「A(エース)」

天川裕司

「A(エース)」

「A(エース)」


 これは或る男と、知的障害を持って生れたAという女との恋愛物語である。付き合い始めてからその破局迄を描いて居るが、男の方はこの「破局」を俗に言われる処の「破局」としては捉えて居らず、自然から与えられた成長の一要素だとして捉えて居り、今でも(Aと別れた後でこの本文内容を振り返って見て居る時点を「今」とする)、その心中で愛するAを飼い続けて居る。この「男」側からの視線により内容が描かれて居る為、この本文の内には男の心象表現の様なものが織り交ぜられて居るが、どうか慈悲の心を持ち、辛抱強く御付き合い願いたい。尚、この内容とは唯読者の傍観を期するものとして描いたものであり、この内容を以て読者に何かを感じて頂ければ筆者としては幸いである。


 もう遠い日の事である。その男はAという自分だけが知る女の分身の様なものと出会って居り、知らず内にこれを愛し、自分の夢や活力、人生に於ける苦渋といったもの迄全て有りの儘にその娘に与え、その娘を讃えて、矢張り只管愛して居た。そういう過去達が矢張り遠くを覗く望遠鏡の成せる業か、屈託無く全てを煌めきの様に変え、笑顔が通り過ぎて行く揺るぎ無い奇怪な信徒を衒う彼女・分身を我が身へと投げて寄越したので在る。真っ白な日だった。白日夢とは正にこの様な一日の事を指すものじゃないかと男は疑うが、日々、連日と、忘却の彼方迄に〝一日の流れ〟は過ぎて行く事と成り、稚拙な融解を見たその男の眼は一日にして子供の様に体が萎み、彼女の目線と合った様だった。雲の上からは又、自分だけが知る女神様の様な自然が織り成して来る傀儡達が、唯、自然を通した眼を以て男の陰へと潜み、その「自然の力」を以て娘を欲し続けて居るその男の背面に在る鏡にも、きっとあの日に見た彼女の背中と心とを同じ様に屈託無く見せ付けて居たのだろう、男は知らず内に密接に「彼女」という怪物の様な存在が未だその心に巣食って居る事に自ず気付かされる訳である。この心の五線に様々な、はた又音色さえ無い符号を書き並べても真っ新な色彩を灯りとしたこの一室ではその効果も薄れ、確かに音はしないが、彼の心の内では矢張り「彼女」とのバランスが絶え間無く鳴り響く一律の音色効果をまざまざ見せ付けられる破目と成り、又、自然に対して弱く成って行く。自然と自然を呪う訳である。この自然は恐らく「彼女」を指すもので在ろうと、何時か見た〝六六六〟の数字さえいとも可笑しく自分の耳元に囁く様にして置かれて居るのではあるまいかとして、一心同体、そうした情景は全て心裏に住む彼女の身へと投げ掛けられて、彼女を凄む。沢山彼女の姿を、心象を、テーマを、悪の姿へと変えて来た彼で在ったからこれ以上何やら武器を以て凄める証はもう手の内には無く、唯〝落ち武者〟の様にして、映画のテロップを眺める様に彼女であるAの内心を事細かく分解して行こうとする。無論、彼女は気付かない事で在ったがその日一日の彼の衝動が為す業は、到底、彼女の内を流れ果てるライフストリームの生き血より強いもので在ろうと、束の間の心中で彼は呟いて居た。過去達から来る亡き〝亡霊〟が今ではもうずっと美的の様に思われて、雲の上から女神様が自分に唯ほくそ笑んで居る様なそんな気概に男の現在は変えつつ在るが、典型・執筆、その女神の姿はその遠いパラダイスの様に見える安全圏の内にしか無く、儚く見える人風、人煙、人災に、溌剌として燃える怪人達の行き交う困惑の地域には唯一重にも見付からずして、男は遂にその「愛の様な対象」を探す事を諦め掛けて居る。しかし男は想った。終ぞ、この物語を書いて置かねばこれ迄の自分の証さえ無く成って仕舞い、無機質にも似て居る雲の揺れ動きからやって来た様な彼女の億劫の嘆きは微塵の様にして枯葉と共に漆黒の内に消えて仕舞うのではないか、と。何れにせよ、竜巻が起きても落雷を浴びても書き終えねば成るまいと男は強かに考えて居た。何れにせよこの物語を、ノンフィクションを、我が雲の上のパラダイスへと続く階梯に仕立て上げなければ憂慮は貰えないと神を仰ぎ見て決め、〝この世に生きた己の傑作〟にすれば良いと目論んで居たのだ。ガラスの中に手を突っ込んで彼女との思い出を取り出して見ると、心の内でそれは褐色で在りながらも満たす物と成るが、いざ蓋を開ける様にしてその思惑の一つ一つを取り上げて並べて見ればその〝思惑一つ〟は醜態の様で在り、恥ずかしく切羽詰まった自己への鼓舞の様なものが寒風が吹き込むこの部屋一面に押し並べて拡げられる事と成り、TVのブラウン管から誰かの申し子か七光りが自分の法螺話を聴衆へと吹き掛ける様にして、一つの凋落めいた体臭しか映さないのであった。彼女(A)の言葉一つ一つに身を潜める慇懃が放つ漆黒に堕ちる迄の男の猶予は、辛うじて男の心中で揺れ蠢き、白紙に書き出す申し子の闊達足る教育は、何時しか人煙の内へと又消えてその実際を隠す処と成る。この辺りにあの、男がAの肉体に又溺れ掛けた〝我が身〟が在った訳であり、それは歌劇でも寸分の狂いも無く咲く浪曲の一節でも無く、一個の純朴足るドラマへの装飾の様なものが在ったのだ。御遊戯染みたその〝造戯〟の成す処が我の手元に在る内は未だこの〝漆黒迄の猶予〟にも幅を醸せるだろうと、あらゆる軒先から羽ばたく小鳥の歌声にさえ一曲の意味を付けられるだろう等と安易に構えられる〝変容〟を笠に着た男の〝一室〟が顔を覗かす訳であり、しがないサラリーマンが暗雲の下、慟哭のするこの街中で到底叶いそうにもないドラマの構築を図る訳である。そこには凡そ理性も人体も、虚空も、宇宙も、肉欲が織り成した〝性差万物〟を図る孤高な境地も、滅多矢鱈に善悪の鏡を仕立て上げる諸刃の様な自然の営みが、唯、その男に架空の分別を教えて行く様に〝混交足る我が身の快楽〟に付随して起る無純の避暑地を作らせ、男にとっての変らぬ正義を見せたのだ。女が居ない盲目の地の果てでの事。

 空気の断片の内に、自分と過去のAとの姿を見た気がして男は仕方なく独り言を呟き始める。その姿はこの世での自然の営みと柵に疲れ果てては居るが、二人の間に矛盾に思えるものがなく、正直が生きて居る様に思え、Aが自分に未だ、その本能の奥義と生活に於けるエネルギーの散乱を集め切れて居ない失態を仄めかす様な姿勢を持って居る様に見え、嬉しく成った。途端に直り始めた過去の隠蔽が付けたその身の傷は緩やかに現実を這い回り始めて、TVのブラウン管から七光りが来ようが誰が来ようが流行というものを抹殺するかの如く孤独を光が照らし、〝神風連〟に見た様な正義への拍手を男は独りでにし始めて、又彼女の影を追う事と成った。煩悶、反問、斑紋、これ迄に見た数々のトラウマにも成る様な努力に奏でた失敗が、無尽蔵に改築された〝意識〟という存在の開闢迄へと燃え広がって、それでも苦心宛らに逃げ果せた個の覇権は疾風の如く虚空へ迄吹き上げた春風の柔らかさにその身を解され、遂に常識を極める意識の再生へと目を凝らす事と成る。自然と男との間で芽生えた常識の狭間が織り成す当面の結界の内で展開されるドラマでは、男を主人公にして回転し始めた。Aに似た部分を自分は持って居ると、その男は何処かでほくそ笑んで居た様子が在る。

 Aは幼くして別れた母親との関係をその後も保ちながら父親、弟、との父子家庭の内で育てられて居り、母親とは時折会う等して互いの近況を報告し合って居た様だ。何でもその母親は他に男を作ったとか何とかでひっそりとその家庭から身を隠し、夫が束ねる菓子職の手腕にその身を添える事が出来ず、楽と刺激とを求めて人生を彷徨い歩いたという噂がAの話を聞いたその男の心でのみに流れて、その実は知らぬでも良いとする都合の良い算段がその男の脳裏には在った。〝人生に於ける楽と刺激を求める母の姿〟というのに少し男は関心を覚え我が身を重ねる様にして見せて、その土台を発条に尚男はAとの距離を縮めようと躍起に成った事さえ現実に在った。その弟は某メーカー会社に勤めて居てAとは違って真面で、身体に相応の障害は持たず若くして働き、やがてはエリート商社マンにでも成れるのではないかしら、等という一身の火照りを見せながら、同じ屋根の下でも全くAとは違う生活の謳歌を成し遂げて居る様に思われて男はホッとすると同時に、少々の哀しさを想って居た。男はその弟にAの自宅の玄関先で二、三度会った事があったが、その表情は奥の部屋から漏れた蛍光灯の明りで逆光に成ったその内に一瞬見た程度であって、その様子をその後に何度繰り返して回想して見てもそれ以上の弟の様子を探る事は出来ずに、唯〝某メーカーで気丈に働き、自分よりもAよりも高給取りの新入商社マン〟程度にしか図れずに居た。又、それで良しとする理由には、その弟の様子に気弱な腰を窺えた気分が在り、いざと成ればその弟のお義兄さんにも、その弟を取って喰う鬼人の様にも自分が成れる、と踏んだ為である。Aはその弟を執拗に自分の唯一人の弟だとして可愛がる様子が在り、その男とデートする際でも、何かと弟の話を持って来ては何等かの場面でその男の出来と比較する様な失笑を沢山話して居た。その父親には、職人とは言うが一瞥する様子の内にも何か狂気の様なものを秘めた突発的な恐ろしさが窺え、このAとの間に何か不義が在れば忽ち顔から禿げ上がった頭頂迄を茹で蛸の様にして暴力を振るって来るという様な、馴染み辛い処が在ると男は感じて居た。しかしその父親は知的障害を患って居るその娘の言動が引き起こして来たこれ迄数々の愚問・悪行、摂理の伴わない形相に免じてか、娘のガードを最低限度に止める様にと一見諦めの感が在る様に思われて、男はその処に身を寄せようとする狡さを憶えさせられて居た。その父親とも男はAの自宅の玄関先で一瞥して居り、弟の時と同じ様に奥の部屋から玄関へ差す蛍光灯の明りでその表情は逆光の内に深淵を描く事が出来ず、その威厳は不十分なものとして男に伝わったかも知れないが、それでも玄関へ入りAが〝○○さん来たで―〟と叫んだ後にドタドタドタ!と豪快な足音を踏み込んでやって来たその父親の姿には気後れを憶えさせた「父の強さ」が在り、以前にAから写真で見せて貰ったその父の顔に見慣れた安心が在った筈だが、矢張り実物が目前に来てじいっと睨まれるとその表情に、〝割り込めば忽ち殺される〟といった親子の絆が成す規律の様なものを見た訳であり、Aと自分との関係を大切に扱わなければ、と結果的には一瞬の改悛をその心中で構築するに至った訳である。Aが男のそうした心中を察して居たか否かは疑問だったが、無為な父の威圧に対して男を慰めようとした為か、場を明るくしようと努める節が見え、男はその後、〝崩せない親子の絆の様なもの〟を心中に宿しながら帰宅する暗い夜道の途中で、一瞬でもAと自分との淡く魅了された世界に身を押し沈めてその形を共に心中に宿し、スカイラインに身を預けて相応の高速で走って行った。

 その三人家族の中で育った彼女の体躯は男を魅了するのに十分なものであり、何と言っても〝下半身デブ〟と実際に称された程の軟く逞しい臀部と太腿を呈し、その両腕は又脚を思わせる程に柔らかな物だった。白い服に身を包んだ時等、此れ見よがしな程にその両腕が慈母を奏でて男の精神を捉えて離さず、男は身動きも出来ないままその暗闇の内へと埋没する過程を選ばされる訳である。とてもじゃないが自分の体では敵わない、そう思い、又願って居た。又、その体躯の上には恐ろしく威光を奏でる愛嬌の良い童顔が揃えられて在り、彼女は実際、その男の友人から〝Aさん顔は綺麗やなァ、〟とも言われて居り、その事実も彼女の史実の内に含まれる為男は感情が相俟ってか、自分の彼女にしては十分過ぎる位可愛いとし、決して離したくない程の熱情を覚えたのである。

 彼女との出会いは或る福祉系の専門学校で共に授業を受けて居た時に遡る訳で、始めは〝唯一緒に授業を受けて居るだけの関係〟というものであり、恋人同士として付き合える等とは露にも思えない二人であった。しかしその男は結構な美顔の持ち主であってクラスの内では相応に〝モテる部類〟に入って居り、又その男も女に対して、又同類の男に対しても、それを武器として居た事は事実であった。その〝美顔が奏する武器〟を内心そのAに宛がって居た事も仄かに在った事を後にして想えば、その思い返す記憶の内に甦るのである。男は密かに、その黒髪が呈する、自分にとって見慣れたものではあるが実際に見てみれば十分に魅了させられ得る、その貞潔と清楚な横顔と、又その充実した下半身を横に前後に振り分けながら教室と廊下とを往復する彼女の柔軟な視線に身と精神とを翻弄された事は事実として在り、彼の心に構築された未熟な一室で、彼女との春に戯れた妖艶な孤独に立ち籠める微かな衒い、果ては熱情に、してやられて仕舞って居る自己の安堵を垣間見せられた事は矢張り当然の事であった。とてもじゃないが彼女には勝てない、と、男に生れて万回女に成って仕舞う自己の茫失に強かにやられて仕舞い面目を潰された〝我が身〟は又、希望を呟く破目と成って仕舞った。男は美顔である故、クラスの女共の内何人かはその男の美談に明け暮れて己が正体をひけらかし、内一人はその男を誘って自分の運転する車に連れ込み、男の自宅近く迄送った事があり、それは自分と同郷に住む隣人だからという事で片が付いてそれ以上の事は無かった。又一人は何かの演習授業でその男が自分の背後に居るのを感じ、ちらと振り向き様に〝格好良い…〟と隣の友人に告白する形で空気が流れて行くのを見させた。又一人はその男が属して居たそのクラスの内に出来た派閥の内に居た少し身の肉付きが良い女で、〝結構心があなたの方に傾き掛けて居る…〟と言う言葉をその男との間に置き去ったままで自分は元から付き合って居た帽子を被る男との愛に這う這うの体、否直走りの体で、帰って行った。それはその男がその属して居た派閥争いの末に出来たグループにどうしても馴染めなかったという、男の本質が成させた責めの様なものが災いした惨事だという事も、後からその肥えた女の友人から男は聞かされて居る。又男はその「友人の女」を始めから嫌って居たが、ほとぼりが冷めやらぬ頃から段々その浅黒ナンセンスを想わせて来る恰幅の良い両脚に又絆され、恋心の様なものを抱くに至った。その「友人の女」はその事に気付かないまま、その後は未知の果てに佇む事に成った。そんな専門学校時代を送って居たその男の周りに集まる男子生との間には、生々しい地方出身者達が織り成す典型的な我が身本位の自刃・諸刃の情が飛び交う事と成り、男は、始め感じて居た孤独の広地から救われ得る〝クラスの絆〟に明日を見、友情を深めて混交の母成る世情の内でも何とかやって行けると言った様な独自の強さを見付け獲得した気に成って居たのだが、月日が進むに連れて各々その本性を剥き出しにした事に依り、成るものも成らなく成った、そんな態を徐に(男に)見せ付けて居たのである。矢張り〝我が身本位〟である。或る時、あの「友人である女」が〝sexする時の君の姿勢〟に就いてその男に質問して来た事が在り、〝自分本位〟が織り成せる恰好の〝低俗・ネタ〟を幾度かその男と、又その男の友達とに見せびらかし、果ては男の質というものを低めようと尽力して居る女だてらの労力を垣間見せられたのであった。男は、その女が執拗に自分の主張から成る周りの者達を惹き付けて離さないで置こうとするアピールと陶酔にやられて仕舞い、その女を嫌って、その女と関係する者達に迄自分のテリトリーを侵されまいと必死で身構える姿勢を保って居た。

その男にはその専門学校での修業期中に肉体の関係迄持ったSという女が一人居り、その女との思い出と共に暮らす事に成った。その女は阿婆擦れの気性の持ち主で自分が少しでも気に入った男とならば誰とでも寝る、という程精気も旺盛で在り、気が弱く、些細な事で気が滅入って仕舞えるその小心者の男とは凡そ不釣り合いな関係として在り、故にその男とSが付き合うのを傍から見て居た男連中は躍起に成って〝付き合う事を止めろ〟、〝○○ちゃん(○○には男の名が入る)がボロボロに成るのを俺見てたくないねん…〟、等と言葉の強弱を調節しながら、上手く別れさせようと努めて来たのである。恋は盲目の症状を男女に生ませるもので、男はそう言う周囲の戯言の様な言葉が鬱陶しく、又、俺と別れさせた後に自分がSの失恋に付け込んで空いた丸穴を上手く塞ぎ込んで、もう立ち入る隙も無い位に男女関係を構築しようとして居るに違いないといった敵意さえ周りに集った男達に憶えて、何時も避難所へ逃げ込む様に、男はSと共にSの独り暮らしのアパートへ逃げ込んで居た。しかし男にはSの心中がSが女で在る為上手く掴めず、唯酷い事を俺の友人から言われて徐に泣いちゃあ居るが、何を思って、俺との間の事を想って泣いて居るのかはた又別の事を考えて泣いて居るのか、等、自分とSとがこれ迄の自分達の相対関係の内に於いて築き上げた「信頼」の姿に就いて見当が付かず、Sの次の言動が読めないでその事にも不安を抱いて居たのである。結局、Sとその男は別れた。周囲からの圧迫、Sとのやり取りに疲れ果てた男は、自分の包茎が奏した性交不全に嫌気が差してSが行き摩りの男を捨てたのだ、という噂を後から耳にし、心中に収めて居た。

そうした伽藍堂の様な人生を想わせた専門学校を愈々卒業する時期が来て、男は二度の孤独を味わった冬の矢先に寿を思わせる様な淡い春の到来を期待しつつその卒業式に臨んだ。その式に一期早くに卒業して居たAも(誰かその男の友人でもある男友達とメールでやり取りした後)息を切らしながら飛び入り参加でやって来た。ぜェぜェと息を切らしながら「一寸待って、…(ハァハァ)…式、これから?(ぜェぜェ)もう始まるん?(ぜェぜェ)…」等と目前に居る友人に聞き、実は式は既に終わって居り、Aは「なんやぁ―」と言った後で「卒業おめでとう!!」をそこいら中に連呼して廻って居た。その時に、その男にも確かに「おめでとう」を言ったが、その時は未だ互いに距離を置いた他人の顔をして居り、程良い緊張感の様なものが立ち籠めて居た。

男は京都・出町柳に在る山奥の、緑豊かな環境に囲まれた特別養護老人ホームに就職する事に成り、淡々とその日一日の業務を教えられつつ自分のものにしようと夢中で従事し始めて居た。その施設では専門学生時代、又、卒業して正式に働き始める四月迄の間ボランティアとして働かせて貰って居り、その真面目を買われてか、仕事の不出来、気弱を罵倒されつつ多少軽く扱われる存在では在ったが一体一で話す時には、先輩職員達を含めてその男に一応の敬意の様なものを表する事もまぁまぁ在った。自宅から二時間近く掛かる職場であり、その行き来の中で苦悶にめげそうに成った事も幾度か在ったが段々とそうした新しい環境に慣れ始めた頃、Aから携帯電話に着信が入り、世間話をした後で「恋人に成るか?」と変った告白をその男は受けて付き合う事と成った。男はこうした女の告白、色香の漂う密接の告白に弱く直ぐに理性を説き伏せて付き合う事を決め、早くも今後の二人の楽しい世界、久方振りのデート、はた又肉欲が奏でるデート、といったものを構築、想像し始め、億尾にも出さないピュア(純心)の羞恥が彼女との関係の内に表情を埋めたのである。男は、トイレでその娘からの告白を受け延々喋って居た。

娘との口約束をして三日後に二人の予定を合せた上で京都駅で会おうという事に成り、男はその約束の日、昏々と軽い身の出で立ちに多少流行めいた服を着て、女と会える期待を胸一杯にしながら人通りの多いオープンカフェ横の広場へと向かって行った。駅構内のその広場は大体昼・夕に掛けて観光客を含めた人で溢れ返り、上手く落ち合えるかどうかが心配であったが、意外とすんなり娘と男は会う事が出来た。その時、大理石の支柱を背にして佇んで居る彼女を見て男は、内心ときめかせて、その少女の少々茶が勝ったショートカットに尚奮起を催し、思わず自分の胸辺りに娘の頭を抱き寄せて、人目憚らずおんおんよしよしと撫で讃え続けて居た。娘は男の腕力に従うかの様にして唯身を捩り、自分の生き血を総て相手の男に同化、否共有させるが如くに抗わずして、見果てぬ夢を以て駅の人々を無視するかの様に一つのキャラクターへと仕立て上げて行った。髑髏の紋章は己が胸中に光るが如くに悶々と二人の立場を照らし始めて、二人は古いデパートの屋上へと歩いて行った。

それが男が目にしたAの最初の印象であって、その後のデートでそれはちらちら表情(かお)を覗かせる彼女の魅力へと変って行った。その初のデートで憶えた彼女の魅力とは段々と日が経つに連れ男の物と成って行き、陽が暮れ掛かる頃にはしっちゃかめっちゃか溢れ返った春の陽気に疎まれて、彼は盲目の心中へと身を焦がし純心を費やして行く事に成ったのだ。彼女とのデートは大体車中でする事が多く、食事も、会話も、夢も、感情も、何もかも、この車中を一種の土台として花咲かせ、身を捩らす様にして前部席と後部席との間を行き交いし、Aと男は遂に見果てぬ夢を完遂させたのである。それはこの世から生活という基盤を外した非現実的な土台であって、中国、ロシア、ギリシャ、イギリス果てはアメリカ迄、何処に行っても構築し得ない夢想の秘話の内に花咲かせる様な堕天使の産物とでも言うべく、一種の盲目のテリトリーへの環境設定の完遂を意味した。二人は喜んだ。しかし男はその喜びを自分の胸の内だけに秘めて居た様で、Aの心の中にその構築が出来上がって居たか否か、その様な二人だけが生きて居られる〝夢想の環境〟が手にした田園風景が織り成すビジョンを手にして居るのか否かに就いては知り得ない処であり、悶々とした空気は辺り静かに立ち籠めて居た。Aは男に色んな事をあらゆる場所で催促するが、男は漸く疲れ果てた様子で如何にも止まない他人への疑惑を思わないでは居られなかった。

そうしたAと男との一見楽しいものにも見える関係ではあるが、常軌を逸した様な、下らない口論、契機が元で炎が立ち上がる程のボルテージを伴う喧嘩も実に多く在った。Aと男が祇園祭へ行った夜の事である。夕方から早めに待ち合せようと以前から連絡を取り合い約束をして居たのにも拘わらず男は、そのルーズな気性が相俟って待ち合わせ時間に三十分程遅れ、Aは激怒した。それだけ遅れてはAにとっては三年待たされたも同然であり、駅構内に在る人目を憚らずに、持って居た巾着の化粧具入れを男に振り回してぶつけ、叩いて、幼児の様に大泣きし、その〝わんわん〟が全く関係の無い人々の注意を呼んで、男は二重苦に苛まれながら宥め賺すのに多分の労と恥辱とを味わって居た。同じ様な経過に依り、Aが男の未だ動いて居る状態に在る車を鞄でバンバン叩き、悲しみと悔しさの様なものを露わにして大泣きした事も在った。自棄糞に似せた様な彼女の怒涛は激しく男に圧し掛かり、男の持ち前の緩く気弱な精神ではもう保たないと言う程その大波は激しく男の小舟を揺らして、まるで地の底に追い遣られる程迄にその男の気丈で在る筈の精神は泥濘の中、溶けて行った。まるで自分が自然と同化でもしたかのようにその時その男は自分と自然との距離の近さの様なものを感じて居た。Aは何の屈託も無く、未だにこやかに朗らかに、悪態づきながら自身の正直が成せる謳歌を翻弄し、その序でに男をその背中に乗せて居る様な光景にもその男からは見えて居た。様々な、これ迄を成した過去のAとの経緯を思いながら男は、Aを何とか宥めて正気を取り戻させようとしたが、Aはまるで男の尽力を無視するかの様にきょとんとし始め、唯自然の流れるままにその身を任せて抗う事無く〝正気〟を取り戻した様であった。何にしても男は〝良かった〟と身を安堵に落としてその後暫くAと祇園の街をほっつき歩き、又ドラマの主人公の様な光にその身を扮して、Aとの祭の夜を心行く迄堪能しようとして居た。

京名物の、三条・四条大橋下の畔で恋人達が闇に紛れて肩を寄せ合い、手を密かに握り合って現実と将来との時空の物差しの上で揺れ遊ぶ〝恋人達の契り〟に魅せられた二人は、自分達もしたく成って、男が率先する形で二人畔に降り立ち、暫く周りの黒い恋人達の様子を期待半分に傍観しながら散歩をし、もう待てないとばかりに川の流れが良く見える畔に腰を下ろした後で、早速抱き合って居た。何をするでもなく、唯身を寄せ合い、肩を、体を、くっ付け合って居た。こうした程良く収まる結果を以て男は良しとし、Aに知的障害のハンディキャップが在るにせよきっと何とかやって行ける、今迄通り何とか成る、等という甘い現実を夢見て居た〝正直〟がその念頭には在り、そのお陰でこの夜の男の脳裏には、Aの非常識を許して二人を体ごと自分達のその構築した将来へと持ち運ぶ〝寛容〟と銘打たれた仁王様が、何処となく姿を現すのだ。二人はそれから歩き疲れた後、所々でやってる祇園の催しを傍観しながら、始めに神輿を見て居た多勢の内で消耗したエネルギーを取り戻そうと喫茶店へと入り、暫くした後で、人気が段々疎らに成る四条駅へと向かって行った。その帰りに乗った特急電車の中で男は、他の男から娘を守ろうとしてAの顔、体、を両手で囲んで居た。Aの疲労がどの辺りで回復したのか、男は終ぞ知らなかった。

男はAの背後にまるで後光のようなものを見て居たのかも知れない。安楽に満ち足りる筈の二人の共有出来る場所はまるでエデンの園を想わせる未開の地へと誘う切符を手にして居り、何時か二人をその地迄連れて行ってくれる様な電車を用意してくれて居り、男がこれ迄温存して来たキリスト信仰が蓄積して来た沸々と煮える不発の願いが実を結び、果実を植え付け、二人がそこへ行く迄に祝福され浄化され、自分とAはこの世で犯した罪と自然に着て居た〝壁〟が取り外されて天使の様に成って、神が管理するエデンの園・街へとその身を埋もれさせる事が果して出来るのではないかと、その夢を真剣に爆発させた事が実際男の生活に於いて在ったのである。Aがそういった事をどう思って居るのかは具には知らないが、それでも二人で暮らして行こうと言うAの正直にも似た真摯の笑顔を見て居ると何分疑う処も無い様に男には思われて、男は、遂にそのAとの永遠のパラダイス(楽園)で生活する事を本気で願い始めたのである。これは失楽園を想わせる暗黒の園の肢体ではなく、やがては未開の地である天国へと結び付くものであり、人が信じた人工の園でもあった。しかし人成ればこそ、と男とAは、毎日の生活に於いて生きる糧を得る為の労力を幾分も重ねた事も在り、この報酬にと楽園地を求める事は決して悪ではないと純朴な様子で決めて居た。二人が施した悪魔の手先に依る俊敏な災いであったかは兎も角、何の労いも無かった二人の世界に対して男はAと共に、一緒に骸を着て、且、老齢を取り払うが如くにもしかするともう他人が手にして居るかも知れない〝未開の地〟を手にする為の衝動の内で、唯躍起に成って居たのである。〝夢中にさせる業〟とは何と透き通って居り人にその本性を見せないで居るものなのか、病気に成りたくない健全への悲哀の様なものが男の胸中、脳裏を過り、Aを又少し遠い死の陰の淵へと置き去った。どうしてこの様な憤悶奏でる醜態が悍ましい体を以て我とAとの目前に出で足るのか、と鼻と目と肩を擦り擦りしながら自問して見れば、華やか成る死の訪れに何の屈託も無い我が眼の憂いを知る。ほろ苦い涙の味を男とAは何時知れず何処かで既に味わって来て居た様であり、人知れずの憤悶は忽ち常軌を逸する形を以て御前で掲げられるのである。神の前で自分達は一体どんな人生を送って居るのか自答した後で、その肝心の神からの返答は知らずまま、人伝い、又壁伝いに依って、姿を見せ始めるそんな奇跡も在るものかと暫しその目と胸を閉じて瞑想の内にその神経を研ぎ澄ましては見るが、自答と他言が構築する他所の吹聴がその正体を現す事は既に時間の問題であり、これ迄の自分の拙い過去の呟きと動作に嫌気が差すのは唯の思い付きの苦悶・苦悩の結末と成り果てる。Aの骸は自分に寄り掛ってはくれるが心の無形が尚形を成して襲い掛かる為、現実でのオーラが出来事を動かすのは又一瞬で無形と成るのである。男は日々、自分の存在を神とAへの賛歌とを以て、腕力が成す無形のパラダイスへと持ち運ばれる事を祈って居た。その男が盲目成れども幾度か要所でAの心身をそのパラダイスへと運ぶがその都度又、Aが自らの手に依って静かにこの暗空の下、二人の体を現実のものへと返還して居た様だった。

