~エンパイア~(『夢時代』より)
天川裕司
~エンパイア~(『夢時代』より)
~エンパイア~
「最近のTV世界」として「最近の奴等は世界が狭すぎる。」、「歌詞」として「本気になった人間はいつも持っている臆病を消し去る」、「歌詞」として「傍に在るものが世界一だ。」、「歌題」として「盲目の人のドラマを見た。人は一人では生きられない。その通りかも知れない。」、「歌題名(かだいめい)」として「この世にもっと執着したいんだ。」、「昔の漫画」として「昔の漫画にはふざけた中に余裕がある。」、「歌題名」として「夢の落し児(ゆめのおとしご)」、「無題」として「最悪だ。女なんて。神様が作った『女』ってのが、どうも俺には合わない。だって勝手に作って俺の目の前に置くんだし。又〝遊ばれそうやし〟とか勘繰るし。女なんか居たって俺には本当なんの意味も無い存在だ。ここまで来りゃ、居たって目障りなだけだ。俺以外の、お・れ・以外の男には皆ィ~んなそんな『女』がくっ付いていて、見せびらかしに俺ん所に来やがるし、いっつもいつも俺は結婚式を見送るだけ、その光景をまったりと見てるだけ。確かに今まで全く出会いが無かった訳じゃない。俺が二十一、二十二の時に付き合っていた上川か、あいつともしももっと付き合って居ればもっと早くに、そう二十五、二十六で結婚して今頃はもう何児かの父親にでもなっていたのかも知れない。でも俺はやっぱり女を見る目なんか無い訳で(この世では)、結局早めに別れた訳だ。確かに俺の女への感性から上川はタイプじゃなかったから別れたが。顔で選んでた若き時代の俺だから仕様が無い。今となっては。次は大学生時代に学内に居た、俺の横にちょこんと座って来た二人連れの女の子。俺はその時も今と同なじ女に対する奥手が功を奏して何にも言えずに、その時はそのまま時が流れて計画は全てオジャンになった。付き合えないまま、何もないままだった。そしてゲーセン通い三昧さ。まぁその他にも色々あったかも知れないが全部忘れた。その後も今まで何人かの奴が言い寄って来たかも知れんが全て、全部が俺の奥手・不得手の所為でオジャンだった。唯俺は自分と共感を共に出来る奴が欲しいのだ。そして人生を楽しみたい。性欲を抑えられて、それなりに体裁も良くなる俺だけの女というのが欲しいのだ。それを俺のこの手で作って神様がそれに命を吹き込んで、神様と俺の共同作で自分のステータスを繋ぎ止めたかった。でも他の奴等は皆持ってやがり、俺だけが持っていない訳だ。もうこれは如何しようも無い。何故なんだ。始めから男と女が一つのワンセットならば良く、こんな悩みに悩まずに済んだのに。専門学校時代、Sと付き合ってた頃は、俺は陰茎が駄目で完全包茎でSEXすらも出来なかった。これ幸いとあいつは咄嗟にさっさと他に、あのクソッタレの生田とかいう海を開拓するタッパだけが無駄にでかいスケベ馬に走って行った。まぁどの道長くも付き合えた奴じゃなかったが。Good タイミングの悪さで早くも終り。いやあれは周りが全て悪い。外野がとやかく在る事無い事吹き込んだ所為で(お得意の)、全てが破局に終った訳だ。あの馬鹿共はなんだ。黒石とかいう気持ちの悪い(×5)糞呆けの粕は俺と白井千恵が横同士で喋っているのを見た瞬間自棄になった猪のように俺を激しく睨み付け、飲み会の席からドーン!と外へ飛び出して行きやがった。自己最悪中心的な奴さ。結局こんな奴等(自己中心者)ばっかだったから恋愛は全て破局だった。奴等が全部悪い。二度と会いたくもねぇ。永田理恵とは、俺が未だAと付き合っていた頃にメール入って来て、あいつとのコミュニケーション口調でメール返したらそのままメールが返って来なかった。これもタイミングの悪さ。あいつと四年付き合えたのは鬱陶しい外野が居なかったからだ。それでもあいつとなんかこれっぽっちも未来なんて無かったがね。迂闊に喜べもしない。何であんな奴寄越すんだ。その前の池井といい…もうイヤ。この下界の世界では、俺は『女』とは上手くやっていけないんだよなぁ。本当に居たって無意味な存在。だってそこに居たって俺が見えていないんだから。視力悪い奴ばかりさ。自分が無視されること考えろってんだ。嫌なくせに。B子はB子で脈無し。て言うか全然一緒に成れる奴がいねえ。」、「無題」として「女が異星人の様だ。否もう異星人だ。」、「歌題名」として、「ジャストフィート」、「ルパン三世」として「山田康雄と同じ声じゃあなくていい。雰囲気が一緒、又尚上回る奴を捜せ。栗貫のオリジナルじゃあ駄目だ。代わりを捜せっての!面白くも何ともない。」、「無題」として「完全なる初恋」、「無題」として「神様から見たら人間は面白いんかなぁ。神様から見たら人間はどうなんやろう。」、「無題」として「老人からは勇気を貰う。又、老人は皆の父と母となる。皆というのは言い換えれば若い世代の、という事である。経験という事について以前に述べたが、ここでもそれは余韻を残すものであり、老人とは経験豊富なもので若年層はその跡を辿って行くのだ。先人という言葉が在りそれは様々な場所で遣われるが、この場合での意味合いこそが本意ではないだろうか?」、「無題」として「人を侮るな。」、「無題」として「罪悪を侮るな。」、「無題」として「正義を侮るな。」、「無題」として「常識に則った上で体裁を繕うこと自体を敢えてしないで、そのこと自体を既に諦めていた。」、「文学思考」として「人を独りにする文学、それを書きたいんだ。」、「無題」として「相性なんてものは当人同士で作り上げるものだ。」、「無題」として「Re-right mind-何でも立ち止まって振り返り、自分の行いを正す人の心構え。」、「無題」として「人間という者との信頼の方を信じたい。神の前で。」、「無題」として「長閑な風景が忌まわしい過去を記憶する。」、「無題」として「女は牛歩の考え方をする。その気怠さは俺には堪え難いものだ。」、「無題」として「急いでいる。人間はいつも何かに急いでいる。」、「無題」として「漫画も他のあらゆる作品も一般向けにした時から漫画・作品ではなくなる。」、「無題」として「人間は信じなくても神の存在は信じる。」、「無題」として「日本は全部が全部馬鹿という訳ではない。唯それが生きていないだけだ。」、「無題」として「空気にも成らない存在だった、あの娘は。空気にも成れない存在だった、あの娘は。」、「無題」として「誰でも、子供の事を書きたがるのは、自ず、己の正直が見え隠れして居り、そこに救いを求めるからだ。」、「才能」として「お前の持ってる才能の方があいつ等より遥に上だ、お前にとっては。」、「無題」として「考える人に成りたい。でも考える人に成れば恐怖が生れるか、という一念の思いも在る。」、「無題」として「良いドラマに、心底浸って見て居ても、何処かで裏切られる。分っては居ても。」、「愛」として「他人に対する奉仕を、もし、完全に出来ないと分っていたとしても、し続ける努力の事である。」、「無題」として「『馬鹿』でも賛美に成るのだ。人の心の複雑さ。」、「無題」として「連続工場(チャップリンのモダンタイムス)」、「自然の掟」として「年輩が若年に慕われる。年輩は若年の前ではしっかりしなくてはいけない。」、「己が文学」として「この世を越えた学問(文学)を志す故に、この世を軽く見る傾向がある。そして、根底(この世の常識)を見失い、訳が分らなくなるのだ。今でも、分らないもやもやした、煙の様なものが、目前を取り巻いている。」、「発明して欲しいもの」として「音声自動認識・変換機。これを書いてから、少しして、サングラス(眼鏡?)に異国人が喋った言葉が翻訳されて、分る言葉(所謂、自国語)にして映し出される、という物が在った。仕事している合間に、職場で見たTVで宣伝していた。ほうら、やっぱり私の言った通りじゃないか。考える事は大体同じ。まぁ確かに、考える事と実際行う事との間には雲泥の差は在るが、それは横に置いて。(二〇一〇年一月一二日午前二時四〇分に記した内容)」、「無題」として「あの大学もこの大学もまるで字の壁だった。入って行けやしない。入って来てくれもしない。緊張が、そうさせたのだろうか?否、時間制限の所為だ。読んで、理解して、自分のものにして、それから持論を書く、では、あの時間では、到底、満足行く内容のものは書けまい。しかし、その、短い時間の中で纏める力というものを、大学側は欲しがっている様だ。ここで偏差値が上がり下がりするのだろうか?」、「無題」として「勇気をくれるものを、知りたい。」、「無題」として「この世とは一体何者なのだ。目に見える全ての者が、物が、自分から遥か遠くに在る様な気がする。それ等を扱っているのは他人。自分とは全てが違うであろう他人である。今までの経験により培われた知識。経験。まやかし。占い。又想像。文学作家足る者、否、作家足る者、片足をこの世に、もう片足をあの世、又は天国に置いて、物を考えるものである。」、「Aについての構文」として「自然に沿って、その故、だから故だ。」、「墓穴」として「墓穴を掘ったとしてもその延長上に掘り抜いて行けば、又地上に出られるという思惑。その信念に懸けてみる価値はあるように思う。」、「勉強について」として「勉強し過ぎるのは良くない。心にゆとりと余裕がなくなり想像力さえ減退するからだ。―誰かが言った言葉である。私の耳には辞書の索引、教科書からの一々と決り切った戯言、全く応用が利かないオブジェの様な単発の言葉達が、ひらひらと頼り無く、薄っ平い五線紙の上を単調なリズムを踏んで歩いて来る足音だけで、それが囁いている様に聞えるのだ。何故そうなってしまうのかは知らないが、可能性として、或る思惑については少しばかり思い当る節があり、それはきっと自分の性格、現在具えている自分の能力、又天性のものである、と自分勝手に想定している今日ではあるが、如何なものか?落ち零れの学生、以前そうだった人にはこんな経験があるかも知れない。いやきっとあるだろう。テストの時は神頼みで奇跡を待つ事になり、そのテスト勉強をする際には、普段しないこと、別に今しなくても良いことなんかをせっせせっせとしている自分の姿、憶えていないかい?それもこれも皆、勉強するのは億劫であってゆくゆく辿り着けばその時、その瞬間の自分において、余裕とゆとりとが欲しいからだ。それ故、勉強への一方通路から現実に沿いつつ楽への近道を探り、普段余りしない片付け掃除なんかをしてその路から一歩手前の現実空間へと自分を帰し、勉強する事への心構えを緩和する。これは人間の行動心理等に依るのかも知れないが、大抵の人がやっているという事実を見て聞いた上で、やはりその真実味は増すように思う。勉強して今の自分の学力レベルを向上へ向ける際には、相応の時間を要してその間、レベルを上げる段階で自分の心から余裕を取られて行く事を、学生をしていた者なら尚更、今までして来た経験においてその事実を知っている故に、思い出し、追憶等出来るものだ。自分にとって何か大きな事件が起きた時に取り敢えずいつもしている事を繰り返し、自らの安定を図るといった様な事を、人はするのである。慣性の法則…その二つは近いものかも知れない。今前述で述べている事も、内容は違えどそう思う故においてのその法則上の延長であるだろうという事を私は押し延べる。」、「無題」として「自分の美しさと可愛らしさ、そこから生れる気品のようなものの内で遊びながら、外界を見、同類の仲でこそ、その吟味は遊び上手にもなり、男との間でも当然生きて行くものだが、唯遊んで優雅にカフェオレでも飲んでいればいい、というあの風味を地で行くことが出来るのは、その独自性と周囲からの相対性が生き続けているからである。しかし、女には特性が在り、端麗でない器量をした者の内にも、特有の遊び上手が存在し、図太さを秘めている。頭脳の創りが違い、身体の創りまでもが違う、男から見れば所謂Mutantとでも思わせられる程の得体の知れない者の成せる業か。男には無いものを持っている。それに尽きるのかも知れないが、確かに、逆も言える。女に無いものを男は持っている…(ここで人間創造仮説論を語る気はない)。一文学者の癖の強さよ、現代でこそもっと生きてくれ。この不毛に似た完璧の現実を打開するには、その立場で垣間見る苦境さえも理解し、道を切り開いて行く事が出来る強さが、やはり必要なのである。そしてその事は、以前、為されていた気がする。」、「無題」として「漫画の『はじめ人間ギャートルズ』のエンディングテーマ、『なんにもない…』には原始に立ち返らせる魅力のようなものが在り、人に落胆を覚えさせない術を教えている気がした。私はこの歌と漫画を知る前に、この思惑(思い、事実)に辿り着いていた。(感じていたのだ)。原始に立ち返らせる。既成事実が無ければ、人は落ち込む事がない。この概念を念頭に言えば、自分が既成事実に捕われ、そう成らないから、理想が外れたとか、他への羨望が生れたりとかで、本来の自分が得なければ行けないもの以上のものまで(得ればいい最上のもの以上のものまで)、欲しがる訳だ。既成事実に捕われず、本来の自分が得なければいけないもの以上のものを欲しがらなければ、この世で恰も既成となっているような落胆を、覚える事は無い。それ以上のものを知らないからだ。こうさせるのは、人の欲望かも知れない。『肩の力を抜いて楽に生きなければ』という文句が、思い出される。『肩の力を抜く』とは、この世の物事に気を衒わず、自分本来の姿を維持して、自然の儘に生きるという事。『楽に生きる』とは、自分に降り掛かる全ての物事を、自分の糧だと受諾する事。自分が何故に生れたか、という概念を吹き飛ばし、自然の儘に、何となく生きるという事に、何等かの活力のようなものを添える結果と成る訳だ。生きる事を、楽しむ結果と成り得る。落胆は人の糧と成る、という文句も在る。しかし、その糧に形成する過程は自分の内に生を持っていなければならなく、他の場所に在って、羨望で終ってしまっていてはいけない。羨望というものには、憧れ、の他に、妬み嫉み、の類まで覚えさせる魔力のようなものがある。羨望というものも、自分の糧としなければいけないのだ。『生れた、生れた、何が生れた…星が一つ、暗い宇宙に生れた…、星には夜があり、やがて、朝が訪れた…、何にもない大地に、唯、風が吹いていた…』、正に原始を想わせる詩である。いやなに、別々に考えた思惑が唯、偶然に一致しただけに過ぎない。」、「零への視点」として「無意識に生れて、何者かに、『やれ』と言われて、生業に励まなくては成らなくなっている。生活費を稼がなくては、この世では生きて行けないのだ。その生業が、楽しいものであれ、苦しいものであれ、関係無く、この世を越えた、何等かの主は個人に、得体の知れぬものばかりを人に打つけている。どうしても私は、他人と発展する事が出来ない。自分が、個人で、他人から分らないのと同じように、他人という個人が、私も分らないからだ。人として生れた故の『人間』の壁。これを易く考えて考え過ぎる事は無く、又、難しく考えて、考え過ぎる事は無い。人が持つ心というものの内に、映し出される心境の変化は目まぐるしく、その姿を幾様にも変える。しかし、彼等に心が無かったとしてその彼等に就いては、人とは呼べないものか。(成程、落ち込んだ時には良いものを書く事が出来る。素直でいて、熟考を重ねたものに仕上がる。)人は、何と無く生れて、夢や希望をその『何と無く』のベースの上で自ず決めて、それを自分の努力だと解しながら、生により苦楽を蹂躙して、目的へと生きて行く。善悪も然別。聖書に在る十戒が、人が定め等ものであったとするならば、或るクリスチャンは忽ち混沌の内に陥り、信仰を、主をも、見失うことになる。(信仰に就いては改行して書く。)これ等は全て、『人間』の視点である。『人間』に生れた故に、こう語る。」、「無題」として「一つ、私が他人を分らないもの、とするのは、他人に対して自己の臆病を感じている故だ。」、「無題」として「人間の悲しみ。気持ちは万別の方向に延びて、親である自分を持って行きたいのに躰が付いて行けない、自ず気付く、人間の限界。時間。躰。寿命。だから死ぬ迄に、全ての国を、自己の思いが生きる場所を、旅して廻りたいのだ。他人はこの現実を場面と呼び、私はこの現実を舞台と呼ぶ。