについては、西の方からやってきた役人が、都で見られる身固めの歩行法に酷似しているとかほざいていたが、皆なんともいえない曖昧な笑顔でやり過ごしていた。あれは星座を踏んで歩く厄除けの歩みで、これは人の身で境を越えるため大地にはたらきかける歩み。星とも厄とも全く、少しも、微塵も関係がない。本職の法師が聞いても鼻で笑うだろう。


「アケです。葉をお持ちしました」


 無事に境を越え、社の前で呼ばわると、本殿の裏から箒を抱えた巫女が「あ、はいはい、どうも」と言いながら小走りにやってきた。「ちょっとお待ちくださいね」と言って箒を片付けに走り、清めた手の水分を手ぬぐいで拭きながら駆けてくる。赤と黒の厳粛な装束が微妙に似合っていない、いつ見てもせわしない少女である。


「お預かりします」

「はい」


 紙包の束をどさっと渡すと、巫女は額に押し頂くようにして受け取り、アケに向かって深く一礼すると、今度は打って変わってしずしずと音もなく本殿の方へ歩き始めた。バタバタ走っているときにはちぐはぐだった巫女装束が、今は不思議と相応しく神聖なものに見える。普段からもう少し落ち着いていればいいのに、と心の中で少し思ってから、アケは本殿の方へ軽く一礼して踵を返した。少々礼儀知らずにも見えるが、はまだ参拝には早いのだ。


 それが、夏の終わりの話である。


 春に種をうずめ、伸び盛りの夏に細かく編み込み、そして充分に育ちきった秋に「繋ぐ」。暑さがやわらぎ、毎朝通う社までの道のりにふと金木犀きんもくせいの香りを感じた初めての朝、アケは特別な編枝に備えて念入りに手水舎で手と口を浄め、濡れた手で額と胸に触れた。


 新品の白装束に身を包んだ少年が、するすると枝をつたって木の上を進む。移動しがてらひとつひとつの編み目を点検し、固定された通りに形を定めた枝を見極めると、結わえていた絹糸を切ってゆく。糸屑は懐紙に包んでふところへ。普通のゴミではないので、最後にまとめて巫女に焚き上げてもらうのだ。


「──繋ぎ、結びて、さかいと成さん」


 アケはそっとつぶやくと、細い枝を折らぬよう慎重に体重を支え、右手に右樹うじゅ、左手に左樹さじゅの枝先をそれぞれ握った。朝焼けに照らされていっそうあかくかがやく細枝を、ゆっくりと、慎重に撚り合わせてゆく。互いに結び合わされたいと願っている枝同士を着実に繋げ、絹糸で固定する。結び目は必ず蝶結びだ。蝶は植物の縁をつなぐもの。蝶を通じて雄花が雌花に出逢うように、純白の翅が右樹と左樹とをむすびあわせるのである。


 二本の樹木を編み合わせて作られる紋様は、何と言い表せばよいだろうか。組子細工のようだと話す人もあれば、万華鏡のようだと語る人もある。だがアケにしてみれば、そのどちらとも似ていない。強いて言えば、妙に几帳面に作られたバカでかい鳥の巣といったところだろうか。そう例えたアケの後頭部を「なんと罰当たりな!」と巫女が長い袖を振り回してひっぱたいたのが確か皐月のころだったので、「他の何にも例えようがない」というのがおそらく正解だ。


 そうして鳥の巣なんかとは断じて関係がない、この世の何にも例えようがない紋様を作ってゆきながら、秋が深まり、寒くなってくるのを待つ。周囲の森の木の葉が散り始めても、朱木の葉は色褪せるきざしすらない。ただ、どんなに強い光を当てても真っ黒にしか見えない葉を持つこの木を「常緑樹」と呼んでよいのかは、アケにはわからない。



※八間=およそ14.5メートル

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