鏡になかなかその正体の映らないそんな二人の間にも、ちらほらと一枝の葉が揺れる様に「結婚話」が持ち上がって来て、男はAの希望に依って幾度となく〝模擬結婚式〟というのに駆り立てられて居た。一度は他府県に在るマリアージュに迄足を運ばされた事も在り、京都に在るマリアージュだけでは凡そ満足出来ないというAの肉欲染みた煩悩の成せる〝夢見心地〟が、その身達を結託させる様にして男に寄り掛り、男は〝頼られては仕様が無い〟と又行く破目と成る訳である。恐らく京都中の会場へは行き、滋賀県を始め、福井県へも羽を伸ばす様に若枝の能力が開花し始めたのか、二人は共に楽しめる様に成って行った。男は少々気怠さを憶えながらも娘の白衣装に逆上せ上って、この時ばかりはと一瞬娘が背負うハンディへの屈辱を忘れた後又、身の上と、二人の将来とを唯按じて居た。しかしこれ迄ずっと実家で親の元、全てが用意されて自活の苦悩をした事が無かったその男は、Aとの結婚に就いて考える処も多かった。果してこのAとの生活を上手くやって行けるのか?二人だけの世界ではあんなに上手く実った真昼の夢でも一夜明けて街の空気に晒されれば跡形も無く消え去る程にちゃちく見え、又自分達の鼻息でさえも吹き消されて仕舞う位軽薄なものに見えて仕舞う。鳥肌が立つ様な霧散の夜霧の内に在った二人のパラダイスは日常を謳歌して居る真人間の正義の所為で完全に埋もれ消えて仕舞うのである。こんな事で良いのか?両親がきちんと居る家庭で育った彼にはこの二つが如何しても折り合わず、きちんと解決して置かなくては成るものも成らない、そんな律儀な解決法を持った術が如何しても問題を消せなかった。ハンディキャップというのが大きい。このハンディキャップは果して二人の、否俺の子供に乗り移らないものか?又その所為で子供が虐待等という理不尽に遭い、不当な人生を送らないものか?散々倦ねいた末に男は自分の答すら出せないで、唯Aの有りの儘の言動を見て居るより仕方が無い。如何にも羽ばたく事が出来ない不定の状態が此処にも在り、彼は父親にも母親にも相談出来ずに唯、悶々とした日々を送り続け、ガラスケースの中の二人のショーを見て居る様に、尻切れトンボの〝人間秘話〟が織り成す影を追って居るしか出来なかったのである。Aは相変わらず無頓着な血相を以てあらゆる雑事を為して行く。自分の為と家庭の為、弟の為にと父の為、その序での様に男の為にである。一瞬Aが何のために生きて居るのか、男には分らなく成った。はた又自分は静かな奇跡でも待ち望んで居るかの様で、この生活実態が全て俺とAとにとって良い様に転がるようにと神頼みした事が在り、その実、他人任せである事に気付きながらも〝これも仕方の無い事だ〟と諦め顔が最後に覗く。実に成る話が欲しかったのだ。美味い果実と成ってあの園の果実を凌駕する位の何か〝奇跡の味〟というものを味わってみたいと思う勝手な欲望が、男は唯正直である為の秘訣である様に思え、その一連はきっと、終生この男の生きるスタンスと成って仕舞って居る。何度噛んでも消えない「結婚」の味を味わいたいが一向に味わう事が出来ずに、その〝結婚味〟のガムは仕方が無いからと、又ポケットの中に仕舞われた。珈琲味が仄かにするガムであった。

二人は良く車の中に家庭を見る様にして所構わずくしゃみしては笑い、夢を見て、音楽を聞いて、バックミラーとサイドミラーとで後続の車と人を見て、窓から煙る様にして移ろって行く外界を眺めて居た。その為か、何時しかその家庭は何処にでも行ける移動貸本屋の様に成った。その場所、々々で、自分達のこれ迄に織り成して来た物語の内で気に入った場面だけを抜粋してその都度二人で身を飾り、その時に自然と必要に成るストーリーを順繰り順繰り拾っては誰かに読み聞かせる訳である。その「誰か」は時に他人にも自分達にも成り、二人はそれさえ面白がった。何者をも寄せ付けないと信じられたその車の中は真冬の寒さにも強く、その温もりは夏には快適なものと成り、春と秋には程良く照らす街の袋小路にも仄かな道を付け、誰かがその車内の魅力に感じ入って二人を良い場所迄拾ってくれ得るかの様な、他力に依って得られる躍動の余韻を残した。二人の蜜柑畑は故郷の味を知って居る様で、ずっと頑なに教えられ守られて来た袋小路の現実には春と秋との季節色を付け、それを現実の色とした上で、空想と現実との斡旋を図って行く様でもあった。その事が、きっとAにも嬉しかった筈だと男は勝手に思い込んで居た。車は二人の自宅の間を直結して走るついでに色々な風景を見せた様で、自分達の小さな空想の世界がやがてはこの車の中の世界(強靭)を掲げて荒れ狂い、未知の果てから二人を元の場所に連れて帰る事が男一人の幻想の内で閃く〝奇跡の正体〟を想わせて居た。しかしその場所とは形が無い為、その実を掴めず仕方の無い幕切れを選ぶしか無かったのだ。〝現実は強し、現実は強し〟、〝現実は奇なり、現実は奇なり〟、これ等の言葉を夢想と現実との斡旋を図る呪文とすべく何度男が呟いたか知れない。ゆくゆくは又Aの体内へと魅力の看板を盾に男は回帰して行く。こんな繰り返しもその同じ車内で幾度か続いて居たがそれでも連日に生きる二人の強さは生活を模索して、車内を〝模擬家庭〟と成して居る様子が在った。その二人の目前の社会というものはどんなものであったとしても矢張り、その車内にやがては引き摺り込まれる二人の為に成された事象として映って居り、男はAの体を欲したが遮二無二押しても如何にも成らず終には何処でも、構築させられた暗雲の彼方から落ちて来た突発の炎に身を焼かれ始めて、恋人達が謳歌する筈の〝成せば成る〟効果がその目安切れを呈して居り、如何にも成らない進退窮まった数々の情緒というものをまるで鉄板の上で焼かれた様にして車中には燃え広がってやがては又、その車内の進退は二人の精神に安らぎを作り、各々の自己を奏で始めるのである。矢張り何処へ行こうともその純朴の炎というのは身を焼き続けて、一層の事二人の自宅へその車体を移して身を図ろうかとする様に単純な着眼を以て二人の体中に精気を与え、自然と謳歌する事の悦びを味わわせる強みの様なものが在った。しかしなかなか現実に事は成らずに、Aが我が自宅へ来た際にその一瞬の内に転がった展開は以下の様である。

と或る夏の日、不思議と蝉の鳴き声が余り聞えない八月半ばの頃だった。Aはいつも暑い日に着て居るもう二人の間ではお決まりに成って居た白いノースリーブに、膝が少し上迄見えて居るチェックで薄地のスカート、踝辺り迄しか無い浅履きの靴下、等を履いて、〝夏のお嬢さん〟をやや彷彿させる様なそんな出で立ちで男の自宅へとやって来た。待ち合わせは、男の自宅から最寄りのY駅であり、男はAが来るのを待ってからその日は迎えに行き、そうしたAの軽装から夏らしい朗らかさを男は先ず駅で見て取り〝これなら母への受けも良いだろう〟等と思いながらも又、Aがそうした真面な装いで居る事に少々、安堵を覚えて居た。何時もは男がAの自宅付近に在るセイコーマートか何か名前を良く憶えられないコンビニの前迄車を横付けして迎えに行きそこからAとのランデブーが始まる訳であったが、その日はAが妙に改まって萎縮して居た為か、「私がY駅まで行くわ」等とすんなり言を吐き殊勝な心掛けを持ち、淑やかに振舞って居た様子で、ガタンゴトン電車に揺られてその男の為にと出向いて来たのである。無論、自分の為でもあったが。男には実は以前から人付き合いに於ける一応の礼儀みたいなものには五月蠅い質が在って、〝今日は自分が(Aの)自宅まで送ってやったんだからその次はお前が(俺の最寄り駅の)Y駅まで来ること、代わりべったん代わりべったんで行こう〟なんて少々冗談をも交えながら妙に厳しいながらに明る目に言うので、Aはそれにすんなり従う様に成って抗わなく成ったのである。それは付き合い始めてから少しした日にAの非常識の度合いがあんまり酷かった為に遂に男は堪忍袋の緒が切れて発狂した様にAに怒鳴った事が在り、「うるさいんじゃ!!俺にだって都合があるねん!!!」等と車の窓を殴り付けて、Aを殴れない為に憎音を物理的に反響させた上に怒り丸ごとをAに傍観させた効果も在ったのか、それ以来Aはこの男の癇癪を何かと恐れる様に成った為の素直さである。しかし又女の特質とでも言うべきか、この怒る男のそうした〝強い腕っ節〟に何かと取り囲まれて見たいとする底から湧き出て来る様な欲望の表情が覗いて居る事も当の男にはしっかり解って居た。故にこの点を以て男は、Aに対して何やかやと色々言い易かったのである。男はAのその熱い身の火照りの様なものを上手く掴み、否汲み取って、又Aの頭上から自分がする小便でも引っ掛けるかの様にぞんざいに引っ掛け垂らして、唯Aの従順に振舞ってくれるその反応を面白可笑しく楽しむ癖が在ったのも最早公認の事実であり、AはAでその男のそういう悪戯染みた猥褻模様を密かに愉しむ癖が何時迄経っても抜け切らないで居る様子だった。

さて二人で一大決心をして我が家(男の家)に帰って来た訳であるが母一人しか居らず、いざ玄関口から入る段に成ってAは車の中で居た時より更に無口に成り動作一つ一つに機敏に成り、細かい配慮さえ忘れず殊勝を心掛けて居る様子が直に見て取れ、恐らく誰から見られても可笑しくない様にと女特有の従順が此処でも如何せん発揮されて居る様でもあったがふと見ると、何かしら可笑しい処も多々在り、これは当の男にしか判らないで在ろう微細なAの不自然な処を映すものであった。少々笑いを堪えるのに我慢を要した男は母親に「帰ったよー、Aさんも来たでー」と言い、母親はこれ迄にも見せて居た誰にでも気兼ねする事なく明るく素直に振舞う持て成し気質を発揮して「いやぁ、よく来たねー、さ、どうぞどうぞ」と明るく笑顔でAを二階の男の部屋へと誘導した。否、というよりは自然の成り行きでそう成ったのであり、Aが行き成り来て居間にどーんと座るという光景はその時の三人の情景の内ではやや想像出来ないものとして在りそう映らず、その男の友達だから、という事で唯自然にAは二階へ上がったのである。この時には未だAは初めて男の家を訪れた訳であり、男の母親も父親も又Aの諸事情を知らない訳であって、無論、Aが知的障害を患って居る事も未だ知らない。唯母親は今迄に息子が連れて来て遊んで居たその男の友達の一人と見做した上でAを家に上げて居て、別段取り入った、込み入ったAに就いての事情を聞く訳でもなく、唯誰に見られても可笑しく無い様な明るい笑顔を覗かせて居ただけであった。

二階へ上がり男とAは何時も通りにペチャクチャやって居ると、階下から母の声がして「○○―(○○には男の名が入る)取りにおいでー」と紅茶にお菓子、珈琲を満遍なく用意してくれて居た様子で、これも以前とは変りない光景であった。キャラメルコーンが大皿に盛られて居り、「あの子、甘いもの好きかな?」と気遣う母の姿に男は、自分の付き合って居る彼女がきちんと〝女一人前〟として見做されて居る事に少々の優越と嬉しさとを覚え、「うん、たぶん…(微笑)」等と彼女を持った若年男子特有とも思われる妙に畏まった照れ笑いをポリポリ言いながら平静を装い、盆を受け取って、足早に彼女が居る二階の自分の部屋へ戻って行った。

(男)「受けが良さそうだぞ、この分ならきちんと言えるかもな。帰り際に、否やっぱりもう一日くらいか一週間、…否一カ月くらいか?ちょっと間を空けて俺等は俺達の足場をしっかり固めてから告白しても良いかも知れんな、きっとお母んやったら多分、うん、大丈夫。待っててくれるわ。」

等と、流石に自分達の結婚の事に就いてと成ると男も少々どぎまぎして居た様で、Aの顔なら真面に見れるが、自分達を取り巻く把握し切れない現実の壁の様なものを直視する事が出来ずに、ずっとそれから目を逸らして居た節が未だに在った。しかしAは此処に、歴とした人の形を以て存在し、これもその〝現実の壁〟に匹敵する程の自分達にとっての、否自分にとっての糧と成るに違いない、とたらたら妄想の内で止めどなく終わりの無い問答を繰り返して居た為か、Aが少しほくそ笑む様にして割って入る。

(A)「え、そうなん?あたし達そんなに(うまく)見てくれてる?良かった。うん、そうやな、…」

「うまく」と言って居た様に男からは聞えたが、少々自分の動作の音と注意力の鈍さによって聞き取れない部分が在った。

その後もよく聴き取れなかった。それでも彼女は辛そうな表情をして居た。矢張り自分の思い通りに成らなかった事への残念が彼女をそうさせた、とその時その男は考えて居た。

いちゃつき、駄弁り合い、自分達の将来を余り見据えないままそっと遠くに置き遣ってから彼女はトイレへ一度行き、男は部屋に独りに成った。何とかあれでも順風満帆に行ってるな、と少々喜んで居る処にAが又帰って来、その殆ど同時か直ぐ後にその男の父親も家に帰って来た。父親は何時も通りに「帰ったでー」を言い、靴をカシャコショ脱ぐ音をさせながらダイニングルームへのドアをバァンと開けて入って行き、重い音をさせながら黒の通勤鞄をドスン!とテーブルに置いて日常の生活へと浸って行く。

「あ、もうこんな時間か。何時の間にやら早く時間が経つなぁー」

男がそう言うと同時にAもいそいそと帰り支度を始め、もういちゃつく事はせず二階の部屋から足早に出て階段をゆっくりのっそりと二人して下りて行き、Aは男と少し見合った後で恐る恐るダイニングルームへの扉をゆっくり開けて、

「あ、お邪魔しましたー、長い事どうも済みませんでしたー、あ、お父様ですね。私AA(Aのフルネームを言う)ですー、どうぞ宜しくお願いしますー、あ、お母様もどうぞ宜しくお願いしますーA(自分の苗字だけを言う)と申しますー、…(云々)」

Aは少々辺りを震撼させる、又は空気を止める様な妙に流暢な口振り、口調で激しい迄の抑揚を語尾に付けて開けっ広げにそう言い、男も母親も、そして父親は帰ったばかりでそれ程注意してなかったからかも知れないがそれ程気に成らなかった様子だが、少し驚かされて腰を止められ、辟易させられる様に唯Aの姿を眺めて居た。「いやこちらこそ~」と母親はその男からは分かる億尾にも出せない辟易感を捉えて居ながらもまぁスムースに事が終わるのを期待出来ホッとし、そのまま、男は流れる様にしてAを玄関から送り出して、自分達が乗る何時もの車迄Aを誘導した。Aを送り届けてから帰宅し、「さっき来てた人がAAさんてゆう専門学校で知り合った人」と先ず母親に言い、「恋人」「付き合ってる人」という単語は使わなかった。「ふーん、まァええ娘かもねェ」みたいな口振りで母が話して居る様にその男からは聞えて居たが、もしかすると知的障害が成せる荒技の様なものに気が付いたんじゃ…、等という母への一抹の不安も男の胸中には過って居た。が、その後の父親が言った「顔が綺麗な感じの子やなァー」という言葉に聊か救われた感が在るその男であった。「顔が」というのは言って居なかったかも知れないが、その時の男にはそんな様に聞えて居た。それ迄良かったのに、最後の締めであんな風に落ち着いて仕舞った結末を以てその時その男には、〝結果良ければ全て良し、の例えもあるけれど、あーあ、今日は得てして何も無い一日に成ったなぁー〟という感想が胸中に灯り、一日通して、蝉の鳴き声も聞えない透き通って見える風な不思議な夏の一日を経験した事で、男とAのその日一日は消える様にして終えた。

男は京都の出町柳に在る高齢者用施設で働き、Aは当時、Aの自宅から近くのB市に在る小さくてこじんまりしたグループホームに於いて雑事や、料理、時々夜勤の仕事なんかして、二人は仕事とプライベートとを両立させて居た。そこで働いて得た金でディズニーランドと迄は行かないが近くの遊園地へ行って遊んだり、それよりももっと身近で専ら良く遣って居たのは、ローソンやファミリーマート等のコンビニで日用品を買ったり、ガスト等の食堂へ行って食い物に遣ったり、映画館へ行ったり、又特にその映画館の階下に在る食料品売り場・化粧品売り場なんかで〝新婚さんゴッコ〟をする際に一寸した物を買う等による、小物に対してだった。〝新婚さんゴッコ〟とは、Aが新婚夫婦を夢見て捩った際の遊びの事であり、何処そこで二人一緒に買い物をする時等にAから見た自分、自分と男、の光景・情景を総じて消化した上でその様に呼んで居たのである。二人は時に、夕方から夜遅く迄仕事をして居た為、男なんかはどっぷり疲れて仕舞い余り遠く迄へは行けず、そういった互いの自宅と身近に在る目的地との間に在る小店にしか行けず、しかし男とAはそうした現実に少々〝足が着いて居る〟として現実で生きて居る事を、実感を、嬉しがって居たのである。唯男もAも黙々と懸命に成って自分達の為に、恐らく自分達の将来の為にも働き、一寸した稼ぎが在った日には〝これ良し〟と見て自分達への報酬とばかりに普段は余り行けない何時もの地域から一寸離れた温泉へ旅行感覚で行ったり映画館でレイトショーを見たり(少なくとも男の次の日の仕事が遅目の日か休日に限って居た)、少し美味い物を食いに行こうと高い和食レストランへと出掛けたりして、日頃の鬱憤を晴らすかの様に躍起に成りながらそれでも静かに、楽しむ事がほぼ習慣に成って居た。Aの自宅から程近いやや大き目のゲームセンター兼本屋(二階にはゲームセンターが在り一階には書店が増設されて在る複合施設の様な建物)へはそうした小旅行が終わってからもAを自宅迄送り届けるついでだとして男は、又Aの希望も在り、Aを良く連れて行き一緒に居る時間を少しでも引き延ばしてAを、延いては自分も楽しませ楽しもうと努力して居た節が在る。車は良く走り、昼でも夜でも所狭しとAの自宅付近、B市の街中を走り、ガソリンスタンドへも良く行った。その時でもセルフの所へは行かず必ず有人サービスの所へ決めて行って居たのだ。男はセルフのスタンドではずっと以前にバイクのガソリン補給をしただけであって全て自分で出来るかどうか自信が無く、又そんな事に時間と労を費やすのが非常に面倒臭かったからであった。Aは良く「セルフ行きやぁ」と男に発破掛けたが、断固として男は「否、」と行かなかった。そのプライベートの内で〝新婚さんの真似事〟、模擬結婚式傍観・体験用の〝マリアージュ〟等を腰を据えて楽しむ様に成って行き、タイミングの良い日には良く他府県へも出掛けそのお陰でか違った景色が良く見え、琵琶湖迄行ってAの水着と、静かな湖面と水平線から広がる空を眺めて暫し都会生活から離れ、ピュアな気持ちを楽しもうと、自分達だけの生活に新風を巻き込ませるべく、珍しく午前中から行く約束を休日に合せてして、延々男は車を飛ばしたものだった。その時でも男の心の内には、巷で良く目にし耳に聞いてる他のカップル達の生活に於ける在り方や又そうした恋人が居ない人達の悲劇等を考える暇が在り、自分の恵まれた環境・状態を喜び感謝して車を走らせるのである。日頃、日常で聞いて居る事がこの男の糧に成って居た事は言うまでも無い事であった。だから男はなるべく人が疎ら、或いは居ないで在ろう平日に在る休日を約束の日に合せて、ガランとした湖浜を目指して走って居たのだ。

しかしそうしたプライベートとは良く仕事で得たストレスが原因して楽しくも成ったり辛くも(暗くも)成ったりする訳であって、男もAも繊細な質で在ったから、仕事での一寸したトラブル、又新たな計画への肩押しが逆にプレッシャーに成ったりして、楽しもうとしながらでも非常にデリケートな気質を彼等の〝プライベート〟は持ち併せる事に成って居た。Aが、今働いて居る所は性に合わないから辞める、と言い出した。男はカウンセラー気取りながら親身に取り扱う振りをしながらも内心そのAのトラブルを他人事の様にして喜ぶ癖が在り、時として自分でも解決出来ない様な難題をAに突き付ける形で相談の幕引きを選んだ事が多々在った。しかしAは持ち前の従順が背を押してか、その半ば、楽しんで居る男の目論みに気付く事無く、唯「うん、うん、そうしてみるわ」と気弱な返事をして、取り敢えず男の言う事を聞く様にして又明日からの生活に打ち込もうとするのである。そんなこんなが続いた或る日、Aが猛烈な勢いで「もうホンマにあの会社辞める!!」と言い出し、半ばその〝説得ゴッコ〟にも疲れ、飽きて来て居た男は「またか」といった調子に取り敢えずAの思う処を全て先ず聞いてやる事にした。Aが自分の働く施設を「会社」というのは何よりその施設(職場)をもう辞める事を決定した対象として見做して居る場合の言葉選びが為す所であり、男は又「またか…」と少々深い溜息を吐く。Aはこれ迄にもう数十社の会社(施設)を辞めて来て居り、今度辞めれば又上乗せされて、もう辞めたその会社数は二十社に届きそうなのである。否もっとかも知れない。Aは良く新しい会社へ提出する自分の履歴書の「職歴」の箇所に大体二、三社名しか記さず、これ迄の辞めて来た社名をまるで自分の臭い部分に蓋をする様にして隠して(守って)来たのである。その事情を知って居るだけに男には、Aが言う事の全てが真実だとは思えない節が在り、半信半疑でAの戯言を聞く事でその後の自分への裏切りがやって来てもダメージが少ない様に事前から受け身を取る術を何時からか取る様に成って居た。だから別にAが「辞める!!」と言っても「毎度のこと」の様に捉えて、ハイハイどうぞ辞めて又別の新しい場所を見付けて頂戴よ、その〝次〟が君にとって〝合う所〟だったら良いね、位に言って事を終らせるのであった。〝カウンセリングゴッコ〟の次に彼が良くする〝手〟だった。仕方無く、又自分の彼氏も「辞めといた方が良い」って言うから辞める事にしました済みません、と自分に全く都合良く上司に言って、Aはその週の終わり頃、二、三カ月間働いて居たそのグループホームを辞めた。

そんなこんなで男はAに連れられて、Aの為に、良くハローワークへも駆り立てられて、一緒に現在の就職事情を聞かされて居た。ハローワークの主人は一生懸命に成ってAの為に色々な書類を各種部署から取り集めてAに今の事情とAの状態に配慮した上でのアドバイスをくれるのだが、Aはそんな主人の言う事を聞いて居るのか居ないのか良く笑って居り、何でもその主人が一瞬言った事が面白かったらしく受けて、ゲラゲラと男と主人の方を振り向き振り向きして笑って居るのである。「主人」とはAの職業斡旋をこのハローワークに於いてしてくれて居る担当者であり、その担当者も笑っては居たが、続けて〝段々最近に成るに連れてAの就業期間が短く成って居る〟と少々真面目に言った事が男の脳裏では空転して居た様子で、何か取り付く島も欲しいものだと少々真面目に考える最中にそのAの笑い顔と声が意識に入って来たものだから、呆れるついでに男は腹立たしささえ募らせて居た。何時に成ればこのAが真面に成ってくれるのか、そればかりを心配して居たのである。

Aと男が働き始めて数カ月した十二月の寒い夜、男の母親が自宅の浴槽で脳内出血を引き起こし倒れた。それ迄の男の生活が一変する程の大事が起った訳であるが、兎に角目前のハードルを片付けようと男とその父親は躍起に成って早く元の生活へと落ち着けるよう取り計らおうとし、そうする間は未だ日常の出来事を見て居る自分達の状態を保って居る様であった。父親と男は泣いた。〝これが男泣きか〟と傍らで噂される程の号泣であった。泣いて落ち着いてから男は、先に母親と共に父親が乗る救急車が向かった総合病院へと自分の車で向かった。「日常生活に戻る」というのは母親が又無事に家に帰って来る事を意味するのだと、男は只管に母を失った児の心境を味わいながら母にこれ以上の惨事が降り掛からない事を神様に祈りつつ病院へ着いた。二十二時を過ぎて居た事もあり病院は緑色の灯りと薄暗い靄が掛った様な明暗を浮ばせて居たが、そこの警備員に様子を聞くとどうも正面玄関から母親は入ったのではなく緊急用入口から入って行ったとの事で、男はその警備員に案内され、今度は証明の明るく点いた待ち合いの様な場所に着いた。既に父親と母親は診察室に入って居り、母親が担ぎ込まれて直ぐ後に到着した三十から四十前後の割と若い外科DRがレントゲン写真を透かして見せながら喋って居た。

(DR)「程々の大きさの血腫が在りますね。まぁ放って置いてもこの血腫自体が他の脳部に悪さをするという事はないので大丈夫かも知れませんが、でもねぇ。本人さんにとってはやっぱり残ってるっていうのは…」

DRは矢張り淡々とした口調で、冷静を保つ為だろう、二人に一応の返事を待つが、もう既にDRの頭の中では予め二通りに於ける解決法は決まって居る様子で、本心は治療室(手術室)に預けて居る様だった。

(父親)「…これですか…。これは放っといても大丈夫なんですか?…」

 もう既に起って仕舞った自然の悪戯か、その営みに対して時間を巻き戻す事も出来ず又修正能力も無い父親は目前に表された出来事を唯傍観しながら一々頷く事しか出来ず言葉も少な目で、男は福祉施設でこういった現場は比較的慣れて居た節が在りやや冷静であったが、今後の母の容体の変化や生死に就いて問われると忽ち土台が崩される程の悲しさを見る事に成り、願掛け最中の心情に依り矢張り黙って居た。

 母親はその後ICUに移され二十四時間容体観察の札が付くが手術は取り敢えず無事に終える事が出来、父親も男も取り敢えず一安心といった処だった。父親と男は母親が長い時間手術室に入って居る間暗い廊下で寒さも感じずに待って居た。珈琲を飲みながら男はどっちに転がっても良い覚悟をしようとするが〝ブンブン〟と首を横に振り、矢張り〝助かって欲しい〟と只管願った。看護婦に連れられて二人は母親が色んな装置を付けられて横たわる集中治療室に入り、母親の名前を呼ぶ。暗い廊下から一気に明るい決戦場の様なその環境に男は矢張り一瞬たじろぐが、努めて母親の左手を握った。意識は朦朧として居るだろうが微かに在りますので反応はしてくれると思いますよ、のDRの一声で男は母にしがみ付き、その時〝ギュッ、ギュッギュッ〟と愛想の良い母からのサインが在った事を男はこの上なく、無性に喜び安心した。

