星々のなかで
あたたかいそば
ふと気がつくと列車はトンネルの中で、車内はぼんやりとしたオレンジの光が満ちていた。シートの深い緑色が補色となって目に優しい。全体的にボックス席であり、シートは木で枠組みが作られている。高級感がある。
自分がどこにいるのかわからなかった。
なぜ列車に乗っているのかも、所在地がどこなのかもわからない。脳全体がぼんやりとした霧に包まれているようで、理解が追いついてこない。でもこの内装は急行おりおん。それだけが明確で、それ以上はない。一緒に乗ろうと約束したやつだ。? 誰と?
「こんにちわぁ」
「えっ」
ひとつ、声がした。それによって、車内空調のボーッとした音が背景に流れていたことを知覚した。ふわふわした語尾で、間延びした言葉。生暖かくて優しい車内には見合わないような、コンカフェ嬢みたいな。
「おはなししよぉ?」
いぬだった。ふんふやとわたのへたってしまった、いぬのぬいぐるみ。くんにゃりとシートにもたれかかって、ボタンの目がこちらを見つめている。
「おにーさん、おなまえは?」
1号車 りげる
「あ、ぼく、ぼくは……サトウです」
「サトウさん。凡庸だね」
「ぼんよ……、そんな言葉も知ってるんだ」
「相手を見た目で判断しない」
「あ、ご、ごめん。すみません」
こちらが答えると急激に流暢に話し出したいぬは、Twitterにいるよくわからない年上の人みたいな口調で話し始めた。
「きみの名前は?」
「わたし?わたしは犬山です。いいでしょ」
「いいって、何が?」
「名前がついていることが」
「そうだ……ね。ぬいぐるみとして大事にされている証だね」
「ふふん、わかるならいいのよ」
いぬ、もとい犬山さんはちょっと得意げな表情になった。ほつれてしまった口元の刺繍がひらひらとゆれる。風なんて吹いてないのに。列車はずっとトンネルの中みたいに、窓の外か暗いままだった。反射して自分の顔が映る。
ぼくはネルシャツを着て、やぼったいメガネをかけている。髪の毛はぼさぼさで、こんなふうに出かけるときにする格好ではない。明らかにおかしい。
「あの、犬山さん。ここはどこかな」
「んとね、わたしもわからない」
「そうか……」
「でもいすはふかふかだし、どこだっていいんじゃない?」
「そうかな」
「そういうものよ。おしりがいたくならない」
「ぬいぐるみでもお尻が痛くなるの?」
「そりゃあね。わたしはもうわたがへたってるから」
「そうなんだ……」
犬山さんは自分の状況が客観的にわかっているみたいだった。確かにシートは沈み込みそうなくらいふかふかだった。逆に腰が悪くなりそう。
「サトウは大学生?」
「うん。大学3年生」
「ふうん。恋人はいる?」
「急に踏み込んでくるね」
「たいくつだもの」
「いるよ。とっても素敵な人なんだ」
「へぇ……」
急激な会話の流れに、現在固着していた思考が動いた。彼女のことを想起した。腰まである艶やかな髪の毛を。蝋のように白い肌を。夏場は汗かきのぼくの腕に、時折彼女の髪の毛が絡みついた。白い肌には血管が透けて、なんだかとても艶かしかった。そして、たっぷりとふくよかな体。それでいて涼やかでとても可愛らしい。もちもちという擬音がよく似合う女性だ。キスをするときには長いまつ毛がこそばゆかった。その魅力に、ぼくは溺れている。
「写真はないの?」
「ある……けど、スマホがない」
「あら、大変」
「まあでもいいや。きみとお話しするし」
「暇つぶしにされてる」
「きみだってそうだろ」
ガタン、と電車が揺れる。ちかちかと照明も揺れて、一瞬犬山さんが見えなくなる。
「とっても素敵なんだ。彼女。ぼくには勿体無いくらいに」
「随分お熱なのね」
「うん……」
「嫉妬する?」
「するさ」
なぜ彼女がぼくみたいなナードに告白してくれたのかわからない。教室のはじでパソコンを叩いてニヤニヤしてるようなオタクに。ぼくは空気みたいなもんだった。大学という大きな集団の中の、いてもいなくても変わらない存在。なのに、彼女はぼくのことを見てくれていた。それが嬉しくて何も考えずに告白に答えた。
だから、不安だった。他の男と話しているのを見ると心臓が握りつぶされるのではないかと思うほど。死に物狂いでバイトして、同棲して彼女を同じ家に置いた。幾分か不安は晴れたけど、チクチクする胸の痛みは変わらない。
「眉間に皺がよってる」
「ぼく、恋って初めてなんだ。こんな気持ちになるものなのかな」
「う〜ん。わたしはわからない」
「そう」
「でも、今のサトウは苦しそう。恋ってふわふわした、幸せなものなんじゃないの?」
「そういうふうに描かれることが多いね」
「じゃあ、恋ではない?」
「う〜ん。その先?愛?」