どちらにせよ同じこと。人間はもっとわからない事で悩むべきだ。」、「無題」として「人の決定は、多数決に敗けるものではない。」、「無題」として「今の世の中、囲いが無いものの方が売れるだろう。」、「無題」として「恐怖感というものは、ときに人を、冷静にする事がある。」、「無題」として「アーティストとは、常に、孤独と、人間との、戦いです。」、「走れメロス」として「『走れメロス』を最後まで読んで。やっぱり最後は人間の欲望が生きてるなぁ、と思い、感じました。最後は、人間の欲望で巻かれる人間の世界。人間の欲望が、私の生活を提供してくれているような、そんな感さえ受けました。しかし、あれが店の軒下に出されていて、本当に良かったと思った。今はもう、抜き差しならない状態に追い込まれているような、所謂、男と女との友情の在り方。人間と人間との友情の在り方。その危惧すべき状態に対し、応援を投げ掛けているような、又、さも美化したような、男同士の友情物語を表現し、文学界に於いて文志濃色の力説を、全面に出して人に読ませる絶好の機会にもなった。そしてそれ等の糧、美談では済まされない所謂新興が文学界を通し、この世間に広める事が出来たかも知れない可能性を、私は密かに喜んでいる。この二つの点で、良かったと思った。」、「漫画を読み終えての寂寥の正体」として、「自分が何者かに扮して、活躍していたその世界が奪われる故に、寂しくなるのだ。」、「一つ、私から観た『女』への思惑」として「女は、一つ、私に『レトロ』を思わせる処があるのか。」、「無題」として「人には、意識的に生きている世界と、無意識的に生きている世界とがある。」、「メイドカフェに行って」として、「別の用事を済ませた後で、当初の目的であった秋葉原観光をし、電気街の間道を、人の多さに躊躇しながら蛇行を重ね、密集する電気屋、その内に設けられたゲーム、カード、パソコンコーナーを廻り、又、フィギュア店へも足を延ばして、相応に堪能したつもりである。又、一寸、その密集地帯から外れたビデオ店へも入り、そこでは昨日に引き続き、『切り裂きジャック』ものはないか、と探索していた。とにかく人が多く、鬱陶しい程の混雑の雰囲気から醸し出される衝動への点火装置なるものより、気の焦りと、又、先日ニュースにもなった、『秋葉原通り魔連続殺傷事件』への気掛かりをも生じさせられながら歩くことになった。その日は、朝から雨が降っており、用事を済ませた後に、戸山学舎敷地内にある雑貨兼書店で傘を買い、さして歩き、すれ違う人とぶつからないようにすることにも気を遣っていた。結構、滅入るものである。一通り歩いた後、もう一つの目的であった、メイドカフェの確認へと赴く。どのようなものであるかを知る為に、直に確認したく、故に、店内の空気に触れ、その上で吟味する、ということが必要となり、その達成の為に、それらしき店を探し廻っていた。すると、若い女の声が聞こえ、探している最中でもあった為か私にはピンと来て、声のする方へ歩いてゆくと、およそ、京都、いや、大阪の街中でも見られないであろう、雰囲気を醸し出す格好をした女が、店頭呼び込みをしている光景に遭遇した。王道をゆく、メイドの恰好である。フリル付きのワンピースのような、俗称『メイド服』を我が物顔で着こなしているその女の様は、呆気にとられると同時に、苦笑してしまう程の、何か、レールから逸脱した有様に思えた。その、呼び込みをする言動には、一生懸命が在るのだろうが、如何せん、私の偏見を含んだメイドへのイメージが私の思惑を覆ってしまう故に、唯、愉しんでその事をしている、又、かるいもの、としか見受けられないものがあった。日雇いながらにどんな仕事でもしなくては一日の生活がままならなく、巡り巡って、そこに落ち着いた人には申し訳ないが、その私が覚えた偏見とは、現実のものである。『No・1メイドカフェ、メイドリーミン(MaiDreamin)は3Fになりまぁーす!』と、持ち前の声高で、その人通りを声で覆うように叫んでいる。私は、気恥ずかしさもあり、一旦、その呼び込み女を避けて通り過ぎ、その延長で、交差点で信号が変わるのを待つ振りをする等の訳のわからない行動をした後、『いやまて、これでは何の為にここへ来たのかわからない、よし、入ってやる』と決心し、再度引き返し、又呼び込み女の横を通り過ぎて、店へと向かったのである。そのような『決心』をしなくては入ることが出来ない独特のバリヤーのようなものを、その女が醸し出す雰囲気にやはり感じていた。それでも、何事も経験の為とまた刹那、大学時代の気構えを思い出し、踏ん切りを付けて、颯爽と入口へ向かう。大学時代は、そうして好奇心を満たし、糧としていたのである。以降、入口へ向かったのは良いが、どこにあるのかが定まらず、まごついた。何しろ、その辺りも密集している為、入口がどこかわからない。まるで一平米に、五~一〇の会社が組み込まれている様子だったのだ。一度、間違ってうどん屋へ入り、『いらっしゃい!』という店員の威勢の良い声を尻目にして、直ぐさま退店し、一度、その細長いビルを少し離れた所から見上げる、という行動を取った。漸く入口を見付け、辿り着くにはエレベーターで上がらなければならないらしく、そのままエレベーター前で待つ。さすが都会、と驚いたのは、男女のカップルもその私と共に待っている客の内に居たことだ。『どんなかな?こんな雰囲気じゃない?こんなこともあるって誰かが言ってたよ』等、ボソボソ喋り合いながら、カップルがエレベーターを待つ。内一人の、オタク系の男も、黙って待つ。これまでの私の経験からすれば、不思議な光景、情景、だ。確かに、私は初めて来たので、そう思えてしまうのは当然かも知れない。しかし、勝手がわからないというのは、それだけで、気疲れするものだ。しかし、経験の為、糧とする為、と再呼し、頑張って、店内へ入った。店内へ入ると、それらしいメイド服を着た店員が所狭しと歩き廻っており、名物の『お帰りなさい、ご主人様』も、他所耳に聞えた。『この店内での約束案内を読みながら、少しお待ち下さいませ』と、店員うち一人の、茶髪にカールをかけた『今風』の女が、微笑と共に話し掛けて来た。『ハイ、ありがとう!』等と、あるまじきか、声を少し大にして私は応えた。勝手を知らず空気も読めないので、とにかく元気に振舞っていた。負けたくなかったのである。私なりに体裁を保っていたのだ(他に仕方無く)。店内の様子は男女が入り混じり、又、熱気のようなものがムンムンとしていた。それだけで私は嫌気が差した。ワン・フロアーというもの狭過ぎる感じがし、喫煙席へと案内されたのはカウンターで、座れば、隣の客と体が触れる程の鮨詰めである。カウンターは三人掛けで、三席とも埋まっていた。正に密集である。私の左隣に座っていた男は黒髪で、メイドとの会話を聞く限りでは常連らしく、関東出身者の様だった。顔は、気難しそうで、『オタク顔』に見える面持であり、友達には要らないと思わせる風貌である。というより、彼の言動が私にそう思わせた。笑っていたかと思えば、瞬間で又、真顔に戻る。自分の『笑顔』が他人からは弱さと見抜かれ、挙句、足を掬われるのだとでも思っているのか。傷付く事に敏感な心の持ち主の様だった。民衆が共有する空気から逸脱するのが怖いのか。あと、単に、癖か。ふと、ファミリーマートでのバイト時に一緒に働いていた、Hを思い出した。彼もこの男と似たような習癖を持っていたのだ。又会話から、何歳かは知らないが年輩らしく、『若い内からこんな処にハマるのもどうかと思うんだけど(笑)』等、早口に喋る。そう東京人は、会話が妙に、早いのだ。早口に言わなきゃ言い負かされる、又、相手より声を大にしていなければ主張も出来ない、というような対人の節が、見て居て在るように思えた。『頭と口とは別だ』という、私の以前に認めた提言を、声を大にして言ってやりたいくらいの気分である。(一度は、語りたくない、と断言・断筆した私が、又これ以上語るのを止める)。東京弁が光る。私の頭上を飛び交う。私とは関係の無い処で交わされている会話のようである。早口に、ペチャクチャペチャクチャ…、まるで、自分が分っていれば良いというような、そんな体裁である。『ついてこれないでいい』という処に、主導権を握りたがっている彼等が潜む。そんな体裁だ。又、その様だけ見て問うならば、幼稚とも採れる。そのような空間と情景の内で、恐らく私をカウンターまで案内したメイドがメニューを持ってやって来た。『今から夢の国へご案内しますね。』と、模型の蝋燭に息をふっと吹きかけ、騒がれたメイド文化の成れの果てを思わせてくれるような独特のルールを以て、独自の世界へ誘ってくれる。元々、こうしたテリトリーと何の共通点も無かった私は、ここでも又苦笑した。『アイスコーヒー』と私が言うと、『あ、それではセットにしますか?…そうじゃなきゃつまんなーい』と早口で透かさず、尋(き)く。これが東京ならではの、都会の中を生き抜く為の戦術とでも言おうか、所謂、目的を勝ち取る勝利のテリトリーでの、日常行為の産物であろうか。又、これがご主人様に仕えるメイドか?と少し疑う。一つ、根負けしてセットにし、二つ目、又、そのアイスコーヒーにアルコールを入れたら?等とサービスを追加して尋いて来る。さすがにそこまで来ると、尚、私は嫌気が差して、『いや、これで、アイスコーヒーだけでいいですわ(苦笑)』と返すとそのメイドは、およそメイドとは思えない程の嫌気が差した顔をしたまま店の奥へと一旦引き下がり、又、騒がれるメイド根性とでも言うべきか気丈な笑みを浮かべて早々現れ、次に、『チェキ』とかいう、写真をメイドと一緒に撮るサービスを追加して受けるか否かを尋いて来た。もういい、全ては経験の為だ、と何処かで開き直り、それに就いての説明を態とらしく尋ねた上で『あハイ、じゃお願いします』と少し不愛想気味に、私は応えた。(私の知人である)Tはこんな処に来たのか(笑)、芸能人のあいつは、あの娘は来た事あんのかな、等、ボソボソ呟きながらセットが来るのと、写真を撮ってくれるのを待った。左隣のあの男は鬱陶しい程に東京弁でよく喋る。又右隣の男は、彼は彼で寡黙に、又如何にもオタク系の雰囲気を醸し出している。自分の世界に浸り続ける面持あり、寡黙を続ける。私としては嫌になる空間である。メイドだけを見れば、確かに気分は良い。しかし現実では、これ等『オタク』と呼ばれている『客』あって初めて成り立っているものだと気付かされ、両者は引き離せず、少し落胆するのである。世間にオタクが一人も居なくなり、『客』として来なくなれば、店内はメイドだけとなり、商売も成り立たず、解散するだろう。又、別路を捜すかも知れない。そう成った時、メイドは『メイド』としては存在していないかも知れなくて、それ等の可能性に就いて想えばもう『メイドカフェ(メイド喫茶)』とは限定出来ず、他の、あらゆる職種への可能性を考えなければ成らなくなる。故にこの『オタクが存在する世の中』である故に存在出来る、というものに成る。それ等を踏まえながらに私が想うこと。それでも、私一人の為だけのメイドハーレムが欲しい。このメイドカフェに来る客をオタク系と想定した上での記述である。暫くして、『早く帰りたい』という思いに駆られ始めて、帰る算段を私はし始めた。している内に、やんなくてもいいのに、と思わせてくれる、客の内の一人が誕生日だという事で、誕生日パーティをし始める始末。何故か私はメイドにタンバリンを持たされ、一緒に祝っていた。それ等の一連がやっと終わってから、私はメイドとのツーショットをお立ち台に上らされて撮られた。『萌え萌えキュン』等と、店内に入ってから既に十数回聞かされているその言葉を、私も言わされ、その後、やっと帰された。正直、店内へ入った瞬間にも思った事だが、他のメイドカフェが全てこのような雰囲気ならば、私の気質からして合わない、二度と来たくない、等、酔わされた思いに又拍車を掛けさせられる自分があった。今、手許に、メイドがデコレーションした、メイドとのツーショットの写真がある。過去の空間を、写真を通して見て想う事は、やはり不思議と一つの思い出となってしまう、という事実に就いてであった。メイドの写りが、良かったからかも知れない。」、「ホテルの窓から夜景を眺めながら…」として「東京は祭の街だ。ここに、チャゲ&飛鳥が居、とんねるずが居、中森明菜が居、小泉今日子が居、椎名林檎が居、椎名桔平が居、あらゆるお笑いコンビが居、又日高のり子が居、富永みーなが居、もしかしたら織田裕二が居、舘ひろしが居、柴田恭兵が居、W浅野が居、とにかく、芸能人のあらゆる人達が住んでいる。これ等のビルの間を私のミーハーを兼ねた空想が蛇行して行くが、現実を生きる芸能人の存在と思惑は、私の知る処には無い、という事実を知ると蛇行した分、途端に疲れを覚えるというものである。それでも芸能人はこのビルの間に住んで居り、歩いているのかも知れない。又、国会議事堂が近くに在り、いつもTVで観ているあの遠い光景がとても身近に在り、その、いつも違い過ぎると感じる温度達が、ゆるゆると、緩和されたような気がした(東京へ来た途端感じた事だが)。今、東京タワーが見える。あの東京タワーに向って、ドラマとはいえ、昔、織田裕二と鈴木保奈美が『東京ラブストーリー』の中で走って行ったのかと思えば、その走った道ですら身近に感じ、そこへ行けば〝ああこんなものか〟と結局は思うのだろうが…、等と考え得る情景さえも与えられる。秒単位で動く街。人が生きられる場所じゃない。以前は漠然とそんな事を想って居た。が、実際来て見ると、正にその、以前言って居た事の内容が実感出来る。しかし東京には、実際に人がわんさか住んで居る。今日の訳の分らない彼等も(メイドカフェの存在を含む)、変わらずここに住んで居るのだ。その、様々な性質を併せ持つ人々の多さから、今ここでこれを書いている最中(さなか)でも、どこからか誰かが、私の写真でも撮っているんじゃないか?ビデオを撮っているんじゃないか?等と思えてしまう程、この街は抜き差しならなく思えて来る。又、感じた事だが、東京の特に若者とは、喜怒哀楽の焦点が合わない。これも以前から思っていた事だが実感するとやはり、身に染みる。皆、自分のテリトリーを持って潜めいている。見える範囲の内に、あの明りが見えるビルの一室に、あのアパートの一室に、コンビニの中、あの著名人が…という事だ。今やっているアニメも東京染みている。当りは良いのだが、ゆくゆくは理解出来ない。それは変らない。時計塔が見える。早稲田大学の物だろうか、昨日見た時はそう思った。ここに、この街に、あの、私が勝手に葛藤し、思いを巡らせ憧れていた八十年~九十年迄のアイドルが、俳優が、歌手が、又彼等に携わった者達が、残した軌跡の様なものがあるのかと考えれば、その感動に、手近に触れる事が出来るような気さえする。『共存』を掲げた世界観。何か、焦りのようなものを感じた。しなくても良いのに、ライバル視。ドラマ仕立ての家庭が、ここで繰り広げているんだよなぁ…、等、日常生活での『架空』のロマンスの共有さえ想像出来、又感傷にも浸る事が出来、ヒーローに成る事を夢見る。つい、東京弁が出る(苦笑)。東京とは綺麗に見える所は一角で、他所は結構古い?野晒し?新しさは私が今まで思っていたテリトリーに在るのではないか。そう考えさせられるのは、今東京を見て、である。ビルと空の境界線を眺めながら思う。『この街に俺の歌を響かせる。さぞ音響迷惑だろう、住民にとっては。』つい、何かしたくなる街だ。今さっき、梁君からメールが届いた。彼女は、私がまだ京都に居ると思っていることだろう。京都―東京間でもきちんとメールは届く訳だ。一人故に友達の存在、友達との関り合いが、大切に思える。今日は曇り。東京タワーの真上の雲だけが、ほんのり赤黒い。照明の所為だろうか。東京は、祭の街だ。数々の、これまで見た、知った芸能人が、集まっている街。祭好きな人種達の集まりだ。東京へ来た。ここまで来れば目立ってナンボだ、そんなところだろう。ここ(東京)へ来れば、そのような仮説・想像が現実のものであるかのように、実感出来る。」、「電車の中での一齣(ひとこま)」として「綺麗事の徘徊が目に映るようだ。