 未だ生命維持装置の様な管が全て取れずに容体急変が危ぶまれる頃、Aはそんな母親に会いに行きたいと言い、男はAを連れて母が眠って居る病院・ICUへと急いだ。そしてICU室に入った際Aは少々男と同様にたじろいだが直ぐに身を立て起こし、すっすっと眠る母の元へ行った。

(A)「あの―、親族代表で来ました(云々)」

 そうAは言った。この発言(こと)が父親にとっては面白く無かった様子で、その後も父親がずっとAを敬遠する契機を生んだ苦い思い出と成って残って行った。しかし男は当時、その「親族代表」がそれ程苦い効果を生むものかどうか解らなかった。その後病院の廊下に差し込んで来た風は、男があの夜母を追って車で出ようとした時に受けた風とは又、違った寒さに感じられるものであった。

 この母親に起きた出来事が契機と成り、男の生活は以前と少し変って、職場から病院へ行ってから帰宅したり、休日は朝と夕に分けて病院と自宅との往復をしたりと専ら病院通いが頻繁と成り、一時助かった母の命に安堵したがやがてその安心感は、今後の母の生活に於ける今迄に無かった苦労や母自身の体裁を守る為の心配、悲哀の念といったものに移り変わって行き、以前より一層男の胸中には母親に対する情念を大切に扱おうとする保守の様な姿勢が芽生え、人が出入りするが物寂しさが募るその病院での母親が喋る一言一言を捕まえては何度でも吟味する様にして大切にポケットに仕舞い、なるべく、出来る限り、母の言う望みを今の内に聞いてやろうとする孝行の念がより一層男の心に芽生えた。恐らくその姿勢は同様にして父親も携えて居ると思われ、夫と息子との立場の違いが在れども家族の絆が成せる業なのか、一人でもその内から欠けるという事への執拗な不安感がそのまま命の重さを尊重しようとする情熱へと変わって行き、父親と息子であるその男は二人結束して母親の安否をそれでも気遣うという様な、多少過保護的な精神が又より一層強まった訳である。

 そんな母親が或る日、青いニット帽を被ったままの姿で(息子である)その男に、あの娘とはもう付き合わないでおくれ、といった様な投げ遣りな姿勢を見せ付けて来たのである。えっ、といった感じではあったがしかし、男にはその内心が汲み取れる程に以前からの母親のAに対する心の姿勢の様なものは見抜いて知る処であった為、やっぱりか、といった調子でその母親の箴言にも似た進言をひょいと手の平に乗せ、ふっと吹き消す様に飛ばして納得する位の心構えが少し以前から出来て居た。だから暫く考え込む振りをして二つ返事で「わかったよ」と言い、Aには仕方の無い事、と言った調子で事の成り行き・顛末を電話で伝え、Aは意外にもすんなり納得してくれて居た。本当に静かなものだった。病院から出て国道を挟んだ向こうのグラウンドでトントンと跳ね回る小鳥の鳴き声がピーチクパーチク、チチチ…と聞えて来そうな位に静かなもので、余りにもスムースに事が運んで仕舞ったものだから男はAに対して持って居た全ての心構えを脱いで、「…ほんまに、ごめんな。勝手なこと言って…」と平謝りに近い様子で謝って居た。AはAで男がそんな風に来るものだからか又急に体裁繕った様に「ううん、お母さま大事にしてな」と男に対する悪口憎音、恋愛にしがみ付こうとする泣事も一切言わずに最後までを話し、二人はそのまま電話を切った。きっともう二度とこの電話で以前みたいにAと話す事は無いのだろうな、等と最後のAの少女らしい、又、親身に自分の事を考えてくれて居る様な良妻の体裁迄醸し出した見事な羽ばたきに、男はまるで恐れ入る様にしてAの残影の御前で平伏し、少々惜しい事したかな、なんていう名残惜しさを感じる破目と成った。しかし母の進言の手前、その進言を難なく引き受けると言った手前、後に退き下がる事は出来ないとして、男はそれから母親の病室迄行き従順な子供の態を以て別れた事を告げた。

 それから行く当ての無い日々が続いた。無論、男の心中に於ける恋愛描写を炊き付ける相手が無い為の彷徨が成す術であって、男は矢張り母親と父親への情熱、情念が成す世界とは別の自分だけの世界を欲しがった事も在り、Aと破局してから一週間、一カ月が過ぎてもAへの身が火照り出す様な情愛を、情熱を忘れられず、例え父と母を振り捨ててでも誰か別の女に自分の持て余した愛情を受けて欲しい、快楽を見たい、とする欲望にも似た感情が湧き起り、男はこれを如何する事も出来ずに居たが、否しかし未だ何とか成るだろう、としたのほほんとした陽気も忘れずに携えて居る様だった。それは恐らく若さが成させた事であり、職場にも街中にも未だ自分と似た様な若い女は沢山居る、寧ろ考えればAの様な身体障害者よりも普通の女を娶る方が良いに決まって居る、等と考え始めて、なかなか孤独には成らなかったのだ。


「思えばAとあのままずっと付き合って居たらゆくゆくは結婚の事もちゃんと本気で考えなあかんようなるし、そこまで来ればもう何事も冗談半分じゃ済まなくなる。しかし考えてもみろよ、あんな親父さんと仲良く付き合う事なんか出来るか?え、お前に出来るのかい?それよりももっとましな物腰弱そうな娘の親父さんが世の中には沢山居ることだろう。きっと又その内お前の前に現れるさ、俺の前に現れるさ。あんな〝新婚ゴッコ〟を何時までも真に受けて続けて行く訳にも行くめぇ、それにAとの間に出来る子供だって…、Aとの結婚後の生活だって……」


 考えれば考える程に次々と湧いて出て来るAとの付き合いに於けるデメリットが、一々男の生活に於ける決まり事(規律)に重く圧し掛かっては突き刺す鋭さのあるものとして在り、男はこうして毎日、Aと別れた後の寂しさを矢張り別の女や対象へ向けて発散し、理不尽にも思える少々の孤独が作る心の穴といったものを毎日掛けて埋めて行くしか無かった訳である。仕方が無かった。独りで出来る事の成就への努力なら男はきっと出し惜しみなく労を費やし一通りの完遂を見ようともしただろうが、二人で(他人とで)築き上げねば成らない現実の既物に対しては如何しても歯が立たぬのだ。完遂させようにも部品と方法論とが別の処に在り今のこの男には届かない。〝届かぬ女〟という何処かで聞いた事あるフレーズがこの時又男の脳裏を過って、女を獲得したいという欲望が毎日、毎日、成長して行く訳であった。

 別れた後、Aが如何して居るのかに就いて男は知らず、あの病院でAに連絡した際に一つ一つ念を押す様にして今後の二人の在り方を決定事項に、連絡は暫く取り合わない、暫くお互いに距離を置いて心の整理をする、会う事は絶対にしない、等未だ他にも在ったが一通り押さえて二人納得した上での別れであった為、別れてから互いに一切連絡を取り合わず、互いに互いの状態に就いて想像の内でしか描けない、といった半ばプラトニックにも近い状態を維持する事に成り、暫くして男の方は又余計にあの時の「少女」がAの内に宿る様にして見えて、その豊満な肉体欲しさも相俟って、段々と又会いたく成り始めて居た。Aに就いてはその辺りの心境・環境の揺れ動きに伴うゆとりの変化といったものが全く解らず、今、元彼氏に会いたがって居るのか、それとももう別の新しい彼氏でも出来て自分の事を忘れて居るだろうか、等、有る事無い事多分に想像した上で全てが妄想の内へ又返って来、男を悩ますのである。

 男は憶えて居ない。如何いった成り行きで又元彼女であったAに再会したのか殆ど憶えて居らず、唯、Aか自分かどちらかが先でメールでの互いの近況報告をし合い始め、その内段々と付き合って居た当時のクリアーな展開をちらほら拾い出し(これもどっちが先に始めたか憶えちゃ居ない)、自然とそのクリアーな記憶は今の男の悶々とした日常生活の一部に吸い付き始めて、Aはその絆されて行く男の心のページとでもいった〝しんぴの薄皮〟に一つ一つ自分の分身をきちんと乗せる様にして男の元へと送り返し、男がやがて率先して誘って来るのをまるで予知して居たかの様にして待って居る様だった。その従順な姿勢の要素には〝男の強い腕っ節〟に必ず従うものと義務付ける遺伝が含まれて居る事を男は知って居た。故に話は切り出し易かった。詰り、このAはその男の言う事をどんな場合でも内容でも聞き入れる事が楽しみの様に成って居た訳で、あれだけ念を押して律儀を装いちゃんと別れたのに拘わらず男はAに明日会おう、と言い、Aは男に同じ事を言った。この成り行きは正にこの二人の世界だけに共通するものとして在る様で、この一瞬での男の心中には、互いの家、そして社会、に於ける規律(決まり事)よりも遥かに居心地が良く享受し易い状態・環境を生んでくれる規律の様に成り、これはAと居る時の男にとって何よりも大切なものであった。

 暫く会わなかった事が功を奏してか、男は再会したそのAをこれでもかという程に鷲掴みにして育み、潤んだ様な瞳で又まじまじとAの肉体に注意と指とを光らせ這わせて、AはAで、暫く振りに会った元彼氏の余りにも不変の熱愛と純情に又絆される様に成ったのか上着を剥ぎ取り、男の好物の腿を見せながら抱き付いて、確かおんおんおんおん、何処かで焼き芋の呼び笛が虚空に木霊す春の空の下、泣いて喜んで居た。何が二人をそうさせたのか詳細な事なんて如何でも良く成り、唯その「再会」は以前迄に二人がきちんきちんと、時に荒々しく、決めて来た臨場の決まり事の再来を意味するものでもあって、二人は以前迄に良く励んで居た工作手順に又改良に改良を加えながら丁寧にライズして行き、まるで〝一度破局して別れた事が互いに別岸に於いて各々成長する契機を得させたのだ。あれは無駄な事ではなく、今後の自分達の恋愛に於いて、生活に於いて、必要な一つの分岐点だったんだ〟とでも言う様に二人は一々自分と互いのする事に首肯しながらそれ等を正しいものとして捉え、もう絶対別れない、こんな言葉が自ず頭上に光り始めるのはその時の彼等が織り成す助長からすれば当然だったかも知れない。何となく未来の自分達を映し出してくれ得る家庭の様な雰囲気に感じ入る事が出来た二人は、まるで新しい環境に於いて喜んで居る様でもあった。

何時か穏やかな海を見てみたい、とA或いは男のどちらかが言い、男は已む無く快調な気分へとその身を立ち上げスポーツカーを走らせながら、二人の好奇心を唯満足させようと、我武者羅に狡猾に、Aとの直向きなランデブーを楽しんだ事が在った。その日は未だ海水浴にしけ込む迄には陽の高度が低い、六月半ばの頃だった様にその男は記憶して居る。怒涛の如く押し寄せて来る〝満足〟という言葉の響きに男はその時すっかりやられて仕舞い、唯、又、自然を愛するが如くAの肢体に舌と指とを這わせ、AはAでその度毎に男の満足の内に光った七色の怪獣を一匹ずつその体から溢れる光沢の景色に見惚れさせ、又ゆっくりゆっくり慎重に、男の刹那の快楽地である自分の手の平の内へと誘って行く事で、此処でも又男の弱点に一途の歯止めを起すのである。向こうの湖面で白魚が一匹飛び跳ね、燦々と照り付ける太陽の白羽を装いながら又深い水底の暗雲へ迄、尻尾を振り振り消えて行った。白身の魚とAの体が妙に重なり合ってその朦朧として来る意識の内で普段奏でて居るAの節々の言葉が何時も通りの解釈を取ってビロード色に見えて来るものだからつい、又男はその両手にAの涙を溢さまいとして、体と心とを捩じり躍起に成って泳いで行くのであった。そう、此処は広い海なんかじゃなく、狭い、湖底の見え透く様な六月の湖である。来る時通って来た循環した悪魔の様な線路を男はAの打震える両腿の内に見、胸中に見出し、又窓辺に映るAの表情から掬い取って、Aは何時しかこんな男の微動だにもせぬ、強靭の屈服感を独り占めにするかの様に男を窘め、蔑み妬んで狂って、又男の両腿の上へと還って来る訳である。屈服させられまいとして何とか男は踏ん張って見せるが、何時か読んだ谷崎の「ナオミの復讐心」(「痴人の愛」より)に於ける絢爛豪華な女の強靭にも似た空腹のパロディーを、その脳裏へと押し込みまるで自分の産物にでもするかの様に、取り憑かれて居たその自分の肢体の隅々に迄熱気を侍らせて、この、これからやって来る夏一季節の猛火を賛歌を奏で渡ろうと努めるのだ。AはAで矢張りそんな男の屈服をこの湖面に静かに身を横たえる青空の逡巡が成せる業を見て取る様に男の表情へとその視線を睨め付けさせて、男が〝ハァハァ〟息を切らして自分迄への滑走路を滞りなく走って惨って仕舞う迄にと、自分の務めを果して行く。この性懲りも無く〝飛び出せ青春〟の様な猛烈に素人染みた屈託を見せない究極のオーラに、二人共がきっと惨って仕舞い、何時かは二人共がこの自然の内で独りでに互いが互いの内腹を探り当てるが如く割って仕舞うものなのだろうと、これは、男一人で考えて居た心算の実であった。Aは何時も見て居るこの自然に流されて行く自分達の屈託の無い〝青春の空〟を自分の空だとして、男がそこから一人で帰ろうとする時決まってその身を動かして、又〝白砂青松の成果〟でも辺りに木霊を響かせる態で一人満足をもして男への報酬として居る訳である。〝唯褒められたいのだ〟、そう高を括って居る内男は、きっとそのAの性から成って居るで在ろう〝自然の内実〟をきっと掴む事は出来ぬだろうと、例え辞書で知識を得て自身への教養としてさえ叶わぬものと、ずっと諦めて行く節であった。

(男)「太陽も湖も魚も、波も、白も青も水着もAの体も綺麗やなぁ、うっとりするくらいもっと綺麗になって」

(A)「ああわかった。アンタを転がして大儲け出来るくらいにもっと体を大きく、いやこの辺りがいいかな(と言って両脚を指差しながら)恰幅の良い〝服〟を着てアンタを騙してやるわ。覚悟おし。」

 大体、二人のこの時の会話はこんな態であったが、男は仕方なく、Aの生命を維持して行く如くその心身を大事なものとし、Aは矢張り純朴に、唯、燦々と照り付ける太陽に顔を向けた向日葵の〝融合〟を男に見せ付けて居るしか無かった。これも〝融合〟だと言うかどうかは、終ぞ男もAもきっと、知る術が無かった事は言うまでも無く。

 二人は又、大阪に在るUSJという観覧車が割と高い位置に在り、まるで市の全貌を見渡せる位の〝高地〟へと向かった。そこでも湖の時と同様、Aが男を率先して行く様に見えたがその実男がAを誘導し誘惑し、取り敢えず此処迄、と決めたライン位置迄Aを歩かせた後、又何事も無かったかの様にゆっくり身体を伸ばし切って、門真の新栄地が顔を覗かす悪の吹き溜まりの様な大阪のデート・スポットへと足を早める等し、又Aのご機嫌を取る様にしながら自己の満足へとその階段(梯子)を架けるのである。これにはAも流石に気付かず、怒涛の如く押し寄せて来る満足のランプが〝ピーピー〟と震源深くその音を響かせる迄その誘惑はAの脳裏へは未だ侵入して行かないで、じっと見据える様にして現実でのAの動向を汽笛のランプが探って居り、唯サソリが物影から這い出て来て二人の踵にその毒針を打ち込んで来る迄、きっと、Aはのほほんだらりんと幽霊船にでも乗って楽しんで居るかの様にずっとその様子とオーラとを変えずに居る訳である。何も台詞を言わない自然の謳歌はその時から只管にAの恋への無心を謀りながら一冊のノートの隅から隅迄を隈なく心中で蹂躙する様にそのAの美しさを映し出させて、男がAの身体の上に跨ってロデオを踊り出す迄、Aは唯じっと密かに、その警笛のランプが消え始めるのを待つかの様に、男の表情の行方を追うのだ。男は一言Aへの矛盾を言い当てようとするが自然の流れ、成り行きが邪魔して覚束せず、もう一度、二、三度、果ては幾億度とAの尻を叩いて警笛のランプが鳴り始めるのを止めようとはすまい、と散々にAの熱情を引っ張るのだがAには少し考えが在った様で、「私はあんたのものに成らない」とでも言ったかの様に白旗を心中に振り振りしながら又男の胸へと飛び込んで来る訳である。〝一端の口を利きやがる、〟〝こいつも相当の悪かも知れない、〟そんな億尾にも出せない疾風の法螺はつい眼で光り出してAへの威嚇射撃を始める事と、自分へのガードを崩さぬ事を何時ぞや編み出した七転八倒の〝抜刀術〟で以て試みては見るのだが、これも又、神秘のオーラが邪魔して、Aはそこに、此処に、寝室に、居間に、踏ん反り返って、ちっとも動こうという素振りさえ見せない。

(男)「じゃあいいや、なぁ、脚と心とを見せておくれよう。何処までも純粋に光る屈託の無い笑顔でも仰け反って見せておくれよう、俺、ついこの間迄お前が直ぐ近くのこの場所に居るのにお前を探し出せないで居たんだ。なぁ、わかってくれるかい?この心中冷めやらぬ俺の気持ちを露ともわかってくれるかい?」

(A)「うん、うん、よしよし、いい子いい子、仰け反ったら私の顔も心も見えないことよ。うれし恥ずかし、今の今までお前を私の足元へ跪かせようとして居たけど、もう止めたわ。うん、そう、私にはアンタしかいないの。ほら友達ゴッコのチュウをしたげる。(そう言って私に〝ふっ〟と息を吹き掛ける)これが友達のキスなら、アンタはこれで満足する筈よね。当てが外れたわ。私、もっと強い男がいいと思っていたのに、今ではアンタがよくなった。この気持わかってくれる?来年も、再来年も、その次も次も、ずっと…」

 大体、二人の別れ間際のワン・シーンで見られて居た光景であり、これはこれで良し、とする自然からの贈り物の様な〝風味〟が仄かに、否男の心の奥にどっしりと塞ぎ込める様にして在ったのを、男が見過ごす筈もなく、やっぱり時間が止まる様にしてその難攻不落の〝不夜城〟は落ちたのである。どちらも初夏にも満たぬ、肌寒い真冬仕立ての朝の事だった。

 段々成長が早まって来た二人の台詞同士は〝暁ばかり憂きものはなし〟、この所途端に老け切って仕舞って使い物に成らなく、又新しい文殊の知恵とでも言おうか、矢継ぎ早に自分達を甲斐無く続けてくれる新緑の朝の様な純粋なる笑顔の行方を追い、互いに散り散りと消え去ったのである。別に別れた訳ではない、それよりも寧ろAは男の、男はAの、肉欲に勝る者は無し、と迄言われた灰燼に起き上がった自分達の末裔の骸の姿を又、独りでに思い出して仕舞った訳である。これは仕方が無かった。二人して如何する事さえ出来ず、仕事さえ手に付かず、悶々と過す事に成った一週間、二人は互いの落ち度も擦れ違いも許さないままで、兎に角デートはその後も続ける事と相成った。所狭しと並べ立てられた偶像の様な互いの未来の産物達に先ず男は辟易しながら退陣し、次に周りに誰も居なく成ったからとしてAもその場を去った。秋の小春日和に咲く小さな花弁が空一面に咲かせた一輪の舞踏会場の舞台はそれで幕引き、閉まった。〝クローズド〟の文字を何回も見に男はこの場所迄仕事帰りに立ち寄ったのだが扉が表情変えず、おまけにAだって表情を変えずに覇気も萎えて仕舞った挙句に火花も身体に燃え移らなく成ったので、油を掛けて種火の消火を試みながら遂に動かなく成った機関車の末路を見て居る様だった。Aと男は良く車の中を外界とシャットアウトするかの様に一つの家庭を捩って算段、白笑、自刃、昏睡、デパート、テーマパーク、とそれは色々と文殊の知恵をひけらかした程に身を呈した一匹の野獣の家の様に、その身を変えさせたものだが、以前に在った男の母の身に起きた現実の残骸、Aの身に今尚起って居る偶力が成せる程の分身の散会、結局身のこなし一つで如何とでも成って仕舞う怒涛劇に見る程の全力の崩壊とでも言うべく、毎日が織り成す二人の頼り無さに、少なくとも男はそんな徒労に補える精神の限界を感じて居り、Aは一刻も早く始めから目指すべきであったとする二人のゴールへ辿り着こうと未だ全力を以て駆け巡って居るものだから、同じ車内にさえ、二つの家庭の空気が出来上がって居た。バックシートはAの私物で散乱して居るがAが今座って居る助手席にはAの尻の温もりさえ止めて居そうにない現実に於ける夜霧が唯冷たく身を沈めて、白砂青松、加減を知らぬ〝孤独の傀儡亡者〟がAの身を震わせ亡き者にしようとさえする。男はAが居なく成って仕舞う事をあの別の男の様に唯恐れて、その分身が引っ掛けて来る孤独のオーラとでも言うべく意味深なシンドロームを、水平に地べたへ置いてその上に男の好奇心や経歴を乗せ、随分遠回りするかも知れないとその男に言い聞かせながらも邁進力を上げ推進力を上げスピードを上げて、宇宙の彼方、望郷の彼方、夢の彼方へ迄、力任せに投げ打ってAの糧として仕舞いそうな軸がそこに在った。その軸に未だ男はしがみ付こうと躍起に成って居たのかも知れず、胡散霧散、霧の内へとこの身が恋焦がれ果て自刃をする為に迷い込んで行っても決してもうAは自分の行方を追わず、決してこの車内(うち)へも帰って来ない様な気がする訳であり、何とかこの自然の白紙の内へと自身を投身させてその体液でも自分に刻み込んで、自分の証を何処かに残そうと秘め事の様にして一つの決心をして居たのである。

 人が多勢帰る、この車内は厚く閉ざされ、自然に構築された檻が二人の心中に熱を灯すまま外界の音が全く聞えない為か二人の鼓動は〝類型〟に身を置き、筆を取ってその鼓動を教え合おうともせず傀儡達が成せる業と少々髑髏を被ってその場をやり過ごす。どうもこの頃は風邪を引いた所為か身体が思う様に動かない、そう言いながら自重を重々促すピテカントロプスの様な正体不明は男の内へと移り住んで、何かとAにポーズを取る様催促し始め、Aは何時も通りに承諾する。Aは二度目にこの男と付き合い始めてから途端に元気を取り戻したかの様に見えたが実は臆面も無く自己の成長をやや堰き止め始めるかの様に、夜の興行へと繰り出す際にも一寸した遠慮染みた体裁を繕う様に成って居た(まぁ一時の事ではあったが)。集中力が切れ始めるライフストリームの様に、始めは良くても中頃から線香花火の一瞬の輝きを予測させるかの様にして段々無愛想に成って行き、結果、男を困らせて自分は泣きじゃくるのである。否、実を言うと、この辺りにも耽溺に似た自己への愛情が輝いて居た様子が在り、Aは男に態と怒られる事を矢張り待って居り、男がAの事を買い被り過ぎるとその余震が更に大きく成るかの様にして男の真心に齧り付く訳である。これを繰り返されると男も分かって居ながらにしてこのAの傲慢にも似た肉臭い涙を見る事にうんざりし始め、こうしたAの言動・衝動を態と無視するかの様にして二人乗った車を走らす訳だが、Aが又急に黙りこくるとふと気に成り、良く注意を払って、Aのご機嫌取りの準備を始めるのである。Aにはこの関係を続けて行けるだけの、二人で構築したその土台に流れる迸りを全て受け止める事が出来る容器を携えた強い芯の様なものが在り、その〝揺れ動き〟に男は内心気付きながらも、否、俺は男だ、昔は男の方が男尊女卑に肖って偉かった訳だしもっと強かの朴念仁でもあった。此処で負けては俺の名が廃る、等と腰のすわらない御託を並べながら何とかAを誘導しようとするその勢いに身を任すが、その任せる際にも、自分は昔からこのAの既に壊れて仕舞った切り株の様な短身には矢張り勝てないのではないか、自然と打ちのめされて負け切って仕舞うのじゃないか、と内心伸びも出来ない執拗な現実の攻撃に貫かれるのだ。如何しても神様は許さぬらしい。この辺りのこいつ(A)の詳細を俺は如何しても受け止めて、そうしながら二人で現実の荒波を越えて行けば良いのか、何時もながらに答に気付けない男はAのこの〝過ち〟を散々に罵りながらも唯、未だ、矢張り一緒に居る事を選んで居る。Aは自分の事を如何感じ、思って居るのだろうか?等と取止めも無い事を散々に食い散らかしながら、又二人の間に流行り出した〝新婚さんゴッコ〟が始まったのである。以前から二人がやって居たこのゲーム的な行為ではあったが矢張り二回目と成ると多少落ち着きが出るのか、丁寧にこの〝ゴッコ〟を奏で始める。例えば二人で映画を観に行った際でも何時も決まってその鑑賞を二人別々に十分・不十分に楽しんだ後併設して在る食料品売り場・化粧品売り場へ足を運ぶ訳だが、Aはこの時、以前迄と違って男の表情や気配に良く注意して居り、自分の言動が或る一定のルールから食み出ない様に黙々と付き添い歩き始めるのである。そして男の次の日が仕事で早い時や、その日男が少しでも疲れた気配が在る時等には自分が身を引く感じに〝旦那〟を立て、自分を〝妻〟の気配へと押し込める、そんなやり口が傘を差して居り、男がその〝傘〟から出ようとする事も又嫌って居た。特有の体質が成す業なのかAにはその一連の事を毎度毎度見事にやって退けて、まるで寸分の狂いも無い程に自分と男の置き処をきちんと定め、そうした自分が織り成した〝傘を差した庭〟の安全を護る事に十分な誇りさえ持って居た様子だったのである。男はこの様子を何時も目前にしながら、ガムの酸味がしぶとく残り鼻と上顎辺りに感じる噛み潰したく成る様な倦怠に依って暴れたく成る事が時折在ったが、しかし、これが今の自分とAとの存在が織り成す〝バランス〟である事を知り、折れて、矢張りその視線と情はAの肉に喰らい付いて居た。

 Aを幾ら自宅へ連れて行っても一向に首を縦に振らない両親の頑なに男は感情的に負けて、〝駄目だ、親に任せて居たらこの二人の仲が駄目に成って仕舞う、如何にかして打開策を考えて、早く二人の聖地を築かなければ(正確には、二人の聖地へ行きたいものだ、である)〟、と何度も何度も暗闇の中を背低ながらに走り回って、誰かの、何かの、了解がこの二人を取り持つ愛の傘下の内に欲しかった訳である。男の父親は「あの子と一緒に成ったらきっとお前が苦労するぞ」と言い、母親は「あの子は結局、じぶんの事しか考えないよ、絶対だめ、…(云々)」と覚束ないながらにも懸命に男に日本語を喋って諭すよう促し、その〝懸命〟は確かに人の心を打つ筈のものなのだが、男は一向に従わず、執拗にしてAとの結婚話を始め静かに後はぐだぐだに、母親に話して居た。結局、破局した後で又付き合い出した事を男は何時しか母に話して居り、当然母親は息子であるその男がAと又付き合う事には大反対を突き返して居たが所詮母の手の届かぬ範囲である〝外〟で二人は、破局した以前と同様に、否それ以上の絆ででも結ばれて居る様にして、今、付き合って居る訳である。Aを幾ら〝外〟へ放り出した所で結局Aと男との〝外〟は車の〝内〟で在り、その史実、事実を曲げる者は例えお天道様でも無理ではないかという位頑強なルールで守られて居て、突発的な奇跡でも起らない限り、矢張り引き伸ばされた様な筵の上に蔓延って居る温度を冷ます契機は無いのだろうとして、男は矢張り頑なに、自分の母や父、そしてAの父親や弟、その友人に対して迄もその〝聖地〟を守ろうとする女王蜂の働きを胸に秘めつつ、白いベールに身を包んで引き籠って仕舞うのであった。この自然と飽和した様な奇跡のベールを脱がす事は何時か見知った男の〝仁王様〟でも矢張りもう無理な様子が在り、これはきっと後悔するな、等の失恋の破傷が織り成す幾多の健全も男には付け入る隙さえ与えず、萎びて、絆される心の予定調和を唯待って居るしかないのである。自問自答を繰り返した所で何にも成らず、唯Aと自分との浮き沈みの波間の内にひっそりと浮んで見えて居たあの望郷、聖地、パラダイス、時折脈打つ桃源郷を、今此処でその男が再び根城にして居た事は矢張り言うまでもなく、自然の成り行きが成す処のものであった。