「愛は苦しいものなの?」
「どうなんだろう。難しい」
恋と愛の違いなんて何億回も議論されてきた話題だと見下してたけど、それだけ人間が苦しんで答えが出なかった問題だってことだ。リーマン予想だし、フェルマーの最終定理。あれは解けたんだっけ。空白が狭すぎるとはよく言ったものだ。ぼくは白紙が広すぎて、どう説明したものかと考えている間にもっといい解を見つけた気がしてペンが持てなくなる。メモとして白紙の角を汚して、なにかした気分になっているだけ。カッコつけようとしているだけなのかもしれない。白紙を有効に使おうとして、結局何もできない。1ページ目だけ使ったノートが積み重なっていく。
「むずかしいのね。人間は」
「そうだね。心があるから」
「ぬいぐるみにはない?」
「どうだろう。一般にはそうとされる」
「人間の心はどこにあるの?」
「心はよくハートで表現される。だから心臓の近くにあるって言われるけど、本当は脳の働きに過ぎないらしい」
「物知りね」
「人並みだよ」
「そういう謙遜って人を傷つけるのよ」
「それ、彼女も言ってた」
あれは……いつだったっけ。部屋の暗さだけが記憶にある。彼女が気にしていた顔のほくろもぼんやりと溶けてしまうほど暗い室内で、星の話をしたんだ。それこそ、オリオン座の。冬の大三角の話をしたら、彼女は眉をハの字にして口をもにもにさせていた。それがいじらしくて可愛くて、ぼくはよくそういう話をした。彼女を困らせたかった。ふにゃふにゃした声でわかんない……って言って欲しかった。
「あんまり賢くはないのね」
「ぼくと賢さの分野が違うんだ。ぼくは理系が得意。彼女は文系」
「へぇ」
「よく本を読む。家の床に山積みにするからよく雪崩が起きてた」
「でもそんなところも?」
「好きだね。ぼくがよく本棚に詰めてた」
「あら〜。随分素直なのね」
「犬山さんの前だからかな」
「口も上手」
犬山さんにはどこか懐かしさがあった。別にこんなふうなぬいぐるみを持っていた記憶はないけれど、やっぱりぬいぐるみには親しさを持つ。他人にこんな話をするのも初めてだったからかもしれない。友人にこんな話をしたら、その分ぼくの彼女との思い出が減っていくように思った。ぼくだけが、彼女を知っていたかった。ぼくの知っている彼女を、他に教えたくなかった。
「さて、そろそろおしまいね」
「え?なんで?」
「あなたは次に進まないといけないから」
「そうなの?」
「そう」
「犬山さんはずっとここにいるの?」
「そうなるわ」
「寂しくない?」
「うん。心がないから」
「ちょっと気にしてる?」
「そんなことないわ」
がコンと列車が揺れて、犬山さんはシートに横たわった。へちゃ、となってしまって、なんだかかわいそう。
「一緒に行こうよ」
「いくじなしなの?」
「そういうことにする」
「意地っ張りなのね」
「失礼するよ」
犬山さんをそっと抱き上げた。お尻のあたりはペレットが入っていて座らせやすくなっている。これじゃ、シートは別に関係ないんじゃないか?壊れ物を扱うようにお腹に抱いて、車内を進む。床のカーペットがふわふわと反発してちょっと進みにくい。
「でも、わたしもう喋られなくなるわ」
「え!なんで」
「そういうものだから」
「そういうものなんだ」
車両の連結部のドアの前に立つと、しゅこんと自動で開いた。すると犬山さんはふにゃんとぼくの手にうなだれてしまった。あやつり人形の糸が切れたみたいだった。
2号車 あるにらむ
内装はかわらず、高級感のある暖かな室内である。床も変わらずカーペットが歩きづらい。「次に進まないと」とは言われたけど、この号車には犬山さんみたいな、お話をしてくれそうな存在はいない。不安を抱えたまま以前と同じ位置に腰掛ける。ふんわりとしたシートに腰が掴まれてしまいそうになった。びっくりして背もたれと座面の境目を見て、再び座ると目の前にみどり。
「え?」
蔦、だった。つた。蔦という名称で表現するにはちゃちいけど、それはたぶん蔦だった。小学校の頃のあおい植木鉢に植って、黄色い支柱にくるくると巻き付いている。それが座面に、我が物顔で載っている。
「こんにちは」
「え!」
しゃべった。喋ったというか、わさわさと重なり合った葉っぱが擦れて音が出ているみたいだ。なんでこんな鮮明な音声が出るのかはわからないけど、でも、今聞こえている。じっとりとそれを見つめた。青々とした健康な葉っぱが茂って、葉脈も生き生きとしている。茎にも弾性があって夏の植物みたいだ。
「? 誰もいない?」
「あ、いえ。あの居ます。サトウです」
「ああよかった。こんにちは」
「こんにちは」
「わたしは視覚というものがついていないんだ。ふんわりと空気が揺れたから、きっと誰かいると思った」
