~古木(こぎ)さん~(『夢時代』より)

天川裕司

~古木(こぎ)さん~(『夢時代』より)

~古木(こぎ)さん~

 軽やかな日で在り、晴れた日の事、その日は段々に暮れて何時も通りの身の流れに極めて短い生命を感じながらも、つい、過去の操練をして口から出る言葉の数々を果して行った。作家仲間のTがとことこ昼間に我が家を訪れて、一端の口を利く様に成ったがもう三年、我々はこの様な身の上で胡坐を掻いて寝そべって居た。如何し様も無くした或る日の事、〝猿(ましら)の文吉〟成らぬ早乙女問答(早乙女主水之介の苦悩)が何処から持ち出したのか旧い古典教材を身に付けて、再び白壁の我が家を訪れたのは何時も見て来た春がもう暮れようとして居た頃で在る。その男は〝入り〟は謙虚に振舞い恐らく奥様方にも好かれるのだろうが、次第に恰幅の良い商人の様に多弁と成り、寝袋をその時隣に居る者から分捕って居眠って仕舞うので在る。「呆れた奴だ」等とほざけば直ぐ様身の周りの状況を確認するかの様にして起き上がり、又湯煙の様に身を寝かせて、今度は本当に寝入って仕舞う。それから三十分程経てばもう何を言ってもしても一向に起きない土人の様に彼は成り果て、又遂に、我が元から去って行く身と成るので在る。こんな事の繰り返しを私はもう彼此三年は見た。その、見て来る内に或る知人の旧い知り合いが私の母の知り合いだったらしく、私は母を通じてその〝旧い知り合い〟と知り合いに成った。私は彼を知己と呼んで居り、名前は古木さんと言った。

 昼間に来て居た〝白木の源ちゃん〟(私と彼との間での通称)はやがて自分の家へと帰り、私はその日一日を唯優雅に暮らして見ようと一人乍に躍起に成った。ペットが一匹も居ない我が家は最早ペットとは呼べぬ水の中の生き物、でかく成り過ぎた金魚が三匹居るだけで、「水」という囲いの内に居て何かと私に見慣れぬ壁の様な物を見せ付けた。白壁伝いに拡がる老朽した我が家の壁は〝憂慮断行〟、決して住み易いものでは無かったのだが、これでも苦心して長年使って来た家具、佇まいだからと、私は唯父に気遣って、母が父のその背に付いて行く姿をずっと見続けて来た事から何も言い出せず、きっと他の友人宅もこんなもんだろう、等と一人決めて、道々御節介焼きを返上して行く訳で在る。TVを付けても街で本屋を見付けても一つとして見る物が無かったあの時代から早十五年が過ぎ、青春の扉は如何やら固く閉じられた様でも在る。その中で何とか〝生〟にしがみ付こうと躍起に成って居た間に五年…十年、と、自然が私の空けを変えたのだ。誰に遠慮する事も無く、唯自由に伸びやかに綺麗な装束を纏いなさい。そして驕る事久しからず、十把一絡げ、断行した白羽の様な苦労は必ずやお前の為に(糧に)成るものだから、と自然は矢張り又私に宣うので在る。この様な苦心は燦々足る日の出のアボジが弱々しく見えた頃に私の殻を破って出て来るもので在り、白紙に書き続ける晴天の熱意を以て仕上げた無道の快楽は、又、自ずと白い花を咲かせる。止めどなく流れ出る時間の再来にもう一度口付けしたい一瞬だった。

 水色から段々群青、青、紺、へと変って行く空の変化に伴って俺は何時しか屋外に出て居り、何とは無しに、もう一度夕焼けが見たいなんて思いながら、少し熱を帯びた黄昏の風を受けて居た。すると忙しそうに、少し小太りに成った母がエプロンと突っ掛けと、頭に三角巾を巻いた格好で、俺の為にと、袋から食み出す程の牛肉を買って来てくれて居た。〝今夜は焼き肉やで〟と笑顔で以て俺にそう言い、自分はその忙しい様子のままで家の門を空いた指で空けて入って行こうとして居た。俺はその晩に職場での会議が在り、出席する心算で居た。して居る内にどんどんと、とっぷり陽は暮れて、小じんまりとした荘厳を身に付けた赤茶の扉が俺の目前にびっしりと熱り立って居る様に見えた。「もうそろそろ出掛けなな」、俺がそう自分に言い聞かせようとする最中、母はそんな俺の姿を背後から見ながら少し気遣ってくれたらしい様子で、そんな俺の為に自分はこんなに肉を沢山買って来て力を付けさせようとしたんだ、とでも言うべく、ラップに綺麗に三枚の大皿を包んで冷蔵庫に仕舞おうとして居た。俺はそんな母の様子を見ながらつい悲しく成り、又単に腹が減って居た為、「先に三枚だけ喰いたい」と言い、その袋にも余る様に見えた焼き肉用の牛肉三枚を、母から貰って居た。自分で、まるでアメリカ映画等で良く出て来る大きい庭でバーベキューをして喰うみたいに俺は、その三枚を大事に、丁寧に、良く焼いて、焼き肉用の垂れを付けながら喰って居た。匂いの様な味はするが不思議とそれ以上の味がしなかった事を憶えて居る。少し思い出すと、焼き肉用の肉を買って来た母は昔良く使って居た色の剥げた青い自転車に乗って居り、確かに数え切れん位の肉をその自転車の前と後ろの籠に白い紙袋、ビニール袋に入れて詰め込んで居り、その背景に見たのは月夜の空だった。夕月で在る。