 男はもう半ば投げ遣りに成って居た様子が在り、天国へ連れてってくれるならどんな手段でも良いから早くAとの〝再会〟を夢見て、此処(俗世間)から立ち去りたい等とも考えて居り、Aとの淡い付き合いを急にその懐で圧し殺して、騙して、直走りに現実へ戻ってはパラダイスへ、現実に戻っては聖地へと、Aとその周辺の事情ごとあらゆる道具を使うが如く丁寧に、時に荒っぽく、現実が見えない素振りを醸しながら自分さえ圧し殺して本能を剥き出しにして「女神」との決闘に持ち込んで行った。「女神」とは別段〝勝利の女神様〟とか〝リバティー〟とか言われる最速を極めながらも規則正しく動く「時計」が内在された様な既成物の事ではなく、男が手にした樞を唯隈なく自分の糧へと変えてくれて、明日のみ成らず空転を許さない突発的な衝動が着せた〝フーテンの寅〟と迄は行かないオーダーメイドの服の様であり、唯一つの男の〝アイドル染みた化け物〟の様でもあり、結局男はAを愛そうと試みながらこの「女神様」の方を好んで愛して居たのかも知れなかった。二人で見果てる夢がこの現実に於いて一体どれ程の経過と勝利を有するのか、しかとこの目で確かめながら矢張り遠い目的地迄に立ち並ぶ孤独の地蔵様が今にも目を開けて笑い、飛び出す〝樞〟を二人の目前へと投げ売る様にして投げ売られても一向に構わん、と思える位に男の一身に降り掛かる自然原則の在り方は常軌を逸して居たのかも知れない。しかしAを娶る為なら、と男は唯濛々と奮闘して居たのだ。男はその一日から世捨て人と成る事を目論む様にして両親とAとの間で土下座をし、その正面にはあの「女神」の姿が時には後光を輝かせて立って居る。又その男は少し余念が脳裏を過り、その女神の後ろにきっと何か、自分を満足させてくれ得る〝パラダイス〟の様なものが矢張りきちんと隠され備えられて在るんだろう、と未熟な態で〝我が身〟の行く先を欲して居た。

 こうして男の父親と母親とに散々罵倒されるかの如く息子との結婚を拒否され、或いは結婚に対するその姿勢をも無視された様なAは、或る日から、その男の部屋で頻りに黙り込む様に成って行った。自分達の、否自分の結婚話について滔々と話されるその云わば決戦場の様に見えて居たかも知れない男の家ではAに、生気が灯らず、精気も伴わないで、烈火の如く自分の〝世間話〟ばかりが飛び交って居るその男の家に流れる空気にはAにだけ見える自然に構築された原則の様なものが在ったのかも知れないと、男は憐憫の色を示しながらも心のどこかで思いつつ、それでもAと一緒に成りたいと強く思って居た。Aは以前から、その男との結婚話を掲げる前から、その男の目前でも密かに誰かとメールのやり取りをして居た事が在り、男には「唯の知り合い、友人、あんたも知ってる人」と称して確かに男も以前に何度か会った事がある人達ばかりの通信履歴が並んで居た事から、男はとりわけAを疑ったりもせず、Aと自分との間にはそうした者達とのレールは敷かれて居ないものとして、又Aとの間の幸福を無心出来て居たのである。黙り込む様に成ったAはその或る日にも、誰かと膝の上に置いた自分の携帯電話でメールのやり取りをして居り、男は唯そんな押し黙って居るAの姿をその行為を含めて、可哀相に思いつつそっとして置いた。自分の町内の市議会議員の人や役所に勤める真面目な男や妻子持ち、或いは女の友人が多かった事からその日にも、「今、市議会議員の○○さんとメールしてる」や「あんたも知ってる○○さん」、「みーちゃんと(Aの旧くから付き合って居る女友達)…」とポツリ、ポツリ、Aは男に言うのだった。男は、何時も元気に振舞うそんなAの急な落胆に依る悲愴な様子しかその時のAからは見て取れず、感じ取れないで居た為、何とかそんなAを、又新しい目的へと二人一緒に歩いて行けるといった様なバランスの取れた環境に置く事を目指しながら、その為の力が溢れて来る源泉の様なものを自身の心中に根ざす事を試みて居た。決してこの時に、Aが他の誰かと浮気をする、等といった自分への裏切りを醸すという情景をAの内には見る事はせずに只管Aを信じる事で、今の自分の平衡感覚さえ養って居たのかも知れなかった、という事は男にとって、恐らく後で気付くものとして在った。Aはそんな自然体を装いつつも自分の内心を充実させて行き、男にはそれ以上の事は何も言わず、男の内に流れる感情の在り方をそれはそれで放って置くといった態に止めて居た。Aには男の憐憫の情が見えて居なかったかも知れず、唯忘れようとする悪魔の囁きがこれ見よがしに、耳元に流れて居たのかも知れない。

 Aと男は、これ迄過して来た自分達の家であった車内を手狭の様に思い始めて居た為、何処か屋根付き囲い付きの場所を、と探し回った挙句にホテルを見付け出し、そこへ足繁く通うようにして居た。自分達の第二の家である。収入は男の方に相応に在る為週に二、三度のペースでもリズムは乱れる事は無かったが、それでも給料日前等に成ると二人の懐は寂しいものと成る様子で、Aが持ったり、或いは又車内、人気の引いた暗がりの屋外という事に成り、そんな日でも〝二人の温もりがあるから未来は見えるさ〟と共々心中に程良く灯る人としての温もりの様なものを感じて、ホテルの代わりの場所で過す事も時には大丈夫だった。天の川が天空を走る或る夜、二人は二人だけの写真撮影会を催し、男はその日のAを記念するかの様にAの全てを写して自分の物にしようとして居た。AはAで、これは記念だから、と自分に始めは言い聞かせて居たが段々熱気が進行するに連れて恥ずかしさも臆面も無く自ら進んで男に自分の欲望の姿を撮らせる事を嬉々とする様子が出始めた。〝プライベート写真〟はその後とりわけ男の携帯電話の画像保存で保管される事と成り、その内の何枚かをAに与え、Aはそこに映る自分の姿をもう一つの自分の正体であると見抜いた様で、その写真の威力は専らAが何やら憂き世でストレスを感じた時にのみ発揮される様に成って行った。これが病み付きに成り癖とも成り、男はそんなAの弱みに付け込む様にして何枚も何枚も携帯で手軽にAの写真を撮り、それを以て今日、明日への自分の活力源として居た節が在る。AはAでそんな自分の一糸纏わぬ自分の正体を蹂躙される様に男に見詰められる事を素直に悦び、時には自ら「撮ってくれ」とばかりに、男の好奇心を誘う様な男から見た〝美しい姿〟を男の目前で晒して、自分の興味を満腹にする事も得意として居た様だ。その数百枚程在る写真の内には二人一緒に写した物や、Aの体裁を繕った上での格好の良い美しさを撮った物も在ったが、大抵はAの痴態を写した物であり、二人共にこちらの方を後で何度も何度も反省する様にして、喜んで見て居た。

 Aには、ほんの幼い頃から痴態癖が在り、と言うよりそういったものへの興味が多大に在り、それが障害の成せる業か、常人よりもスピードを上げて表面化させる事に何の躊躇も見せない処が在って、得てして男はこの処を自分にとって色欲を満たす際の非常に都合の良い部分として捉えて居たのだ。そんなAが或る時、身の上に溜まった猛火の残り火を灯したまま、その日在った事を男に告白した事があった。ストレスの成せる業だった。

(A)「アタシ、今日、仕事でめっちゃストレス溜まったからスカートこうして(持ち前の異常に豊満な太腿の付け根迄尻が見える程に荒く捲し上げて)電車に乗ってきてん。んでこーして座った」

と言って、男の部屋に在ったテーブルの上にどしんと大きな臀部を置き、超ミニ以上のパンティが全く見えて居る格好のままガバッと股を開いて、男に股間の三角州の部分を見せ付けた。

(男)「んなことして痴漢に遭わんかったんか?」

(A)「…うん。」

都合が悪く成るとAの返事は大体全て「うん」といった、どちらにでも採れる様な曖昧なものに変わる。

(A)「そんで、ずーっとこのままのカッコで来た。キャハハハハ!!」

 男はこうした高笑いを聞く時、自分を満足させてくれるAの姿と、幼稚で如何にも危なっかしく見えるAの姿が心中に於いて交差をし、何とも言えぬ複雑な魅力と落胆を感じて居た。この「落胆」は、もうこれでこいつとは終わりかな?とでももう一人の自分から言われる永遠の別れを醸す男の内容を内に秘めた、二人にとって残虐なものである。

(A)「あ―あ、もう今日つかれた!」

そう言ってAは煙草に火を付けて吸う。女性が当時良く吸って居たメンソール・セーラムライトである。

(A)「フ―ッ!…ちゃう、今日あの男が、あ、ウチの会社の上司やけど、いろいろ私に指図してきてメッチャむかついてん。私はメッチャ頑張ってんのに、いろいろあれこれ言うから…あの女も…この人も、あの人も…(云々)」

まるでAの周りに居る会社の連中が皆Aの敵であるかの様に言って来る。

(A)「もう、アタシの邪魔すんなって思いながらそれでも我慢して、きょう仕事してた…」

(男)「ふぅむ、…ようがんばったな。」

全くそうは思って居らず、またか…、といった様なAの存在が自分の思い通りに成らない為の落胆だけが男の脳裏と心中とを過り、Aから受ける感情を頭で考えた上で何とか現実に於いて自分達の活路を見出せはしないかと、男はやや自分本位にこういう時のAの姿には対峙するのである。男にとってはもう、やり切れなくも、手慣れた算段と成って居た。

(男)「んで、明日も仕事か?」

(A)「うん。」

(男)「まぁしゃあないな。社会ん出りゃあ、そらいろんな事あるし、お前が受けたような落胆とかストレスみたいなモンはそらしょっちゅうやわ、誰でもそういうとこ通ってんで。まぁ、落ち込まんことやな。」

(A)「うん。」

 そういうやり取りが十五分程続いた後で又何時もの「二人の世界」に埋没して行くのである。

(A)「あ―アタシ発散したい!タヌキ!おいオヤジ!ホテル行かへん?」

 Aは良くその男を「タヌキ」や「オヤジ」と銘打って呼び、そうする事で、何か自分と男との間に流れる安心させてくれ得る糸の様な物を手繰り寄せようとして居たのである。その「糸」とは絆かも知れなかった。

(男)「おいおい、オヤジじゃないやろ。何時も言って来たやろ?」

(A)「ごめん(笑)、じゃあ、おいタヌキ!ホテル行かんか?私、発散したいねん。」

 Aは、落ち込み自棄に成ると、良く男口調に変った。自分の事を「ワシ」と呼んだり、又目前の相手にもその火の粉を振り掛けるが如く、色んな男が付ける様な渾名を付けたり、裸体で振舞う様な自分の羞恥を見せ付けるのである。男はこうしたAを何とか飼い慣らそうと、自分の貞淑な妻にしようと目論んで居たが、如何しても不変で自分と屹立として立って居る様な〝A〟という存在を見せ付けられるこの様な時には、自分の目的・夢が叶わぬ事を自然に見せ付けられて引っ込み思案に成って仕舞う。もっと自分を出して、発揮させて、それでも奇跡が起ってこのAを変えられるかも知れないと、何とかこれ迄Aとの間に構築して来た自分の立場の様なものを再構築し、Aに臨むのである。それでもAはずっと変らず、定期的にやって来る様な落胆の時期には、全く同じ事をその男に対して見せて居た。これが自分の愛情表現よ、とでも言う様に、必ずそれが止む事は無く、男はこうしたAの衝動を倦怠期が女に為させるものの様に捉え、踏み均して行こうとして居た。それでも何度か踏み均して行く内に彼女にも落ち込んだ時用の免疫が付いて、彼女自身が自分の内から湧き出て来る猛火を鎮める事が出来る様に成る、と物理的に願い、信じて居たのである。

 そしてAと男はAの〝ストレス発散〟の為にその日の夜を待って、男の車で先ずホテルへ行った。途中で何処へも寄らずホテル驀地であった。その内で又これ迄の様に様々な写真を撮り、少し変った営みを終えて、いやらしいビデオを室内のTVでずっと流したまま、男はベッドで死んだ様に眠って居たが、Aは男と違って全く快活で、活発に物事を見て取り、男に次々と矢継ぎ早に自分の喜怒哀楽に就いての話をしたり、このホテルの管理人さんがどうたらこうたら、TVの形がどうのこうの、そこに流れるいやらしいビデオの内容がああでもないこうでもないと、疑問にも成らぬ自己主張を延々語り続けて、やがて男の疲労と日々の日課に突き合わせて、二人はホテルを出た。ホテルを出ると屋外の風が現実の冷たさに感じ、又屋内の暖かさを少々でも懐かしいものにした為かAは急に又寂しそうな顔に成り、再び現実の強靭に立ち向かう心構えの様なものがその心中に現れた様に男からは見え、又荒々しく太太しい態度がAの姿勢に甦って来た。仕方が無いので男は又少し寂しい所(人気が無い場所:Aの自宅付近)迄Aを乗せて走って行き、これ迄のしどろもどろだった問答染みた呟きに終止符でも打とうとする様にして、Aを抱いた。しかしAの葛藤の様なものは収まらず車を下り、裸体に成り、その裸体に成った事が体を冷えさせたのか勢いを付けさせたのかしてAはその野外で放尿をした。男はAに誘われてその様をじっと見て居たが、矢張り車の往来や人が来る事を恐れ、辺りをきょろきょろしながらの観察であった。

 Aには以前からだが、こうして落ち込んだ時にはその発散したいとするエネルギーの様なものの勢いに乗って痴漢を誘う様な性質が在り、もしかすると今目前に居る男が俺でなくても、他の男の前でもAは同じ事をするんじゃないのか、否、もう実は俺の知らない所でそんな事をして来たのではなかろうか、等の浮ついた考えではあったが核心に触れる様なその思惑の勢いは、その時男の心中に突き刺さり、以降抜けなく成って行った。この嬉々としてはしゃぎ回るAのこんな醜態でさえも他の男には取られたくないとする欲望が脳裏に走ったのだ。こいつの全ては俺の物だ!誰にも取られたくない。確かにこういう時は危なっかしくて誰にも見せられない秘密には成るけれども…。それ以上深くは考えなかった。否、考えようとするとあれやこれや、あの事この事等、不埒な勢いの付いた自分達にだけ解る出来事が、まるで吹き出物の様に男の丸い心の表面に出来上がるのである。男はこれを許さず、兎に角その夜はAの気の済むのを待って、落ち着いた形でAと別れる事を期待して居た。春が未だ遠い冬の夜の事である。

 Aは又出し抜けに男に告白をした。その昔、Aが未だ園児か小学校に上がり立ての頃、自分は弟を誘惑して局部を弄んだり、性交をした、と言うのである。Aの言う事なので何処迄が本当かは判らないが、このAの性格(性質)から考えれば、又〝出し抜け〟に言ったこの時のAの姿勢からは、その事が根も葉も無い嘘の様には見えず、又詮索を踏まえた上で、男は信じた。男はこの時、Aの育成の為に自分に備え付けた心からは離れて居り、専ら自分の欲望を満たす為だけに、この変ったAという女の過去の経歴に目を付け、舐る様にしてAの口から出る〝新しい情報〟を欲しがって居た。Aはこの時落ち着いて居た為、遠い過去の事でも常識が働く為か恥ずかしそうにして居り、なかなか男の欲しがる刺激的な事は言わず、それよりもこの話題を早く打ち切りたそうにして居た。仕方が無いので男は諦めて、Aとの常識的な交際を斡旋し直して行った。この頃から、否二度目の交際から既に在ったかも知れないが、男には、自分のAに対する愛情の姿勢に斜に構えた様な姿勢が在る事を薄々感じ始めて居て、それも俺とAとの愛の形だ!等と言い触らしつつ、自分にとって都合の良いAとの形、Aの形、を工作し始めて居た様子が在った。〝ストレス発散〟を講じた時のAの行動には、〝ホームレスとの非常識的な性交(それもAから誘って)、電車内等公共の場所での痴漢誘発運動、気軽に撮れる様にさえ成ったAの痴態を写す写真撮影会、自分の実の弟との性行為〟等、あらゆる男を性的に刺激した上で密かに又男に恍惚を憶えさせる要素がパンパンに詰って居り、周囲の女性を見た時に、これを捨て難いとさせるAの罠の様なものが自然に男の身の上に降り掛かって心を決めさせる、といった様な一種の魔力の様なものを男に想わせる不死身の肉体が在ったのだ。如何しても、どんな純心を想っても消す事の出来ない女体がそこに在るのだ。男は如何してもAへの妙な好奇心を忘れる事が出来ずに居た為、こうして自分が今居る事が自然だと受け止めた訳であり、又そのAとの当然の快楽といったものを享受しようとさえ考えて居た。

 こうしたよりどりみどりでもあり、危なっかしいAとの経験を構築して来た男はその後も、引き続いてAへの肉欲が忘れられないままAを自分に繋ぎ止めて置く作戦が成した様な関係を続けて行く事と成った。少しAとの間に距離を置くが、その肉体に沸々と欲の芯が湧き上がった頃にAを抱く、といった様な純心が呈する輪舞曲の様なものを携えた心を持ち、男は次第次第に、第二の分身へとその身を呈する様に成って行ったのである。

 そうした頃、Aから男に一つの提案めいた旅行の話が持ち上がった。京都の田舎町に在る少々伝統を携えながらも流行に依って煌びやかな装飾を成した温泉宿が目的地であり、男も暫く温泉等へは行って居なかった事もあり、物珍しさも相俟って承諾して居た。そこは温泉と言っても結構色々な種類が在り、中にはジャグジーの付いたモダンなものや、温水プールも構築した画期的で、広い浴間を備えて居た。そこ迄行く途中ではまるでピクニック気分、新婚の気分、等を二人で楽しむ様に打ち解け、緩い勾配が続く山道辺りで一度道に迷って仕舞い、予めAが取り寄せたその目的地迄の地図で以てああでもないこうでもないと、存分に純朴を熱した様な二人の姿がそこに在った。男はAの提案に依る旅行でもあった為、その宿辺りの地理を始め、その宿内容等全く知らなかった為に、始終Aに連れ回されて、まるで子供がキャッキャッとはしゃぐその後ろ姿を親が見守る様な心境でAの後に付きその旅行を楽しんで居り、そうした中にも、周囲の女性と見比べた上でのAの可愛らしさが男だけの心中に明りを灯して、男は満足して居た。

 その旅行計画は朝の十一時に待ち合わせてそこから宿迄直接向かおう、というものであり、宿に着いたのは昼を少し過ぎた一時半頃であり陽は高く、周囲の景色を十分に眺めながら堪能する事が出来たのだ。「温水プールに先に入ってみたい!」と言ったAは早速宿に着いてからそこで賃貸して居た水着へと着替え、男も同様にして借りて着替え終えたのを確認すると、男の手を引っ張ってプール浴場へと連れて行った。そこで貸して居た水着は一律して小学生等が学校で着る用の紺の競泳水着であり、Aのそのルックスは見事なまでに小学生を彷彿させる如く決まって居た。その水着の下半身にはニョッキリと逞しい両腿が突き出て居り、これが歩いたり小走りしたりする度毎にぶるんぶるんと大胆にも揺れ回り、男を又翻弄するのである。各温泉浴場へ行く際にはそれ等を繋ぐ薄暗い藁敷きの通路を通って行かねばならなく、二人もそこを通って行くのだがAのその異常な程に太く揺れる太腿は、その色合いを鎮めて仕舞おうとする辺りの暗がりにも打ち勝って、余計に男を誘い続ける事と成って居た。温水プールではその敷地が広過ぎて、男はAの楽しむ遊びを放置する形と成ったが、次に向かった露天のこじんまりした浴場では、互いに体が密接する程近付く事が出来、少々欲情したのか逆上せ始めた二人は「温泉」という目的を不意にして互いの身体や、妄想の内に思いを巡らせて、尚プライベートを楽しんだ。

(男)「やっぱりぶっといなァ、お前の太腿は。これ!」

 と言って男はAの片方の太腿の肉を手で鷲掴みにして、その脂肪の付き具合をAに改めて確認させるべく見せる。Aはケラケラと笑って、

(A)「はぢゅかしい、やめてパパァ(全て裏声で話す)」

 と甘く、甲高い声を以て応対する。この「パパァ」と言ったり、裏声を使って話すのはAの〝ストレス発散時〟とは逆に機嫌が良い時にする行為で、これも男には既知の事だった。

(男)「なァ、あそこに居る人の前でザバッと立ち上がって、目の前でこの太腿見せてきたらどうや。」

(A)「エ~~~~?(急に裏声から地声に戻して)そんな事したらアンタ怒るやん、(又裏声で)はちゅかしい~~~…」

 そんな会話をして居る内に男は催して来てAの局部を隠した布を傍へ遣り、ニュルッとした生温かな感触を湯の中でも味わいながら、Aの膣の中へ二本の指を入り込ませた。Aは何やかやとは言うがこう成っては何時も通りにその姿勢は黙り込み、全てを男に預ける様に体を仰け反らせて来る。男はこうした公の場所でのスリルと共に興奮を味わうべく何度でもAに自分の欲情の滴を吹っ掛けるのだが、そうした場所ではそれ以上の事が起きる場合は無かった。又二人は、何事も無かったかの様にして割り当てられた食堂へと夕飯を食べるべく、戻って行った。

 Aには、酷く常識的に振舞う時と、非常識に振舞う時とが激しく分れて在る為、男には既知のAの習性だと分っては居ても不安に思う時が在り、この一連のAと自分との在り方が脳裏に焼き付く様にして在る為、しぶとくAへの自分の好奇心、欲望、純心、といったものを忘れる事が出来ないで居たのである。そしてそのAの常識的に振舞って居る時の容姿が、先述した様な非常識に振舞う際にその全身を擡げる様にして男の胸中へとやって来る為又男はその脳裏で、この二つの容姿をお腹で消化する事が出来ないままで、欲情に取り憑かれた際に見るそのAの姿にもあるまじきか常識が織り成すAの痴態を自ら繁栄させて見、その二つを兼ね揃えるAを丸ごと愛そうと試みて仕舞う。酷く矛盾した自己の在り方や考えに就いて身に染みて解釈出来た頃、男の常識の姿はもうその男の心中には無く成り、A一色への自分の愛の、否、〝欲望への賛歌〟を歌って居たのであろう。哀しくもこの男は、もうAを真人間、常識の在る貞淑夫人へと仕立て上げる調教師の目からは遠く退く事と成り果てて居り、唯自己の欲望のみに生きるスパイダーマンの哀しさの様に、自分を子供に見立てた上で分別の在り方を教えて居た訳である。二度目の破局を薄々この頃感じながら、一度目の破局以前に見知って居たあの「女神」の様なAの姿は、もうこの男の目前にも心中にも還って来る事は無く、そうした自然の在り方に就いても男は自ず理解して居た。

 こうした屈曲を成した様な二人の付き合い方が構築されて来たのは、男にとっては、あの専門学校で得た不要な枝葉に止まる害虫染みた友人達の存在が無かったからだと、密かに思える処が在って、男は、二度とAをその専門学校の友人の中へ連れて行かない事を胸に誓って居た。連れて行けば必ず又涎を垂らした狼の様な男共が来て、時に女の甘い気質を使って、俺達を別れさせようとした上で内の誰かが、又新しくAを引き受けて、喰い物、慰み者にするに違いない、と暗い算段をして居たその男であって、夜霧の濃い夜道等を歩く時には、こうした決心に又輪を掛ける様にして心を閉ざして居た。実際にこの男は専門学校へ通って居た時分に(先述した様な)相応の苦い恋愛経験をして来た訳であるが、それより別の、否そうした苦い経験を構築して男に味わわせた陰の実力とでも言うべきか、自分より他の〝男の腕力〟への恐怖体験をして来た事も在り、こちらの方が自分とAの安全を思う際には辛く重く、圧し掛かって来てプレッシャーと成り、トラウマにも成って居たのである。男の上背は百六十三センチと一般的に見ても低く、百七十センチや百八十センチの大男が周りを取り囲めばその男は見えなく成る位に貧弱な存在と成る訳であり、又その大男達が暴力に訴える形を以て立ち向かって来る、等という事が在ればこの男にとっては大惨事に繋がる事が予測出来、又一溜まりも無く成る事であった。故にこの男はそれ以前からだが、この時にも余計に自分の身長に就いて呪った事が在り、何故もっと伸びてくれないのだ、と自分が信じる神に何度も何度も訴え掛けた事も在った。女と付き合う際は余計に、又普段から、男は自分の背低を自分の劣等の元であると決め込んで、〝身長〟に纏わるあらゆる出来事に対し鬱を思うと共にその対象から逃れて来て居たのである。だからこのAと付き合う際でも、付き合い始めの頃は常に厚底の靴を履いて周囲を魅了すると共に、付き合う事の許可証を既に貰って居るこのAに対してさえ〝どうだー、自分が付き合ってる男も実は背が高くて良い男だろう?〟とでも言った偽装を呈して居た訳であり、これが段々付き合い慣れ始めて来て、Aと二人きりで居る時にはサンダルで居ても別に気が咎める事無く、落ち着いて来た。故にAと二人きりで居る時にこの「世界」を害する「外界」の事をAに話されたりすると男は決まって身構え、必要以上の強靭を心中に灯したのである。Aと付き合い出してから男がこの専門学校当時に付き合って居た友人と出会った事はたった一回しかなく、その時も虚を突かれる形で友人二人が現れたものであるから後に退き下がる事も出来ず、唯男はこの時でも、早くこの二人の友人達と別れてAを自分との広場(せかい)に連れて行く事だけを考えて居たのである。Aはキャッキャッと騒いで居た。この二人の友人とは、専門学校当時にその男が属したグループの内に居た二人であって、良く遊んだ事がある仲だった。だがその内の一人は、この男に対して矢鱈と説教臭い態度を図々しく示した者であり、もう一人は、恋愛相談と称して例のSと男との関係を滅茶苦茶に粉砕して別れさせた一味の者であった。その「一味」にはもう一人、身長が百八十センチを超える「馬男」が居て、この「馬男」がこの男と別れた後のSを上手く引き継ぎ、妊娠までさせて居たのである。「馬男」というのは、この男がこの大男の渾名を考えて居た際に閃き付けたものであって、「スケベウマ」から採った名前であった。

 男はこの様な経験も含めて、外界に居る友人・知人・他人とAが付き合う事を極力避けさせ、何時も自分が構築した小屋の中でAを認めたい、と欲して居た。しかしAも人間である為何時も「二十四時間スパイをして居る様に」監視する事等叶わず、その程度は極力に抑えられる。この余った余白の時間に就いてはこれ迄のAとの付き合いが成して来た絆から思わせられる安心と、「こんな知的障害者を娶る者は居ないだろう」として得られる物理的な安心とを以て、唯自分の都合の良い様に受け止めて居たのである。「知的障害」というAの弱みに付け込んだ下劣な手段と思う人も居るかも知れないが、その為の相応の苦労をこの男はこれ迄に於いてして来て居り、この付き合いに愛情を以て自然に辿り着いて居る。人知れず苦悩がその過程に在った事は確実の事であり、この辺りに「他人の家庭に首を突っ込むな」というあの名言が顔を光らせるのだろうと又、この時男はそう考えて居た訳である。