「そうなんだ。ごめんなさい、びっくりしてしまって」
「ああ!そうだよね」
蔦は意志を持ってうごいた。申し訳なさそうに、4本立っている支柱のうちのひとつ。隅っこに固まる。
「わたしはなぜか言葉が喋れるんだ」
「そうか。そうだよね。前の号車でもそうだったんだ」
「納得してくれてよかった。わたしの世界には此処しかないからちょっとわからないけど、同じようなことがあったんだね」
シュルシュルと、元の位置に蔦が戻っていく。今みたいに葉っぱの音がする時と言葉になっている時の違いはなんなんだろう。じっくりと見つめてみるけど、一般の植物との違いは見つけられなかった。
「お名前はある?」
「一応。蔦田です」
「蔦田さん。すてきだね」
「え!ありがとう。うれしいな」
照れるように葉っぱが揺れる。照れるように葉っぱが揺れるってなんだ?ぼくにもわからないけど、蔦田さんは照れていた。
「蔦田さんは此処がどこかわかる?」
「いいえ。わからない。でも地面がふわふわしてて揺れる度に倒れないか心配」
「そうか。背が高いからね。でも土がしっかり入ってて重そうだから大丈夫そうだよ」
「!それを聞いて安心した」
葉っぱがゆらゆらと揺れる。
「あなた、恋人がいる?」
「え?なんで」
「わかるから。そういうの」
「そ、そうなんだ」
得意げに話し始めた蔦田さん。ちょっとやかましい話し方になって、さっきの謙虚さはどこへやら。安心して、信頼してくれたのかとも思うが距離の詰めかたが急速だ。手元の犬山さんを撫でた。お腹にずっと抱いていたからぼくの体温が移ってほんのりあたたかい。
「いいなぁ。わたしはきっとこの代で終わり」
「そうなの?」
「だって周りに他の種がいない。それは肌でわかる」
「まあ、そうか」
「わたしたちの醍醐味なのに。鬱蒼と茂って、雰囲気を醸し出すのが。1人でいるのは蔦生命に関わる」
「蔦生命」
確かに。でも蔦は花を咲かすイメージがない。単独でどんどん広がっていく。蔦でびっちり囲まれてしまった家を見たことがある。それは回り道をした時の帰り道に見かけることができて、たまに見に行っていたんだけど。花が咲いていた記憶はない。
「きみたちは交配するの?」
「まあ!変態」
「あ、そう、か。そうだよね。ごめん」
「あなたは恋人と性交しないの?」
「すみませんでした。します」
「破廉恥……」
どう転んでもぼくが悪くなってしまった。
「まあいいよ。わたしはずっと1人なんだ」
「ごめんね。拗ねないで」
「拗ねてない」
「ううん」
「あなたは恋人とよく肌を重ねた?」
「急に?」
「だって気になるし」
「なんでそんな言い方なんだ」
「だって破廉恥じゃない」
そっちの方がよっぽど破廉恥だと思う。生々しい表現に、水蒸気のように記憶が浮遊した。
彼女は抱き心地が良かった。他と比べたことはないのでわからないけれど、とにかくふわふわで、ぼくはずっと、彼女に、沈み込んでいきたかった。むちむちですべすべの肌に、ぼくはよく頬ずりした。キスをした。照れて真っ赤になった顔がりんごみたいで、ぼくはよく前髪を上げておでこにキスをした。ぼくの中でなんとなく、リンゴと前髪とキスは相関関係にあったから。彼女はそのとき、なんだかとっても嬉しそうに見えた。
彼女をむちゃくちゃにして、シーツで羽二重餅みたいに包んだ。ぐったりと脱力した彼女の体はベッドに染み込んでいきそうで、ぼくはそれを柔らかく撫でながら愛おしく思った。寝ているときほど彼女のふわふわを堪能した。起きていると、彼女は照れてしまってあまり触らせてくれなかったから。
「むっつり黙り込んじゃって。やあね」
「な、なんだよ」
「別にぃ。なんだかなまぐさいと思っただけ」
「ひどすぎる」
さわさわと潔癖そうに揺れる葉には、およそ虫食いは見つからなくて、ぼくは妙な納得感を覚えた。蔦田さんはずっと1人なのか。これからも、この先も。
「ずっと1人なのって、寂しい?」
「う〜ん。それが当たり前だったし。でも、自分の中に空白がある感じはある」
「空白」
「そう。日々を過ごしていて埋まらないピース。自分の中で思考が完結するから、きっと偏りがある」
「でもそれを自覚できるんだね」
「1人というのに語弊がちょっとあるかもね。新しい葉っぱと、根っこの考え方はやっぱり違うのよ。全体として1だけど、中には様々」
「へえ!おもしろい」
人間で言えば細胞ひとつひとつに意志があるようなものなのか?それよりは大きい単位、臓器とかなのかな。犬山さんには列車外の記憶、誰かと過ごしていた記憶がありそうだったけど蔦田さんは違うみたいだ。でも蔦の一般的なイメージはある。生臭いとかも言うし。どういうことなんだ?