今の世代、綺麗事の行方が分らないでいる。何を以て『綺麗事』の存在とするのか。何も分らない人間が、本来、『綺麗事』とするべきものは何なのか。何も分らない、という時点で既に、『本来』とも言えるものでもなく、正しく人間は、何者かにより、勝手に、だだっ広い宇宙空間に放り出された様な存在でしかないと、人間(わたし)が持つ事の出来る意識の為に、言えてしまう。それでも人間は今日まで、様々な歴史を作り、テーマを見出し、idea(アイディア)を作り上げて来た。これ等の事を事実と信じるならば、これ等が事実と成る。」、「東京旅行」として「今度の東京観光は、野暮用を済ませるのは言うまでもなく、自分が所属する土地と、他府県とを比較する為のものだ。土地柄、人、文化、(人、物の)在り方、空気の匂い、雰囲気、今この場では語り切れない事柄を自ず感じ、比較する事になるであろう。両地に於いての『漠然』への思惑の比較、と言っても好いかも知れない。これ等は私の糧となるものであり、愉しまれるべきものだ。旅をするという衝動から得た糧―今まで京都から一歩も出た事が無かった自分にとって、この旅行が成す意味は大きい。どのような観念、感慨、思考、心境、を生ませてくれ得ることか。出会い、を糧としての随想―として、特急に乗るまでに大きく分けて三人の人間(内グループを含む)に出会った経験を記す。心に残った人達の事かも知れない。一人目、バスの車掌。ひどく愛想悪く、『ご乗車ありがとうございました』の一言も何やらボソボソ呟いているだけの体(てい)に見えて、一歩間違えれば喧嘩(?)のようなイメージさえ過った。下車する時小銭が無く、両替を頼むと、快く『はい、どうぞ』と言ってくれる。車掌の顔は見ていなかったので分らないが、微笑んでいたかも知れない。他人とは、分らないものだ。二人目、京都駅に着き、新幹線乗り場(プラットフォーム)に立った時に出会った、自分が乗るものとは違う便の、丁度、一三時一五分頃に南方から来た特急に乗っていた二人組のギャル達。下りて来て私の横で、ぺちゃくちゃと喋っていた。何という偶然だろうか。私は京都駅に着いてから暫くオープンカフェに居た。私的な過ごし方だ。いつカフェを出ても良いのに、思い立ったようにプラットフォームへやって来た訳で、その偶然からそのギャル達に会った、というところであろう。こんな事は確かに日常、様々な所で起きているだろうが、このような時、『偶然の魅力』というものを感じずには居れない。三人目、のぞみ一二四号に乗車した後、私の指定席の隣に座っていた男性。歳は初老といったところだろうか。白髪が混じり、風貌は正に私にそのようなイメージを抱かせるもの。『あ、すいません』と私が窓側の席に座ろうと、通路側の席に座っていたその男性に声を掛けると、『あ、すみません』と両膝から下部をシートの内側へと引き、通り易いように空間を譲ってくれた。何となくだが、親切に加え、誠実な感じがあった。私が携帯を弄(いじ)り斃している間中、隣でずっと文庫本を読んでいた。その男性はきちんと自分の座っていた座席の背凭れを直してから下車した。このような出会いも、旅行の醍醐味であろう。そして私は今日、夜勤明けでその帰り道の途中、バイクの男に運転の事でイチャモンを付けられていたのである。その時からの後遺症とでもいうべきか、後味悪い気分がこれを書いている今も、私を包んでいる。この私のステータスも、偶然が織り成したものであろう。(二〇一〇年三月一二日一六時二〇分筆)」、「芸能人」として「人前で芸するなんて、まるで犬みたいだ。」、「無題」として「時代が古いとか新しいとか関係無い。私が生きている時代は、一つだ。」、「現在の『文学』への箴言」として「文学までもが、道化の手中にあるとは。道化をしなければ、己が充分に輝ける『花道』を与えられるであろうと期待する『文学界』という、自ず夢見た『自作(オリジナリティを含む)が生きるテリトリー』に辿り着くまでに在る恰も関所のような試験に、合格出来ないのだ。文学の試験がこのような様とは。愕然としたと同時に、興醒めるものだ。恐らく、試験に於いての個人の文学的功績の出来・不出来は矢張り、多数決によって決められる。」、「孤独に絶縁」として「寂しさを感じる心の隙間に、区切りを打とう。」、「無題」として「人の仕事は、生きることだろう。」、「無題」として「全部、触って、見て、自分で経験する奴だった。それが変わり者だと言われる。当り前の事だが。」、「犯罪の可能性」として「確かに、犯罪の可能性を想像して考えた上で論じるならば、事実に現実に基づいて論拠ある説を言えば、『U13』の様なものに成るだろう。しかし(本当にしかしだが)、空想の中で出来上がる犯罪も又、やはり確実に存在すると思うのだ。現実では、感情に任せて犯罪を為す連中がわんさか居る。愉快犯。衝動犯。その例一つ見ても私が言っている事は、一理通るように思う。感情とは人の中に在り、他人と折り合う前に、他人を理解する以前に、自分勝手に振舞って相手を傷付けたり殺したりするのだから、人は皆、他人との関り合いに於いてどんな形を見ても、やはり自分勝手に振舞っていると言わざるを得ない。とすると、犯罪を為すその瞬間、犯罪者と成る個人を突き動かしているものは紛れも無く空想(妄想と呼ぶに相応しいかも知れないが)から生れた衝動という事に成る。もっと言えば、人にとっては他人の気持ちや心は見える訳でもなく正確には感じ取れないもので、未知のテリトリーだと言って良い。詰り、この世に生れた時点から人は個人であり、独りである。独り故に想像の中で生きるしかなく、何故自分が今を生きて居るのかさえ分らない。自分が分らないのに他人を理解出来る訳もない、そのようなレベルの事柄(はなし)である。コミュニケーションに於いても人は常に相手の気持ちを模索、又は模造しながら、一つのルールに沿って成り立たせている。聖書の十戒。法律。その土地柄に於いて群れが良しとする他人との付き合い方、それに伴い生み出される雰囲気。予測するしかないのだ。人は常に、個人の空想の内から外界を観ている。となれば自ず、犯罪は空想の内から起るものだと(一つ)言えるように思う。歴史的根拠が無くても史実が無くても、突拍子もなく犯罪は起るものである。切り裂きジャックの事件を憶えて言えば、念を押す形になるが、『この一連のような事件は私を境に、今後の新たなる犯罪史の幕開けと成るだろう』という(恐らく切り裂きジャック)本人の言葉も、本人の内の感情から生れた憎悪が自ず本人を犯罪に駆り立てたのならまんざら出鱈目ではないという事に成る。私でもこんな事を考えられるのだから、親身になってそういう事を考える輩はとっくにその境地へ辿り着いている事であろう。現在の女子高生諸君、自粛せよ。その内、切り裂きジャックに殺(や)られるぞ。切り裂きジャックは堕落したような女が嫌いだった。今の女子高生、『私は殺されない』と自信を持って言えるか?」、「無題」として「男と女用に私自身から生れたクリーチャーを用意して在る。男用には『テントウ・マジック』を。女用には『ジャック・ザ・リッパー』を。『テントウ・マジック』は被害者を事故に見せ掛けて殺す事を能力として謳歌し、容疑は一切私に掛からない。『ジャック・ザ・リッパー』はそのままの実情を以て働く。一八八八年、ロンドンのイーストエンド地区で推定五人の娼婦を殺害したとされるあのジャック・ザ・リッパー。唯娼婦に限らず、そう、私に苛立たしさを覚えさせた女性全てにその狂気の刃を向けるという飛んだ優れ物。詰り、私に何かしらの苛立ち、不愉快、怒涛の様な怒りを覚えさせた者全てに対し、その恨みを発散させる為のクリーチャーを私は手に入れたのだ。今のこの世に於いて、これ程の喜びは無い。先日も、つい、追い越し禁止の車道で私の車の右横をバイクで掠めて通り過ぎた者が居て、その通り過ぎる際に私が態と右へ寄り嫌がらせをしたとでも言うべく、丁度信号が赤になったのを好いことに私の元へ歩み寄り、悪口憎音を吐いたあの若者は、その同じ車道で又同じように右から縦列した車を追い越していた際に丁度『ドラッグユタカ』のガレージから出て来た普通自動車とガレージを出た辺りの場所で正面衝突して、意識が無いまま乗り上げた歩道で俯せに倒れていた。私は縦列した車の列の後をゆっくり走りながらその光景を必然的に見たのだ。『テントウ・マジック』の天道虫のブローチを丁度同じように追い越して行く者を見て気付き、直ぐ様取り付けたのだ。見事に事故に見せ掛けてやってくれた。その者(若者)は男だった。胸がすうっとした私は『いい気味だ』と自然に呟いた。私は走りながら又救急車が私の行く方向とあべこべに走って行くのを見た。救急車で運ばれ入院したとしても、きっとあの男は死んだであろう。次は平原房江と取り敢えず瀬川裕子だ。女だ。楽しみである。『ジャック・ザ・リッパー』、愉しませてくれ。取り敢えず、この二つのクリーチャーには共通点がある。二つ共、私の恨みが形と成って出ているものであるが、二つ共他力を借りて各々の目的を果たすという処だ。他力故に、直接私には容疑が掛らない。無論、念力のような類のものであるから科学的にも証明されないで、この現実では先ず安全だと言って良い。科学的に証明されないものに対しては何とも手も足も出ずに弱く頼り無い権力か。私の自由である。」、「太宰の魅力」として「見抜かれたような気持ちに成るその一時(いっとき)に、自分が一人じゃなくて他にも同様の人が居ると、何かしら安心めいた感動と巧みな言葉遊びに加え、痒い所に手が届いているような素直な文章にそっとロマンスが添えられてある。そのような文の美しさ一つによりさえ、心身を救ってくれ得る程の感謝が在る。私自身が書いたように錯覚を覚えさせる作品中にある独特のロマンスにより、空想の中で、自分が『文豪名士』に成ったと錯覚を覚えさせられ得る太宰特有のゴールへ陶酔させる作品の出来栄えが、見事に世に呈されている故に巨木の様な感を受けるのだ。太宰を踏み台にして生きるというような活気を、太宰の不健全な作品の内容の文中一つ一つからも見出す事すら今となっては出来、妙な仲間意識さえも芽生えるのだ。」、「無題」として「今日、職場で、キレてしまった。先日の平原の一言がずっと気に掛かっており、苛々し続けて居た所為である。『食うねん、コイツ…』の一言が今は、心中に巨大な靄の様に、否鎧の様に、重く伸し掛かっているのだ。平原とは女である。あの女を殺してやりたく思った。その時その会話を一緒に聞き、していた瀬川も一緒に葬りたいと思っている。俺は屈辱を受けたのだ。三十三年間も生きて来てこれまで、そいつ等が知らない苦労をそいつ等よりも沢山して来ているのだ。それなのに高が二十三歳の女に十も年下の女に野暮られる筋合い等無いのだ。平原、明日、惨く殺されろ。こんな思いを持ちながらであるからキレたのは仕方無かった。山田という利用者にキレたのだ。その山田が他の利用者にしつこくこれ見よがしに他人に聞いて貰う愚物の態で、そこいらのイチビリ少年の様に一人、息巻いているのを横目で見ながら最初は我慢していたが段々とあの先日の苛々感も助長して、俺の怒りのボルテージを上昇させて行った。それまでは本当に気を良くした善人の態で山田をトイレにも連れて行き、『お茶、牛乳、温めようか?』等、下手に出て訊き、『コーヒー欲しいねん』と言う要望にも同じく気を良くした口調で『一寸待っててや、すぐ出来るから』と応えていたのだ。その一方に、善人の態で接していた俺にさえ当たり散らす様に、又、先日の事で気兼ねしている俺の弱気が隙を作ったのか、人の弱味に付け込んで来るかの様な、俺が最も苛つく態度であると思える構えで来たものだから遂に、堪忍袋の緒が切れたのだ。文字通り、キレたのである。『何でそんな何回も怒ってんねん!怒り過ぎやろ!ええ加減にしとけよお前!殺すぞお前!』と持って居た手提げバッグを思い切り(半ば態と)床に叩き付け山田に対し怒鳴った後、颯爽と逃げるように、他の利用者の居室へ入ったのだ。久し振りにキレた。怒鳴り声が半端じゃなかった。でかく、もしかすると中央廊下辺りに迄聞えているんじゃないかと心配される程のものだった。俺が怒鳴ってそれだけ言う間、山田は唯黙って居た。後、冷静に成って考えると確かに又山田の気持ちも分り、馬鹿げてたなと後悔するのだ。争って勝ち抜いた後の虚しさ、と良く耳にするがその気持ちが少し分ったようだった。常識に対する後悔のような虚しさが残った。『接遇・態度を改めよう週間』に入っている現在の我がユニット目標に思い切り反した言動でもあり、完全に蚊帳の外の態を痛感した様な気分だった。『冷静に成れ、冷静に成れ』と何度か他利用者の居室や又汚物室などで独り呟きながら、冷静を取り戻す事に努めながらも尚又平原への憎悪は増すばかりであった。確かにその先日よりは薄れて来ては居るが心中でのその事への煩いは並々ならぬものがあった。平原(あいつ)の所為で俺は山田にキレてしまったのだ、と素直に思った。それはもう仕方の無い事だった。だが、その後はこれまで通りで俺からフォローを入れて事を丸く収めたが。今日一日又そんな気分で持ち切りだった。今までにもそんな気分で職場で過した事は幾度か在った。ふと平原の仕事中でのミスをカバーして遣った時の事を思い出す。藤田の胃瘻PEGをトイレ介助時に平原が強制抜去した時の事だ。俺は心配しないように平原に優しい言葉を掛けその後、藤田を病院へ連れて行ったのも俺だった。女は恩を完全に仇で返す生き物であると改めて確信した。そんな事で今日はしんどい一日だった(二〇一〇年四月三〇日筆)」、「無題」として「現代人の感情が偽物にしか見えず、笑顔も作り笑いにしか見えないのだ。それだけ私は、現代人から離れて居る。ソルジャーの様に、一度は社会という戦場へ行き相応の経験を積んだ上で家という帰還国へ帰って来て言って居る。高校の頃に数学担当だった男が居て、その男の事に就いて少し語ろう。顔立ち、背格好、等は最早如何でも好いのだが背は高い方だった。一八〇位はあったろうか、低く見積もっても一七五以上はあったと思う。授業を通して知り合った当初は気質が柔らかそうに見えて優しい男だと思え、授業の進め方や教え方等にも無理は無く上手に思えて、何かゆとりの様なものさえ感じて好いと思った。そして三者面談だったか、母親と私と三人で話している時に話題に乗じて『星野富弘氏は僕の家内が生前読んでいて、僕も好きです』とその男が話しているのを見て聞いて、私の家でも星野氏の絵等を壁に架けていて親近感が湧いたのだろうか、益々好いと思った。或る日の事、運動会の練習中に集合するのに私が遅れて、それでも気持ちは全然焦らず初夏の様な涼しい風も吹いており、私は高校生の頃は現実に足が付かないくらいに自分の世界に浸る事が好きで、又得意だったのでその言動も私にしてみれば普通のものだったのだが、統率するその男の側からみれば苛立つ光景に見えたのだろう。『早よ並べ!遅いんじゃ!』と何時もの穏やかな物腰口調からは想像も付かない程の体裁で私に向って怒鳴って来たのだ。少し好感度が失せる。又或る日には、確か授業が皆終ってホームルームの時間の事。私の席の真後ろに北田とかいう同級が居て(後に中退した奴だが)、これが日増しに態度が悪くなり日々のマンネリに飽きて耐え切れなくなったのか、注意するのに私の頭を軽くではあるが下敷きで叩いたりし始め、その時はずっと私に喋り掛けて来ていたのだ。席が真後ろなので当然私は後ろ振り返った形で話さねばならなく、ずっと話して来るので私は好い加減前を向いて座りたいのに中々前を向く事が出来ないで居たのだ。その時である。『おい○○(○○には私の苗字が入る)!お前もう出て行け!!(上階の職員室前の廊下辺りまで聞える程の大声)』と運動会の練習中の時以上の怒鳴り声で、否もう私にしてみれば罵声に近い声量で、その男は怒鳴って来たのだ。又好感度減少。私の質で、私に危害を加えた相手を途端に私には嫌いになってしまうのである。又或る日の事。何かでその男に呼ばれ、結局注意をされた事が在った。『好い加減な奴やなァお前って』その男がその時私に言った事。厭味たっぷりな口調だった。今の私ならこう言い返すだろう。『厭味たっぷりな言い方するなぁお前って。