 故にこの男は、過去からのそうした柵から解放された様に成って伸び伸びとこのAとの付き合いに自らの意識や生気を謳歌する事がこれ迄に出来、そう、まるでAと自分との「自由な砦」を築けた様な一種の達成感の様なものを感じて居た。例えて言うなら、ずっと虐められ続けて来た中学男児がその卒業に依って思春期を尚謳歌出来る高校という舞台へと押し上げられ、これ迄の陰湿な過去にまるで蓋をするかの様にして新しく自分を生れ変らせて、〝高校生デビュー〟を果したその時の心境にも似て居り、そうした人工の枠が無い為にこの男はその時、もっとその「謳歌の砦」が翼を広げる事が出来た、と言えば幾らかその時の心境模様に近く成るかも知れない、そんな様子である。兎に角解放された上で築く(得る)事が出来たこの「自由に振舞えるAと自分との砦」を誰にも崩されたくないとして、男はあの夜に二人に会った後、尚Aを大事にして居た。

 これ迄何度も本当の家庭をAと築く事が出来るのではないか、と按じて来たこの男である。そう簡単にはこれ迄成して来たその習性といったものが抜ける訳では無く、矢張り未だ心の何処かに、互いの両親に祝福され友人・知人にも祝福されて、一般的な体裁を繕えるのではないか、という思いが在って、そうした時彼は矢張り何時も通りに、神への訴えを強め〝どうかこの人と上手く、相応の形に収まる事が出来ますように、結婚して楽しい家庭を築けますように〟と祈って居た。

 Aと男が何時もの様に車の中のデートを終えて、Aの自宅付近の何時ものコンビニ迄乗り付けて別れ間際の名残惜しさを少々噛み締めて居た時、もうとっぷり暮れた冬空の下で焼き芋を売る屋台からの宣伝文句が聞えて来た。男は別れるのが名残惜しかったので少しでもAと長く一緒に居ようと、又、Aにあの焼き芋を食わせてやろうとして、「ちょっと待っててくれ」と言った後車を下り、男は段々と離れて行くその屋台を追って自分の分とAの分の芋を二つ買って、又車へ戻って来た。Aは素直に喜び男が食べ易い様にして渡した芋を上手に受け取って、二人、はふはふしながら食べた。食べながら笑顔で男は「うまいなァ」と言い、Aも「うん、おいしい」と時の流れるまま静かに食べた。何時も何気に焼き芋屋が売り歩いて居たのであろうこの芋はこの時のこの男にとっては特別な芋であり、まるでAと自分との関係をより一層現実へと近付けてくれ得る物ではないか、と期待出来る想像力を与え得る物と変って居り、その同じ二つの芋を、Aとこうしてこの車の中で肩を並べて食べて居る事がまるで二人の共有出来る空間を模造してくれて居るかの様に感じられて男には特別に、嬉しかった訳である。今日も色々在ったね、二人はそう言いながら別れた。男は、「あとでほかしとくから、そのまま置いてっていいで」と言って置いて行かせたAの焼き芋が包まれて居た新聞紙を見て又妙に寂しく成り、お尻を振り振り小走りに成りながら自分の家へと帰って行くAの後ろ姿が遠くに消える迄見送った。男は仕方無くその場で車のドアを開け、Aが出した塵を捨てて車を走らせて行った。

 ここで又ふと男が思った事は、そういえば今日はAと夜の七時頃に会ってから一度もまともに晩御飯食べてなかったな、今から家で又改めて晩御飯でも食べるのだろうか、等という事であり、Aのその後の自宅での生活、詰りこの車の外でのAの生活というものだった。矢張り外の世界・生活というものはこの時でも男には冷たいものに感じられ、出来る事なら今からでもAを自宅から引っ張り出して、二人だけが入る事の出来る新しい居住地へと連れ込みたい衝動が働く訳であって、男のAを想う上で心休まる処はAと一緒に居るその空間にしか無かったのである。最早A無しでは生きては行けぬ自分、に自分が成って仕舞って居た事にその時は未だ男は気付いて居なかったが、Aとのこうした別れ間際のふとした時に、いずれ自分がそのような態に成り得る事を予感して居り、もし実際にAと自分が又別れる事と成った時に、自ら倒れない様に保身の計画を採らねば、としたのも事実であった。男は、Aのこの車内以外の、外での生活実態に就いて殆ど知らないのであり、これ迄に、Aが働く職場迄Aを迎えに行ったり、Aの誘いで参加した、Aの住む町内が催すクリスマス会や七夕の行事等でのエピソードを並べれば多少Aの近所付き合いや職場での在り方等に就いて知る事が出来たが、例えば密かにAが誰かと二人で会って居る時のエピソード等に就いて男は知らない訳である。この「知り得ない処」が尚男にとってAをミステリアスにも危なっかしい生き物にもさせる訳であり、男はこれ迄に何度か、Aがして来たメール内容に就いて浮気をして居ないかどうか確認した事も在った。そうした時は大抵の女が自分の秘密を知られる事を嫌がる様にAも嫌がり、曇った表情で男と相対して居たが、男の腕力に負ける形で何時も結局は見せるのである。しかし、メールの履歴等は消去出来る訳だから〝現場〟を押さえる事は難しく、男はそれでも根気良く、何度でも会う度毎に「浮気して居ないかメールのチェック!」と言って彼女の携帯を取り上げるように成って行った。これは、男が本気でAを大切に思い始め、如何にか結婚出来るようにと、先ずは自分の母親から説得して行こうと決心して居た時期から始まって居た。だから結婚相手に成る筈のAが浮気等しない事は当然であり、その辺りをこうしてきちんと確認して行く自分の言動には又正義が在る、とでも思って居たのであろう、そうする事に何の躊躇もしなかった。Aが例え本気で嫌がっても躊躇しなかった。故にそれが元で喧嘩した事も在る。

 大体Aが嘘を吐く時は明瞭なものであり、「ちょっと携帯見せて」と男が言うと、「あっ、ちょっと待ってな」と言って履歴をきちんと男の目前で消去してから渡す、といったような何の隠蔽工作も施さない開けっ広げな行為を良くして居たのだ。これ迄の付き合いから得て来たAの習性を把握して来たこの男にとっては余計にそんな〝子供騙し〟を見抜くのは容易いものであって、男は故に、Aと会って直ぐに携帯を自分に渡す事を良く命じて居た。Aが携帯を取り出した後直ぐにその携帯を男は奪い、見え透いたAの隠蔽工作を封じた。しかしこうしたやり取りが始まって暫くの間は、Aもこの男のこういった習癖も予め察知して、自宅を出る前、男と会う前に、既に見られては不味いとした履歴を消して居た為か、男はAの〝浮気メール〟を見付ける事は無かった。Aには、女ながらにか、一度習慣付いた一連の行動をきち、きち、と律儀に踏襲する事を憶え込む癖が在って、男はこれをAの能力であるように捉えて居た。「くそ、もう憶えられたかな…」等と男は、見事なまでに〝浮気の証拠〟を消されたAの携帯の内容を確認しながら密かに疑っては居たが、それでも矢張り、そういった確認を続けて行った。

 こういうAの気性であるから、何時第二、第三の男が現れても可笑しくはなく、あの〝ストレス発散時〟にもし間違ってその誘惑に誰かが付いて来たなら、それはもう確実にAのセックス・フレンドに成る、そんな不安にも似た疑念が始終男の脳裏を過る事は又当然の事であって、〝これだけの女だから〟と言った時点で誰か本当にそうした男が他に居る事は確信にも近く成る程可笑しくは無いものと成る訳で、男がAの浮気を止めさせる事は実は容易では無かったのかも知れない。しかしあの記憶、〝自分以外にこの知的障害を持つ女と本気で結婚をする奴なんて居ないだろう〟、〝「私にはアンタしかいない」と迄言わせたこれ迄の関係に於いて築き上げた土台の上に居るAの、俺への思い・気持ちは、自然に於いても変化し得ない〟とした一定であり不変のAから自分に来る愛情が構築し続けて出来たこの絆とは、絶対に俺のものである、このAと自分の二人だけのものだ、と男が手にした記憶は「叫び」と変って今でもその心中で絶えず蠢いて居る。であるから、なかなかAを浮薄な女へとは変えられずに居り、Aとの一蓮托生を夢見て願うのだ。Aは未だ携帯をいじくって居た。

 或る日又Aから今の職場を辞めたい、という通達が在った。今度は「森の里」というこじんまりした新設の老人ホームらしい。「介護職」というのは人間を扱う職種であることからか、その職員同士の結束も妙に固い処があるらしく、それが奏して男女ならば恋愛関係に縺れ込む事も多い。その職場では〝世話〟という看護と似た母性が潤わされる要素といったものがそこ彼処の契機に於いて在る訳で、これも奏して人間の感情同士も妙に近いのだ。だから二重の罠でも仕掛けられたかの様に男女は恋愛地獄へと埋没し易く成る。この様な妄想を抱いて居たこの男である為か、こういうAの転職を思わされる度、Aのその次の職場ではもしかすると、自分の様な狡賢い男が居て、Aを唆してそいつが俺からAを奪って仕舞うのではあるまいか、等と遠慮なく考えて仕舞うに至り、Aの身の上の心配と、そのAの次に行く職場の治安といったものを心配するのである。その職場(「森の里」)は丁度Aと男の自宅の中間地点程に位置して居り、Aの要望で良く男は、Aを連れてその職場迄送迎をして居た。十数回はその男はその職場の様子を見て居た。特に怪しい処も無く、従業員は皆(男女含めて)健全な様子で、男は一先ず安心して居た。

 そこでの仕事が始まってからAは持ち前の〝独占力〟〝闊歩力〟で黙々と頑張った様であり、その仕事始めの日の早朝には男にメールで、「きょうからや。今までの悔しさを見返してやる!」といった少々何時もの〝文法を間違えた内容〟を寄越して来て居た。Aはそのメール内容を実践して居た様であった。何時の日か、Aに何時もの様に連れられて男は、その「森の里」の従業員達に紹介された事も在った。その紹介の際にもAは「これがウチの上司の本山です」等と開けっ広げに間違った礼儀を以て男に紹介をし、周りから窘められると同時にAもはにかんで居た。その時でも男はこの従業員達に目立って悪い印象を見て居らず、否寧ろ、可愛げがある程に溌剌とした若い男児特有の朗らかささえ認めて居て、「ああ、こいつは(Aは)良い所へ就職出来たもんだ…」と肩と胸の荷を下した経験が在る。だから出来る事ならAにこの職場でずっと仕事を続けて欲しいと思って居た。

 Aの「森の里」への転職から数カ月が過ぎた初冬の頃、「なかなか今回の職場は続いて居るな、」と安心した面持ちを漂わせながら男は、何時もの様にAとのデートへ出掛けた。全てが良い方向へ赴いて居る様に感じられた二人の関係は充実と瑞々しささえ感じられて、非常に愉快を想わせるものであり、Aと男はこれ迄に無い位に退屈を覚えず、二人の将来への闊歩、躍進といったものに心奪われる形と成った。しかし二人でする事はこれ迄と矢張り同じで、車内デート、ホテルへの直行、新婚ゴッコ、何処か観光地への遊覧である。その日の仕事を終え二人はセブンイレブンで一寸した食い物を買って食べた後車に乗り、今日在った事を話し始めた。その時ふとAが新しい職場の悪口を言った。正確には、又、何時ものストレスを負わされた、という内容であった。男は少し嫌な予感がして、何とか「森の里」に止まるようAを説得し、何とかAの心中を丸く収めた様だった。しかしなかなか何時もの癖でAは立ち直れず、今日はずっと二人で居たい、というような事を男に向けて仄めかし、次は職場の悪口ではなく、世間での出来事に矛先を変えて、又、悪口を言い続け始めたのである。男は仕方無くAと一緒に居る事に決め、丁度その次の日が遅番の日(仕事が昼の一時から始まる日)だった為もあり心に少々の余裕が在った為か、今夜は二人でホテルへ泊まろうとAに言った。Aは、まさかの事で大層喜び、途端に喜びの表情で以て男を迎え入れ、これから行く何時ものホテルを共有の目的とし、キャッキャッとはしゃぎ回った。男も、何時もはこのAの「キャッキャッ、はしゃぐ姿」を良く思わず、気怠さを感じる悪い遊戯程度にしか見れない処が在ったのだがこの日は覚悟を決めて気分が良く、このはしゃぎ回りも快く思え、一瞬二人だけの家庭の色濃さが増したかと思う程に有頂天と成り、矢張りAと同じ様に、二人の共有地としたホテルへ行く迄のこの瞬間を楽しむ事に、没頭出来たのである。これ迄、日帰りが常であり、泊まるという事は無かった二人であり、これはホテルに限らず、何処に行く際でも守られて来た一定のルールの様なものとして在った。それというのもこの男は過保護に育てられた一人息子であった為か、親元を離れて勝手に何処かへ泊まる、という事はそれ迄した事が無く、友人の家や、何処か遠地に旅行に行く時には必ず前以て電話をし、両親に知らせるといった行為が常であった。自分の性格とは、箱入り息子の様に可愛がって来た母親の習癖に依って作られたものではなかろうか、と男は密かに考えて居た。この日、男は初めて家へ態と連絡せずにAとホテルに泊まった。その夜の空には北斗七星が何時もより更に明るく輝いて居り、街行く人々も颯爽と歩く獅子の様に見え男は、このAの横顔が堪らなく愛惜しく思えて、その頬には、見ず知らずの夜景に見た艶やかな優しいゴールの様なものを見させる〝魔力〟を薄らと敷いて居た。

 ひっそりとした寂しさを残す都会の煌めきを映し出して居た地元の風景中を突き進んで行き、男はこのランデブーでまるで自分達の自宅へ帰るという風な錯覚を少々覚えつつ助手席に座ってキャピキャピ、あれやこれやして居るAの姿を妻の様に見、自分だけが知る穏やかなロマンスに見立てた中国の緑と茶がくれる安心を胸中に収めようとして居た。そこには東屋のテラスに備え付けられた白か茶の椅子とテーブルが在って、誰か自分の妻に成る恋人がジャスミンティでも入れて、のんびりと椅子に座って待って居る僕に持って来てくれる。その妻が自分のする事を終えて僕の隣へ腰を落ち着け、一緒に今日半日にでも在った出来事をゆっくり喋り合い今後の糧として行くのだ。男が慕情を想う時に良くする想像であり、これはこのAにだけでなく、これ迄、何人もの女と自分とのロマンスを仕立てる時に使った想像だった。男はこうしたロマンスの裏に隠された自前の秘密に就いてそれ迄何度かAに話したかも知れないが、想いが上手く伝わらなかったか、又、話をAの胸中へ設定する様に話し込んでも翌日にはリセットされてまるで無かった事の様にされて仕舞う情景を見たかして、男は余りこういう事をAには話さなく成って居た。だからこんな大舞台でも、例え秘め事を話して居たにせよ、糠喜びを招く様な失敗を避けようとして渾身の演技しなかったのである。何気なく話し始めるのがここで言う彼の渾身の演技だった。Aは相変わらずキャッキャッと一人はしゃぎ回り、しかしこの時ばかりは男にも嬉しい情景が見て取れて居た。

 ホテルへ着くと、外の寒風を滲ませた上着を両者共脱ぎ捨て、先ずは疲れた羽を休めようと茶を飲みながら束の間の談笑をした。男は何時もとは違うオンラインのTV番組を付けて、まるで家庭の内に居る様にAとのコミュニケーションを図ろうとして居た。Aは早速バスタブ迄行き、その日の化粧を落として夜の顔をメイクアップして居た様で、カタ、コト、と音をさせた後は、ジャーッと浴槽を程良く満たす音をさせた。この音が男に在るスイッチを入れたのか、男は段々と、否急に立ち上がる様にしてズボンのチャックを下し、もっと寛げるようにとそれ迄座って居たソファにごろんと寝転んだ。もうこれでほぼ、これ迄通りのホテルでの自分達用の家庭が出来上がって仕舞った訳である。男もAもそれ以上引き返せずに互いに密接し合って、鏡台の鏡を見るように互いの姿を見合っては居るが、心迄上手く見抜く事が出来ずに肉の海に敢え無く沈没して行った様だ。「これがきっとAの愛の形なんだ…」等と男はポツリ寂しく呟いた後、その寂しい汽笛の様なAの声を聞きながら夜のおつまみを出す。テーブルに並べられた二人への御馳走は乏しい品々にあたかも見えながらも、まるで食べ切れない品々の様で、男はAの髪を掴み、ベッドにそのまま押し倒した。Aは憤慨する程に悦び、二人の夜の幕開けと成るが、この日から男の心中では、この幕開けが萎む事は無く、夜に明るい満月でも咲いて居るのを見れば何時でもずっと、この時のAとの戯れが脳裏の内で葛藤しつつも始まって仕舞うのだ。恐らくこれをAは知らない。他人である故に…、とでも言って仕舞えばそれ迄の事だろうが或いは女ながらに、絶対に自然の内に設けられた手付かずのスイッチを見付ける事は出来ず、男のこうした心境・画策の元へ来る事は無かろう、と男は矢張り決断して居た。楽しい団欒が満月のその夜、此処でひっそりと咲いて居た。

 まるで暗いのだ。電源を落としたTV画面の様に暗く、Aの実態が、本性が、男には見えず、例え明るい部屋の中でそれを見たとしても自分の言動は自然の姿しか見定められずにAがそうした自分の在り方を全て跳ね返すものだから、Aは鏡の様な女だと、動く鏡の様な生き物だと、男は思い込む処が在った。自分が為した事の影響は全てそのまま自分に投げ返って来て、その影響の内にはAのオリジナリティも含まれては居るが、そのオリジナリティを手中に収めて居た為、男にはこのAを自分の分身の様に見て居たのである。分身が自分の内に潜んで居て時にあれやこれや言動を働いて、一種の麻薬組織へ自分が駆り立てられて行く様なそんな辛酸を味わわせる事も時として在る。気怠い予感を十二分に味わったとしても男はその娘が自分の分身である故その行為を止める事が出来ず遂に、とうとう、一蓮托生を想う破目と成る。明日が何処から来るのかが分からないで、又彼女が何処から来るのかも分からずに、又、それ故か自分の正体さえ掴めず、翻弄に浮き立たせられる自身の追憶は、きっと未だ彼女の胸の内にでも埋められて在るのだろうと、億尾にも出さない男の純心は密かに、キラリと笑って又彼を啄み始める。男は故にか、この時、二人ホテルに居ながら、冷たい外界(世間)というものと、自分達だけの庭(家庭)を味わい、それはそれで良し、とした。

 ホテルから出たのは、もう翌朝の十時を少し回った頃である。「昨夜はよく眠れたか?」とか「昨夜は楽しかったね」とか「久し振りに、いや初めて泊まったわ、女とホテルに、」等熟々と男は言いながら、Aの横に連れ添う形で屋内を歩き回ってホテルを出た。久し振りに、飢えて居た愛情、否、欲望を満たす事が出来、その為に燃える事も出来て、男は相応に満足して表情も心も丸く収まって居た。Aは相変わらずのキャピキャピ姿で、その昨夜は疲れて居たのか、初めてのその男とのお泊まりだった為に少々面食らって居たのか、恥ずかしそうにベッドに伏せて居た為男が宥め透かすと元気に成り、その翌朝を迎える事も出来、ご満悦の様子であった。その日も又、頑張って乗り切る事が出来そうに見えたが、何時も通りに男は又、自分の元を離れたAが直ぐ様、途端に目の色変えて又〝辞める〟等言いやしないかと、屈託の無い笑顔で見送ろうとするが、Aに就いて完全に安心はし切れないで居る。案の定、Aは男と別れる間際、寂しそうだった。極力明るく振舞って居る様に思われたが、寂しそうだった。

 男はこの日、ホテルを出てその足で職場へと向かった。両親へはこの朝に初めて連絡を入れ、友人の家に流れで泊まった事に成ったから昨夜は電話出来なかった、と言って誤魔化して居た。両親は、男がそのままその友人宅から職場へ向かって居るというのを聞いて少し安心した様で、余り文句を言わなかった。丁度、男とAがホテルで楽しんで居た頃、父親は男に二度電話を掛けて居たそうだが、それに対して男は又誤魔化して〝気付かなかった〟として事無きを得て居た。両親に片を付けた後で男は職場へ向かう途中、Aの存在に自分なりの意味を付け始めて居た。ホテルから出る間際のAの笑顔、ホテルからAを自宅迄送って行く途中で寄ったコンビニでのAの容姿、今空想の内で、妄想の内で、翻り翻りしながら、全てがこの男の理想像の為にその型を象って行く。男はこうしたモノクロをもう捨て切って仕舞いたい程に飽き飽きして居たが、つい、気まぐれにも、又変に本気を出す形でその「理想像」に縋り付く様に追って仕舞う。まるで、もう救いようの無い泥の河を泳ぐ鯉を見ながらその命が続かぬ事を認めつつ矢張り心配する、そんな人の心を持った気がした。Aは常に自分の目前に佇んじゃ居るが植物程の素直さも無い、そんな余韻がしっかり男の心と脳裏には刻み込まれて居た用だった。これ等も又、仕方の無い事だと諦めて居たのだ。

 詰り視覚という植物の成長のように素直に男を成長させる本能に依ってAを捉える事で、Aに魅力を感じ、まるで青春を謳歌する様に男は感じて居る。Aと、街行くそこいらの女との比較をし始めた。もうこの時には男にとってその心身共に視覚で捉えるものとして存在して居り、決して感覚に依って捉えるものでは無く、その世界に於いてAに就いての評価基準は単純なものと成った。あの野山だって、TVに映るパフォーマンスにしたって、皆視覚という触覚に依り脳裏へと吸収するのだから、と一つ人間の感化に就いて錯覚を憶える形で自身を捉え、Aを唯傍観して居た。その激しい体躯、靴の匂い、吹き掛けて来る吐息の可愛らしさ、自然に生きて素直で、自分に対する嘘一つ無い様に見える姿勢の正しさ、全てが男の理想の鐘を一つ鳴らせるものであって、これを「理想の女性」とする事に何も躊躇する事無く、億面にも照れさえ感じずに居られるもう一人の自分を、この時男は感じて居た。「お前は可愛い奴っちゃなァ」等と男が言えば、Aは何時もそれに対し笑ってばかりいる。暴力に依る体裁が効いて居るのか、と男は当初感じて居たのだが、どうもそれも違うらしく、これが男と弱い女との正しい付き合い方だと、〝清廉潔白〟に身を呈する如くに男には思えて居たのであり、それ故に男はこのAを離したがらず、常に、身の回りに佇んで居る女の威力よりもAのその威力の方を過大評価する節が在った。Aはその事に甘んじてか、又自然にか、男の許容の懐に飛び込む様にして産声を上げ、まるで初めて生れた赤ちゃんの様な表情を、男がその「理想」を欲する都度に見せて来て、俗に言う〝男を虜にする女の機敏〟にその身を埋没させて居たのかも知れず、男はこれに気付かない。分かって居ながらにその毒牙の様な〝永遠の鎖〟に巻かれる事を予測するのだ。無冠の感情を欲しがり、女をその眼の内側で抱いて、現実での関係等如何とでも成れ、とでも言う様にして身の下の御座をまくり上げ、その下に生れて来るであろう金銀財宝の在り処を手当たり次第探し歩く、といった様な、矢継ぎ早の切れ味をその女の身に感じ、肌に感じ、終には陽が傾くのをぼうっと見送って居る。そうして居る自分に気付いて、又吐息をふっと吹き掛けて来る〝閏年生れの女〟の在り処を執拗に探し出し、能無きエリートの様に一つの問題を解決して仕舞って居る様だ。もう完全にこのAの魅力にやられて仕舞って居る、そう感じた男は今日もAに会うのを楽しみにして居た。

 そんなAにやや〝浮気の念〟が又、新芽が湧き出でるかの様に持ち上がり、心行く迄男を悩ます一つの種と成った。男はこのAの〝浮気履歴〟を見る事をもうせず、そのAが手にして居る携帯の蓋を閉じて、そっと床に置いて居た。誰が如何見ても〝浮気の現場〟等皆目見当が付かぬ程押さえられぬものであって、このAにしても、その女の一つの技として在る能力(スキル)は非常に研ぎ澄まされ洗練されたものとして在って、もう男が把握し、止められる程の現実では無く、やがてはこう成るだろうとした事は、この男の悶絶の内に以前から密かに在った訳である。もう既に解って居た事が此処へ来て現実に起こされた、それだけのものであり、唯切り捨てられたのは男の方であった。これ迄の、半ば暴力で立ち上げて行った二人の痕跡が示す「自由の砦」は男から女の側へとバトンタッチする様にして、その立場を逆転させて居たのである。

 或る冬の夜の事である。男は何時も通りにAをAの自宅迄送り届け、Aに何時もの様に別れ際のキスを強請った。本当は一刻も早く帰りたがって居た彼女だったが、男の執拗な頼み事に自然と荷の重さを感じたのか仕方無く、「ハイ、ハイ、チュッ」と辛うじてキスと分かる位のキスを男にした。男は自分の唇に妙に冷たく乗って居る女の唾液を感じながら「生唾」を舐めて居る様な気がして気分が悪く成り、Aが消えてから、車の灰皿にAの唾液を全て吐き出す様にぺっ、ぺっ、と何度か温もりを吐き捨てた。Aに見られてないのを良い事に実は、こういう事をこの男はこれ迄何度もして来て居り、Aとの甘い接吻を一度も素直に美味しい物とは受け取れないで、余分な物、として居た。この時Aは既に他の男とのメール交換からデート、性交までをし終えて居り、男が幾分もう追跡して来ないのを知るとそれを良い事にして、随分男の遥か前方を歩く様に男を率先し、自分の人生を歩み始めて居たのである。影響されると直ぐに図に乗る形でその姿が自分でも見えなく成る程に突っ走って行く彼女である、一度その興味が他の男に移れば、もう暴力に訴えられなく成ったこの男を見捨てるのは早かったのかも知れず、男から目を逸らすのが早かった。冬の寒風が余計に男の肌を冷たいものにし、その感情までも冷え切った。もうこの男に、このAの飼育、養育、美しさを賄う事は出来ずに何も信じられなく成って仕舞い、本当に、唯一緒に居るだけの体裁を繕う事しか出来なく成って仕舞って居り、そのAの影に、違った別の暴力の陰を見て仕舞い、Aの肌に指一本触れるのさえこの時は恐れ始めて居た小男が、この男の脳裏に芽生え始めて居た。

 それからというもの、Aの過激な行動は、男の目に鮮やかに目まぐるしく花咲かす事と成って行き、男は何時も、そのAの行動を逃げる様にして抑え(収め)始めようと試み始めたものである。〝長く付き合えば付き合う程に女は二人の関係に於いて知らず内に深く根を張って行き、気付いた時にはその女の生やした雑草でさえも上手く引っこ抜く事は出来なく成るのか〟、そんな事を男は、何処かで聞いた風な内容であるに拘わらず思う様に成って、一人腹立たしさを隠し切れずに居た。その憤悶が時にAに移る事が在り、Aはその都度良い顔をせずに又コンパクトでも取り出して、別の男の為にして居るのか、厚化粧を始めるのである。もう、この時等は、男にはさっぱりAの心境が分からず、二人で作って来た温もりは遠退いて仕舞って、何を食っても不味く、Aの全てが恐怖に見えて居た。そう簡単に性格は直らぬものであり、Aの行動はこれ迄通りに現実との斡旋を図るのが難しいものとして男には映り、それでも男はそこから逃げられないで居た。このAの痴態は現実に於いて、永遠に自分との距離を縮めない障害として在るのか、そんな事をAの行動を目前にして想うに連れ、男は段々と、現実的に又物事を考え始めた。その荒れ暮れたAの行動は、こうした冷め切った二人の仲から影響されたものであったが、Aから又男に電話が掛かり、「森の里」を辞める事にした、と言う一報が入った。これ迄永遠に治って来なかった障害の成せる業がそうさせたんだろうから今更直らんわな、そんな事を思いつつ、男は既に渋々その事を承諾して居た。Aは晴れてその「森の里」を辞め、もう既に決めて居た「ひまわり」という、次は在宅支援介護を担う職場に就いた。その施設は小さい事務所だけのものだったが、二人の自宅から京都市内へ向けて大きく離れた所に在り、これ迄して来た様なAの送迎がもう出来ない事を意味した。少なくとも男にとってはそうだった。もう、スタミナも切れて居た訳である。だから男はプライベートに於いて余裕が在る時に新たに心構えをして、その「ひまわり」に二、三度だけAの送迎をした事が在り、それ切りだった。男は此処へAが移り変わる時、もう前の時みたいな願掛けはせず、唯流れて行く一日一日に全てを任せる形でAを見送る事しかしなかった。しかしこの職場が、Aとこの男とを別れさせる決定的な要因を持って居たのである。