「きみはどれくらいここにいるの?」
「種だったわたしがここまで育つくらい」
「ふぅん。きっと長いだろうね」
「まあ多分。あなたの人生からしたら短いでしょう」
「そうかも」
「……やっぱりわたしは、ずっとさびしいのかも」
しおしおと、葉っぱが全部下を向いた。それは夏の終わりのひまわりを想起させた。ざわ、という音でぴったりとまってしまって、時間も停止したみたいだった。
「短い生の中で、わたしは他人と、ほかの存在と触れ合えない。それってきっと、とっても寂しいことなんだ」
「……否定はできないな」
「その寂しささえ、わたしは真に感じられていないのでしょう」
「ぼくと触れ合って、少しは感じたんじゃ?」
「生半可にね。植物にとっての触れ合いは、やっぱり繁殖に直結するものだから」
「話し合いじゃだめか」
「そうね」
その点において、人間はやはり優れているのだろう。他人との触れ合い、額面通りではなく単なる会話でもコミュニケートとして大きなものになる。それに満足できないで、肌を重ねあうことまでも求めるのは強欲だ。ぼくはそう。そういうやつ。
蔦田さんは一気に元気がなくなった。葉っぱの先端がちりちりとおぼつかなくなって、支柱にくるくると巻き付いていたところからぴったり動かない。
「だ、大丈夫?水とかいる?」
「そういう問題じゃない」
「あ、そう」
「あああ。あなたと会わないべきだったかもね」
「う、ごめん」
「こういう時は怒るべきなのよ!」
「でも。ぼくが悪いだろ」
「随分と献身的なのね。自己犠牲と言った方が的確かしら」
「そんなんじゃないよ」
自分に敵意が向くのが怖いだけだ。過度に媚び諂って、他人のヘイトを背けている。こういう生き方が染み付いて離れない。
「ごめんね。ひとりにしてほしい」
「わかった。進むよ」
「ありがとう」
蔦田さんを見ないようにして会話した。ぼくを咎めているように葉っぱが揺れるのを見たくなかったから。もっとも、そんな元気もなかったかもしれないけど。
車両連結部のドアは、やっぱり自動で開いた。犬山さんは手元でふにふにとやさしい。
3号車 あるにたく
「ふぅ……」
下を向いて歩く。でも、ぼくにはどうにもならなかったことだ。犬山さんに進めって言われたんだし。蔦田さんが急に現れたんだし。スニーカーのソールがカーペットに沈む。前の両もこんなにやわらかかったか?でも戻る気にはなれなかった。いつかの終わりに向かって、歩くしかなかった。
「らっしゃせ〜……」
「は?」
は?
「しゃせ〜」
TSUTAYAの店員だ。え?いやほんとにどういう事?別に内装は変わらない。ふかふかの緑がボックス席の形で羅列されている。そのひとつに、足を組んだTSUTAYAの店員がいる。別にぼくに驚くでもなく、ただ反射みたいに来店の挨拶をしている。
「、あの、こんにちは」
「は?はい。こんにちは」
「お名前はなんと」
「え?いや、本田です」
「どうも。ぼくはサトウです」
「はあ……」
人間がいることに安堵して、質問を畳み掛ける。本田さんはTSUTAYAの、真っ黒なシャツに身を包んで大量の漫画を座面においていた。身体の左右に。読み終えたら左に置いてるらしい。これしかもレンタルのやつだ。透明なカバーがかかっていて、色褪せがひどい。しかもコイツジョジョ読んでる!