お前、俺を捌け口に使ってんのか?』と。その時は内申が気に成っていて滅多な事はせずに居たのだ。それ等の過程を踏まえて居る内に私の心中に一つ、別の感情が湧き、こう呟いた。この男、この程度の男か。結局、何でも言える、もっと言えば舐めて掛れる相手であれば捌け口として使う、この男にとって当時の私は捌け口だったのだ。私にとっては安い男だった。」、「無題」として「私は高校生の頃、女装を常とした事があった。中学生の頃に比べて何故か顔立ちが整ったと思い、背も多少は伸びていたのだろう。その頃、偶々、母親と用事で内里辺りへ自転車で行った折にそこに在った本屋で『バナナフィッシュ』という少女漫画を一冊、持ち前の気紛れで十一巻だけ買い、読んでいる内にその主人公に憧れを憶え始めて居たのだ。十一巻を何故買ったのかと言えば、表紙のカバープリントが好かったからだ。ちゃんと理由が在った。主人公アッシュ・リンクス、IQ(Intelligence Quotient)一八〇以上、容姿端麗、ニューヨークはマンハッタン地区を縄張りにする不良グループのBossでありながらスナイパー的シューティングの持ち主、とにかくその美貌が物を言って、ゴルツィネとかいうマフィアの大Bossに気に入られて幼少時に誘拐され、幼児ポルノに強制出演させられ男ながらにして女の色香を漂わす。云わば両刀フタナリ像の様であった。行く行くはゴルツィネに養子にまで迎え入れられ、生活はシマを任され金は尽きる事も無く使いたい放題、至れり尽くせりの日々にある。日本のヤクザで言えば幹部である。その頃の私にしてみれば英雄的存在である。そう、アッシュは男である。」、「無題」として「あの人は自殺で華を咲かせた。私は生きて華を咲かせたい。」、「無題」として「私は、一回の裏切りだけで痛烈だった。」、「無題」として「尊敬される芸術家は得てして人の生活をして居ない。」、「無題」として「自分の生き方をしようと決心した時から自分から隣人は離れて行った。その時から少し経って芸術と隣人は共存出来ない事を知った。その独りでの人生を本気で生きて行こうとした時神は、その当人を応援して下さるだろうか。詰り、独りという形を認めて下さるかどうかという事だ。」、「無題」として「酷く、時代と私自身の擦れの様なものを、感じる。」、「無題」として「文学とは奈落の底に足を踏み入れるようなものだ。この人間の世界に於ける『哲学』という学問に対する(私の)思惑と同様に、考察する命題の目的の在り処を定める上でその可能性は無数に考えられて、その数は限りが無いように思える為だ。敢えて文学という学問の領域に於いて正解を求めなければ成らない状況に到った場合は、その『正解』というものは自分で決めなければ成らない。その状況は模範が無いのと同じ事だ。どのような場合に於いても心の拠り所が無い人生を送るというものには人を淋しくさせて、これ等の文学的な思想成るものを深く考えない事がもしも世間一般で『人間の普通の在り方』であるというならば『普通』の状態から外れさせて狂わせる事がある。」、「無題」として「いつか私が犯罪を為してしまいそうで嫌になる。そうさせるのは私の周りの人間達だ。そのような輩に対して『人間失格だ』と言って遣りたい。この真面目で正直な私を或る時に於いてここまで怒らせて落胆させて、一瞬とはいえ衝動的に気質を変えて仕舞うのだから。私は何の為の強さを得ようとしていたのか分らなくなった。その『強さ』というものは他人を殺すものであり傷付けるものである。傷付けて優越感に浸らせるものである。優越感に浸らせる癖に殺してしまえば、未だ経験が無い故に知り得ないが忽ち後悔を押し寄せさせる、そんなものだろう。人間に生れた以上、又私が私自身の事を意識的に知る限り、それに決っている。それ程に弱い強さなのだ、まさか『恰好』にも成らない。成る事が出来ない事を私は知っており気付いている。そのような『恰好』を欲しいと思った事は生来無い筈だ。それが一方では在った。だから周りの人間達の所為なのだ。私は自分自らでは決して思わない、考えもしない、思い付きなのだ。私にはこの世間が何処に向って流れているのか見当も付かない。正義と悪義、常識と非常識、信仰と不信仰、道徳と背徳、明と暗、光と闇、神と悪、情緒と不変、平凡と非凡、正と狂、云々…。どれも採っても右も左も分らず、大抵正直だけが取り柄と成る。本能の赴く処に至る。それで今、私を取り巻いている周りを邪魔に感じるのだ。正直だ。そう思わせるのはそう思わせる周りが存在する故だ。今まで幾万回以上も思い直し、否待て、と共存を図って来た。それ故に今日の、今の、私が在る。『ストレス』等と訳の分らない、何処かの偉い学者の会合等に於いて考えられた頼り無いその場凌ぎの虚無な言葉は、本来人間の、否私の生活には不要な言葉の様に思え、異国の者の言葉の様にも思える。だから何だ、で話は終る。そのような言葉を聞いても私の思惑に対しては関係無く、私は自力でその『ストレス』とかいう自然の出来事に打ち勝ち回避し、今まで生きて来たと主張したいのだ。『ストレス』とは自然の苦しみなのであろう。何の事はなく既に用意されていたのだ。取分け話し合う必要は無い。聖書に『試練』『味付け(塩味)』という言葉が在る。私が生きる時代は感覚で捉える事が出来るこの光景の一つであるが、それでも尚歴史というものを引用して言えば、聖書は私が生れる以前から在ったもので、その内に記されている言葉も私の命の始まりが起点であるとするならば既に用意されていた、と言う事に成る。私は聖書に記されている言葉を知っており、その内に記されている『十戒』という人間が本来守るべきものとされている規律の様なものを神からの箴言であると信じて、少なからず守っており、所謂、既存するルールに沿って生きているのだ。その既存するルールに背く事は人間として許されない事なのか。今の私には全く分らない。」、「無題」として「俺は女と暮らす事が出来る、否一緒に居る事が出来る能力・技量さえ持ち合わせては居ない。」、「無題」として「私はここの所、最近、携帯にばかり字を打って白紙に向って字を書いていない。奇妙な文句であるが、真面目だ。今、私の部屋の窓から出た直ぐのベランダで父親が懸命に『コーティング』とかいうのをしており、『カッカッ』と音が聞えて来る。それを聞きながら少しおどおどしながら、これを書いている。今、父親は階下へ下りて行った。少しホッとしている。生来、私は一人が好きなのだろうか。否そんな事は無い。子供の頃は友達四、五人と何時も一緒につるんで、一緒に成って竹藪で遊んだり野球をしたりしたものであった。まさか。でもそれは子供の頃の話で、行く行く成人に成るに連れて人格が出来上がって行くという文句を聞いた事がある。又、その出来上がった人格こそがその個人の生来の人格だとしたなら…『好き』と『性』とは別のものである…、いややめよう。こう考え始めればいつも切りが無い。話を戻そう。そう、私は白紙に字を書かなくなったのだ。理由は、書いている内に次に書きたい事、話の流れの持って行き方等を、思考の混乱の内に忘れてしまうからだ。一つの漢字を書くのに相応の時間が掛かり、書き上げる事に夢中になって文の内容を忘れる。又私は気を衒うものだから、誰に見られても可笑しくない様に漢字を正しく書きたいと思い、その漢字を思い出す事に集中しその思い出している内に又何を書きたいのかを忘れてしまう。次の内容を書くのに行き詰るのだ。子供の様な言い訳だが、これが真面目なのである。この前よく行く、否殆ど行き付けの樟葉モールの本屋の店頭に並べられた作品の内に太宰の直筆本が在り、それを手に取って読んだ。『これが太宰の字かぁ』と感動しながらも一瞬羨ましかった。そして自分の今の不甲斐なさを目の当たりにした様な気分だった。自分は白紙に向っては何も書けないのだ。その直筆本には、本当に太宰本人が書いたものだと信じて読めば、挿入句や罰印等、所狭しと印してあるが実に端正なものに見え、私の偏見が在り、私の(所謂)文学的精神を揺さぶる分には充分であった。原稿に筆に依る字が書かれてあった。自分もこのようにして書く事が出来ればと思うと同時に、自分に果してこのように書く事が出来るのだろうか等拾い読みをしながら自分を呵責し、一個の文学作品をとうとう最後まで読んだ。漢字がその直筆中で余り遣われて居なかったのが救いだった。まぁ清書、出版の際には活字に直せばどのような感じでも変換出来るという事は先刻承知ではあるが。今これを書き始めたきっかけに成ったのも同じ本屋で買った太宰の『きりぎりす』を読んだ為かも知れない。私は影響され易い質(たち)にある。一時(いっとき)、文学が織り成す『陶酔の世界』の様なものに憧れを感じた事があった。又これは今も私の心に留まり、一つの命題に対する考察方法・表現の仕方等に対して影響し続けている。一文一つで読み手を翻弄し得るその成り立ちに何か、奈落の底に足を引っ張る程に文学の世界に生きる魔性の様なものが私を掴んで離さないでいる光景を見たのだ。個人の心中を探究させられるこの文学の力、成るものに魅力を感じた。それ等の魅力は私にとって絶対的に大きなものだ。先程も述べたが、私は影響され易い質で、文体構成を織り成すその一文に私なりのロマンスへ陶酔させる力が在るのを見付けた経験が在る故、誰彼の文学作品を読むと、人目を気にしながら良い物を書きたいという気を衒う私の生来の質が疼くのだ。何か、気の利いた一文を私も書いて他人を感動させたい。その繰り返しで成される糧に依り、後世に語り継がれたいとも願う。この一念は心中に強く残る。太宰の著書を読むと気が楽に成る、と以前言った事がある。誰かは気が重く成ると言った。又他の誰かはそれ以前に大嫌いだと言った。私が、気が楽に成る、と言うのは不健全な生活をしても許されるという何か安楽のようなものを太宰の書くものの内に見出だすからだと思える。決って、感動を受けた太宰の文とは不健全な内容のものであった事は記憶に鮮明である。間違い無い。私が相応の質の持ち主であるからこそ相応の内容を含んだ太宰の文に素直を手に取る事が出来、感動を受けるのだ。素直というものには矛盾を感じさせない強い味がある。私は太宰の文章・文学・思惑が好きである。こういう事を考えながらふと今働いている職場での事柄の在り方・自分の在り方等に思いを巡らせて見ると、酷く全てが馬鹿らしく感じられ周りに居る他人が幼稚なものに思え、早くここから脱出しないとさえ感じられる。利用者との交流、又私と利用者との在り方に思いを巡らす事には相応の価値が在ると思えた。職員同士の交流に耐え難いものが在った。男性である事の威厳を異性に対して保ちながら所謂性の生き残りを懸けた日々の所作と気の遣い合い、話す事が出来る会話内容の選択肢の少なさへの不満足、又それ等から織り成される低俗な雰囲気、それ等に思いを巡らせると馬鹿らしくなるのだ。その現実の内に生き、長い物に巻かれる体裁を装い続け自分すら見失う日々。職員個人がどうのこうのではなく、している事に耐え難さを感じるのだ。協調性が無い私の質だからかも知れない。皆で何か一つの物事を行って行くというのはこれ程馬鹿らしく幼稚なものか、等何の根も葉もない儘に問答する始末である。又金の為にとしたい事も出来ずに、これが当り前だと自分を誤魔化して一つ処で人生を終らせる可能性を秘めた現実が自分に伸し掛かって来る事に絶対的な諦めさえ見出す。協調性を保つ事は煩わしい。早稲田大学にでも入学して、暁、中退しても好い、何処かの狭いアパートでも借りて、買い取りで住めれば尚好いが細々太々、私の文学を確立させながら生計を立てる事が出来れば幸せなのだが。しかしそれも無理かも知れない。私は又生来の、この世に於ける仕事というものに対して飽き性であり怠け者である故に。」、「無題」として「この男の小説に書いてある内容は、皆嘘だ。真実が見付からないこの世界で生きている虚無感。女の気持ち等全く分らん。鬱陶しいだけだ。腕力では必ず勝てるからどうって事のない存在に思える故一対一に成れば、問題無いように思う。何か私にとって良からぬ事を画策していても気に成らない訳である。幼稚な論に思えるかも知れないがこれが結構現実では考えないでは居れない内容なのである。しかし女だけではなく当然他の男が居る。神様は何故この世に私以外にも男をお創りになったのだろう。私にはこいつ等が無駄に思えて仕方ないのだ。それ等男が居る限り、腕力で必ず女に勝てるとも言い切れない。その女が内緒で他の男とつるむ事があるのだ。となると腕力で勝つとか言い切りたければその男をも腕力で勝らなければ成らない。中には上背(たっぱ)のでかい奴やボディビル並の筋肉質の男も居る。これ等に勝つ為には最早何かしらの武器を手にするのが手っ取り早い。寧ろ歳を取れば体力も衰えて来るらしいので鍛える事なんかはせずに、大体がそちらの方を好んで選択するようだ。そしてその武器を持った者の行いの果てには殺人、所謂犯罪がある。詰り他の男は殺さなければ成らないのだ。これが所謂極論である。そして又女は生れつきの涼しい無垢な顔をしてその辺りの事はきちんと知っているようだ。女に関する経験から推測する。誰かの言葉で『この世を地獄と呼ぶのに相応しくないか』というのを憶えている。一歩、思考、言動、を誤れば正にそれが当っていると言わざるを得ない状況を作り上げるのに相違無いと思える。街中の喧嘩、国家間での喧嘩、大抵が詰らなく如何しようも無い故に、出方を間違える場合が確率として増えるのだという事を踏まえなければならない。慎重を欠く故に。人間は素晴らしいものだ、人間はそれ程出来た(かんぺきな)ものではない、どちらの言葉に対しても自信を失うというものだ。素晴らしいとは思わない。出来た(かんぺきな)ものではないとも思わない。当り前の存在であると思うと同時に他力的な力により人間は生かされていると今尚思える。人間は人間を取り巻く環境内での問題を全ては解決出来ないものであると、見ていて思える故に。」、「無題」として「水木しげるがインタビューを受けて自分の生い立ちやこれまでに培った思想から生れるのであろう、糧から得た自分の思惑等を語っていた。インタビューに於いて水木しげるがインタビュアー(松本和也:以降、インタビュアーと記す)から『先生』と呼ばれているのを見て聞いて、『やはりそうだよなぁ』等思っていた。『鬼太郎』以外の『先生』(以降、水木しげるの事を『先生』と記す)が描いた油絵や、当時に有名であった女優のデッサン等紹介されておりそれ等を見て思った事は、『やはり鬼太郎以上に綺麗で上手いなぁ』であった。『やはり』というのは以前に『先生』が描いた『鬼太郎』以外の様々な絵や漫画を見て知っていたからである。『墓場鬼太郎』、『神秘家列伝』、『妖怪列伝(かどうかは忘れたが)』、様々、というには数が少ないが私にとっては、様々だ、と言いたい程にそれ等の絵、漫画から得た感動は深く、その感動から得た糧が多かった為それ等の多い糧が様々であった、とでもして置こう。『先生』の話の内容に戦争の話が在った。二十一歳で召集令状が来たという。軍隊では沢山上官に殴られた、と笑いながら『先生』は語っていた。敵兵から逃げる時の話はとても素直に私に感じられ、感動させるものがあった。戦地で敵兵から逃げる時は一番に銃を捨てたと言う。理由は『重かったから』だそうである。軍隊では、銃は絶対に捨ててはいけなかったらしい。そのインタビューの冒頭辺りで『先生』自身が言っていた事に、『私には私なりの法則(ルール、と言って居たかも知れない)というものがある』というものがあり、それを承けての対応なのか、その敵兵から逃げる時のエピソードに対したインタビュアーによる質問に、『それが先生の法則だった訳ですか?』という下りがあり、私も聞きながら頷いていた。『先生』は幼少の頃から酷くマイペースだったらしい。それ故に個性が強く躍動する漫画が出来上がるのだろうなどと、再度納得させられる訳だ。戦地でマラリヤに罹り、丁度その期間に爆撃で左腕を損傷した際でも『腹は減っていた。私は生来胃が丈夫でしてねぇ』と言う『先生』の言葉に対しても再度納得する。もう一つ戦争の話に於いて感動したものがある。『戦争というものは所詮無理なんじゃないのかな。