 Aはこの男と付き合い始めてから何人かと浮気して居り、この内にはこの男より若い男も混じって居た。しかしこのAの浮気癖を助長させたのはこの男の故意から成る言動も在った様である。男はAと寝る時、頻りに〝浮気しろ、浮気しろ〟と願って居り、自分を裏切るAの美しさに自分が蹂躙される様な興奮を憶え、「お前を今一杯の高校生が犯してるで、」と言ってAを煽り、Aはその際「…、ああ、…私のセクフレに成って下さい…」と空想の高校男児に願った事が在った。この時でも、危なっかしいこのAの性癖に耐えられず、男は自宅へ戻った後何度も何度もその際のAの悍ましい程の痴態を思い出して射精した事が在った。男は〝足りない女〟の誘惑に就いて長年研究して来た博士の様な視座を持ち、その逞しい体躯に圧倒されて居る自分を見下しながら、Aの凄まじい程の生命力に着目し、自己を呪ったのである。如何してもAに勝てなかった自分が尚恨めしく思え、見果てぬ夢も満更捨てたものじゃないと、脱いだジーパンをひっぺ反し、裏腹に履いて又Aの元へと行きたいとする自我の感情の揺れ動きに唯翻弄される形と成った。この波を立たせて居るのはAだ、そう思った彼はAへの欲情から来る思いを一層強め、何としても此処でAを捨てては成らず、捨てれば、捨てる振りをして居る自分がこれ迄に免じて捨てられる、等と猛烈な思想の交差が荒波を渡り切り、又何処か異国の地から大きな船に乗って帰って来るAと誰か見知らぬ剛力がそこに居座って居るのが見えて来る。これはこの男にとってこの時の「生き地獄」に近いものだった。確かにもう何処へ行っても「Aの像」しか思い浮かばないで、大切なモンシロチョウはその鱗粉を陽光を反射させ煌めかせたままで、又、何処か異国の地へと移り住んで行く様にこの男からは見えて居た。生温い「生き地獄」であった。

 Aがその新しい職場「ひまわり」へ移って働き始めてから二カ月が過ぎた頃、男は残業で帰りが遅く成り、デートの約束をその日にして居た事もあってAに、「ごめん、今日ちょっと遅くなる、何とか早目に片付いたらいつものコンビニ行くし。」とメールを送り、「…今日はもう遅いから今度会おう パパァ」とAから返信された事が在った。この「パパァ」はこの時には既に男を宥める為の決まり文句の様に成って居り、男はこう連続して打たれる事さえ疎ましく思って居たが、問題は、最近どうもAが以前迄の様に自分に余り会いたがらない様子が在る事だった。以前迄ならば例え三十分でも十五分でも、夜遅く成ろうと(晩の十一時でも)必ず「会いに来てくれ」といったメールを投げて寄越して来たのに最近のAの様子は如何した事か、一向に誘いに乗って来ない。そればかりか二、三日会わないでも平気といった風に「会おう」としない素振りが頻回に表れ始めた。「もう今日は遅いから」や「今日はパパァも疲れてるから ゆっくりして」や、「今日も仕事おそくなる」、「今日も仕事」、「今日も残業」、「仕事」……、と「仕事」を口実にし始めて一週間会わないでも全く平気といったAの別の強靭が見え始めたのだ。これに男は焦り始めて、これ迄以上に、頻回にAに男はメールする様に成り、あれ程(性格から)嫌って居た電話をAに掛けたりして、Aの調子を窺う様に成って行った。Aはこうした男を少々鬱陶しく思い始めた様子が無かった訳では無いが、それでもこれ迄の付き合いに免じる形で相応に男に相対し、電話を切って居た。こんな事が何日も続いた後、男はほとほと疲れ果てて、Aにその辺りの実情を聞き出そうと試みたのである。詰問に近かった。或いは〝浮気の有無〟の問い質しである。浮気して居ない事を念じながら男はAに相応の優しさと荒々しさとを以て時間を掛けて問い質して見たが、Aは始め一向に口を割ろうとはせず、唯、男が怒る事を、男の暴力を恐れて居た様子で、しかしそれは決してこの男の暴力がその時自分が好きな相手に降り掛かるのを恐れた為、等という配慮からの様子では無く、その場での自己防衛を期した自己本位からのものであり、男は故に頻りに「怒らないから…」という言葉を会話の内で付け加えて居た。母が以前に自分に言って居た事が、この男は身に染みてこの時に解って居た様子が在った。

 仕事が休みでその日家でゴロゴロして居た男は、何時もの様に、Aの調子、状態、を確認するべく、その日もメールの回数が少なかった事も在り、夜十時頃にAにメールした後で電話した。メールでは、「今日も仕事か?」と男が問うと、「うん 仕事。パパァ」、「エ?仕事早目に終わらせて帰ってほしいの?」というAの何時もとは一寸違った妙な展開で男を納得させないものが在り、故に居ても立っても居られなく成って男は〝興味本位〟という建前を採ってそれをその時の心構えにし、Aに恐る恐る電話を掛けたのだった。

 Aが電話に出るとその後からは人だかりが放つ騒音の様なものが聞えた。「パァパァ~~~」と何時もの裏声でAは男に話し掛けて来る「今、竹田と居んねんけどぉ―」とAが言い、男の体はさめざめと熱を帯び始め、全身的に虚脱感を覚えさせられたものだったが、それでも、Aの目前という事もあり、もう一度自分の立って居る今の土台を踏み固めてしっかりと立とうとした。この竹田というのはあの、例の専門学校のAと同期の卒業生であり、以前からちょくちょく、面白可笑しくAからその噂を聞かされて知った、この男よりも背の高い男である。その男と今Aが一緒に居るという事が、専門学校当時に覚えた苦く吐き気を催す程の記憶を又この男に思い出させて、「またあの専門学校か…」といった様な苦悶の真相がこの男の前に明らかにされた様で、男は実にこの男に憎しみを覚えて、この男をAに纏い付くハイエナ男の様に思い、殺したくも成った。Aはいけしゃあしゃあと何の責任も無いかの様に振舞って居り、或いは覚悟を決めたのか、又、この強い竹田の力を借りて男を打倒しようとした為か、精神的ダメージといったものを全く受けて居ない様子で、自分はこんなに苦しんで居るのに、と男は気が気で無く、Aに一刻も早くそこから逃げ帰るように命じようとして居た。が、Aは「あ、竹田が話したいって言ってるから代わるわ、ハイ」と言って、男の言い分を逃げる様にして聞かないまま、電話を竹田に渡して仕舞った。

(竹田)「もしもし、あ―もしもしぃ」

 結構大きな声で、堂々としたものだった。男が何か言おうとした所、それを遮る形をとって、

(竹田)「自分、きっついのんとつき合ってんなァ~~~(笑)!今、こいつ(A)下から俺のかお見て笑ってるわ(笑)」

 と、あるまじき大声を奏でながら男に罵倒染みた小言を直球で投げ掛けて来、男の憤悶に油を注ぎ、しかし男の焦燥のボルテージが俄かに極限に達しようとして居た事を、この時の竹田は知らなかった。昨日迄の仕事疲れとプライベートでの懊悩染みたやり取りに嫌気が差して居たこの男は、遂に何のアプローチも待たずに、キレた。

(男)「あんなァ!俺かて疲れとんねん、オイ!(云々)、もうAに早よ帰れ言うといてくれ。あ、それから、Aとは一線引いて付き合ってやってくれるか、そいつまだ子供やから(お前が何か妙なことすればそれに乗じて見境無くなって何するかわからん)」

 といった様な事を竹田に言い付け、その後竹田は、「ハイ…ハイ…」と男の言う事を真面に聞く様に成り、Aに又電話を返した後で「シバくぞこいつ!」と独り奮闘して居た様だった。電話を返されたAは事の成り行きを知らない為に何時もの調子を続けて居り、キャッキャッとはしゃいで居る。しかしこの時の一連が、男とAとを最後の破局へ向かわせた起点と成って行った。

 この日の電話を境としてその後男は、Aと付き合う際に必ず竹田からの影響力を覚え、常に二人を相手にする事と成った。悴んだ手をポケットに入れても温もり切らない、そんな一日、一日、が続いて、男は決定的に心身共、惨って仕舞ったのである。男は休みの日には家で良くTVゲームをして居たが、それさえ手に付かない様に成り、〝自分の世界〟というものが今どんな形を以てして在るのか掴めないで居た。〝あんな事が在ったのだ、仕方が無い〟として気を鎮めようと試みるが、これ迄にAと二人で築き上げて来たリズムの様なものがメタメタに崩れ、「自由の砦」等はもうとっくの昔にすっかり壊れて仕舞って居て、腹の底から〝自分は見捨てられた〟と、ムカムカ休まらない焦燥感の様なものが絶えず彼を苦しめた。又、Aが如何にか周囲の者皆から、何等かの原因に依って愛想を尽かされて、別の職場へ移り変わる事を期待し、Aにそうした思惑を以て働き掛けた事も在った。又Aの職場に直接電話をして〝真剣に結婚を考えてるんでAを辞めさせて下さい〟と尤もらしい理屈を並べて直訴した事も在った。直ぐ様却下されたがその時、その職場での例の竹田の評判はどんなものか?とそこの女性の施設長に尋ね、何気ない詳細を聞き出して居た。竹田は何時もあの通り(電話で男が受けた印象通り)の乱暴者で、周りが何を言っても聞かないから放って置いて居る、でも仕事は出来るからそうした姿勢も含めて全て彼に任せて居る、そんな風にこの男には取れた。〝やっぱり竹田とはそういう奴か…!〟、男はこの様ながさつで乱暴な男を何の叱咤もせず放任させて居るその職場全体に怒りが沸き起こったが現実に対して何も出来ず、自分は唯Aとの仲を修復して行く事しか術が無い、と半ば諦め掛けて居た時、又Aから苦痛を強いられた。

 久し振りに男がAと会えたのは、冬の寒い夜遅くであり、時間の余裕からもう何処へも行く事も叶わず、唯会って話すだけに終わるものだった。Aが誰かと浮気して居り、そのAの心がもう確実に自分からその別の男の方へ向けられて居た事を半ば確信して居た男は始め、その浮気相手をあの竹田だと決め付けて居た。その晩男はAに、「他に誰か好きな人出来たんやろ?最近なんかおかしく成って来たもんな…」と告げるとAは、「最近の私の様子?…」と切り出し始めて、これはでも正義が在る行いだとでもした様子で、強い〝芯〟の様なものをその一言一言に入れるようにAは、ポツリポツリ告白し始めた。

(A)「同じ職場に、蟹江さんって人が居ってなぁ、…その人、仕事でめっちゃ失敗しはって施設長とかからめっちゃ怒られててなァ…、私それ見ながら可哀相になって何とか力に成ってあげたいと思って、いろいろ相談に乗ってあげててん。でなんか、その人、あ、蟹江さんやけど、ウチ好きになって、あ、蟹江さんもウチの事好きになって…。」

 ここ迄聞いて男は虚を突かれた形と成って「エ?蟹江さん、ていう人なん?」と二度か三度Aに質問して居た。暫くAの同じ様な告白を聞いた後で男は、「竹田君じゃないんか?」と又、二度か三度Aに問い質し、内心ホッとして居た。しかし自分達が別れる事に成るのには変りが無く、矢張り今此処にこうしてAと二人で居る事がやり切れない光景・情景に思い始めて、Aと自分との破滅への進行に対して何の抗う術も持てずに居た。もうAから離れる振りをする自分を、Aは追って来なかった。完全に他人の物に成ったんだ、と男は半ば自嘲気味に笑って居た。

 これ迄の「自由の砦」を一緒に築き上げて来た相棒が欠けて仕舞う事、妄想の内で同棲して居た花嫁を失う事が漸く現実のものとして見え始めて、男は何とかその場では冷静を保つ事が出来て居たが、残り火の様な苦しみはその後形を変えてから永遠に続く事に成った。あの、竹田との電話を終えて後に自宅のトイレで本当に血反吐を吐いた日から、何処かでこの男は英雄を装う事で生き抜く為の糧を得て居た。これは、Aと付き合う以前からこの男が良くして居た落胆時の保身の術である。この時の告白を聞かされる迄にAから何度も竹田の噂を男は聞いて居り、Aはやや竹田を弁護する形で男に食って掛かった事が在り、男はその度にこの「保身の術」を踏襲して居たのだ。だからAから態と離れる振りをするのも、こうして恋人の浮気の告白を聞く事も、自分を英雄に仕立て上げた上での振舞いが成す処であって、男にはこうした自分達を客観的に覗いて居た節が在り、Aからのものではない別の何かから来た影響力の成すものであった。男はこの「別の何か」に就いて深く探求しようとはせず、又そのテリトリーに在るこの「何か」を自分の強みに変えて、破局が決まったあの日からAと対峙するようにして居た。

 俺にも悪い所がこれ迄に沢山在った、男はその後でそう自分に言い聞かせるように成って行った。Aと二度目の交際から暫くして男は、専門学校時、通って居た実習先に居た冨瀬佳奈美という少し変った名前の女と浮気して居た事が在り、この事実をAには黙って居たのだ。この佳奈美という女は器量こそそれ程良くは無いが、当時のこの男の〝若さ〟に惹かれて滅法参って仕舞って居たらしく、この男に非常に甘えて居た。そこに目を付けたこの男は器量等見ないで彼女の身体だけに望みを託し、何度かデートを重ねる様に成った。しかしこの佳奈美の女の理性に依って男は性交迄はして居らず、又互いに恋人が在った為、自然に自分達の古巣へ帰って行ったという次第だった。そう、沢山男は自分に言い聞かせて来たが、それでも自分は佳奈美と「理性を以て性交迄はしなかったんだ」という事実を確固たる盾にする様にしてAを責め、自分がして居る〝損〟をどうしてくれるのだ!?とでも言った風に如何仕様も無い懊悩を隠し切れないで居た。佳奈美と居た頃の自分を取り巻いて居た風景には新緑の様な瑞々しい陽光と川のせせらぎが光って居るが、今此処でAと居る泥の河の様な湿地帯には、陽光さえ届かないで、全ての優しさが沈み果てて仕舞う程の寒風が吹いて居た。

 男はAの純心から成る変身を見た、としてAの浮気を、否、もう浮気では無く成った恋そのものを許した。この公認と成った時点からこれ迄にAがして来たと言う浮気の実証が次々と、ポロポロと溢れ出して来て、もう男は半ば笑いながら聞いてやって居た。あの日、男と寝た日に男が囁いた〝セックスフレンド用高校男児〟に魅せられて、Aは直ぐ様その二、三日後に、兼ねてから付き合いの在った自分より若い男に連絡をし、その後から男に隠れて何度もデートして居たと言う。「性交をした」という言葉さえ出て来なかったが最早男にはその様なヒントは如何でも良く、Aがそれなりの事をして来て居る事は明らかなものとして捉える事が出来、既にこれを今後の自分の興奮材料として受け止める覚悟は出来て居た。又、テレクラへ電話を掛けた事も何度も在ったと言い、相応の付き合いをそこで知り合った男達として来たと言う。男は、「きっとあの竹田とも自分がAとして来た様な相応の付き合いをして来たんだろう」と感じて居て、これを最も刺激の在る興奮材料として居た。男なら誰にでもこんな〝マゾ精神〟が在るのでは、とこの時純粋に疑う事が出来た。男にはあの竹田とAとの一件が在って以来、Aに徹底的に足蹴にして欲しいという思いが在り、その虐待現場にあの竹田が踏ん反り返って居れば尚更〝鬼に金棒〟という展開が湧き上がる、と迄思って居り、ずっとその妄想に耽りながら自慰行為をして居たのである。その行為が始まったのは「一件」の火の粉が程良く消え始めた頃からであって、何か、肩の荷が下りたのを感じた事が契機に成って居た。故に男はあの「一件」以来、竹田との衝突を恐れて逃げる様にAの前でも自室に於いても振舞って来て居り、特にAの前では「竹田君」と態と他人行儀を装って、自分と竹田との関係を希薄なものとして見せる努力をし、なるべくAに竹田の話題を持ち掛けて来ないよう暗にお願いをして居た節がこの男には在ったのである。Aは〝ナオミ〟(狡猾な女の意)には成れないが、その〝足りない能力が成す従順〟で、間接的にこの男の内部を破壊して行ける強靭性、凶暴性を秘めて居り、その在り方とは男性にとって都合が良いものとして在る為、永続出来る〝興奮材料〟を男に崇めさせる力を有して居り、その通りに男はこのAの膝元に伏し続けて居るのである。

 或る程度の経験をして後この男は、Aに「怒らないから」と言いつつ、浮気の真相を具体的に詳しく聞き出そうとして行った。その姿はまるでノートとペンを持って、Aの一言一言を書き写して行く様な様であった。Aはまるで〝時代遅れ〟の者の様に未だ恥ずかしがって居りなかなか男が知りたいとする〝危ない橋〟を渡そうとはせず、その姿はまるでゆっくりじっくり、その持ち前の欠けた能力で、男を誑かして居る様にも男からは見えるものであった。故に男は余計に苛立って早く真相を聞き出したいとし、Aの髪やスカートを引っ張る様にしてあれやこれや材料を求めて居たが、男のこのマゾ気質に依って告白出来たのはこの時迄、あの夜の「告白」の一度切りだった。仕方無く男は白紙のノートを自宅へ持ち帰り自慰作業時の当てにするが矢張り足りない為、自分の妄想に依ってAを自由に動かし、これ迄に撮ったAの写真を片手に持ちながら、自分の満足の行く様に進めて行った。

Aは或る日から、男にはぱったり寄り付かなく成り、男は悶々と毎日を過ごしながら、Aの活発と純心と、豊満な肉体と痴態だけを追う様に成って行った。Aが自分の懐から飛び立った今頃、何処で誰と何をして居るか、そればかりを考える日々が長く続き、お役御免と成った我が身を憐れんだ後でその〝我が身〟を裁判に掛けるかの様にして自虐精神を奏でて行くのである。ずっとそんな毎日を送って居たが流石に心身が保たぬとして心のバランスを図ると共に、何故に俺にはあんな何かしら障害を持った奴ばかりが集まって来るんだ!?等と怒り、Aをより自分の脳裏から引き剥がして性への屈服を忘れようとした事も在った。事実この男はかの専門学校時に、Aとは別の知的障害を持った吉原たまみという女に出会って居り、その女も又この男に惚れて居た様子で、身の上相談と呈した手紙を何通もこの女から男は貰って居たのだ。しかし吉原たまみはAと比べて器量が悪く、異常に短身であり、その容姿は内実共に悉くこの男の理想からは外れて居た為、恋愛に迄は発展せず、卒業する迄に自然消滅の形で関係は終わって居た。又、この男は幼少の頃よりプロテスタント系のキリスト教会に通って居り、そこでも何等かの発達障害を患った様な者達を見て来て居り、その者達はちらほらと、この男の持ち前の腰の弱さ、又おぼこさに引かれる為か、この男の周りへ集まって来て、男は仕方無くこうした者達と暫く相応の関係を持ったりして居た。こうした経験が祟ってか功を奏してか、男は身体障害者達との交際に対して率先して身を乗り出す術を何処かで心得、もしかするとその培った性質が又物を言う形で、老人達にも率先して付き合って行けるように成ったのではないか、と半ば天性の性質としてこの性質を受け止めて居た感がこの男には在り、又この性質を或る時には武器ともして来て居たのだ。慣れ過ぎた為に油断したのか、男はAに対してだけはそう思うようにして居た。

 Aと綺麗すっぱり、完全に別れて以来、男にとって毎日は地味で苦しいものと変わり、殊に職場では、これ迄のAと共に得て居たと信じて来たエネルギーの消失に依り新たなエネルギー(活気)を構築せねば成らなくなって、一時は夢遊病者の様に成った。Aという存在にどれだけ自分がしがみ付き、苦悩を苦悩ともせず、様々なメカニズムを秘めた自然の成り行きというものに対抗して来れたのか、という思惑に自ず注目する事と成り、Aに代わる「女神」を探したのである。しかし〝呼ぶ時に猫と女は来ないもの〟という教訓めいた箴言が此処でも男の脳裏に立ち上がり、男はやがてマルセリーノの様に、〝架空の恋人〟を自分の女神として名を呼び、片言ながらに自身を底から潤してくれる存在を日々の中で構築して行く事にした。その「女神」の細胞にはこれ迄に自分が見て来た全ての理想の分身が内在されて居り、もしかすると実物として存在するかも知れない、男はそう考えて居た。男は霊的な存在を欲して居たのである。その「女神」とは、あのAの内に見た従順な「女神」を想わせるものであり、この男だけを見守り、この現実に於いてこの現実に於ける「破局」から自分を再生してくれる者であった。男はその様な〝再生〟という自分だけの密室で構築して居る秘め事を為しながらも、Aと何度か会って居た。Aが「ひまわり」で付き合って居た蟹江は東京の実家へ戻ったとかで、Aは一人残される身の上と成って居た。しかしAの腹には蟹江のものと思われる子が居た。Aが男にそう言った。Aはその後、蟹江との子を産み、名をひまわりと名付けた。この辺り迄をAが臆面も無くこの男に話せる様になった頃、Aとこの男は又密かに会って居た。男にとってAはもう肉欲の対象でしかなくなって居り、会う際に多少気が咎めはしたが肉欲に勝てず、何時も会う迄が早かった。Aは以前からこの男に「子供が欲しい」と何度も言って来て居た為、この蟹江との子も、恐らくそうしたAの垂直な欲望から出来たものだろう、と男は又密かに決めて居た。こうした中で男とAが会う目的とは結果として性交が主であり、男には他の目的が見当たらなく成って居た。別の男に向かって、垂直な欲望を以て走って行ったAに対して男は、ずっと良心の呵責に苛まれながらも、今度はこのAから他人と成る為の引導を渡されるのを待つように成って行った。消化試合が象る過程の内で生きて居るこの男にとって、こうしたAとの付き合いだけが満足が行くものと成って仕舞って居たのである。Aが別の男の子を産んだ事が、Aの別の男に向けた愛の確定だと男は受け止めた上で、このAの内に自分の「再生」を図る事が出来なかったのであろう、男にはこうして出会うAが別の沢山の魅力を秘めて居るパンドラの匣にすら見え始めて居た訳である。又男は、こうしてAが自分に〝ストレス発散〟だとして身体を売る行為そのものに就いては、Aなりの自分へ示した別れの餞別の様にも捉えて居た。

 それから男とAは五年間連絡を取り合わずに居り、男は携帯電話の番号はそのままでメールアドレスだけを変えて居たが、或る日、Aから電話が掛かって、男は延々とAと話した。男の欲望の火は消えて居らず直ぐ様Aと会う約束をし、それから一週間後にAと会った。Aは電話では暫く「会う事」を渋って居たが、実際に会うと直ぐ様男に寄り付いて、男が又誘ってくれるのを待って居る様子であった。五年後に会ったAは、出産太りも祟ってか、予め男に話して居た通りに二十キロ程肥えて居り、完全な〝おばちゃん〟と称される位の肉体を誇って居た。その為、その顔も二重顎で頬はパンパンに膨らみ、男が昔可愛がって居たあの頃のAとは似ても似つかない、といった程の容姿をして居る。「あっちゃ~~…」等と車内で呟きながら男は又、それでも身の欲するままにAを乗せてドライブをして廻り、最終的には矢張りホテルへ直行した。Aは矢張り蟹江に去られた後にアダルトビデオを撮る為の企画に参加した様で、男女含めた複数人で信州に在る何処かの温泉宿へ行って居り、その時の話を、男の催促も手伝って、手短にだが話して居た。相手の男が自分の口内で五分で果てた事等を恥ずかしそうにしながら嬉々と話す処は矢張り以前と変わらず、男はその事を先ず自分の新たな刺激物として自分のポケットに入れて居た。そして男が何よりもこの時のAに魅力を感じて居たのは、出産太りの上で肥えに肥えてより豊満を呈して居たその太腿であり、セルライトがはっきりと幾つも浮き出たその両腿を丹念に隈なく齧って居た。その肉を喰いたいと迄感じて居た男は以前通りに、跨ぎ易く成ったままのAの内へと入る敷居を跨いで、自分の携帯の写メール機能が悪く成って居たのでAのスマートフォンの機能を借り、又Aの痴態を写してメールで自分の携帯へと送信してくれるようにAに頼み、その様にした。子供を産んで世間での物の見方でも変ったのかAは、ずっと他人顔で笑って居る様に男からは見えて居た。

 そうしたAとのほとぼりが冷めた後の「出会い」はその後も二、三度続いたが、或る時、Aが「自分の新しい恋人をお父さんが殴って追い返してん」と言った内容のメールを送って来たのに対し、一寸ばかり流行を気取って「(父親が殴った事に対して)ワロタW」と男が返信した所、Aからの連絡はその後ぱったりと無く成った。その何日か後に男がもう一度寄りを戻そうとしてメールを送ったが、矢張りAからの連絡は無かった。仕方無く男は又英雄気取りに成り、今度はAを思い出にしようと試み始めた。結局男は、一度もそのAが産んだという子供の姿を見て居ない。


~妻君(さいくん)の譲渡~

 都会から離れ得た喧騒蟠る凝(こご)りの一つ所で未(ま)だ日を熱して間も無い爽快な田舎者達が如何してこうして、小言を吐きつつ何処(どこ)かで〝力祭(ちからまつ)り〟の渡来を聴きつつ眠筵(ねむしろ)に咲いた小さき薔薇の花束を抱えて俺の来るのを待って居た。何か未(ま)だ煙そうな眼(め)をして両脚(あし)をして、心中見舞(しんちゅうみま)いでも兆して澄ませる努力をずっと講じる頑なな意識が遠退きつつも朝日の照る頃、硝子の透明色の向こうでは、ちょこちょこと駆け寄る慰めの坊が俺の身辺(あたり)を彷徨うようで、俺の独創(こごと)と連呼は意味も成さず儘にて司業(しぎょう)へ阿り、踝まで履いた華(あせ)の温度を水色に換えつつとぼりぽたり、雫が華(あせ)に化(か)わるまで一連(ドラマ)の行方を探り出すのを当面の目標としたまま何故か男よりも女の匂いが充満する箱庭(はこ)の内へと腰を座らす。居座った俺の巡業とも成る無教の対面とは又他(ひと)を傍目に孤高の一角を気取って毒する眼(まなこ)を他事(たじ)に宛がい、土工の従者達を体好く真似て行くほど力強い両脚(あし)を以て音頭を操(と)りつつ、他所(ほか)へも行けない魅惑に咲いた正規の一路(ルート)を程好く講じて唯未熟の春の生気を装い身に付く温味(ぬくみ)を捨て行き俺を固めた。固まった我が狭筵の群象(ぐんしょう)とは又、〝寝筵(ねむしろ)〟に満ち得た終業まで着く作法の術等を粗方知り得た職人の知恵の様(よう)に寝袋を深く被(かぶ)り、自体が寝て居り寒暖知らぬ傍(そば)から温床と知り行く間も無く屈曲され得る正義の個装(こそう)を如何でも不断(ふんだん)に捕えて吐息を発して、兼ねてより寸断され得た他(ひと)の接点とも言われる協妥(きょうだ)の支配に行く行く阿る自身を見据らえ暫し当面に咲く巡行の季節(たましい)に切り枠を付け、独創(こごと)を唱(しょう)する我が両腕(かいな)の固定は露さえ拭えぬ魅力に呈し得ていた。初春に嘯く駿馬の栗色が女性(おんな)の気(け)の色を真赤(まあか)に化(か)え、妖しい魅力は肌色(ベージュ)の真打とも成る故郷の姿勢(すがた)を大腿(だいたい)に染め行き見果てる我が闘争を吝欲(りんよく)に与えた。表情を見合わす俺の二面は一つを正気に、一方を狂気に捉えて己(おの)が独走(はし)りに渡る懸橋の如く湧き出た泉上の土台(はし)は準じて丈夫を載せて、女性(おんな)の気(け)成る精巧の華奢(あるじ)は未工(みこう)に終え得た苦労の一端を両脚に揃え、段階(ステップ)を踏んで成器(せいき)と成り行く恭順の在り処に一向謀る微笑の体(てい)には俊敏重ねた猛火を見せて、女の気(け)とは怪(け)とも成り入(い)り、俺への従順の最(さい)足る教示は、遍く一粒に溜めた雨の如くにはらはら濡れ得る試行を知り行き最果てを得て、屠腹(とふく)を望んだ女性(おんな)の没我は狂喜を発して音頭を操(と)った。俺の鼓動を進める喪服の厚味は行く行く浅瀬に掲げた小舟を模しつつ正犯(せいはん)束ねる視界を譲(じょう)して気性を滑らす口上の怪言(けげん)等には凡介(ぼんかい)を成し得た常軌(ドグマ)を発した。