「なんでここにいるんですか?」
「は?俺も聞きたいです。ただ深夜番してただけなのに。こんな列車に」
「ああ、すみません」
「まあ環境はバ先より全然いいんでいいスけど」
「……ジョジョ、好きなんですか?」
「別に。あるから」
「そ、そすか」
本田さんはぼくほど焦っていなかった。この状況を受け入れているようにも見えた。というかなんでその背景で焦ってないんだ?
「いまどこですか?」
「2周目の3部」
「2周目?!」
「やることこれしかねぇし……」
「そんなに長く」
「まあ……てか笑 サトウさん?でしたっけ笑 なんでぬいぐるみ持ってるんすか笑笑」
「あ、こ、これは」
「あ、でもすません。大事なものかもしれないのに」
「ああ」
距離がむずかしい!よくある陽キャ像に近いけど、ネットでよく騒がれる「本物の陽キャ」のようなものなのだろうと思った。人にきちんと配慮できる。本田さんも久々に人に会ったんだと思う。だから距離がめちゃくちゃなのかも。そして長時間この状況に晒されているから慣れてしまったのかもしれない。正常性バイアス?だっけ?
ぼくは他人を属性に当てはめて考えるタチだった。そうしないと、ひとはこわいし。てっきり人外縛りなんだと思ってた。急なTSUTAYA。蔦だから?
「サトウさんはなんでここに?」
「ぼくは……気づいたらここで」
「へえ」
「この犬山さんに進めって言われて」
「……そすか」
「あ!ごめんなさい。すみません」
「いや!全然。あのそういうの大丈夫なので」
本田さんはズレてしまったカバーを直しながら会話してくれる。変な気を遣わせてしまった。確かにぬいぐるみを大事そうに抱えて「しゃべった」なんて言うやつ怖すぎる。腫れ物だ。
本田さんが俯いた際に見えるつむじが若干プリンになっていて、茶髪に染めていることに気づいた。似合ってるから全然気づかなかった。
「やっぱ大事なんすね。誰かにもらったとか?」
「いや……」
1号車で会ったんだ、と言いかけてチカっと脳内が光った。
「そうだ!これ、彼女にもらった」
「へえ!いいすね〜」
「名前は犬山」
「そうなんすか」
「正確には、アルフォンソ・犬山・シェヘラザード」
「はあ……」
本田さんの声色には呆れと諦めが混じっている。この名前は江戸川コナンみたいな方式でつけたんだ。ていうかなんでこんなこと忘れてたんだろう。彼女の親御さんに挨拶しに行ったら、実家がバカデカくて恐れ慄いて、土産にもらったアルフォンソマンゴーを2LDKで一緒につつきながら彼女をもちもちした。その時に実家から持ってきたいぬのぬいぐるみをぼくにくれたんだ。彼女が名前をつけた。適当すぎて笑ってしまったけど、それが妙にしっくりきた。
「きみも彼女いる?」
「まあ人並みに」
「付き合っていて苦しくなることはない?」
「それは……どうすかねー。俺はそうでもないかな。そこまで入れ上げてないって言うか」
「入れ上げる」
「俺は……、個人にそこまで執着を向けてしまうのって、それこそ大事にしていないんじゃないかって思うんすよ」
手元のジョジョをぺらぺらといじりながら話が続く。時折承太郎が見える。
「俺、シングルマザーで一人っ子だから大事にしてもらったんすけど、その分重圧もエグくて」
「うん」
「そういう、ネトネトした気持ちを彼女に押し付けちゃいそうで怖かったんすよ」
「ん〜……」
「あ、別にサトウさん否定するわけじゃないすよ。俺の中に母と同じ血が流れていて、それによって同じ行動が引き起こされたら、っていう」
「あ、いや、違うんだ。すごく腑に落ちた」
ネトネトした気持ち。ぼくが感じているのはきっとそれだった。一般の形に当てはめるなら執着で、でもそれよりももっと優しいと思っている。ぼくの主観だから彼女から見える形は執着より醜かったかもしれない。ドキドキと、不安が胸をかけずった。ドリフトしたみたいな跡がこころに残っていそうだった。
ぎゅっと犬山さんの手を握る。
「ぼく、ぼくは彼女に対してあまり良くなかったかも」
「いやでも、人によって合う合わないありますよ」
「本田さんの方が相手に対して誠実だと思う」
「俺はそうは思いません。あんまり相手に好きって伝えないことで不安にもさせるだろうし」
「……」
「正解は一個じゃないんすよ。俺の正解はこの形ってだけです」
「きみってすっごく大人だ」
「まあ俺25なんで……」
「エ!」
「フリーターなんすよ。いろいろ考えられる時間が人より多いだけです。あとは映画見てるから」
「経験豊富だ……」
ぼくはただ舞い上がって、自分1人を被害者に仕立て上げているだけだった。相手のことを考えられていない。いや、考えているつもりだったけど、それは自己本位なんだ。
彼の愛情表現も自己本位なところはあるけれど、真っ当に筋が通っている。と思う。それってすごいことだ。1発書きの答案で物事の辻褄があっていることなんて、ぼくの経験の中にはない。彼がこれについて向き合って考えてきた証だろう。
「ぼくは……自分の愛を、相手にたくさん伝えたかった。それが正しい愛の形だと思っていたから。ぼくがそれをしてもらうと嬉しいから」
「ハイ」
「でも、それは自己中だ。[他人にされたくないことをしない]は不正解になりにくいけど、[自分がされて嬉しいことを他人にする]は結構な博打だ」
「まあ、確かに」
「彼女が喜んでるようにみえた……から、やってたけど、どうだったんだろう」
「……嫌な時に、嫌って言えないくらいの関係性だったんすか?」
「そんなことは、ないと思う……けど」
「まあ、俺たちの彼女がどう思うかは、一生わからないですけどね」
それって、ひとりなのとかわらないんじゃないか?