今の若者にとっても無理な事だと思う』という言葉。この言葉に私は痛感するように感動した。『その通りかも知れない』、直ぐ様思った。何故このような事を言えるのだろうか、と疑問に思う程であった。戦争を経験した故であろうと思う。『先生』が描いた絵、漫画のストーリーの内には、他人が言っていたのを聞いた事があるが、私自身の思惑の内に在る懐かしさを思い出させるきっかけを見るような気がして、その延長に於いて、昭和時代に体験し又思いを馳せる事が出来る限りの、想像に於ける懐かしい情景を作り出して、その構築した疑似的な情景に浸る事が出来るのだ。幼少からその様に感じ得ていたので『先生の描いた漫画』は私にとってそういうものなのだろう。私は『先生』の描く漫画が好きである。『先生』と親交が深い京極夏彦を羨ましく思う程に。最後で、現代の社会について『先生』と『先生の妻(途中から出演)』とインタビュアーとで語っていた。南方の国に居たトライ族の話が又ここで出て来た(冒頭でも『先生』が語っていた)。その南方に住んでいるトライ族が織り成している世界がとても住み心地が好く、『これからも何度でも行きたい』とインタビューの内で『先生』は何度も語っていた。当時は貧乏生活が儘成らなくて、脱出して又南方へ行き永住したかった、とまで語っていた。話の流れに乗じてインタビュアーが(この働かなくては行けない多忙な日本社会で)『私はどうやって生きて行けば良いんでしょうか?』と『先生』に問うていた。『先生』は『この世は地獄だと思って諦めなさい。諦める他仕方無いんじゃないかな、このJAPANでは』と言っていた。妻とインタビュアーは狼狽、辟易、していた様子に於いて、嗜める様に『先生』が言ったその言葉と口調に補足をしていたが、私は補足する者の方が愚かに思った。利口ではない、と妻は女だからともかく、インタビュアーに対してはより思っていた。というのは、『先生』が言ったその言葉のニュアンスには、以前私が困難に出会った時にその困難を回避して新たな活気を得る方法として考え出した思考方法と類似していた処が在った故に、同調した為であったかも知れない。『この世は地獄』と思い込むその心境の背景には、もうこれ以上は悪く成らない、という意味合いが含まれ、故に、先に希望を見出す事が出来るという思いが含まれるという事で『これ以上は状況が悪く成らない』という処に安心感を得て、悪くなるにしても今のこの状況が最悪であり悪い方への先は無く、詰り良い方の先へ向く可能性しか残されていない、という結論を見出せる訳である。その言葉への対応としてインタビュアーは『えぇー…何か、癒しみたいなものを期待して聞いたのに(苦笑)…』と言い、妻は補足する様な体裁で言動を呈していて、その言葉の内容を捉え切れずに対応している様に見えて、愚かだ、と思った訳である。もう少し真面なインタビュアーを用意しろ、とさえ思った。私は一度、『先生』と直接話し合いたいと思った。」、「無題」として「私は今までの随筆を他人に対して書いたのではない。自然に対して、書き残したい、と思い書いたのだ。」、「無題」として「その人の文章が所謂その人の文学作品と成る。作品である。それ以上でもそれ以下でもない。書きたいように書けば良い。書き方を知らない者が書いたとしても、その書いた物は文学作品である。」、「無題」として「太宰治。余りにも素直だったのだろう。彼は『君は自然だ』と誰かに言われると嬉しかったらしい。『もの思う葦』の文中で記していたのを憶えている。作家は真実の事を書くべきであって、嘘を書くべきではない。私のこの感想は当っているのかも知れない。(独り善がりであるにしても)嬉しい。」、「無題」として「伝えたい義を文章にする際に、その内に思いの全てを詰める事が出来た上で、その文章は短ければ短い程良い。私は以前、文学作品というものは独りで書くものだと言った。しかし他人が書いた本を読んでいる。何故他人が書いた本を読んでいるのか、読む必要があるのか、という疑問が立ち上がる。感傷に浸り、自分にとって良いと思える糧を他人が書いた一文から盗みたい、と思う故ではないだろうか。それに違いないのだ。又、他人はどのような作品を書いているのだろうかと展望を図る具合で作品を眺める場合もある。それに違いないのだ。私も他人と同様に、今これを書きながら既に『誰かの調子』を真似している。努めなくてもすらすら出来る迄に成長した。句点、読点、の打ち方等もその『誰か』の真似だ。しかしそのようなものは隠す必要も無い事だという事も自らの考察の内より見出し、今はその見出した答を信じている。それはそれで良いと思っている。思想の在り方までは真似出来ない。他人と私とが異質のものであるように、成長の仕方は異なる。表現の仕方を真似しても問題ではない。後から、あ、この表現方法は偶然私の仕方と同じだった、と嘘を吐いたとしても、構わないのだ。皆恐らく持論を持って生きている。その持論の正体を誰も知らないのだ。そして人間は自然に自覚を憶える。『大器晩成』という言葉が在る。自覚を身に付け、『大器晩成』という諺をどのように自身の思惑の内で変えて模倣しても、当人の自由である。人間は自身の成長を自分に何時見るかは分らないものであろう。自覚を憶えた後に持論が固まって来るものであるとすれば、それ等の成り行きが自然である。他人からどのような評価をされても最早関係が無い。本来、文学作品というものに対して、読者が採るべき所作というものは、唯読み、感傷に浸り、喜怒哀楽の内で愉しんで読み終えれば後はその作品を煮るなり焼くなり売るなり、読者の自由である。そのように思われる。実に単純な事である。やはり私は、太宰文学には相応の感銘を受けている様子で、今も又、太宰の作品の内から一文を拝借し写した。しかし『私も』とは言わない。単純に、素直に、書けば良いのだ。私が書くからこの文章は私の文学作品と成る。それまでの事だ。書いているものの底に自身の思惑が在れば盗作には成らない。嘘を吐けば自身に吐いている事に成る。一々、簡単な事を書いた。太宰の作品の『きりぎりす』を読みながら、書かずには居れなかったのだ。」、「無題」として「文学作品とは他人から評価され得ぬものである。」、「無題」として「世間の輩に対して問いたい事。如何して大抵嘘の事を言っているのだろう。単純に思う。喧嘩に成るからだろうか。今の時代の輩は、喧嘩する事は殺し合いをする事に成るようだ。喧嘩の仕方すら忘れてしまったらしい。大人の力で、況して力自慢が本気で成人男性でも殴れば、死ぬ事だってあるのだ。そう、しかし論争する上で、日常では口下手な輩は負けるように見える。その場合、発散出来ない分、暴力で傷付けられる事より深い傷を負う事がある。しかし覚えておくが良い。口下手な輩が論争で負ける等という事は全ての場合に於いてその相手に他人の話を聞く能力が無い故にある、という事を。本当に論争で負ける輩とは、話す内容が低価値な輩の事だ。価値等はその場その場で決まる。相手が話そうとしている内容を先読みしてその話の内容の先を言い返して来るだけの輩、方向が違った内容の話を急にし始める輩(自分の興味がある事しか話す事が出来ない輩の意味)、集中力が続かないという理由の為か最後まで相手の話を聞く事が出来ない輩、色々である。その様な輩は信じられない事に実際に居るのだ。最早人間が崩壊してしまった輩、としか言い様が無い。『聞く』という能力が欠落しているのだ。私は誠実な思想家に出会いたい。その様な輩と話す際には、その輩は自身の思想を揺ぎ無く持って居る故に、下らない、意味が無い、したくもない、競争をせずに済むのだ。」、「『群れのルール』、『大衆が生むルール』」として「『裸の王様』という物語の内容は、銀ルピーよりも価値の無いマリア・テレジア銀貨を使用した中東の人々が居たという事実の内容(以降、後者と記す)と同様である。透明の服とマリア・テレジア銀貨は、付随的な盲信を作り上げた。『裸の王様』では非難回避の為、後者では潤滑な生活をする為に環境に対応する必要が在り、個人は皆と同様にしなければ成らない、というルールが生れた。そのルールとは盲信を生むのである。」、「『個人が持つ偏見により変る価値観』、『大衆と個人とが各々持つ価値観の擦れ』、『他人を(他人の心が見えない故に)知り尽くせない故に変動する価値観』」として「『裸の王様』(以降、前者と記す)という物語の内容と、実際に第二次世界大戦前にマリア・テレジア銀貨を使用していた中東の人々の事象の内容(以降、後者と記す)とには同様の道理が在ると言える。前者では透明の服を、後者ではマリア・テレジア銀貨を、大衆の内で作り上げた価値が在るものとしている。前者では見栄が、後者では盲信が『その場での価値観』を作り上げた。」、「無題」として「形に捕われてばかり居ては内容を理解出来ない。」、「無題」として「この一つのもの。他人が喜ばなくても良い。俺だけが喜べばそれで良い。他人に裏切られたくないという、臆病から生れた気持ち。」、「無題」として「二〇一〇年六月八日から九日に掛けて私は夜勤の仕事であった。その日の宿直看護士はSという女で、私が以前から密かに性交目的で狙っていた者であった。その日の私は何故かその女とよく喋り、普段よりも現実的な話をする事が出来、普段と同じ様に喋っている内に徒然に話題を嫌らしいものに掏り替えて行く事が出来たのである。Sも女である故か取分けそういう話題が嫌いでもないように見えて、その嫌らしい話題を続けて行く事に躊躇しない様子が在った。私は、以前に付き合っていた彼女と別れてもう三年以上が経過している事もあり、女の柔肌が恋しくなっており、俗に言う処の所謂『女に飢えて居る』状態に在った。故に何でもいいからこのSという女と嫌らしい行為をしたいという想いに駆られて、その行為をする事が出来る状態へ辿り着く為にSも私と同じ様に嫌らしい行為をしたく成る気持ちにS自ら思えるようにと、その原動力に拍車が掛るのを助長する様に様々な事を言った。久し振りにそういう事の為に口八丁に成った。しかし私は以前―彼女と付き合っていた頃―の様には言動を操る事が出来ず、Sが私に言った事に少しでも否認や嫌がる素振りを見せて来ると、私はそれ以上に私の欲望を満たす言動をSに対して無理強いする事が出来なかった。互いに話した内容の一部を暴露すると、『オナニーを勤務中にした事がある』、『俺、脚フェチやねん』、『チュウ(接吻の意味)しよう』、というものが在る。後になって思う事は『書くのも悍しいくらいの事をよくも俺は喋っていた』というその行き過ぎた言動への後悔と達成感とを少しずつ含めたものであった。『俺脚フェチやねん』という私の性癖を発言したきっかけはSがその時膝少し上から足が全部出る程の半ズボンを履いていた故に在る。『チュウしよう』と発言したきっかけは話の成り行きで『(『じゃあ今チュウ又はH(性交の意味)しようって言ったら出来る?』と私が
龍之介の賞
通り過ぎたあと
快晴の空に
浮かべた紋章
人の垢だけが
余計に付いて
壊れたTruthが
好き勝手に逆上(のぼ)せる
偽りだらけの選考・賞評
御託の活気で(御託が騒いで)
料亭でかっぽれ!
「無題」として「若い娘の強さ。年老いた女の可憐。娘の若さが母親の老いを呑む時、天地が逆さになる程、娘と母親が信じていた人の秩序が乱され、娘は始め遠慮したが悦び、母親は泣いた。程好く傍から見て体裁が整い、不気味な幼さを持つ娘であった。母親は自ず娘の手に冷たさを覚え、一度娘を自分から遠くへ置いたがその頃自分達を取り巻いていた余興に絆され、又今度は自分から娘の所まで行き、その為、娘は母親を下に見て、その母親を丁度好い自分の為の踏み台とした上で力を付けられる拠所を知った。その娘と母親は人の内で互いを見失った。〝小説〟という枠から脱するのだ。遥か彼方へと脱するのだ。何かを抱きしめたい。〝三日目に甦る〟とは〝永遠に甦る〟という意味か。聖書を読んでいた時、眉間から皺が消えた。今は女が気取っている時代だ。女という安らぎが男に毒を盛ったので、男は女を懼れた。神は女のものではない。人のものだ。神はその人に必要なものを知っている。神を信じて神の力を希(こいねが)う人は、その人がそこに居なくてもその人の仕事をその所でする。女は一つの顔だ。女は腕力が無いから嘘が武器になる。故に女は平気で嘘を吐くのだ。身体の救いは一時(いっとき)のものであり精神の救いは永遠のものである。人は神にこの永遠の救いを求めるのだ。俺は二度とイエス様から離れたくない。虚しく孤独に成るのが怖いのだ。何を話そうか、と考える必要(こと)はない。考えて話すのはあなた方と共におられる神である。西洋人が男なら、東洋人は女である」。
小鳥は相変わらずのんべんだらりんと身を宙返りさせては己の身内に刻み込んだ筈の分銅に重力を忘れられ、どのみち蝙蝠傘をぱっと拡げる烏有の体(からだ)を他人へ見せ付け、帰ろうとする丁度好い体裁に言葉を失う最中(さなか)、人は又、聖書と神の言葉を大事に聴くのを忘れたらしく、滞り無く担がれ続けるお道化た拍子に表情(かお)を見せ付け、透明色した人の紋章(もじ)には偶然手にした偶像(イルド)を重ね観、ガラスケースの壁に射される言葉の壁にはつい又ふらふら夢を見ながら、体(からだ)を当てるを趣向の内にて決定して活き、その儘或いは何か拙いスポーツ等にて講じられ得る〝体当たりをする未完(みじゅく)の動静(うごき)〟は陽に醸せる自分の体(からだ)と「脆さ」を携え徒労を選び、憎しみ損ねた孤高の運動(はこび)は現行(いま)を忘れる別の寝間へと伸展していた。屈強極まる動体が程好く又自身を折り重ねた形容をその身に保(も)たされ、白を黒と言ったが早いか、如何とも出来ずの人の胴体は又程好く重ねられた人道(がらん)の上をてくてくくたくた、高利貸しが呈する人の挙動に宛がわれるまでの、一匹の苦心に肖り続けたオルガを忘れて未完(みじゅく)を試み、孤独の面持ちを人に見せ得る得意気に立つ術を心得、どことなく黒く塗り潰されて仕舞えた無業が意味する巡来へと又刈穂を紡ごうと必死に成り果て、人の骸はその日の仕業が終わりを告げる十七時きっかりの警鐘(かね)の音に啄み損ねた夢を垣間見、遂には又如何しようかと苦心あぐねた小鳥の囀りに耳を貸すのだ。異国の地へと巡航する人の舟の帆数は遠くへ置き遣られて人々は遂に見放された儘の淡く光り輝ける道標の態を孤独に晒し、通り一遍に辺り一面に拡がり人を盲信させ続けて来た人勢(じんせい)の虚無は所々に於いて又要を忘れて、精一杯に子供をあやし眠らすマグマ色したドグマを人の教義としてその身を立て起させ、外国人がその麓へ来ようが同国人がその頭上へ輝こうが藪睨みする術をさえ知らぬ傍観人の体裁は人の熱から程好く一線を画して建てられた古宿の内で暇(いとま)を貰い根付き、白紙が掲げられた人へのオズマを軽く指で撫で終えてから屈強に呈するその身を騙した儘、次の目的地へと放浪を続ける。結果、孤独を忌み嫌った人々の煩悩は白痴に澄み切らせた儘の一村の如き一群の内に各自己を垣間見果てて路頭に迷う破目と成り行き、遂には各自が各自の額へ夫々の掌を遣る事さえも静かに放られた儘、まるで無法の秩序がその所を取り巻いてそこへ根付く人の両脚を固くさせて居た。固陋者と罵られる者は何処まで行けば己の従来から成る何者かへの信心を取り戻せると又頑なを憶えさせられ、そこで遍く琥珀色の銀紙に包まれていた無色の叫びに一身を踊らされて、渡海する迄の勇気を遂には己の身の内に知る処と成った。清廉潔白な各自クリスチャンと称される者の信仰心とは常に時の虚ろと共にまるで季節よりも変形させられるものであって、白紙は人の身の上に掲げられたが一杯にお道化たポーズを認められず儘に憤悶の内に人によって隠された挙句、通りに咲く〝片隅の葉〟の様に茎は根太く、その花が己を照らさずの嫌われた葉を晒して居た。悉く根城を奪われたように人々は何者かの光が後光の様に物に隠れて天空より差し下りた人光のライトに照射を浴びて、悉く消えて行こうとする自分達の勇気とは別個に立てられたイムズ成る外来心に又盲信と虚無の行き先とを教えられたようで、小言を連呼し続けた小人はそのホビットが言葉の上に呈し続けた流転し人の内へと流動し行く一個のオルガを又人に見せ行き飼わせる嗣業を地の底から下して来て、如何とも出来ない人の歯切りは脆くも朽ち果てて行く程の身を暴露させる人にとっての諸刃を又、人が構築し果てる文化・文明への幕開けの序章として湯気を立たせたチーズ臭の体裁へと落ち着かせ、人を喰うのである。憶えないで好い幼少の映像と虚無を働かせたまま人身の内に一匹のオルガを飼わせようと努めた常緑の小木達は、砦の固まる迄を待てずの人の骸の最期を見果てた故の挙動と巨躯を人々の眼(まなこ)と心の内に晒した傾向が在り、小言で成り立つ人の商売達は皆清廉潔白だと言い張りつつもその食卓を囲む際に暴露され得る己の身には正義が埋れて、各々が苦心した儘で努めて作った各々へと当てられた糧を頬張る連続を見知る破目と成り落ち、急いては事を介する、の言葉を滞らずその意味だけに留め置こうと尽力させた個人への一種の暴力が寝耳に水の如くその頭を擡げさせられ、遂には又尽力が群力の呈した湖を事も無く治水の為に治めて仕舞った人の王を各々の頭上へと輝かせた後、人も孤独も環境も又喜んだ。