 戻るべき帰路(みち)を、辿るべき遍路(みち)を、力ずくでも暗(やみ)の内より引き出して光沢の冴える阿武隈の岸まで辿り泳いだ私闘を組んだ屈界(くっかい)の程度は力を抜いて、明日(あす)をさえ冴え抜こうとし行く正当のシグマをこの実(み)に携え、やがて雲行き宜しく青春の目方(サイン)が激しく脈打つまるで音叉の様(よう)な俺への微動が元働いて居た職場の内よりとぼりとぼり抜け落ち聞えた。職場は未(いま)より暖かく俺の飼葉を見守り、自活に訴え行く徒党がシグナル立てる一寸の分断を見逃さずに蛻の様(よう)した位(くらい)を妬んで、俺の両眼(りょうめ)・両脚を何処(どこ)へ運ぶという振りをしながら魅惑の果て行く試練に臨み得た。そこで俺の肢体はゆっくり飼葉に寝かされながらも孤独を呈する一介の空胴(がらん)を擦り抜けて太陽の降(ふ)り行く広廊(ひろいろうか)へ抜け落ち神秘の渡来を期し、何処(どこ)へ行くのも他(ひと)の体温(ぬくみ)より抜け出る優しさの器量を少々都合好く変えて仕舞って明日(あす)を牛耳る人体(むくろ)を鑑み始めた。到底他(ひと)の体温(ぬくみ)に自我(おのれ)の協妥(きょうだ)を欲する理屈の無い程度(ほど)毎日苦痛を覚えた協調に彷徨う気儘は俺の思考に圧政するが、されど白紙に準(なぞら)う孤高の定めとは又、人間(ひと)の傘下に様見(ようみ)て擁見(ようみ)て、始終を付き添う頭(かしら)を知れば、徒党は途端に雨降らし程度(ほど)に銀色(ぎんしょく)に輝(ひか)る陽光を映して明日(あす)が来るのを晴らして待ち行く。この様相を象る一個の生態(いっていのせい)に自己(おのれ)の不憫を人間ながらに省みつつも今日の頭はお前であるか、女であるのか、果て先生きれば自分と成るのか、被(かぶ)った日陰を物ともせずまま動じず屈曲に分岐(わか)れた枝線(しせん)を見遣ると、そこには咲いて奇麗な拳(かたくな)の華唯一輪、置き忘れられた体(てい)にてきちんと生きた。独創(こごと)を連呼して行く自我(おのれ)の無我の幾路(いくろ)を小禽の嘴(つめ)の如く抜き足差し行き痺れを保(も)つのはとてもではない俺の憂慮を優に超え行き、しどろもどろの悶絶(こっけい)の仕様にほんのり形成(かたち)を象(たど)って吟唱(ぎんしょう)成るまま自然は揺らいだ。

 元職場には、中田(年齢としは俺より一つから二つ下で横長にふとく、両脚は丈夫に牛歩を呈し、俺の目前まえなど殺風の如く抜き進んでその場を仕切る度量を持つ)、吉井(銀色の前腕を併せ持って俺の先には寸とも居らず、掛け合い頼めば寸ともとも幾様にもせず唯闊歩し行く軒並みは始動に揺らす、慌しく無礼な女)、清田(都会の脚色を省みず、一方で徒党を組むのは女性おんなながらの慣例にて如何とも進み、帳の降りない至極の肥土(かて)をその大腿へ肉付けながらに男性おとこの疲労を精神へと来すそのおんなは一向に解け行き見せないオルガを数匹両の腿内に飼って居り、明日あしたを知らせぬ憤怒の化身はやがて地に着く養豚を魅せ、仕方が無く行進すすみ行く淡い美麗は幼体みじゅく同士に嗾ける両刃の分銅を想わす)、秋井(骨身をきしらす下肢ふもとの裾から秋の風流けはいが情を乱す頃、俺から見知らぬ茶髪の剛士ごうしを運好く確かめ手頃に採った一介のばあを想わす容姿しせいを牛耳り、又何処どこへ行くのもひとの援助の至来しらいを受け行く渡航の成就は緩慢で、至極解け入る協妥きょうだ土台ふもとは折好く重ねられ得た凄惨な一連ドラマを飛散させるがその実土台ふもとに似て又強直で、片手にられる如意宝珠にょいほうじゅの異彩がくうを切り断ち俺を捨て遣り、魅惑に夢想ゆめ見る天下を講じた)、浅井(懐内に変な異質を取り込み黒色に歌う微かな美声にて明日を唄うが、所構わず停滞する為後あとに閊えた者がつい見境無くしていざこざ起し、それでも空虚ドグマ自分おのれに在ると頻りに言い切る絵空の坊は今年で俺より十若い)、又、綾採(あやと)りの糸の切れた連続写真の体(てい)にて職場内の人間(ひと)の活気(おんど)は微動を続けたようで、此処に居る筈の無い小学校時の俺の旧友が虫の報せか服装借りて要所へ佇み、生粋向くまま私情を腫らした嗣業を携え俺の寂寥(こどく)を慰謝しに来て居た。山井(仮面を外して凡性ぼんしょう現し〝使徒〟を呈する孤独の内から仄かに色めき立った独我を催し、毒薔薇が口許で似合って照輝てかる次の瞬間ときには手足は伸ばされ地のふちへ落ち、人間ひとの定めと果てをおしえた〝列聖〟を興じる即応のあるじはポンテオ・ピラトのように屈曲を逃れて家系を外され、やがてに行く鼓動のうねり人間ひと所有ものと成り行きその身は枯れ行き果実はれ行き、渡航を介せぬ俺の苦悩の程度ほど一瞬救済ひかりを当てる如くに軟様なんようの個体を揺る揺る揺らして所々に吹き込む涼風には火矢を当て、俺の親友かたみと成り行き落着している。一介の男士だんしである)、又、神尾、庄司、キリストの教会にて見知り、喧嘩し直れた有志の人姿(すがた)がそこでのさばり、朽ち果て行く私闘の矢先にも又一つ、ほのかな温みが灯(あ)った。後退りする以前に吉凶成る生前の空白に地団駄踏みつつ背後(うしろ)へ流行(なが)れ行く自由の肢体(からくり)には自然と暴利を貪る暗雲成る蜘蛛の巣の様に構えた故郷が沈んで、清廉琥珀成る友情の習例(しゅうれい)に未知を与えた儘にて突拍子に懸橋(はし)渡しにし行く朦朧の商人(あきんど)にはつい動源(こどう)も論理も見付けられずに、足蹴にされ得た殉教成る親族達の御前(まえ)にて下野を試みた惰性の時人(ときびと)が古豪を勇んで逆手に取りつつ、哀れな思想に体好く重ねた嗣業の到来成るまま今世(このよ)の最果て目指した野草の群れとは又生粋の落着を落胆の内にて認めて、俺の巡行とは今人を謀る事も見抜く事も据え行く事も相成らないまま白色に魅入られ行った思想を呑んだ。そうして絆され行かれた孤島の思想から又四肢が好く生え成長して行き、塗工に佇む一介の剣士の如きに両脚(はね)を萎えられ、行く行く連れて四旬へ赴き、底儚く咲き得た思想の強盛(みやこ)等は追随され行く儘にて死相を扮して過勢(かせい)に還り、殉教する士(し)の如くに術無く散り行く気儘(オルガ)を見果て行った。紫蘇の生え行く故郷の土地にてその昔、蟹の食い過ぎにて中毒を起(きた)した者が在ったそうだがその薬用を借りて凡天(ぼんてん)の下(もと)、窮境に飛び散る霧散の姿勢(すがた)を我が身に見果てた一介の騎士は駄馬から下りて美草(びそう)と称する草(それ)を採り、あわよくば精神(こころ)に住み行く悪漢の肢体へ塗り込めようと処方を誤り、盛況極めて活衰(かっすい)させ行く筈の固陋の骸を逆行(ぎゃく)に澄まして立たせ、未開の信心の程度(ほど)には屈曲され行く従来(けいけん)が途方を連れ行き頑固(かたくな)に成り行く冒険を知り得た為に渡海し果て行く海鳥(カモメ)の姿勢(すがた)を隈なく捜した既開(きかい)の遊地(ゆうち)に根深く尻を座らせ、途方に暮れ得た朝日の煩悩とは又、俺に尻込みさせ行く活気を扮した。

 一度離れた職場へ舞い戻って来た俺の照準とは又、奇怪な程度(ほど)に爽快させ得る試練を省み唐突に棄て得た活性の四旬(オルガ)をこの片手(て)に持たせ行き、司業(しぎょう)に介する間も無く打ち解け入(い)った仲間の巡業までもを私中(しちゅう)に捉え更紗を投げ遣り、純情振(ぶ)った孤独な死相が土量(どりょう)を超え行く底冷(そこざ)めの暴徒を圧制(あっせい)して行き、行くは雪解けの間近へ至る時期(ころ)まで、運勢潜めた苦業(くぎょう)の荒行(こうこう)をひたすら大事と包(くる)んで自身(おのれ)を抑(よく)し、自我(おのれ)を掲げて、誰もに見え行く至高の試算(さん)に度胸の咲き得た行程の狭筵(さむしろ)を奇麗に敷きつつ招待し得る産業の行程には又、渡航に果て行く己の思春の低来(ていらい)を密かに妬んだ本性(きっすい)を憶えていたのだ。奇妙に居心地よく鳴く硝子に包(くる)まれ入(い)った人人の活声(こえ)達は又皆、何処(どこ)へ行くのか知り得ぬこの地での展開に加減を知らさぬ自然(あるじ)の低来(ていらい)を密かに感じ得、墓標を突かれて、焦燥足るまま両脚(あし)の気儘に躯(からだ)を避けつつ堂々巡りをその地で成したが、何時しか知れた洩れ得た情報(けいけん)の多量がほとほと各自の歩の進路に影響して行き痙攣(ふるえ)を起させ、誤った帰路(みち)へと外した打算に失墜して行く香味(こうみ)を憶えて病苦を消し得た。一向に好く成らない達磨の赤身を自身に据え置き、黴臭い動道(ろうか)を一新に歩き出す各自の群れは何時しか映えた自らの意志を体好く採りつつ幸運を避け得た空慮(くうりょ)に戻って、嗣業に出会って無造(むぞう)を象り、算段採り得ぬ闇雲の開地へその躯(み)を落した。そうして見た夢。一度離れた躰が自身(おれ)に帰着したのはそう旧い事ではないまま既に見知らぬ無改(むかい)の試算に生きる術まで値踏まれ得た時期(ころ)、まるで死線を潜(くぐ)った偉人の体(てい)して照輝(てか)り映えた思春の体(からだ)は折好く独創(こごと)を連呼させ行く司春(ししゅん)の欲望を身近に掻き立て失墜せぬまま道上に土台を敷いて、俺の根城はそこから程好く離れた京都(きょうど)に見合った新築の古都を〝ふるさと〟と呼ばせてこの実(み)を裂けた。裂けた白身に一点ずつの赤点が自然に湧き行く無数の斑点と化(か)わってその無数(かず)を以て人体(からだ)を構築(つく)り、自然に宛がわれ得た生粋のドラマは全てこの職場(なか)で折好く正義と悪義を兼ねて成されて行くと人道を外した化身に誘われ寝袋を持ち、闇に塗れた烏(けもの)の群れ等(ら)と共に仕業に介する途絽(とじ)に就いた。悪戦苦闘を越え重ねた有限の鼓動は微動と成り行き、失敗続きに灯篭も持ち得ぬ魅惑の旋律(しらべ)に恐水(きょうすい)する言葉も掛けずに怒涛に濡れ込み、古豪を主(あるじ)と呼び得た俺の視界は目下死に行く体動(うごき)に合せて魅力を語り、死力を尽くし、輪曲(りんきょく)に掴み終えた人間(ひと)の関係(かなめ)を摘まむ指先(ゆび)には既に赤身に耐え得る孤独が在った。抜きん出た級長(マスター)を象る人局(じんきょく)の襲来から又独固(オリジナル)の数多を公開して行く未走(みそう)に乗じて途方を片付け、俺の身辺(ちまた)は幾度と知り得ず無頼に徹する悪魔を飼った。唯、周囲(まわり)に集う人相(にんそう)達と上手くやって行けるか、溶け込め得るか否かを気にしていたが、介護士特有の場所を占め行く我先の怒調(どちょう)が経過(とき)を奏して耽溺を知り、魅惑を自身に飼った幾人かの友人達には暗(やみ)相応の気質を点しつつ無我を呈した俺の卜体(ぼくたい)には早朝(あさ)一点の明るみさえも当らずにあった。唯、初めて相手の表情(かお)見てその相手(もの)の出方を知ろうとして行く躍動の強靭(つよ)さが矢張り先立ち泡立ち行って、濡れ動く華(あせ)の肢体を耄碌しつつも靭(しな)やかに動き取り、未知の果(さき)にも相応の華(はな)が在るのを小じんまりした胸中(むね)へ飛ぶ早々が在る。事の運びは次第次第に時間(とき)を化(か)え行き始めに報せた気楽の姿勢を俺から奪って、人の世間(せかい)を地獄へ化(か)え行き、遠退く自身(あるじ)の足音は高く寝音(ねごと)の様(よう)に頼り無い代物(もの)と成り行かされる師弟を知らされ、その主(あるじ)と弟子との窮状(きゅうじょう)の最中(さなか)に流行(なが)れる模倣は、俺に知れずに目下活き行く他人に在った。寿退社を果して悠々暮れ泥(なず)んだ町の日暮れを人間(ひと)の盛況(さなか)に幾度も観て来て落ち着く我が身は到来し得ども職場(そこ)では元喧嘩別れした女(たにん)とも折好く出遭(であ)えて運相応の脚色に絆される身と成り、果てはあれより度を越えて嫌疑を構えるのではないか、等と道々辿った殺風の社(やしろ)で逡巡躊躇い様相は揺蕩(たゆた)く、努めて盛(あか)るく放(はな)った気勢の矢先(さき)には直ぐさま頭を抑える小路が構える。見え透いた虚動(うそ)の塊とは自然に凋落し果て行く空洞を構えて防御を象り、寝ずの番をその実(み)へ課した経緯(とき)の仕業は女(たにん)の強靭(つよ)さを程好く挙げて果(さき)を牛耳る問答と成り行き、俺はその女(たにん)に向かって言葉をよく吐き付け行って温味(ぬくみ)のある女性(おんな)の衝動(うごき)を隈なく呑み込み自我(おのれ)の性分の内にて吟味(か)もうとしたが、ふと表情(かお)を見下げると、その女(おんな)の姿は見る見る四体(したい)を変えて頭部を残して機械(にんぎょう)の様(よう)に成り、互いの内にて語り尽され得た吐露(ことば)の有数(かず)とは又嫌疑を尽かせず群力(ぐんりょく)の姿勢(すがた)と成り得て俺と遊んで、屈強を束ねた女(あるじ)の独創(オーラ)は限度を越え行き、その器量の内には古井を立たせる淡白(たんぱく)が在った。俺は以前にも増してその女性(おんな)の美装(びそう)に狼狽え抜いて気色を宥めて、到底起り得ないとした怒調(どちょう)の淡歩(たんぽ)を桎梏に噛ませて身重(みおも)としたまま有力を個(こ)に着せ、嘗て知り得た、組織が立たせた個人(ひと)の狭度(きょうど)を超え行く群れの発破を力任せに対せられる無心の気功(きこう)に屈さない儘そうして得出した有力(ちから)を介して自身(おのれ)を行進(すす)ませ対極を捉え、次こそ敗けない儘に俺の塒を職場(ここ)へ置き遣り、徒党を組ませた群衆(ぐんしゅう)の中火(なかび)を涼風に冷まして転身してやる…、等と馬酔木の実(み)を吸った悪魔の人姿(すがた)に俺は早々に成り行き規定(ドグマ)を滾(たぎ)らせ、オレンジに咲き得た仮面の紫蘇花を紫へと化(か)え位(くらい)を掲げて、魅惑を呈さぬ死臭が蠢く退屈の社(やしろ)で帰路(つうろ)を見定め労を費やし、塗工に込めた四旬の嫌いを茂(うっそう)に隠れた算段の内に投げ遣り動静(うごき)を鎮めた。惨く愛妻極まる四旬を呈し終え得た努めの行く先には、上玉と称され得た古井の肢体(からだ)を時折り慰め、扱き下ろし、寸劇に極まる私情の末路を又体好く併せて訓教(くんきょう)を呈し終えたがこの果(さき)、俺の躰(むくろ)は月から滑り落ち行く華(しずく)を省みつつも又若気に至った盛夏(せいか)の群局を捕え行き出し、孤高に見果てる限りを知った。

 いつの間にか日暮れて、又朝が来て昼となり、湧水が山の麓に咲き出す頃には職場にも春が訪れ、真綿に包(くる)まれたような〝友人ごっこ〟が芽を咲かせて到底戻り得ない〝春のお遊戯〟がその身を散歩させる事と相成った。幾許かの職務に対する初心を携え眼鏡を掛けながら空の青と人の表情(かお)を見、それでも痛快で止まない初春の訪れには透明色した自己の開花が鎌首を擡げて歩速(ほそく)を早め、浮足立たぬよう人間(ひと)の往来の真ん中をなるべく怯まず歩くように、と自分で自分に課した俺だった。その「初心」と「初春(はる)」が別の在処(ところ)から友人を運んで来たのか、そこに居る筈の無い虫の好い好敵(とも)を呼び付け俺に目立たせて、特に競争を煽るといった衒いも持たさず唯俺の背後(うしろ)へ付いて歩かせ、一度は飽きて止(や)めようともした独創の制覇に又魅力を講じて両翼(つばさ)を担え、如何とも言えぬ明日(あす)の我が身を我が道行くまま散路(さんろ)させ行きその道上にてまるで道標(どうひょう)の体(てい)に着けて賽(さい)を転がし一端(いっぱし)の体裁に繋がるように、と兆しを落して居た。そうして毎日を独歩(ある)いて行く俺の姿勢(すがた)をふと横目に見たのがその友人、神尾靖であって、彼の背丈は幾許か俺よりも伸びたように見受けられ、朝の陽光(ひかり)で俺の身辺(まわり)にもう一度の紅葉が咲く迄にはその友人を取って喰ってやろうとする気迫と偶然が俺の心中(うち)に無い訳ではなく、湧水が出て居た、何時(いつ)か俺が原付バイクに乗って一人で、或いは二、三人でツーリングをし尽した北の山の麓へ行き着き、又思考の喉を潤す算段をし始めたのは、俺の文学へ対する気勢の程度(ほど)がこれまでよりも成長し果て、その成長に於いて更なる向上を図ろうとして居た矢先の節である。白色がこれ程に充満し得た白日を夢游した事の無かった俺の両脚(からだ)は上肢を気遣う事無く北から突然に吹き遣って来る寒風が呈する頑なと優しさに足場(どだい)を奪(と)られて、今日と明日とを同じ体温(ぬくみ)を仰いで繋げ行ける新進の一足に身を乗じて時を進ませ、苺の咲いた奇麗な丘に、気勢を衒わず小言に潰えた我が源動(げんどう)は腰を下した。一生を孤独で過そうと決心(き)めて居た我が将来の暗游(あんゆう)は何時(いつ)ぞや見知った初春(はる)の訪れへとその身を寄せ付け高位(たかみ)へ行き着き、独創(こごと)を連呼して行く俺の身許を具に講じた後にて固陋に束ねた音頭を執った。俺は神尾靖の迅雷の降り立つ儘に泡(あぶく)吐きつつ、両脚(つばさ)を環境(まわり)の行方に絆され闊歩させ行った貴奴(きやつ)の心向(せい)に打たれて歩幅を縮め、独力(おのれ)の気分をまるで放心させ行き友情を束ね行く即席の勇気に全能預けて独力(おのれ)を傾倒(かたむけ)入(い)って、所構わずくしゃみして居た大昔(むかし)の大恩人に訳を話さず乱れ行き、明日(あす)を待たずに今日自分の迷宮を旅して見ようと、とにかく手を振る儘、両脚(あし)の向く儘歩調を調え、身の安全を心得た儘にて往来を闊歩(ある)いて行った。その身の安全の裾先にはまるで見果てぬ光が在って、その頭上(うえ)を見遣れば時を知らぬ陽(ひ)の淡射(ひかり)が真向きに差し込み、言わずと知れ得た初春(はる)の八光(おろち)が首を擡げて俺の躯(からだ)を抑え込むかの体(てい)にて牙欲(がよく)に徹して固唾を呑ませ、俺の振戦(ふるえ)は所嫌わず悪行(あく)へのシュールを覗いたように青く萎え行き、恰幅の好い孤高の天人(てんし)は遍く白雲(くも)を携え俺の元へと降(お)り行き賛美を唱え、俺の躰は程好く射光を吸収した次の天地へ駆けて行った。

 環境(あたり)が暗い、まるで大過去(むかし)に沢山観て来たような黒色のレトロの涼風(かぜ)が吹き止まずにそこへ居座り、俺の肢体(からだ)を真横へ流し行く荒唐を包(くる)み始めた青空の狭筵はその切っ先を違えて示す寝筵(ねむしろ)の在り処を体好く教えて俺へ諭し、俺は何処(どこ)でもこの暗雲の様(よう)に肢体を跨ぐ当面の漂いに唯頷き入(い)って友人(とも)を呼び付け、その友人(とも)とは又教会にて良く知ったあの有志こと谷田である。姑息に準じてこの長く広がる廊下の多岐を順折り歩調を脆弱(よわ)めて冷風冠する壁を仰ぎ見、その突き当りの壁にはもう一つ真横に何処(どこ)かへ通じる細道(ぬけみち)が在ったのだが俺と谷田はその突き当りにてふと只ならぬ暗空のような雰囲気(もの)を感じて双身(そうしん)を止めて、二人を射止めた程好く大きな壁をゆっくり見上げた。二人共棺のようで、四隅にくっきり縁が取られたしっかりと重たく掛かる菓子入りの画(え)を持ち運んで居り、用意の良い谷田は両の素手にしっかり覆う白色に冴えない軍手を被(かぶ)せて二隅を持ち行き息を切らさず、慌てず後塵(うしろ)へ付いた俺の素手には谷田がして居るような一見重くも感じられ得る白色の軍手は見えなかったが一粉程度の華奢な華(あせ)がその身を乗じて美しさを見せ俺を当惑(まよ)わせ、試験に合格し得た少年の夢の様(よう)に少々気劣りさせ行く渡航の正味を深く吟じ得ていた。その画(え)を収めた額の様子は少々何処かで年季を込められ得た金色を見せ行き俺を了(りょう)して、谷田は黙々と生来の苦労を両肩(かた)に担いで渡航(ある)いて行く程俺の魅惑を示さなかったが、しかしその表情(ようす)の内にはこの画(え)の賛美が分かる体(てい)にて大事に歩き、俺の表情(かお)は見ずまま後ろ向きにあの壁に向かって独歩(ある)いて行った。変らずあの細道(ぬけみち)からは冷たくも涼風が吹いて来る。俺達の周囲(まわり)を幾人かの、何処かへ献身して居る関係者を想わす行人達が往来していて、俺の谷田の行く先を先見に了して邪魔をせず、二人が行けば近くを通る者達は自然のように躯(からだ)をひらりと避けさせ空気と化して、皆は二人の後塵(あと)に配した。その暗が勝った二人を取り巻いている環境とはまるで何処(どこ)かの学校の内の様(よう)であり施設内の様子を見せて、長年培って来た人の〝往来文化〟と〝孤独の文化〟をいとも簡単に一室の内にて創り上げ得た手腕(ちから)を呈し、そうする暗空の内の夫々を程好く成長させて二人の目前(まえ)に呈し得たのは人に培う手垢の素(す)である。唯、谷田は背をその壁に向ける形と成って居た為、壁が呈した板の木目を見るのが遅かった。その枝とは、昔の子供が学級に操(と)られて造らされ得た無数の木目を嵌め込ませた枝状のようであって、確かに長年掛けられ続けた人の手垢が無数に広がる夫々の上にきちんと乗せられ、こびり付いてた様(さま)にて後(あと)へは退(ひ)かず、唯、荘厳とも程近い一端(いっぱし)の体裁を順折り数えて自体と成して、二人の眼(め)には付け所の無い完璧を程好く成し得て環境(あたり)の暗空(くうき)に成就している。まるで暗空(くうき)と平面を呈して同化しているその板状とは又、二人が運ぶこの額入りの画(え)よりも相当重芯に頑丈が立ち行き、持ち運ぼうにも重鎮が許さず取り外す事は二人に至難を呈され、もし長年の手垢(くんしょう)を維持して行くならその場での補修を試みなければ用を足さぬと、依怙地な迄の倦怠の表情(ようす)が板と人との内には在った。そうして按じて居る間(ま)に文字通りに夢の運行(はこび)は成り行き、俺達二人は、この画(え)を入用の場所へ運び終えたら次には、この板状の木目の緩みを直し、手垢を程好く落して、見た目の美麗を司るようにと仕事を課される労働(うち)へ入った。この壁掛けを如何にかこの場で補修するには、程好く頭上に掲げられ得たあの高位(たかさ)まで人の体を持って行かねば成らない様(よう)にて、特に谷田は自分に課された実務の成果を気にする坊にて、俺より二歩も三歩も前進して出て、梯子を持って来るか、丁度その壁の麓に据え付けられ得た出っ張りの土台を見付けた為そこへ乗って仕事を成すか、下らないが即益(そくえき)実る二択に迫られ二人は平和に佇んで居た。少し経過(とき)が逆行したのか、俺達二人が又額入りの画(え)を運んで居る最中(さなか)へと落ち着き、俺の表情(かお)には微笑が零れて、その微笑は、又この教会(ばしょ)に挑戦続きであった世間から、一歩出遅れる形を採って戻る事へのはにかみから得た産物(もの)だった。

「やっぱり還って来ちゃいましたぁー」

と半ば真顔を取り入れ体好く吐露(はな)った俺であったが、その吐いた言葉に内容(うち)は変らず小聡明(あざと)いものにて、聞いた谷田は「なんじゃそりゃ!(笑)」と取って付けた体(てい)にて言った後微笑を吸収始めて真顔へ戻り、「え、それで、今までどんな事してたん?」等と世間話に講じる児(じ)の如くに和(やわ)らを仕掛けて談(だん)を操(と)り行き、冷静成るまま俺と二人の会話に華を咲かせた。際限無く滞り始めた卑怯な空下の涼風(かぜ)に俺はこの身を当てつつ、何等かの益と成るよう暫し実を掴み取ること妄(みだ)りに欲して居ながら、到底検討の付かない谷田との問答に唯傾聴して居た。