蔦田さんと同様に、ぼくは、人間はずっと孤独なのかもしれない。思考が存在しない植物の方がよっぽど寂しくないだろう。
急な空白が押し寄せた。砂の城が波でだんだんと攫われるみたいに、ぼくは崩れてしまいそうだった。
「彼女に会いたい」
「俺もです」
急激に寂しさが吹きつけて、ぼくは凍えてしまいそうだった。ハア、と下を向いて再び前を向くと、本田さんは忽然と消えていた。山盛りのジョジョと共に。彼女に会えているといい。
ぼくはずるずると足を引きずるようにして次の号車へ向かう。犬山さんを、しっかりと抱えて。
4号車 メイサ
おそらくここは夢だろうと薄々勘付いていたが、今回明確に明らかになった。歩くたび、ずぷずぷとカーペットに足首まで沈んでいくから。じっと止まってみてどこまで沈むのか確かめたけど、やはり足首で留まる。指を地面につけてみても沈まなくて、カーペットは足だけをさらっていた。
さかさかと席の位置まで進んで、ばふと腰掛ける。犬山さんを目線の位置まで上げてまじまじと見つめる。ところどころほつれはあるけど、大事に修繕されている。彼女がずっと一緒に寝ていた、と言っていた通りでほんのりとヘアオイルの香りがしないでもない。ぼくが彼女の幻影を追い求めているだけかもしれないけれど。
「おにーさん、ビールいかがですか?」
「つあ!」
びくんと体が跳ねた。ふすふすとぬいぐるみに鼻をつけていたんだから。後ろめたさにゆっくりと声の方向に目を向けると、ビールの売り子さんがいた。
「?なんで?」
「わたしにもさっぱり」
「球場にいるような格好で」
「クソ重いんだよお。このサーバー。みっちみちにビール詰まってて」
「そうなんだ」
よっこいせ、と女性は前の座席にサーバーのリュックを投げて、横に腰掛けた。プラのカップを取ってしゅおーとビールが注がれる。
「はい、どうぞ」
「いやごめんぼくお金ないよ」
「いいよ〜。わたしも飲んでるし」
「そうかな……」
サーバーの横に書いてある銘柄はオリオンビールで、これが絶対的に夢なことがわかる。オリオンビールを提供している球場は存在しないから。いやまあ、列車にこの格好の女が乗ってきた時点でアレなんだけど。
「お名前は?」
「サトウです。きみは?」
「わたしは酒井(さかい)。しーちゃんでいいよ」
「……?それはどこからきてるの?」
「酒々井(しすい)の、しー」
「なるほどねぇ」
酔っているのか、しーちゃんは呂律があんまり回っていない。ふにゅふにゅとした終わりのない音声だ。
「しーちゃんはいくつ?」
「口説くの?」
「口説かない。彼女いる」
「へえ!やるじゃんオタクくん」
「人を見た目で判断しない」
「ごめんねえ。わたしは22。このバイトも潮時ね」
「そうなの?」
「そうだよお。みんな若い女の子から買いたいんだよ」
ゴキュゴキュと、隣で喉が鳴る。一気に黄金を飲み下したみたいで、またしゅおーと軽快な泡の音を立てていた。
「若いって、そんなに良いことなのかな」
「球場にくるのってだいたいおじさんだからね。失った輝きを近くに置いておきたいんだよ」
「もしくは、自分がそれを手に入れられる存在だと思いたいのかもね」
「そんなさー、別に良くない?ちやほやされたくて始めたのも良くなかったのかな」
「悩んでる」
「そうだよお。学もないし。お仕事どうしたら良いんだろ」
ちびりとカップに口をつける。いつも居酒屋で飲んでるビールとは違うような、そんな味。ぼくの舌がばかなのであんまりわからない。
若いことに価値があるのは、やっぱり女性に多いと思う。ぼくはあんまりそんな風には考えたことがないけど。男だって若さによる価値はあるけど、女性みたいにさまざまな年代から求められる価値ってわけじゃない。なんだろう。
女の人の若い時は原石の宝石みたいなものなのかも。みんなが自分の形に仕立て上げたいから、お金をかけたり争奪になったりする。高値で売れるものもあるけど、価値のつかないものもある。若ければ若いほど大きい原石で、加齢と共に小さくなる。それは摩擦で削れてしまうからで、加工とはまた異なる。
