浴室の礼法

ガラスプリン

第1話

私は浴室で眠る。毎日夜の十時になると浴室に赴き、衣類も脱がずに張っていたぬるま湯につかる。いつの間にか眠りに落ち、明朝に目覚める。奇怪であるというのは重々承知だ。しかし体温に溶けていくような水とまるで繭のように思われる濡れた衣服がこの上なく心地よいのだ。このことを誰かに言ったことはない、きっと怪訝な目で見られ、噂はひとたび町中に轟き、道を歩けば後ろ指をさされることになるだろう。というのは私の自意識過剰であろうか。特段それだけが理由ではなく、なんとなく秘密にしておきたいのだ。一種の独占欲なのだろうか、私にとって浴室とは母の懐の如し、または異国の土地で見つけた母国語とでも言うべき安心感といえるのだ。浴槽のぬるさは私のわがままや醜悪さえも包み込んでくれるのだ。私の全てをさらけ出せるのはそれだけになった。一度他人を心底信用したことがあった、しかし結局は他人であった。私の見る色彩も私を震わせる音色も完璧に理解してくれる者はこの世に存在しないことを悟った。だから浴室に逃げた。そこは外界と完全に遮断された私にとっての楽園であり牢屋であり月の裏であった。

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浴室の礼法 ガラスプリン @glasspudding

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