 して居る内に、何処(どこ)からともなく又ふと現れた者が在って暖気(けはい)が俺の右肩を叩くからそっと背後(うしろ)を振り向いて見れば、そこには幼少時に見た懐疑の一体(すべて)を吸収して行く気色が在って、それがまるであの白雲から咲き落ち得た思春をも照らす実(み)と成り此処まで歩いた環境の始終を見渡す高台とも成り得たように俺の一体(からだ)を浮惑(ふわく)させ行き、一方に眼を遣って凝視したなら朧に形成(かたち)を講じる幼体が在った。その幼体とは又まるで何処(どこ)かで見知った喧騒を覚まさせ未聞(みぶん)に咲き得る誰かの分身(からだ)を存続する為、如何でも成長して行く抗体の様にも過程を留(とど)めて行って、折好く分身(からだ)が一個の人間(ひと)を見せると、その実(み)は滔々流れた小川のように四体(したい)を延ばして神尾と成った。「なぁんだ。」と頓狂顔して牧者を操(と)り行き、一端(いっぱし)の身と成り果てた一介の商人(あきんど)をこの身内に置いて主従を漏らせば、まるで労役より解放され得た黒人の泡(あぶく)が虚空(そら)を突くまま人間(ひと)の形成(かたち)を保(も)ちつつ魅惑の園まで阿り独歩(ある)いて、所々で用を足しつつ心を暗に伏せた徒党のようにも成り代わり行き、人間(ひと)の苦労は献身(みつぎ)を終えた如くに白紙に表れ、俺と神尾はまるで絵空を耳に聴くまま並べ終って都会を見知らぬ遊戯に溺れた。白銀の陽光が寸断せず内二人の遊戯は骸を着出して歩速を動かし、到底他人(ひと)では見積(さき)の付き得ぬしどろが呈され一に黙した主(あるじ)を定めて幼春(はる)を送り、実体(からだ)が意識に遠退きつつある孤島の遊戯は崩壊したまま目下凡庸に打ち咲かれ行った袈裟の白身に仰天しつつも言葉を忘れる幼児(こども)は闇を嫌って射光(ひかり)に独歩(ある)き、途方に暮れ得る嬉しい限りを俺に呈した。壁掛けを補修している間に神尾が廊下を歩いて二人の麓へ近付き、二人を乗せた台(うてな)の周辺(あたり)は目下主(あるじ)を失くした園地のように陽光小波(さざ)めく一海(うみ)と成り行き二人を擁して、俺の視線は虚空(そら)を見ながら廊下(ちじょう)に降(お)り行き、突拍子も無い彼の現れの機転に始転(してん)を認めて彼に寄り付き行って、彼の知らない場所(ところ)で聖職とも成る教会行事にこの身を熱くしたのを恥辱に感じながらも彼を持て成し、渡航に面した彼の躰は俺の刹那を温(ぬく)める為の体温(ぬくみ)を採らない児(じ)の遊戯(あそび)に阿り入(い)って俺の精神(こころ)は大層驚き転倒し掛けて苛つきながらも又彼の四体(したい)に声を掛け行き、以前の悪態吐き合う無効の血色に表情(かお)を染め合い何時(いつ)まで経っても止まない威勢に準じた。しかしそうした小競り合いさえ仔細を知り得ぬ児(こども)の表す遊戯の内にて解消して行く結託見せ得ぬ生粋の業であるのを後(あと)から知り行き俺の分身(からだ)は暗に解け入り、段々和(なご)んだ雰囲気(くうき)の傍(そば)では谷田の表情(かお)も一向化(か)わらず俺と彼との間を取り持つ寛容(やさし)い姿勢を折好く止(や)めずに大事にして居り、唯神尾の無欲の気遣いが活性され得て弁を立たせて、至純(しじゅん)に纏わるあらゆる便宜がきらきら輝(ひか)って俺も神尾も谷田までもを呑み込み得た異彩の空間(うち)には徒労を知らない交差が生じた。無論神尾に対した俺の表情(かお)には凡庸成るまま柔らが生じ、誰から見得ても体好く振舞う馳走を吐いたが。

 それから刹那(とき)の間隔とは一層密を講じて隙を与えず、俺の付け入る間もない程度に上手に埋れて行ったが記憶の内では収拾付かない環境(ほか)との成就を完遂しないで唯一介の暴徒と化し得たような風来の灯(ともしび)の歩先(ほさき)に一向点じる暖気(ぬくみ)が生じ、折好く喝采され得た俺への社(やしろ)を俺は孤独に受け取り又独歩(ある)いて行って、明るく拡がる初回の動静(うごき)に身を和らげながらに同化(と)けて行った。しゅんしゅんと行き交う職員達の動静(うごき)に歩調を併せて使命を憶えた肢体(からだ)の樞(なぞ)には以前(むかし)に見遣った胡散の醜態が又端身(かけら)を集めて一体と化すのを呆(ぼ)んやりしながら瞬間(とき)に見て居り、覗いた心境(うつわ)の内には今でも使える不断(ふんだん)の気色が息巻き主(あるじ)を求めて日常の動静(うごき)を見極め行くのを又背後へ交して矛盾を知って、漸く慣れ得た思考の個体は廊下を回(かい)した死角へ投げ遣り、阿り独歩(ある)いた教義(ドグマ)の肢体(したい)は、白髪を呈しながらも逡巡付き得ぬ未開の展開(うごき)へその身を準じた。環境(ばしょ)はもう旧くから俺の躍動(からだ)を献身させ得た施設一階のフロアであった。本当にあれから暫く、…二年の月日が凡庸(にちじょう)の内にて効(こう)を成さずに胡散に散って俺の限りを尽くして来たのに、此処へ戻れば又あの日に見た暖気(ぬくみ)の仄かを夫々端身(はしん)に与えて俺にとっては棲家と成り行き効を正して、要を成すまま俺の周囲(まわり)に霧散に数えた臭気の擬態(あそび)は一刻離れず俺に散して無常(むじょう)を取り去り、俺の眼(まなこ)は漸く眠らず躍動感じて活気を操(と)り行き、寝相の悪い人塊(たむろ)のように鷲鼻鳴らして闊歩(ある)いて行った。故に俺には、疎らに散(さん)した人体の気配が団気(だんき)を散らして独歩(ある)き行くのも絶景(けしき)に見えて、何をするにも有難情緒(ありがたじょうちょ)を起して行け得る狭筵(さむしろ)の小さな土台を要所で講じて眠りに就いても一向に丈夫を謳える一個の魅力を生じて危険を避けさせ、途中に出会った主(あるじ)の総体に眼(め)を馳せ行きつつ〝先輩!〟等とも朗(あか)るく言えて自身を講じ、逡巡躊躇う見習いの騎士へと自己を化(か)え行く事さえそれ程至難とせずまま試して行けた。しかしそれでも矢張り、あれ程開(あ)いた無為な空白をこの期に埋め得る迄には翅が足りずに未知(さき)に視点(め)を遣り、後悔しつつも試算の付き得ぬ貪欲な眼(まなこ)は自己(おのれ)を知り行き没我に準じて塗装を介し偏見(かため)に摘ままれた孤児の体(てい)して躍動を絞り主(あるじ)に寄り付き、撤回し得ない夢想の残苦(ざんく)に諸相(しょそう)を転じて肌身を忘れた。今でも朗(あか)るい初春(はる)に対面して行く暖気の転身に乗じ得た一介の固陋の試行であった。

 しかしそれでも俺の焦りは虚空へ返され宙(そら)を知り行き周囲(まわ)りに集った朗人(ろうにん)達には俺への刃(やいば)を向け行く程には疲れが無い儘、満ち満ち奮闘して行く暖気の明かりは一層激しく盛るばかりに目には優しく肌身を包(くる)み、俺の気色は白色(けしき)と同化して行き沈身(ちんしん)して行く。皆の躯(からだ)は宙(ちゅう)へ浮きつつ固体を呈さず、吐息も疎らで俺への一矢は空(くう)を切りつつ虚しく解(と)けて表情(かお)を示さず、固より俺を世話した中田などは特に以前と同じく同級の好(よしみ)を以て一様の配慮を俺に気遣い孤立を示さず、古井などは俺より三年遅れて入社して来た当時の血相以て弔う事無く気勢を控えて口実(くち)を慎み、俺の小言を一々聞いては首肯を重ねて躊躇わない程無欲に準ずる姿勢を灯した。又浅井は古井に比べて五年遅れて入社して来た未熟を呈すも取り上げられないPC(パソコン)へ向きつつ背後に知り得た俺の気配を大事に扱い余計を示さず、孤島を保った遅滞(スロウ)に準じて支点を湿らせ愚痴を溜め得る自戒の骸を運好く着て居り、中田、古井に同じく、未開を固めた性質(しつ)の仔細を気色に於いては示さなかった。俺はそれまで焦って居ながら蛇足を束ねて、ろくでもない講釈垂れて周囲(まわ)りを拝し首を窄めて縮んで居たが、こうも何かと誰かと結束した程度(ほど)軟体(からだ)を呈して俺に阿り、白色の様な自然に無欲を発して準じて来ればその裸体共を切る訳にも行かず唯辟易させられ、溜息吐くまま力んだ肢体(からだ)は俺を乗せつつ着地して行き、未だお宙(そら)へ浮(ふ)わ浮(ふ)わ漂う躯(からだ)は天空でも眺めるように両脚(あし)を曲げ行き立場を離れて、仕方の無いまま俺の思春は思想の無いまま使い古した廊下(しょくば)を果てを見ないで吐露(いき)を呈して右往左往に成就して居た。

 満足の遠い宇宙へ視線(め)を向ければそこに飽き性にも満たぬ小さな伽藍が在って、闊歩も牛歩も保てぬ抑揚利かせる烏有の体裁にはこの俺自体が一人淋しく善がって狂い付き、何度も遣って来る朝の陽(ひかり)に躰を撓らせながら又聡明とも知れ得ぬ矮小(ミクロ)の遊戯に云とも寸とも発し得ない独創(こごと)の寝室(ねむろ)達がその頭(かしら)を上げて到底適わぬ古巣の在り処を捜し始める。捜索隊を組み得た夢想の主(あるじ)の麓では折好く重ねられ得た夢想の主(あるじ)に従う司祭こと、〝寸での八頭(おろち)〟が何やら確信めいた独創(こごと)を奏でて俺の目前(まえ)へと進み出つつその小事(しょうじ)を束ね行く開口(くち)に重(おも)しを掲げて未熟に乗じ、俺の未熟と自分の未熟とを図(くら)べた後にて、何方(どちら)の行進が更なる朝食を吐きつつ未完(みかん)を呈し得るかを一人上手に講じて居ながら先に回した触手の様(よう)な単身の体裁(ぬくもり)を俺の歩先へ絡めて曖昧を写し、俺の眼(まなこ)は暗(やみ)に眩んだ。一人上手で遊戯の上手を上手く妬み終えた竜頭(りゅうとう)の体(てい)した活進(かっしん)の主(あるじ)はその内凡庸に咲き得た竜胆(しるべ)を点した魅惑を纏って俺に吸い付き、俺の身内(からだ)へ上手く潜り込める試算を計って窮境に見得る小金の輝彩(きさい)には又全身に拡がりつつある掻痒の一帯をたわらせながらに注意(おれ)を廃して、知らぬ間に又新たな活路を見付けたように邪気に満ちた夢想の主(あるじ)は八つの煩悩(しぜん)を把握しながら俺の脳裏へその体(み)を沈めた。有頂天だった。有頂を流行(なが)れの矢先へ見据えた俺には最早小手先で並べ得る日常の慣習(ドグマ)の技量(わざ)など稚拙に過ぎず、七つの罪に一つ自身(おのれ)を足し得た春雷から成る真綿の坊に鬼神を知り行き、脆弱(よわ)い格子の窓から虚空を見上げた少年にさえ泥の黄土が跳び付くものだ、と現実拝して讃えて見せた。臆病と称する一大罪が往来を飛び越え遣って来て、俺の背芯(せしん)へぱっと跳び付き主(あるじ)を失くして暴挙を図り、俺の身内(からだ)を乗っ取る迄には時間も掛らず暗算だけにて要を足せる、と顰め表情(がお)さえ揺らぎを見せつつ、俺の足場(さむしろ)迄には歩速を早めた前進(からだ)が在った。未完を兆した未熟を憶えて自分の仕事を図りながらも、つい又怠(だ)らけて仕舞える邪鬼(じゃく)の付き得た固体を揺らして闊歩を図れば、到底至難と思えた主(あるじ)の独創(こごと)を成立させ行く連動(ドラマ)の主役に成れどうでもあり、妙に脈打つ肢体を掲げて全身束ねて独歩に転じた俺の頭脳は魅惑の限りに他(ひと)から離れた一線(みち)を知り行き両脚(からだ)を鍛え、粗末ながらに苦業(くぎょう)に念じ始めた渡航の主(あるじ)に自分を付けよ、と主(あるじ)に対して、他(ひと)に対して、使命を成すまま奮起して居た。そうした一人に憶えた遊戯に興じて衝動して行き焦りを失くして軸足(こうりん)へ力を込めたが、次第々々暗雲漂うように俺の環境(まわり)は再度(ふたたび)煙(けむ)に巻かれて弱り出し、腰掛けに徹する〝魅惑の坊〟を称した俺の脳裏は現実(そと)を知らずに身内(うち)に展開して行く狭筵(あし)の動きに乗じて挑戦に興じ、止(とま)り果てない白い固体は朝を知らずに自身へ阿る独身(オーラ)を排して独創して行き、見習い紛いに新参の器へ何時(いつ)でも投身するよう身内(うち)へ聞かせた〝奈落の坊〟には未完に終着していた独我(どくが)の方錐を見る通りに四方へ散らして翳りを覚らせ、又この形成を二肢に作らせ、本格を束ね始めた仕事の主(あるじ)は独創(こごと)を造らせないよう連動(ドラマ)を実らせ、俺の肢体(からだ)を地面(ゆか)へ這わせた。俺にとっては倦怠極まる嫌な修期(しゅうき)が廻転(まわ)り始めて空想(おもい)を象る余力の無い程連続して来る場面の支柱は奮起を呈し、〝これも介護の職場特有の、何か自分が試されるような、矛盾に満ちた嫌な樞と緊張感とが交錯しながら織り成す空間(スペース)なのか…〟と徒然行くまま俺に掛かって独歩を遅らせ、そうする間に俺の矢先へふとその身を現し、淡白成るまま独歩を緩めず元気に居たのが清田であった。

 清田朝子はその時風邪でも拗らせたのか、顏を包(くる)む程に大きなマスクを付けてはコートを羽織って、道々歩いた端(はた)の明度(ひなた)へ〝こんこん〟しながら落して行った美声(こえ)と唾液は噴霧のように空に解け入り見得なくなって、高い熱でも紅潮させ行く美顔の肌には薄ら点った斑点が灯り、俺を惑わせ、それでも良く良く見入れば羽織ったコートは単に紺色に染め上げられた割烹の生地だと直ぐさま気付けて日常知り行き、退屈なるまま俺は朝子の背後(うしろ)に付いた。朝子は徒然なるまま無欲に乗じて居室へ入り、マスクを温(あたた)めながらも風を切る程手早に直した器々(きき)を揃えて着席して居て、今では懐かしい恐らくとろみの付いた茶を、ほぼ寝た切りの嚥下食しか食えない利用者の為に小刻みに分けてスプーンに盛り付け口へ運んで、可成りの余裕を経過(じかん)へ保(も)たせて食べさせて居た。俺はそうした明るみに引き出された朝子の姿勢(すがた)を大事に採って算段しながら好きで好きで如何し様も無くなり、行くは愛する程まで自己を朝子に含ませ同化させ行き、微塵の差異も許さぬ程度(ほど)に彼女の心中(こころ)を掴んで離さず、唯、両脚(あし)だけは欲直(すなお)な視(め)を持ち、楽しみながらに覗いて居たのだ。朝子の眠るような額の傍(そば)ではぱっと開(ひら)いた両眼(りょうめ)が囀り、生気を呟く口許なんかは俺の陽気を吸い込む程度に具に和らぎ小声を奏で、光沢牛耳る綽(しなや)かな腕(かいな)と胸元などは、女子(おなご)を匂わす褥の妖気に満ち満ちていて、男性(おれ)の孤独へ拍車を掛けては時を費やす。夢の内故俺の体(からだ)は素直に朝子へ近付け、床の光沢(すべり)は儘成らないまま世間が妬くほど無理を着熟(きこな)し、俺の無欲は朝子に寄って改革されて、朝子の首には俺の吐息が巻き付いていた。「これからも又、宜しくお願いします。」と小首を下げつつ俺の姿勢(かたち)がお願いすると朝子の模様は移ろうように初春(はる)に解け入り俺に現れ、今自身を取り巻く風邪の容態などを小言に交えて俺に自白し、全く脈絡の無い返弁(こたえ)を言うのに俺の方でもぎょっとさせられ、それでも要(かなめ)を射止める二人の間が活きて来るので俺の方では朝子を誘(いざな)う空白(ゆとり)が芽生えて朝子は跳び付き、二人は一緒にオルガを夢見た。次第々々彼女(あさこ)特有の擬態を呈するお道化の姿勢(すがた)で問答始めて、蟀谷に灯った女子(おなご)の気質は柔らを携え俺を注視して来て体を調え、色気を牛耳る地味な素直を露わに発した。煙(けむ)に射(さ)された情緒を俺は憶えて言葉少なに撓れ佇む脂肪の露わは女性(おんな)の微動を仔細に讃えて表情(かお)を表し、俺の右手が動くようにと即座に講じる撓(たわ)んだ女芯(こころ)は見るも無残に単色(ひとえ)に飛び散る孤踏(ことう)を踊って足踏み揃えて俺の目下(ふもと)へ軽微(けいび)に佇み、女芯(こころ)を凍らせ、俺の来るのを虚しく待つ程無力に徹する思春を興じた。時は緩やかに二人の周りをくるくる流行(なが)れて、時計を曇らす溜息などには男女が織り成す未完を興じて活気付けられ、如何(どう)でも不動の男女の仕切(かべ)には疎通を持たない自然の腕力(ちから)が余動(しどう)し始め、頻りに問い直され得る男女の哲学からは、何物にも無い熱い快楽試運(かいらくしうん)が体好く灯され下駄を履いて、目下流行(なが)れる経過の早さに矛盾を通した。唯セクシィな迄に魅力を供する朝子の機運は俺の心中(こころ)が何処(どこ)へ向けども儘一定の速度を保ち続けて途方を改竄(あわ)せて常時へ埋め込み、意識を丈夫に構築して行く益荒男女(ますら)の苦行を和(やわ)いでいった。そうした経過に躰を預けて意識を落した俺の内には、嘗て一緒に労(あそ)んだ内での二人で紡いだ徒労をも知る相思が頭を擡げて口調を走らせ、唯朝子の肉体(からだ)に欲情押し付け不発に終った俺の本意が体に似合わず私闘を拡げて、道々成長して行く〝堪らぬ思い〟に憑かれる程度に条理を撥ね付け理性を越え行き、朝子の肉支(からだ)を熟々(じゅくじゅく)成るまま壊して悦ぶ騎士の様(よう)にも俺は成り果て化(か)わり、溶けて無くなる朝子の存在(からだ)を更に蹂躙しながら本懐遂げ行く俺の条理へ朝子を座らせ、眠らせ行くのにそれ相応の準備が要るのは既知に把握(おさ)えた論理であった。故に、唯ひたすら四体(したい)を傾け、地味な言動(うごき)に歩調を鎮めて女性を湿らす朝子の労使に俺は傾き、死力を憶え、欲情尽きせぬ泡沫(うたかた)のシグマを抱き寄せながらも俺の本意は末期(まつご)に在って肉弾(あさこ)を射止めて、朝子の眠りに俺も這入って慰めたい、と本気で戯れ嘆く刹那に清田朝子を俺は欲した。焼噛やっか)み半分に女性(おんな)と戯れた俺の嗜好は何時(いつ)まで経っても未熟で弛(たゆ)まず、悪くも成らない駆動の懸橋を観てはこれ又何時(いつ)もの安心(こころ)の内まで満たされ得る等しどろもどろに考察し出して、これまで揺らいだ教訓(なみ)の高さに一目置きつつ踏襲はせず、所々に塗れた人体(おれ)の垢味(あかみ)は浮き彫り白(しら)いで、即席染みた失敗談とは又暗に冴え行きやって来る。中田が、

「あの蛇口のある台所の横に呑み掛けの缶珈琲置いたん誰?」

と口々に帆を立て立脚(あし)立て、真っ向から成る俺への指図を飛ばして叫んで来る為、此方もついつい身構え神秘に巻かれた不毛の至難に無口を装い、理由を言わない中田の表情(かお)には切羽詰まった寡黙の乱雑(あらし)が波打つ間(ま)に間(ま)に登場して居り、俺の還りを責め始めていた。俺のそうした未熟の端(はた)にて他人の不幸が散乱されつつ固められつつ孤高を発して置き引かれて在り塗工の終路(しゅうろ)は健啖(けんたん)足るまま過去から生れた微量の糧などさも得意げ成るまま喰い散らかし行き現行(とおり)に適って、白色に掛かる未完の悪行(どうさ)を絢爛成るまま仕留め置こうと画策した後(のち)慌てた流動(くうき)に仰け反り始めた。〝完遂するには他人(ひと)の協力(ちから)が是非とも要るものであり、都会の空気を固めた儘にて独房(いなか)の生気に乗じて成さねば、未遂に終った一連(ドラマ)の果てには立脚するにも四肢(からだ)が保(も)たぬ…〟と算段宜しく希望(ひかり)の背後に尾行して居り、自慢も出来ない姑息な体裁(からだ)がふと又現れ突拍子も無く無益な隔離を尽(つ)かせて仕舞えば地道に配慮が他人(ひと)に喰われる。O脚(オーきゃく)なれども美麗を気取って徘徊して居た俺の個体(こどく)は空虚に紛れて夢想を蔑み、現実成るまま言葉の乱雑(おおさ)に隠れて居ようと静かに動かず機転を観ていた。昼少し回った午後の事。又、〇〇君(〇〇には俺の名が入る)が此処へ来るまで空間など無く、乱雑静めて迷惑掛け得る輩は遠に辿って居なかったのだ、等と軽く微笑しながら中田も他人も口裏合せて呟いたのだがそれを聴いてた俺の右手はわなわな震えて独人(ひとり)を貴び、不断(ふんだん)成るまま泡(あぶく)を口端(くちは)へ溜め行き調子を上げて、「絶対俺じゃない。俺、今日ここでは珈琲一本も飲んでないもん、うん、呑んでないもん。」等と嘯く程度(ほど)にて仔細を見限り人情を捨て藪から棒に、白色に映る中田やその他(た)を敵へ廻して両脚(あし)を踏ん張り、〝絶対負けない、負けたら消される…〟など又物々吐きつつ苦悶を知って、滔々寝耳に水と他(ひと)が唄う程まで昇華を極めて俺への保身はきらきら輝(ひか)った。

 一人合点で居る者に、一人得意で居る者に、延いては一人芝居に於いて自画自賛する者に対して辛く酷く当たる世間(たにん)のような光る眼差しとは又そこでも現れ、俺の孤独を一層仄かに曇らし、見渡す限りの小火の灯(ひ)を、滔々流れる有頂の泥へと投げ遣り売って萎びた悶絶の嫉妬(ほのお)を炎下(えんか)に投げ入る如くに投身させ行く俺の鼓動は最早何も伝手無く独歩(ある)き始め、〝寝耳に水〟と同程度の雨模様に水笠を着た人間(ひと)の模様に塗り込むように押し入り頬張らせた後、とっぷり浸かった偏見(どろ)の内には既に濁った両の眼(め)が在る。俺は「俺、飲んでないもん」を十回言う際、動作の要所に現行(リアル)に重ねた私闘を携え周囲(みな)の眼(こころ)を上手く騙して逃げ果せて居り、空威張りを呈して信じる者にはつい好い表情(かお)しながら三つ指突いて品(ひん)を引きつつ、曇る者にはついついがみがみ呟く主人(あるじ)を演じて雰囲気(くうき)を暈し、曖昧成るまま「丁寧」を着た一介の囚人は微動に跳んだり跳ねたり死に物狂いを宙で操(と)りつつ、思考を興じた詩吟(おどり)を発する。信じて貰う為である。沈黙が続く中、又熱演が続く中、俺の照準は自ら手にした買い物袋に当てられ中身を察して片手で弄(まさぐ)り、弄り当てた固く冷たい物が以前に用意して居た缶珈琲だった事を再び改め認識させられ、確かにタブは起されないで呑み差しの物ではないけれども同種の物が此処に在るのを中田に知れたら流石に不味い、と跋の悪さに配慮して行き、俺の妄想(おもい)は知れず知れずに勝手に独走(はし)って周囲(みな)の知らない二重に囲いを建て得た無我の境地へひたすらしんどく邁進(すす)んで行った。しかも呑み差しに置かれた缶珈琲は何かに打(ぶ)つかり当てられ倒されたのか傍(そば)に座った利用者の顏か服に注ぎ掛ったようで、跋の悪さは俺の背後に神妙気取って暫く居座り、何処へも行かずの固陋の境地へ姿勢を変えずに唯立てられていた。

 そうして倒れた珈琲が具に汚した利用者の体裁を見守る為に訪れていた家族の者は、その利用者である藤内氏の長男であって独りで来て居たらしく、俺の眼(こころ)は具に見定め入(い)ったその二人に流れた絆の生血(いきち)に腰を下して唐突知らず、目下流行(なが)れる私闘の果てを今また死闘へ置き換えさせられ、不毛の戦場(しょくば)へ居座る自分の姿勢(すがた)を何処(どこ)かで見て居た記憶の在り処に盛況忘れて人煙(けむり)を挙げて、とぼとぼ独歩(ある)いた偏愛(オルガ)を観て居た。その長男はそこでは「家族さん」と始終呼ばれて満足して居り、そうした言葉はこの戦場(しょくば)の内では頻りに操(と)られて形容付けられ、果てる処は暴挙を知り得ぬ追憶の彼方へ消え得る途方の中途(うち)である。暫くしてから透った雰囲気(くうき)が微動した後(のち)人間(ひと)の熱気が架空へ投げられ、空虚と化し得た私闘の行方に一点確かな目処の付く頃俺の両脚(あし)には馬力を奏でる意気付き覇気付き独力(ちから)が付いて、中田と藤内氏との会話の最中(さなか)に一寸困った曇りを見付けてすすっと近付き私情を吐いて、中田の指差す作法の矢先に藤内氏の体(からだ)が未(ま)だ乗り切らぬのを知り、「あ、既に怒ってらっしゃる…」等と中田と藤内氏を飛び越え彼女の長男(むすこ)に聞えるように囁き掛けつつ場面を進展(すす)ませ、誰から何から見られた後(あと)でも既に構築し終えた試算の果てには孤高を知らない俺の根城が立派に建てられ出すのを俺は黙って見て居り邪魔立てさせずに、自然に寡黙に信じた人の輪を成す群象(むれ)の根城に俺を寝かせた後(あと)にて俺の独断(ちから)は徒党を組み得た無駄な努力を横目に独走(はし)って使命(いのち)を遂げた。俺の呟きを何かしながら横目に聴き得た氏の長男(むすこ)は「あ、ほんとだ」等と微量に笑って俺を抱きつつ俺に乗せられ、こういう戦場(ばしょ)では勢い付いて調子を切り廻す輩が一層際立ち崇拝される結果を保(も)つのだ、という事を抑揚付けて俺は表現(おし)えて長男(むすこ)は黙り、周囲(まわり)の奴らは徒党を立てつつ一瞬輝(ひか)った根城を目掛けて身を立て四肢(はね)を廻して跳び付いて行き、二人の周囲(まわり)は沈黙していた。

 そうした矢先に中田に向かっててくてく歩いた職員が居て気取って饒舌を操(と)り、所謂お客の苦情(クレーム)に就いて明らかにて伝えた後で又暫く居た後(あと)暗(やみ)の内へと去って行った。どうも大谷とかいう中田と俺の上司のようで大御所であり、又周囲(まわり)に集う主立つ職員皆にとっても同じく上司であった。中田は「あ、すんません、すんませんて謝っといて下さい」と軽く礼をし何時(いつ)ものように平(ひら)に謝り、角(かど)を丸めて気勢を正した。この遣り取りを傍目に聴いてた山井がまるで何処かで齧った青春幼戯(せいしゅんドラマ)を醸して怒調(どちょう)を発し、「何でこっちが謝らなあかんのんスか!?(悪いのは向こうでしょう!)」等と又々襟を正して憤慨しつつも良家の門から出て来た風采(からだ)で悪態吐いて私闘を勝ち取り、一連(ドラマ)の個性を渋々見抜いた中田の微動(いしき)は寡黙を先(せ)んじた孤島を一人上手に宙へ浮かせて、時刻を脈打つ時計の前にて両脚(あし)を立たせて背中を向けた。

 目覚めた俺の枕の傍(そば)では、朝子の写真が息を切らして体をくねらせ微動だにせぬ靄の掛かった意識の程度を俺に解かして白色に濁り、活気を憶えた二次の躰は俺を通して脈打つ人間(ひと)の体と成り行き言葉を憶え俺を先取り、俺の夢想(ゆめ)では失禁間近に体を具えた風来の灯(ともしび)を魅惑に供えて天へと下って、一介の掌(うち)には大成功を収めて在った。



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「A(エース)」 天川裕司 @tenkawayuji

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