精力溢れる静謐に折られた功徳の仮面は人の目前まで天地から落ちて来る虚空の礼拝堂にて正義と秩序を程好く構築し終えて無心を重ね、段々日暮れて雄蕊も雌蕊もかくなる人の植物の芽(目)も根も失くなる人の夜が又この地へと天から投げ遣られるまでの過程を卑しみ、築き終えた人の砦は黒く塗り潰された白紙を鉄壁の防御(まもり)主としたまま無表のシグマを角度見据えた儘で人の心に突き刺し、この世のモーションを悉く又葬り去って自ら行く人道(みち)を確立しようと自然の内で躍起と成った。泡を吹きながら嘲笑の内を程好い自然の謳歌を愉しませる源流に狙いを定めた儘で、図誌の様に世界を古典へと開闢し保身を図った一匹のオルガは人の頭(こうべ)を程好く小さく纏めてケースへ収め、この地球上に踊り猛る女の炎と轆轤(ろくろ)の歯の音が交錯して進退し、翳りを知らない一匹の蝶へと成り変わって行った。何処からともなくやって来た基調を主人としながら従来の方針と躍進に闊歩し続けて行った動乱の数々は、後光と称され得た功徳への信心をと又あらゆる来物(らいぶつ)が訓(さと)す体裁の隅々を見掛けて正否を見付け、篝火を一つの頭と一つの信心が歩み行く一本道(さき)へ又程好く進ませ短く祈り、当面の前進を図る内に対峙する悪の正体は身代金を内手(うちで)に貰えた我が懐の内に在る、とその一本道(さき)へ歩を進める各人は煩(うるさ)く言われ、言った光は悉く又己の体を縮めて仕舞って研ぎ箱へと身を入れ、誰にも知られぬモーリタニアの杯、沼の内にその光(み:身)を隠して行った。荒廃する自然の内の命達は先ず各自、自らの居場所と秩序とを求めて一線上に宿り続けた筈のオーラと存命とを探し、子供の顔と子供の親とが腹を空かして泣いている悲劇の展開を一冊のノベルへ叩き入れる様にして望郷の内に各自の夢と活力を知り、そこで見知った子供の声明に唯一輝いた恬淡成る再来に程好く灯された人の活力が不死へと躍動出来る天体の様な優雅を見知って、動静極まる無心への闊歩は人心(じんしん)の重力が又程好く天体を吟味し得るまで一体の成長を休まない未制限の重力と衰退とを重ねて気付いた。慌てさせられて行く人智への個人の闊歩の程はその清廉成る哉、心の余裕(ゆとり)に核心から成る無業の羞恥と清濁を知り、有り触れた金銀銅貨が人々の手から手へ流通されて初めて交される経済と政治の謳歌が又一段と酔狂の孤独を自分達への報酬だと勘違うのを知り、人の行方を悉く変えられるシーズンという壺の内で這い回る根切り虫が足を踏み起した儘で、人の着物を剥ぎ取って行く合間に夫々の宝玉とも成る憐みの始動を掻い摘み己の身の無臭の為の糧とする情景(ようす)が見えた。三味線を散らした一匹の僧が遍く天河(てんが)を越えて降りた人の世の世界の内へと一節浪曲を擡げて人の孤独に又闊歩・蹂躙される情景(ようす)が窺え、雷鳴が虚空で在っても既に老獪紳士こと飼い犬のチビが庭先で、家(うち)の玄関で二度と鳴く事の無い自然の浄化を疎く信じた俺等(おれなど)は矢張り天来した小人の遊具を唯大切そうに仕舞い込み、ヨーロッパにでも鳴かれて侍らされ得る皇帝の見取りで横溢せらる金色が差し込む人の庭の内で唯己の躍動を見て居るより他なく、既に痛め付けられた右手の甲には何時ぞや見知った愛犬の姿が悉く小さく畳まれ温められて、鳴き止んだその表情(かお)を又静かに献じた先には惨く打たれ死んだ極小の命が泣いている。この光景を知った俺等は遂に見果てぬ苦境の社の穂先に白く塗られた唯思想を或る一定の調和の基に還して小言を織り成す神の主を見た気がして気が気でなく、他人が周到に添え付けた俺への眼(まなこ)は愛児(まなご)の乳房に縋る良体(りょうてい)が宿した小言に又程好い一端の主を見付けて世を照らし付けて、己が道をと、独り寄り添う人道(みち)への温もりがその頃自分を通り過ぎないようにと門出に降り立つ。清廉は緑を侍らす静力(せいりょく)が見付けたオルガを滞らず生転させる緩めのカーブを身に付け据え置いて、孤独は只管独創して行く壬申の行方をひっそり窺い小金色した故郷へ隠し或る画期を知った。惨く踊らされ続ける小物の両手足が地表を外れて止まり木を知る頃、空でお道化呆けた一匹の坊主が日本に古来在り続けた采配の再生を知って何処かへ歩を進め、又明日、の襲来が滞り無く又天から降り下ろされるのを恐怖を恐怖としない様(さま)に踊り果てた骸を着た儘見守り、唯傍観する術を地上で憶え続けた人の経験(ずのう)を縦(よ)しんば撃ち落とせたとして本心(おのれ)は戻らず、滞りの無い地表から天河へ走る川路(ライン)を人身の温もりを以て眺め続けて見定めた。遠花火と雷鳴の跫音(響音としても良い)とを聞き間違えて一瞬夢に降り立つしどろもどろに博した小人を見た時、俺の内には或る女子が息巻き〝言葉の籠ったボール〟をその手に携え何処かの広場へ駆けて行く様子が見えて、いきり立つ人身が仄かに俺へ灯した希望(ねつ)の余火(あまりび)が又静かに身の内で消えて行く衰退への極みを現在に訓(おし)える様子と共に憐憫から敏感が放ち得る人の欲情がかっと仄かに又灯し絆され、女子の鼻息は俺の駆け足に解けて消えた様に足跡(あしおと)と成って暫く消えずに空に浮んだ。山吹色(オレンジ)の残暑に伏した。苦学に阿った初心を忘れて呆けた時期が私には在り、小言を上気の様に連呼した儘小生を空より撃ち落とした時期(こと)もしばしば、心を持たぬ何とも屈託の見えない生粋の京都人として己が生命に溢(あぶ)れて師を求め、この巷を世を彷徨うが如くに学んだ挙句に一匹の蝶を捕まえ、心の虫籠へ放り入れたと感じてから十歩進む内に私の泣き虫が〝虫が逃げた〟のを報せた。程好く火照った躰は熱を灯して鏡に映る両頬と額にはまるで微熱を灯す様な紅潮を示して私に報せ、この世を春菊の活力が見せた流水の如く活水を心行く迄順応させ堪能させた挙句、この世に生きた盲者に割り当てられつつ光を灯す夢の縁へと私の歩を誘った。順応した先には程好く首(こうべ)を垂らしてその両肢を床へ付ける様に地に散らした神義(あるじ)の希望が具現した様に在り、私が宿した純粋な招魂の碑とは又孤立無援に咲き乱れ果てた人身が脱ぎ捨てた冷たい骸の奥義である。等身大に立てられつつ人の暮らしを体好く照らす太陽は照らし損ねた事無く人の骸をひたすら正義が示した明るみへと引き連れ炙り出させた儘、唯自然に撓れ落ちた活水の豪華を絢爛豊かに浮彫りにさせ、又人が各々の気の向く儘風の吹く儘に歌って歩を進める事が出来る環境(じゅんかん)を一つに構築して行った。そうして束ねた自然の力を今度は新緑と闇とに分けさせ十二分に苦労を重ねた様な人の歴史の内へと埋没させ行き、人は己の従来から成る闇と光とを見失った儘、一礫の神への信仰をまるで篝火の様に灯して悪を根絶やしにする事をこの地上(世)で夢見た。川の清濁は流々(りゅうりゅう)にして滔々と進み、森林が静かに木霊す一介の僧の泣き声を又優雅に象りどもらせ、人に聞える頃には何余りか在る無住人の土地を幾つか構築した儘、この身を絆した宙に見せて居た。光に闇は付き物、と小言を再度構築した儘まるで蓄膿症に煩った人の行程は又尽力を忘れた儘で有力な手掛かりを宙に求めて飛躍し、己の哲学が如何言う過程を以て自然の細流へとその身を投身させて行くのかやや知る処と成った。清廉に解けて消えた一女の鼻息と共に苦学を憶え死んだ身の程を報せ、この世で人の上と下に地位(たちば)を設けてマグマの様に掴み得ぬ人のドグマに構築された人の歩むべき道上(みち)とは又厚く、旱魃を人に忘れさせ得ぬ保身を掲げた一味に見えて人は目的から乖離し始め、世の初めに自身の未知(なに)が在ったのかと疑問に流離い固陋を呈して人牙を他へ晒す頃、俺と私は各々に当てられた無重の領地(ぶん)を忘れた儘で他人に阿り、自分が象るあらゆる人智を屹立とこの世へ宿す為に他人の心(むねうち)に己を知りつつ個の材料として行ったのだ。黒い濁流が未来(さき)を示した川路(ライン)から逸れて溢れ出た頃俺は子供が他人の胸に抱かれて生き返るのを見、それから間も無く緑の丘に置かれた籠の内から一匹の竜が天空へ向けてまるで人が天地を往来し得る道標を一つ一つ置き示す様に昇天し行くのを知って一旦退いたが身を立てて、俺は泣き虫だった博覧の狂気を自身で殺して居た。一個の夢物語が清廉の内に伸ばされ人の優雅に消え解けて冷めて行く頃俺と友と成った私との共鳴は苦し紛れに泣き出した白痴の狂瀾を舞台に整え、何処から見られても一向に衰える事を知らぬ境地を分断した儘身付く教習が構築し得る慧眼への能力(ちから)を悉く細部より丈夫に仕上げ、ぱたぱた喚いて消えない子供の真実への闊歩と蹂躙を図り得る肉身をほっそり痩(こ)けた各々の身の内へ投げ入れた儘、まるで昨日の破天荒が咲いて枯れる迄の経路を晒して、唯人から隠して消え果てさせられた。
木端微塵に冴え切った空に飛び立つ星座の一々を児の瞳(め)で確かめ苦労性のオルガを沈めようとする時、又もや一匹の紋白蝶の羽がゆらゆら夜空に漂い一つの示しを届かせ始めた。無論この地上にである。滞らず明日の巡業がその背を向けて外方(あさって)の方向へ佇みに行く迄の時間を黒いローブの裏で又静かに見送る時、途端に呆けた様に飛び出た薄白い肌色の少女が心身をひたすら空転させ始めた。一度(ひとたび)山彦の様に誰かの温度をその手に携え、片足ずつを地上と天上とに置いた儘で繁く通い始めた徒労への旅路の終点へはとても思考が纏まらぬ儘に歩が及ばないで、又幻獣でも観る亀の様にひたすら身内の闇深くへとその算段を見送って居た。晴天暮らしが長く続けば身の丈を見せる相手も居らずで、何処まで行けども固陋の勇者を気取ろうとひたすら悶絶を繰り返して居るが此処まで来てはともう蛻の殻へ身を遣った信心の描写がとても温味(ぬくみ)を欲する体(てい)で〝明日又おいで〟の声を聞く迄と肩を丸めて視点を曇らせ、まるで又両親(おや)の居ない寵児の様に唯悶々と寒風に巻かれた外をほっつき歩き、表情(かお)は月(さき)に向いている。誰かと誰かとのチームワークをこの世で見出せる程の気力を持つまで一体どれ程掛かる事やら、一端の赤子が末代を曇らせずに身を立てて天迄への道へと送り出すまで四、五日掛かる。白い溜息を吐き続けた儘一匹の老婆が飼い葉に寝かせた孤独を連れて、恰も村外れに一群れ咲いた秋桜の花(み)を一輪眺めて、遠くへ置き遣る自体の苦さをぽろりと漏らした。漏らされた苦渋は満ち切った夜の掌へと身を沈め行き、冬に咲いた竜胆の実から擦り抜け落ちる白露(しらつゆ)が茶面の内へ浸透するほど何時までも魅せ入らせる光勲(こうくん)を放ち続けて、夏の少年が「自体」の身近を過ぎる迄はと身を温(あたため)めて茎を折り立て、心地良くなる夜の小唄を連唱始めた。彼(か)の有名なブランド名に絆され過ぎ行く著作の名手がうらぶれた裏町酒場に落ち崩れて居た一セント硬貨を拾い行けば、首を後(あと)へ向かせずただ白雲目掛けて海を渡る海流の様に程好く世間の波を静かに収めて、ボクシングに倒れた小物の男と称され得た軽業のスピニングをまるで思考の坩堝に寝かせ続けて人と対峙を勧めたがった。印(しるし)が何かにつけて干蔓草(ほしつるぐさ)の頭上を吹く青風の如く漸く春の兆しを持ち運び遣る頃〝暴君〟とも黙され得た独創の眼(まなこ)は途端に萎(しな)んだ。とてもじゃないが助けられても困るだけだ、とその暴君染みた滑稽は堪らず吐いたがどうだろう、子供をあやす両親(おや)の如く屹立と立った二本の葦は水を知らずに地表に咲いた。地表は幾様にも姿を変えて蝙蝠が暗空を滑空し過ぎて土手の海へと落ちる頃、月が出ていた空にぽかんと口を開(あ)いた灰雲の将が我先魂(われさきだましい)天下百迄!、孤独を吐いて言葉を連ねて、子供が寸前(さき)に歩いて付けた身近な足跡の上を唯一つずつ、のっそのっそと、像が歩いた。人に受け入れられない将の孤独はやがて明るく華と成り、病魔に敗けずに珈琲をただ優雅に呑み干せる一流紳士の体(てい)をその手に気取って、黒く塗り潰された地表(つち)の上を謙遜しながら強く進んだ。白紙は彼(か)のランブリン・ジャックが吠えたあの月の夜まで風の吹き止んだ天国を散歩する間の時を優に越え行き、白く荒んだ少女の心は未知なる手向けに後光を閉ざして、ひたすら真面に還って行った。これが二ヵ月の功である。心労へとなお突き刺さった様な子供の言葉はなお成人(おとな)の闇には光が強く、影さえ見せない純朴な滴が天からか瞳(め)からか下りて来るのが時の成人(おとな)の目には透って見えない。ただ見えて来るのは物理の公式に置かれた人の論理であって情は置き去り、等閑(なおざり)にされつつほっつき歩いた純朴ドラマは行程を足(はし)り終えた人の教義を静かに変えた。焦っても駄目、堪えても駄目、況してや眠りも祈りも人任せにされ得ずの神の教義に敗けたように人のドグマは片言ながらに正義を語り終えて疲れて、晴天を見渡す新緑の強さに壁を見たまま皆自室へまで還って行った。白く塗り重ねられつつ人の流れを正義の縁(ふち)まで届かせ孤高を知りつつ、悪口を絶やす為にと人の競技を膝まで引き上げ傍観したのは〝春の夜の夢〟と一言のみに伏せられた悲しみに敗けていた故の事。何も通らぬ人の社までへと狐火を目掛けて独走(はし)り得た「純心」が奏でた静寂からは、静けさが生み残した人の魔の手をただひっそりと隠し終えた正義を手に取り、月光の映った湖面に静かに浸した後では我の常理は湖底に眠る。からかい慣れない硝子の声まで己の色物(しきぶつ)を唯一手に取り心に掲げて夜の散歩道(みち)をかつかつ歩く人の様子に微熱を憶えて人馬はまた己の四肢を頼りに天まで進んだ。闇雲に進みつつ天を仰いで地を仰いで老獪を手にした高温の老体は死に物狂いで食料集めて歩を進ませて、自分が目指した遥か青天へとその頭の届く迄に仕上げられた白山の麓へ降り立って、行き当った己の壁にふと孤独を打つけて行った。