 私は大学の授業に行く様に、その晩在る職場の会議に行かねばと奮闘して居た様子で、肉を頬張りながら茶を一気に飲み干そうとしながらちらと時計を見ると、もう六時を過ぎて居り、七時から在る会議に見惚れて仕舞い、「アカン、やっぱりもう出とかなあかん」と渋々食べ掛けて居た肉後一枚を取り分け用の小皿に置いたまま、身支度をし始めて居た。

「あかん、もうこの時間やったら出とかなあかんねん…」

 俺は母にそう告げて、又、心中でも同じ事を何度も繰り返しつつ、それでも時計は確かに六時十九分を指して居り、行くしか無かった。家から職場迄の所要時間は何時も通りを思うと車で一時間は見て置かなくては成らず、私は又、大学へ通う頃の心構えを以て、職場への通勤に励もうと決めて居た。それなのに心中の妄想が見せたのか、焦燥が底を翻り翻り往来して居る温い心地良さの中俺は、家のドアを開けて外へ出たかと思うと又焼き肉コンロの前に座って居り、時折見せて来る、あの大庭園でのバーベキューの楽しさも相俟って、俺はその三カ所を行ったり来たりして居る。水を飲みたいとふと思い、台所は焼き肉用の他の野菜や肉切りの準備をして居た為使えず、次に洗面所へ行くと何時しか帰って来て居た父親が鏡を見てドライヤーを掛けて居り仕方なく、俺は又舞い戻って喉の渇きを覚えたままで焼き肉用コンロの前で新参者の様にちょこんと座って居る。母は台所で色々な作業をしながら体が丈夫に動いて居た頃と片麻痺だった頃の自分とを上手く使い分けて居り、何時も通りに未だ、俺に肉を焼いて喰わせようとしてくれて居た。何時もの事なのだが俺はちらちら時計を見る回数と、時計を覗く時間が多く成り、時間に追われるまま唯落ち着く先を探して居た様だった。

 私の知己の、近所に今でも住んで居る古木さんが散歩か何かで俺の目前を通り過ぎようとした頃、さっきはもう家に帰って居たと思わされた父親がもう一度少し早い足取りで帰って来た。その足取りはまるで、寒いK駅を、雑踏を分けて進んで行く格好の良かった頃の父親を思わせた。俺は当たり前の様にしてそれ等の光景を見届けて、車のエンジンを掛けながら片手に持った焼き肉を喰おうとして居たが、俺の車はミッションだった為にそのエンジンは焼き肉を焼きながらではなかなか掛からず、俺は又少々躍起に成って居た。面白いもので俺は未だに焼き肉を喰って居る。忘れようとしても如何しても忘れる事が出来ない様子で、それでも会議へ行く事だけは決心して居たが、焼き肉の魔の手がこれでもかという程、俺と運命を共にして行こうとするのだ。何度やってもエンジンを上手く掛けられない俺の惨状に見兼ねたのか、古木さんは一度は通り過ぎて行った道を再度俺の所迄戻って来てくれて、助手席の窓から身を割り込ませる様にして俺に話し掛け、「大丈夫か?」と言ってくれた。彼は何時も見て居た様に日焼けして浅黒く、又、酒でも沢山呑んで来たかの様に鼻と顔が赤かった。又、本当に酒を呑んで来たのかも知れず、少々しんどそうにして居たのだ。元々喋り好きの彼は他にも何か言いた気にして居たが俺は恥ずかしさと体裁の悪さを感じて居り、「あ、大丈夫です」と即答し、その即答の所為か、心象を悪くした様に、何も言わずそのまますたすたと又歩き去って行った。俺は、何時も通りでは在るが、自分の撒いた種なのにそれを無視して古木さんに腹を立てて仕舞い、一服しようと頃合いを見計らったが、〝やっぱり自分も悪かったかな?〟等と思い返しながら不思議の様に苛々したその気持ちはすうっと消えて行った。そして又自分の普段の体裁を繕う為に何も言えないで居る処へ父親がにゅっと顔を出したので在る。

 父親は「古木さん寝てるんかな?」と言う。母はそう言う父親に対し、「何かあかんみたいよ。今日も報告書書きで徹夜するみたい」と、心配して言う。何だか母は、その古木さんと以前に陰で、少々親しい関係に落ち着いて居た事を俺は夢の中ながらにか知って居た。父親は、「又か。酒はよう呑むし、集まったら必ず呑むし、全然寝えへんし…(もう三日間位徹夜してはるで、と言って居た様にも思う)」と矢張り心配そうにそう言う。

 その後、何か続けて父親も言いたそうにして居たが、もう俺には聞えなかった。「ああ、だからか。」と、さっき去って行った古木さんをもう一度見送りながら俺はそう思って居た。


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~古木(こぎ)さん~(『夢時代』より) 天川裕司 @tenkawayuji

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