男の若さは身体のスペックの高さが全てだろう。疲れにくい。太りにくい。24時間働けますか、は栄養ドリンクのキャッチコピーだけど、ぼくたちの価値づけにもなっただろう。馬車馬。歯車。
「やっぱ夜職かなあ。それがパパ活……いやでももう歳がきついな」
「……ヤショク?」
「風俗。あたし奨学金借りてて返さないといけないから」
「なるほど……」
Twitterでしか見ない言葉で、音声で聴いた時にピンと来なかった。女の人がざくざく稼ぐのにはやっぱりそうなるのか。
「やだなあ。なんでおじさんに股開かなきゃいけないんだろ」
「……会社員になるのはダメなの?」
「ダメじゃないけど、爪短くないとだめじゃん?それもやだ」
しーちゃんはぼくの目の前にきらっきらの長い爪を見せてくれる。ごつごつとしたパーツがいっぱいついていて、どうしてこれでサーバーのレバーが押せるのかわからない。
爪が短いことと、風俗の嫌さが同列に来るのか。彼女は。まるきり価値観の合わない相手に、ぼくは腕を組んだ。犬山さんを挟み込みながら。ビールをこぼさないようにしながら。
「爪、そんなに大事なの?」
「うわ、そういうこと言う?」
「あ、ごめん、なんでだろっていう単なる疑問なんだ」
「サトー、彼女にもそういう言い方するの?やめな?」
「ぐ……」
「あたしが爪伸ばしてんのは、っぱテンション上がるから」
「そこなの?」
「やっぱりね〜、低学歴って舐められんの。周囲の目が若干見下してる?感じになる。それが嫌(や)。あたしががんばらなかったのが悪いけどさ」
「うん」
「でもプライドはいっちょまえに高いわけ。もう辛いね。笑っちゃうわ。訳わかんないとこで見栄はんの。売り子の後輩みんなにご飯奢るとか」
「わあ」
「もうばか。ばかなの……」
すん、と鼻をすする音がする。
「でもね、こういう自分がきらめいてる!って思えるとこにお金を使うとその分自分の価値が上がる気がするの」
「とってもきらきらでかわいい」
「でしょ?周りの人にはウケが悪いけど、[そういう系の人]っていう新しい括りに入れてもらえる。芋のときよりマシ」
「そうなの?」
「そう。髪の毛もハイトーンのほうがいい。二重の方がいい。鼻も高い方がいい。色々手を出しちゃって、大学はやめたのに奨学金だけが残ってる」
「苦しいね……」
視界の端でしーちゃんの細い腕が動く。手首をくるくるしながら爪を見ているみたいだった。短い丈のパンツから覗く白い脚に、プラカップから滲んだ水滴が滴っている。
「だからね、お金が1番いるの。あたしの暮らしには」
「……」
「それが価値なのよ。わたしの」
あらためてしーちゃんの顔を見た。二重を見た。ツンとした鼻を見た。シャープな輪郭を見た。それぞれが美しく、全体としても美人だったけど、彼女は幼く見えた。
ぼくの顔に触れる。はだはぺたぺたして脂っぽい。メガネを外してみると皮脂で曇っている。袖で拭って、また掛け直す。彼女の美貌はより鮮明になった。
「サトーの彼女、かわいい?」
「うん。めちゃくちゃ」
「こういう時はあたしの方が可愛いっていうんじゃないの?!」
「きみとはベクトルが違うかな。しーちゃんは綺麗。彼女はかわいい」
「男ってそういうこと言うよねえ」
「しーちゃんは彼氏いるの?」
「……秘密」
「ずるくない?」
ビールはぬるくなっていた。ぼくはそもそもビール自体が好きじゃない。しーちゃんは3杯目に行こうとしている。
「そんなにすきなんだあ」
「うん」
「どこが好きなの?」
「……ぜんたいてきに」
「へぇ〜〜〜〜〜〜〜」
「うるさ」
「ぜんたいてきに、かあ」
「……でも、彼女はぼくのことが好きじゃないかも」
「ありゃ、どしたの」
プラカップが手の体温と同化してきたのが気持ち悪くて、窓のヘリに置いた。外はずっと、塗り込めたような黒だった。アクリルガッシュみたいな黒。それが不安になって、犬山さんを抱きしめる。じゃぐ、とペレットの音がする。
「ぼくが彼女に向けているのは執着なのかも」