白雲から暗雲へと変わりつつある月の夜雲はここまで来れない白虎の自体に思いを巡らせ手を差し伸べて、自然が得も言われぬほど視界の遠方までへと景色を延ばした世界の騒音に一時(いっとき)の終止符を打つべく体を馴らして、届かぬ人の郷里を深く寝かせた。戻る事を知らぬ人の生とはその老体の生より燃え落ちた後、小言を集めて晴天へと辿り着くまで翳りを見知らぬ月の小金を鳴らして行った。唐変木が辺り一面に生え切った世情の場末に逡巡を知りつつ孤独を見限り終えた人のノルマを平(たいら)に絆して小川を走らせ、野原に咲いた一匹の蝶の宿り場をまた静かに侍らせたのはつい昨日のようだった。見知らぬ土地へ来た青春が何処へ行けども真っ暗闇と白壁に突き当りつつそれでも尚と人の生に宿るように夢は仄かに燃え始めて、蝶が住み行く各々の花(み)や葉や木には滞り無いほど瑞々しく咲き亘った人の青春が取り残されて、人よりその小物の方がよく確かめて見て、知り尽くす事が恰も出来たほどだった。硝子の様に透明に区切られつつ在る正義と悪義とを聡明に澄み切る微弱な青空の芯に預けた儘で彼(か)の有名な生道(いきみち)を歩く事ほど人の魅力に沿ぐう対象(もの)は無いと人は何度も確かめ放心した儘、やがては各々が各々の敷地へと帰る頃には夕日が黄金から闇に縁当る敷地の清閑へと静まって行くのを歴史が教えた人々への教訓として取り入れ学び、各々は又もや自分の孤独がさも有り気な屈強足る人の孤独を象り終えた物が清閑から得た生だと知りつつ明日へ赴く。屯していた一群の葡萄畑は凡そ人の歴史に咲き続けていた虫の如くに羽音を立てて優雅に流れた後で又、人の脳裏に一応の落ち着き処を決めて糧を呑み干し、何処まで行けども青々とした氷の煉瓦を一通り並(な)べた先には人が欲しがる故郷が覗く。咎の折られた無法の街にはあの日に咲いた古楽が揺れ落ち人を宥めて、噂に尽きた人の群れは又新たな噂を求めて青く光った夕日を目掛けて歩を進ませては〝ちょん〟と付けられた柱の目印を当てとし行進続けて、暗闇に咲いた君の在り処は何時までも実りを得られず待たずに、刈入れが済む秋の夜長に手薬煉(てぐすね)引いてただ傍人(ぼうじん)の帰るのを待っている。ぴょんぴょん跳ねては夜を歩んだ鵂の群れ達はあの青空(せいくう)に羽ばたく一日を小声で数えて時を待ち、凍えた体は夏でも震えてただ冷やしが効いた独房への案内役を買って出た未熟な坊を一瞥で煮やした。滞り無く明日への賛歌が浮足立つ程のシグマは人に揺さぶられ行く両脚を掲げて沼に降り立ち、雫石(しずくいし)の切り目を目掛けて一斉に開け放つ我への明光(あかり)を滞りなく明日への導(しるべ)として立て身を立てて、小声で講じた我楽多(がらくた)への賛歌を久しく称えた。
俺は何故か妙な場所へと案内されて行き着く先々では一通りに咲く夢と花を見、旧い友人から高い友人まで下駄を履き続けて緒擦れ(おずれ)の出来た白い豆足(まめあし)をしっかり地に着け床に伏せて、まるで百日紅(さるすべり)を登り終え億劫な優越に浸り続ける寵児(サル)の様に頬を赤くし、火の付いた尻には紅潮を越えた誘惑への発情(しせん)で胸が一杯になる程だった。朱雀の門では小鳥が飛び鳴きキャッキャッと跳ねる思考の源水には蛙が下りて、ぽちゃんと鳴ったら夕日は又真横に傾きつつも俺に夜を落した。夕鳴りが程好く辺りを照らす頃には野原の上では兎が鳴いて罠に掛らず頬を染めたと思えば瞬間に体を上げて次は月へ降り立ち、黄色く体を染められながらも原色に一点落した白の清しさは何とも優雅に彩(さい)を挙げて、夏夜に一匹咲き火照らせた雅への心情は既に人の境地へ飛び終えていた。言葉を失くした金糸雀は夏の星座に「ブラック・オリオン」を掲げてオレンジの加勢が功を成し終えたか、又優雅に今度は蜜柑畑へ飛び立ち、日本と異国に於いての仕来りなる艶やかな一成(ひとな)りの蜃気楼を夥しい迄に抓られ続けて来た人の虚言へ溢れ、次第に反り返って行く古豪の有志達が身を粉にして燃やした人への謳歌が今度は自然(やみ)に在る事を理性へ落された天からの恩恵(あめ)により満ち足りさせられ、優雅に踊り狂う伝説(きょごん)の生来には一端に人の声が花を咲かせる機能が立つのを俺は知っていた。他人から得た盲信を育ませ得る虚言(あっこう)の数々は何れ尽きせぬ天(ゆめ)の運河に生れる望遠の地に立つのを知りつつ俺は又その他人と打ち解けたまま羽の生えた希望という名を借りた人の歩の背を見ては一端に世上を網羅し行く未熟の体を只管愛した。展望尽きない死にもの狂いの夢を探し終えていた固陋の思春は浮足立った人のオーラを静かに呑んで未来(さき)へ捗る人の天使を先に垣間見、終ぞ掴めずに在った融解を能力(ちから)に保つ自史は程好く構築され得た世上の波に降り立ったあと他人と自身との距離をハーブの香りに巻かせて又程好く採って、孤独を愛した老いの境地に花咲かそうと、軍隊紛いに律した己の識別を順序に任せて唯整列させた後、ゆっくり火照り始める白痴の順応を世間に知っていた。もっそりのっそり動き始めた現実の巨躯が最果てを見せぬ儘に遂に動かない宙に波(わた)り咲く世情のゲームを俺に掲げて、都会と田舎に咲いた家々の窓に点く明りの小金を又元通りに見図り垣間見終えて、人が横切って姿を晦ます世上の街道(せじょうのかいどう:まっしぐらかいどう)を唯俺も同時に同様にして通って行った。
プラム・クリークに咲いた一本の若葉の実(はな)は冬を越すまで春先までへと人の余韻をハートで濡らして温厚へと下げ、感情が漂い続ける白の街へと唯歩を竦ませて、湖の横を過ぎ行く小さな橋に身を横たえさせた一本の竜胆の咲く丘を、小さく又覗かせ消えた畦道への歩は俺の眼(まなこ)に新しかった。太陽は唯黒く姿を遠ざからせて、人は黄色に咲いた雛菊が泣き止んだ夏の丘まで孤独(ひと)を遣り、夫は婦に、婦は夫に、事も無げに唯赤子の様に小言を大きく掲げて人の道へ歩いて行くのは未知でも今でも唯掻き鳴らすだけと、人の行方はモノクロに見えた。そうして俺はプラム・クリークという夢に映った、否降りて来た幻の街に誇り咲いた夫婦の添え木に木々が茂った夢を見て、もう一人切りではないと街行く他人々(ひとびと)に告げて居た。陽光(あかるみ)の差し込んで来る教会の屋根裏部屋に俺は一人住んで居り、何処からともなく暖風(かぜ)が吹き込めばさしもの俺の孤独は何処かへ消えて、夏真っ盛りと頬と両手足を撓(しな)らせ赤らめた青春の熱美が程好く躰に、地面に浸透して行き熱が伝わる自然の摂理(はこび)に又程好く湯気の立った夢を保たされた億尾な俺の衝動は砂埃が静かに漂うプラム・クリークの朝にはぴったりだった。己の情景を体好く絆せたその光景とは又何時しか見知り終えたカントリーワルツが地中深くでダンスしている懐かしき我が家を思い終えさせ、それは別段都会でも田舎でもなく、又日本でも異国でもなかった。夢見勝ちでクールな少年から青年が毎年オルガを一匹ずつ自身の身内の心中に於いて殺して行った聖典が息衝く良き時代に咲いた牧草地の様であり、又熱風が砂漠から吹く孤独な乾燥地の様でもあり、はた又、人が人と物と聖書(義)とを見るのに適した清閑の鳴かない司春を衒った観光地の様でもあり、俺はこれ等を擁した地の果てで我先にと唯自分の正義と悪義とを省み、徒然なるまま自身の過去(れきし)を省み、勇気をくれ得る春の息吹を唯その胸の内から引き上げようと唯無心の叫びを天井へと掲げ遣ったままで、敢えて基本から擦らしたこれまでの雑言に気儘に終止を打つべく、本心を晒して土台を図り遣った。
都会の空気がその何処へ行っても澄んでいると人の声で謳ったのは終ぞ束の間、この前の春から夏で、夏以降に咲いて乱れた人の微笑みの様に移り気に象られ行く上人の上辺には唯又、思春と司春に逡巡を重ねて尻上げて飛ばされ行く人の言葉が幻の様に羽の生えた青春の残り火が行水を始めるかの如く大揺れに揺れた小舟を一層見失わせて居た。その終着点(ゴール)へと着く筈の小舟の槽内に呑み込まれて居た人の汗(みず)とは又何時しか見て終えた絢爛豪華な人の羽音が地に足跡を付け、耳と壁に足音を付けて、孤独(さむさ)から保身を続けようと人の声が木霊す通りだけをひたすら鼻を燻(くゆ)らせ歩いて行った。
体力自慢が知恵自慢よりも未(ま)だ優勢の位置に置かれて居た頃、十九世紀に俺が見た夢とは終ぞこれぱかしの正義が見付けられず、又新緑に冴え渡った人の勇気があれ程大きな人の聖典と流転と正常への謳歌を世に報(しら)しめたのに、その処から何も学ばず常に自己の優位にだけ目を細めて益を取り、狙った悪義に加担する者とだけ食卓を囲んだ死への勇気は称賛する程殺したくなり、俺はそうして異国の地を去り、一度は自身の正義がこの母国に在ると確信して居た。小言を連呼したのは統制取れずの我が思考の波を儘に生かす為であり、優劣に木霊す人の響きがこの青く未熟な果実(せいぎ)に我が改悛と支配によって落され得ぬ為であり、彼(か)の大英帝国、旧くはローマ帝国が私の内では一夜一刻にして成った自然の摂理に我が白昼を見る為、こうして悶々日記を書き綴じる如くに愚劣を際立てて並べて見るのも又一夜の帝国(ゆめ)の如し、心象極める愚劣を講じた自己への遊覧はこの世上に落ちた人の汗(みず)を掬い取るのと同等の価値に付随するものと我が眼(まなこ)が睨んだ上で、到底辿り着けない帝国(ゆめ)の幻想へとこの夜、歩を進ませたのだ。何はともあれ具材は揃っている。この夜歩んだ摂理への躍進は俺を和ませあの雫石の切れ目より際立って燃え盛り行く人の希望(ゆめ)よりも又現実(リアル)に夢見て、俺の土台をこの世上で構築するのは明瞭と成り行きこの行進は止まらず弛まぬ。糧を欲しがる我が帝国(ゆめ)は烈火の如く天より注がれ顕れ、有終の美よりも晴天なる華(あせ)を選んだ。白亜の様に凍り拡がる我が領土(とち)に根差した故習の花火は燃え広がる儘に着飾る儘に、暗雲漂う夜空の星へ還って行く程徒然なるまま目的(ひかり)を欲した。到底夢には届かぬと諦め顔の遠花火には優れた素質に表情(かお)も在り、夢の夜空は奇麗片付けられると孤高に生きる命に降り立つ。
人が生きて行く為の折衷とは世間に於いて如何なる処に在るのか、男女は分らず恐らく虫も動物も自然さえ知らないのでは、と講じた俺だったが、ふとガラスケースに入れられた俺の生命が夜の霧に巻かれた時、幻惑と絡んで作り上げた真実でも見えたのか、自然だけはそれでも知って居る気がした。しかしすると、自然と自分との境界線を引けずにその自然の内には自分を含めてあの虫達も動物達も含まれる事を知り、何処からが自分以外の境界(テリトリー)であるのか全く知らぬ処となって、何処(どこ)かで何時(いつ)か見果てた夢の境地へまで自身を自力で持ち上げる事と成って行った。そこに神が現れて自分を肩押ししてくれたのかとも勘ぐって居た。夜が晴れてやがて朝、昼が今自分が立つその地に訪れたとしても又それは自然の理(ことわり)が成す業であり、何処(どこ)まで行けども粘土細工で創られたような自然の趣に自身が打ち勝つ部分(ところ)が無いと、又慌てて鏡に自身を映して自室へ逃げ帰って行く所作を二度三度辿っている。塑像された天よりこの地に、自分に、自分の思惑の内に訪れる天使の群れは彼(か)の有名な自分も見知った銀杏通りを爪弾くようにして歩を進ませて行き、挙句に予め創り終えて居たのか一部始終を込めて表した粘土細工の様な人への〝人智〟を定位置に置き遣って、夏とも冬とも知らぬまるで時期を喪失させられた程の人の地から天まで遠くへ還ったようだ。自身と世間とを織り交ぜたような新たな存在が又俺の心中に飛来して、その姿はまるで暗雲の内より湧き出るようにして差し込んだ一閃の天を匂わす芳香に似て居り、その形を定めぬ一筋のラインが俺の眼(まなこ)と思惑へ伸し掛かって来る頃俺は又四季の巡来を見渡せるように或る何者かに開眼出来た様子と成り、一瞬、他人を始め他の諸々の雑事(あくた)を奇麗さっぱり一つの透明色した空箱にでも仕舞い込んだかのように気持ちが片付き、所詮は世間に於いて身の振る儘に流れる儘に生きるのが人の努めであると真摯を掲げて、目に見える物、耳に聞こえる物を始め他の三感に準じた〝自然〟と称する芥を拾い上げつつ後塵を闇の内へと消して行かせた。何事にも時間が掛かる人の所作とその結果が鮮明に俺の物に成るのは時限を付せられたどこかくすぐったいモノクロ染みた人の理(ことわり)であるといつかどこかで訓(おし)えられて来た俺であり、故の俺の夢想が始終俺の眼(まなこ)の内と脳裏を費やす中枢に置かれた声明の樹(き)に成るまで降り掛かる或る摂理成るものは、極自然に又、咀嚼し得ない透明にて固く歯の立たぬ自然描写が牛耳った水晶に映る程の人への言質が映り、その映り込まされた言葉を構築して行く土台は又人の言葉である故に人の内へと投げ込まれて行き自分が作り上げた言葉(もの)だと俺は又錯覚する。能の工面、金の工面、労力の工面、場面の工面を今まで歩を進めて来た形而下足る道上(みち)の何処かでして来た故に又何処かで人の作業(けいけん)であると、一度は解(ほど)けた帯や褌を締め直して、真っ向から問題へ取り組む形に自身を身構え、両脚(あし)を固めて「地上より飛び立とうとする囚人の欲した自由」の如く柔らかなものに成り、その柔さは元より在った優しさの様に俺(ひと)を包んだ儘で、日輪描(えが)いた青空(せいくう)の麓へと唯姿を消した。人の内に立った正義と悪義との双璧はまるで天から人へ与えられた〝優れた物〟として在る物だと人は自ず自然を見ながら錯覚し始め、時に落されて来る天罰の類(たぐい)等も、人の能力(スキル)によって幾様にも形が変わると人は人を見ながら算段し始め、億劫なる手作業、体力仕事、果ては知恵を講じて自身を正す思考を束ねる仕事に対して倦怠を採り、身の破滅のみを見知り感じ得た人の骸は徐に唯、自分の見知らぬ、自分(ひとびと)の能力より優れた何者かによる力(パワー)によって救済される事を望んで行った。その内、一頻りの雨が自分達と自分達が居る地に降り注いで土が固まり、人々の足を揺るがさず、あらゆる環境を構築出来るまでに命と自然が成長した後、その双璧に依らずに生きようとする人の関心は又、天より降りて来る自分達への救済の内実が救済なのか解脱なのかさえ分らなく成った。
敬虔と謳われたクリスチャンが居た。そのクリスチャンは古い煉瓦造りに彩られた十九世紀の西洋の旧い礼拝堂(モスク)の形成(なり)を想わす、温く静かな山村に居たようであり、そうした場所には旧い律法が人を呑む程に巷を充満していた〝古き、人を差別する、人を樹海へ陥れて嘲笑して居る時代〟を彷彿させ得る三寒四温が人を切り付け気を衒う未開の園まで設けて在って、そのクリスチャンははじめ薄仰ながらに努力を重ね、遂には他人(ひと)から慕われる牧師にまで昇進して居た。しかし季節が移ろう毎に気も解(ほぐ)れ、〝大事〟と謳った人の声々がそのクリスチャンの耳に入り脳裏(こころ)に宿り、そのクリスチャンは一瞬隙を突かれたようにその歩く両脚(あし)に萎えを憶えさせられて居た。そのクリスチャンは男だった。故に、言葉は男の情欲を掻き立て夢を拾わせ、視覚は妬みに怯ませつつある生来の闊歩が活きる処と成って、あわよくば婦人を犯し掛けた。これが巷の他人(ひと)の知れる処と成り果て、牧師はその土地でクリスチャンより下位に置かれた野人の様に傍から見知られ、粗末な分野に従身しながら、金色から成るオルゴールに在る言葉の一つに聴き従った。冷風と暖風が、男の抱える日々の暮らしに斑(むら)を乱さず吹き始めていた。何時しかその身を悦ばせていた「孤独を見知らぬ季節の風」が程好く男の体を濡らして行く頃、揺られた体は人の茂みに入り込んだ一匹のオルガと成り果て、何時(いつ)何処(どこ)から人の快感(エゴイズム)が自分を目掛けて襲来するか見知らぬ処に終着して行き、一介の経験を他所にした儘、眠たげな目耳は昨日の雑事を取り上げ始めて、自分の体に煩悶仕掛ける聖地へたわった赤毛を知りつつ、生粋に活き、何処吹く風と風来坊の体裁は人の欲望と誠実成る信仰とを追って闇夜へ消えた。牧草に果てる男の煩悶(なやみ)が宙(そら)の孤独に舞い降りていた。白雲が夜空を横切る季節はいつまでも絶える事無く、まるでビニールへ放り込まれる雌羊(めひつじ)の死体の様に、その自然の様(さま)が人の何処へ解け始めるのか見付からない儘、遂には遠く成り行く信仰(いしき)の内にて、男の躍起は初老に至って燃え尽きていた。焼かれても灰と成り得ぬ人の骸は傍人(ひと)から沸き立つ黒い嘲笑(こえ)から遺産を顕(あらわ)し、苦渋の果てには自身の降り行く場所を設けて、惨憺していた白紙の生気に闊歩を乱さぬ連日を置き、目下(した)に見えるは幾ら経っても書き得ぬ未熟な心中(こころ)の某弱であり、気分の端には一度も醒め得ぬ膨大(おお)きな語彙にて理想を絆され、真っ赤に燃え立つ桃色(ピンク)の仮面(かお)には、凡そ人々(ひと)の欲から絶賛され得る男女の過失が膨(おお)きく立った。破廉恥化から成る人々(ひと)の快感(オルガ)は明るい日和に自身を連れ去り、社会から成る明るい周辺(あたり)の社交場(しゃこうじょう)へと男女の理想(ゆめ)等送って行った。「牙を剥かれた事毎独歩(ある)ける毎夜の命」は終ぞ儚い己の真(まこと)を夢から掴めず、熾烈を極めて燃え拡がり生(い)く小言の歪曲(まがり)を生産し始め、不格好から程好く人々(ひと)へと思想へ拡めて、魅惑の生地で恍惚(うぶ)を憶えた人のオルガは再び姿(かたち)を変えつつ在って、男を襲った夜毎の妄想(ゆめ)から狂人(ひと)の寿命(いのち)を生かし続ける白紙の元へと還元して生く。男から成る脆弱(よわ)い延命(いのち)が暗宙(そら)へ還った。至極詰らぬ文言(ことば)の端から自己(おのれ)の未完を吐露した輩(もの)から、烈光冴え得る炯眼(ちから)の範囲と人々(ひと)の延命(いのち)が生産され活き、日毎の自活(かて)にはその身を縛れる規定(ルール)の底から、欲の坩堝に人身(からだ)を落せる白紙の賛美が成立している。人の没我に何にも解(と)けない未熟の〝園〟には雑音(ぞうおん)が発ち、「人の白紙」と低俗が活きる地獄(なやみ)の地からは、人の体に程好く咲き付く「寿命の限り」が生れ育って、人の残骸(むくろ)は「詰屈極まる自然の論理を我が手中に得た」とし喜び勇み、到底叶わぬ春秋から得(う)る賄賂を講じて、人の瞳(め)に在る独創(こごと)の余命(いのち)は初春(はる)小川の上から下まで、滅法先立つ自然の泡(あぶく)を見送り続けた。以下の並びは妄想(ゆめ)に産まれた体温(ぬくもり)である。