「そんなの。好きな人間に多少は向けるよ」
「いやだったかもしれない」
「かも、で不安になるの?」
「そりゃそうだろ」
「嫌って言ってないのに?」
「言えなかったのかも」
「そんなにパワーバランス偏ってんの?」
「いや……う〜ん」
指先でじりじりとペレットの粒をいじる。
「そうやって自分に非をつくりたいだけなんじゃないの?」
「……え?」
しーちゃんは飲めば飲むほど思考が落ち着いていくタイプみたいだった。脳がどんどんクリアになる。さくさくと差し込まれる。
「振られるのが怖いから、自分の悪いところをずっと探してる。言いようのない不安に形を与えたくて、それを自分の非だと思い込もうとしている」
「人のことを信じてないんだよ。サトーは。自分の考えに固執する。その話、本田ともしたっしょ」
「な、なんで」
「知ってるよお。ざーんねん。綺麗な女にだいじょぶだよ〜〜って言って欲しかった?」
「うるさい!」
「わあこわいー」
脳が熱くて爆発しそうだった。気付きたくないだけで、熱いのは顔かもしれなかった。ジクジクと胸が痛んだ。多分こころだった。
「自分に自信がないくせにプライドばっかり高いねえ」
「きみもおんなじじゃないか」
「そう。あなたが見下してた女と同じ」
「見下してなんか」
「嘘つきにもなるの?」
自分の1番醜悪なところを強引に覗かれた。磯焼きで開きかけのホタテを強引に開けて、半生のまま食い荒らされた気分だった。ぼくは無力だった。その食べ方は1番美味しかったかもしれなくて、ぼくがよくやっていたことかもしれなかった。
今まで他人の独白を聞いて、自分はこれよりマシだと思いたかっただけだった。プライドを振り回して可哀想がって、ただ自分が気持ちいいだけ。
「ビール、新しいのほしい」
「いいよお」
しゅおー。ぼくはそれを一気に流し込んだ。すぐにおかわりした。しゅおー。冷たさが胃に届く。
すきっ腹にドカドカアルコールを入れたから、すぐに酔いが回った。視界が回った。
「あ〜あ。弱いのに」
「……きみは、ぼくのこと知ってるの?」
「まだ気づかないの?」
「…………しーちゃん?」
「せーかい。あなたのだいすきな、彼女の、しーちゃんだよ」
焦点の合わない瞳で再び彼女の方を向くと、ハイトーンは艶やかな黒髪になっていた。全体的な質量も増えている。長かった爪も素に戻っている。
「あなたの、こーくんの、そういうとこが嫌いだった」
「しーちゃん」
「わたしの好きなんかお構いなしに、自己完結して」
「まって、ねえ」
「あなたは自分が1番大事なのね」
「その上で、きみも大事だと思ってる」
「GPSこっそりつけるのも?」
「心配だし」
「わたしの変化をすごく嫌がるのも?」
「今のままでかわいいもの」
「わたしの選択は尊重してくれないの?」
「ぼくは信じてくれないの?」
「そのまま返すよ」
彼女の輪郭はうやむやになる。ぼくはカーペットに倒れ込む。ずぷずぷと、顔半分がめり込んでいく。
「やだ、まってよ、しーちゃん」
「待たない。待ってくれないのはあなたの方なんだよ」
もがいても身体は引き上がらなかった。最後に残った耳が、彼女の嗚咽を拾った。
ふと気がつくとぼくは湯船の中で、ダクダクと汗をかきながら眠っていた。マズイと思って立ち上がるとめまいで倒れた。ものすごい音がしたけどしーちゃんは来なかった。
ぼくはひとりだった。脱衣所になぜか犬山さんが居た。観葉植物のつたが生え広がっていた。返しそびれたTSUTAYAの黒い袋があった。ぜんぶしーちゃんといたときのものだった。
冷蔵庫まで這いずって、野菜室にあったアクエリを流し込む。これは、しーちゃんが風邪を引いた時に買ったときの残りだった。
ぜんぶがゆめだった。わかっていたはずのそれが、ゆめで、ぼくは、ゆめが、ゆめだ。
這いずった跡が、カタツムリみたいで気持ち悪かった。
星々のなかで あたたかいそば @attaka_i
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