「狷介を呈する体裁(からだ)を唯一我が物と称しながら田畑や野山、海から青空迄を縦横無欲に低徊していた未熟な交際では、俺と自然が高く講じた透明成る命の糧を人から見て天の板へと真横に置いて、悉く冷め遣らぬ夜露に埋れた人のオルガは調子を外して字を書けず、文学と神学との内を往来しながら余裕(ゆっくり)掛けて夢を捥ぎ取る雷鳴の謀(はかりごと)をその身へ受容(う)けた。漆黒なる闇夜の内から悶絶を講じて度々出て来た狐の様な獣の醜態(かたち)は、その尻尾に付いた一点の紅(あか)を闇夜に掲げて澄まし独歩(ある)いて、自然から得た緑青(つや)の色葉(いろは)を体の始終(ぜんぶ)に塗り尽して生き、低迷して行く俺の真摯を呈した覇気は作家が講じた天然の白壁(かべ)を目前に感じた儘にて無欲に応じて小言を鎮めて、曇天(まよい)が踊れる初春の上気を孤独の縁(ふち)から遠ざけた儘、俺の気持ちは初春(はる)の息吹に身を寄せ始めて、現行(ここ)へ還らぬ魅惑の〝園〟へと追従して行く。怪訝を呈した表情(かお)を隠され、傍若無人に人の手を振る一匹(ひとつ)に宿った意味成る「巨躯」は、己の寿命(いのち)に〝現実(リアル)〟を透して妄想(ゆめ)を見定め、自分の気質を高く挙げつつ孤独を下せる寝間の〝根城〟を青く染め行き、寝間の支柱(はしら)の所々に自ら顫動(うご)ける墓穴を空けて、紺碧(あお)く惹かれる夜空の迷路は「永く言われた歴史(きおく)」の片手にその実(み)を歪曲(まげ)られ、暗(やみ)の最中(さなか)を蠢き進み、やがては恋する固陋者(ひと)の旧さに〝古豪〟を儲けて慕われ続けた獅子の闊歩が謳われ始める。無欲に満ちた清廉極まる二匹のオルガは俺の幻(ゆめ)へと肢体(からだ)を埋めて、死相に絡まる女児の体温(おんど)を鵜呑みにして生く躍動(スキル)を識った。」
歴史は小さな一点をその一線に連なる経験(ひも)の内に幾つも挙げて、まるで宇宙の黒色を俺に報せる如くに神秘を手にして、悉く縒り固めて進ませる各自然が呈する息吹の程を白くせぬ儘跳び躍らせて、遂には人が死ぬ頃に見る事の出来るかも知れないとさせられ得る暗黙の真摯を各々人の頭脳(こころ)に押し付け焼き付け、心無しにも程好く収められた図らずの成就がまるで自然に焚き付けられた人への運命(さだめ)であるかの様に悶絶し始め、その自然が見せた悶絶の程は人によって又歪まされつつまるで沃土に蠢く土の虫達の鼓動の様に鎮められた存在(もの)と成り行き、俺は見毎に自然に呑まれたオルガが放つ野心の屈曲を自ら呑み込み、小言を吐かない何事にも充実を図り従順に順応し得る一匹の傀儡と成り果てて行く。
沃土に生まれ落ちた虫達は天上界へ昇り詰めて行くように人体の頂、即ち頭脳へまで押し寄せて自ら自分達用に適した砦を造り、その設けた砦に陰を作って、時の要所で姿を出現(だ)した。俺は徐に採り出され行くその虫達の無欲に見える野望の果てに一瞬己の人望が他人から遣られた贈り物の様にして在るのを見、痛快ながらに逡巡せず儘、日光の当らぬその虫の砦に在るのと同様の陰を己の心中に置き遣りその内より日向を覗き見、自然が他人と語らう自然に繰り返され行く躍動は所々で不覚さえ無い活路への扉を俺に又示して来たようで、俺の欲深(よくぶか)はまるで欲深で無いまま自然の賛美に迎合されるかのように自身を燃やし、都度に光ったそれ等の自然色に同化し得る脚色を何でも無闇に溶かし得るその火により推し量り、俺は束の間まるで大型の船の甲板に立つ玄人指揮者の様に人身(み)を衒った後で、自身の欲深を自ら認(したた)めそっと黄色の懐へ押し込めた儘、遂には見果てぬ孤独の旅路へと又辿り着くのだ。しかし次々と人生の途上(きてん)を目掛けて遣って来る躍動極める諸事の命は俺に対して冷酷と忍耐とを与え、その陰で〝人生に立ち向かう〟勇気を欲した後ではその勇気は既に当てが外れた傲慢と成り変わり、外方(あさって)にこの身が着く間にまるでこの身を滅ぼし兼ねない厄介の源が滅多に挙げぬ腰を上げつつ歩いて来るのを小さく燃えた俺の両手は無難に知った。白色から成る我が黒色は細微に渡り埋め尽くされた自然発光の明度を知りつつその一閃の明るさは轟音を挙げて、滞らず我の心の麓へと押し寄せて来る無言の頻度に唯一木霊の様に打ち震えたまま形(すがた)を消した戦慄の到来を諭したようで、まるで夜中に叩き起こされた上にそのようにして諭された俺には寝耳に水と驚きつつも、その同じ水で表情(かお)を洗い始めるような不貞の輩と形(すがた)を変え出し、明くる朝から行進始める夜毎の戦慄への調整(ピントあわせ)に焦点を絞った変形済みの俺の肢体(かんかく)はどこか海鳴りでも聞えて来そうな程に一室の内で傍観へと澄まされて行った。雷霆の降り立つ暗闇に過した世間の規矩とは〝朝令暮改〟とまで謳われた人の真贋を捉える五感成らぬ六感の頭上(うえ)に降り掛かるように鮮明に光り、透き通らぬ光の明度に人の目はやられて正義と悪義とを見境無しに我が物としようと躍起に成った人体の趨勢は綻び夜(よ)に洩れ始める小悪魔の体(てい)と成り果て、透明故に人の被ったガラスケースの内にその身が在れども決して人には知れず、恰も最初(はじめ)から呈され在ったモノクロのオルガの様に崇高で妬ましがられて可笑しくない存在へまで成り行き、成長したその小悪魔達は自体から生んだ〝小言〟の種を人へばら撒き夜(よ)にばら撒いて、光らぬ人の言葉はその夜の内に解けて消え、やがては見えなくなった。訳の分らぬ言葉で以て心象を描(か)き付ける者にのみ、その描きながらにして知った塵(あくた)の様な連呼はやがて一連なりに文章(かたち)を決め出し、その当人以外の誰にも知られず難解と成り入(い)った文章の程は彼(か)の聖典に刻み込まれた文命(ないよう)の難解と変わらぬ出で立ちと内実とを持ったようで、描く当人には他人(ひと)の理解よりも己の理解の具合がどれ程の対象(もの)か、について画策する事の方が余程大事と見えた。彼(か)の有名なトーマス・エジソンがどれ程の難儀と至難とを経て、その労力の内と果てとに華を咲かせたかと問えばその程度は個人が活きた人生(みち)に於ける一過程の上で見定められる対象(もの)と成り、人という共通によりエジソンもソクラテスもプラトンへの代償も、全く人として変わり得ぬ不屈の報酬が並(な)べて得られて、故にこの当人にさえもその延長上で統べて得られるものと考えたのだ。俗人とは得てして物への評価を一刀両断の下(もと)に五感が活きる処で図り得るが、現代(さいきん)では余程稚拙が流行るのか、特に若輩達は自身(おのれ)のオルガに沿ぐわぬ対象(もの)からは視点を逸らして、自身の納得が付く対象(もの)だけを仲間に入れて、唯決定する際の行動とそれへの反動だけを愉しむ様に在る。玄人が素人に打ち勝ち素人が玄人に打ち勝つ、とても良い時代と成りつつ人は漸く正義と悪義とをその手中へ収められた様で、兎角権力の呈する壁に落書きをしてはその絵柄を様々な角度から見計らった上で又正義と悪義とを決め、男女は混じって晴天か雨天か分らぬ程に環境(しぜん)の変わりを知る事に鈍感と成り着いた。何か自分を感動(かんげき)させ得る他人が講じた自身への糧を然もまるで自分が作り出した物事の様に受け止め消化までして、吸収したその自活の一部(はんぶん)を自分より外界に居る対象(もの)達へ向けて投げ当て、もう一部(はんぶん)を自身の内へと敷き詰めて、いつか又期待した通りに事が運ぶ躍動を見てやろうと散々切羽詰まって、表情は平静(じょうしき)を保った儘にて自己の正当を唯出し惜しんで居る。所構わず悪義を咲かせる小言の種が特に人にとって肝心な要所(ところ)に植え付けられて白色へ体色(み)を変え、やがてその白色は陽光の白さと人が認めた白色が生むであろう完遂への補助の力に人自らが作り上げた強靭を見定め、その殆ど色彩と性質に於いて同化を果たせた悪義の炎(み)は一定の潜伏を終えた後見る見る間に、瞬く間に人が講じる領土へ迄燃え広がって行き、炯眼を具えた者と幾ら賛称されてもその能力(ちから)の程は自分(ひと)を取り巻く神秘に勝てず、やがてはその能力(ちから)に宿った一々の剛力は当てを忘れて蜘蛛の子の散る様に瞬く間に飛散して形を成さず、自然の能力(ちから)はまるで悪に加担したかのように人にとってまるで猛威を振るう女神(にょしん)の体(てい)と成った。まるで緻密に想像された自然の猛威は人を呑み込む場面を光景としては見せず特に人にとってはその情景の内に宿らされ、故に形容を司(あやつ)る掴めぬ緩さがはっきり無法の人心の内に飛び出るように抜きん出て自ら活路を自由に切り開く対象(もの)と成り行き、彼(か)のクリスチャンで一生を生きる一人の男もその日暮らしの内に知己の様に知る悪の肥溜めの内にまるで片足を奪(と)られた形(すがた)でその猛威(ちから)を知り行き、又行く道の所々に敷かれた人のドグマに両脚から身体(からだ)を清められつつ唯明日を目掛けて進む屠畜の様に勇み行くしか術が無かった。〝エリート〟と俗の内で称され得る、世の物事に精通している田舎人(いなかびと)こそドグマに疎く、自然が構築し得た一介の人間(ひと)への教義には人が構築し得た低回が潜むものと成り果て、人が生来持った本能に生き方を頼らせる事と成り、都会と人に称され得た土地に住む者でも孤立と成れば田舎人と同様の頭脳(むくろ)を被る破目となって当地が何処だか知れずに、一端の文言を吐くその口と手足の勢いには人を刺す悪魔の印が見え隠れしながら、日頃の退屈による反動である温もりが飛ばされた後に残った対象(もの)は、良くも悪くも人が認める公示し得る文言と成り得た。人は或る物事に耽溺始めると全く無謀とも知られる盲信を心中(こころ)に抱き何も怖れ得ぬ機会(ばあい)が在り、人はこの人の姿勢を真摯に捉えた上で盲目とせず内に勇気と捉え、又その勇気と捉える内に人が人足る生き物として在る為の資格とまで謳いながらに有力と称され得た識者はこの識者を自身と対峙すれども領域(ぶんや)の違った名士と見立てて名(めい)を冠した。
青にも白にも黒にも紫にも桃(ピンク)にも色彩を化えつつ常に俺の頭上に在り続けた変幻を得意とする大空は、既に一端に〝虚空〟へとその身を変え果て明日には消えてしまうかの如く弱々しく頼り無く咲き乱れる星々を一面に見せながら、その一面の果てを見せずに唯俺の眼(まなこ)の裏に想像図(そうぞう)を植え付け、疲労する人身を闇雲に待機して何等かの明け方をひっそりと期するかのようで、俺はこの大空(そら)の向うに隠された黒色の内に見知らぬ矢先(はて)を追った。そうした追究の矢先には自身が置かれたあらゆる小言・文言・形・鳴(さけび)・華(あせ)・正義と悪義・ドグマが置かれた境地へ通じる扉、を擁した大地には、俺の歩いて来た過去(みち)の見果てぬ先迄まるで俺だけに与えられた真実を諭す印が要所(ところどころ)へ散らばされて置かれた様子が在り、何も分らぬ俺にはこの大地(ちきゅう)に於いて人が創作し他人(ひと)に信じさせたドグマの数をまるで初めから在る対象(もの)とさせられた展開(なりゆき)が見え、その展開を回転させる際に働く事の出来た識者(エリート)達は俗の内では各位置に於ける王と成り行き、夢見心地な俺の識別力(むそうりょう)は悉く有りの儘に、見る見る行く筈の人生(みち)の一線が蛇行させられ、自ら立てた目標迄続くようにと仕立てた余道(よこみち)に逸れるような一筋の道は瞬く間に収斂を強いられた体(てい)を俺の眼(まなこ)へ報(しら)せて、俺はともすれば自身が見知った目標を植え付けた地迄は程好く距離を縮めたものと錯覚まで憶えて居た。「目標」とは無論俺が帰還する筈の天国(かみのくに)迄への道を架け渡す或る地点を示した場所である。
ほくそ笑んだ新天の太陽に咲く緑の緑樹が又仄かに新婦(にいづま)に心を灯し燃え尽きて行く頃、顎のしゃくれた第三(あらた)の男が程好くご自慢のこましゃくれの心象を随所に浸して、峠を越えた丘の向うから遣って来た。余計な物だと数々の心象を仄かに燃やしながら孤高に、孤独に生きた三十年から四十年を迎える頃には既に止まり木が随所に咲いた金色(こんじき)の野辺(のべ)にひっそり静かに揺れた薔薇の様な紅を思い出した後、これまでに歩を進めた内で、何時しか見知って認めた中世に於けるイングランドを動かす凡庸なれども生粋のエゴに疎まれ蔑まれもした情欲に又己の心身と身辺を費やし騒音を気にし出す頃、俺の境地は何処(どこ)へ行くやら、通り一遍に歌い続けたモノクロのリズムがどんどん仄かに朝に、夕闇に解け沈み出して、何時しか網羅を忘れた全能の能力(ちから)に縋り付き泣き始めたのを新しい白紙に置かれて健やかに眠らされた勇気の在り処を目指し歩いた。子供があの黄金の野辺に戯れ、ひっそりとその丘に根付いた小川の潺(せせらぎ)が又孤高に揺れ落ちながら静かに睨む太陽から得(う)る白光を受けて凛々と流れ落ちるのをしかと認めて俺は、心ならずも肉身(にくしん)を皆天空へと吸い上げられた後(のち)の我が身の寂寥に絆されて行く美しさについ見惚れて居た為、後々(のちのち)歩を進めてあの牧場(まきば)に根付く緑(あお)の緑水(りょくすい)を又静かに呑み干した儘、この躰が何の苦悩も苦痛も無い儘雪解ける様に自然の破力(はりょく)を以て掲げられ行くのを寝耳に水を痛感する如く、ひっそりと浮んだ雲の様に試みて居た。最早何も記(か)けなく成った我の白き体に一体の唾棄に憤悶を憶えた凌駕する事への源を隠し終えた後(のち)、〝根性合わぬ…〟と心で呟く一匹のオルガが又心中に蔓延る他の虫達を喰い散らして己の砦を佇ませる光景(ゆめ)をしかと見て、後は赴く儘とひたすら汗に華を添えよと脚を動かす。
道頓堀に小さく咲かせた一輪の夢想絵には小さく綻んだ大阪生れの凡庸なる生来の基質(オリジナル)と小言の抑揚の付いた白羽が川へ流れて、川か溝か判らぬ黒く濁ったその佇まいには程好く解け込む肉体(にく)への痛感が忍び込もうとして居り、如何とも出来ずに蛸焼きを頬張って泣いて居た幼少(ちいさ)き哀しみの送り主が果して電力に劣り果てる自身で在ったという事につい又厳めしさを見、硝子を打ち破れぬ緻密な人体の構造(つくり)に泡を吹く様に仰天しながら、どんどんと遠ざかって行く蛻の揺り籠を手の平の上で揺らし落した。幼少(ちいさ)き夢が誰にも何にも気付かれず儘群庸(ぐんよう)に鏤められて行く頃、何処からともなく音を消して目下の火花を宙に灯して下りて来る頃、この心中(むね)はあの硝子の結晶を塵より幼少(ちいさ)く掻い摘んで見ても一向に体裁(つよさ)の決まらぬ一介の歩行人(てんかびと)へと又瞬く間に労力(ちから)を締め上げ分身(わがみ)を築いて、クリスマスの晴天にこの身が清められる事を期しながら、暖炉の傍にて石のスープを呑み干そうとする分身(わがみ)は小さく又はにかんだ。
咳の止まらぬ大晦日前夜の人の取り決めた祝祭に参加するのはどうも心起(きょうみ)が湧かずに、とぼとぼ、最寄駅であるK駅の麓に佇む銀行の前道(まえ)を過ぎて行く頃、月が暗天(よぞら)に大きく、とても大きく昇って在る事を横目(しかい)の内に認めた俺は、ごとんごとんという音も発てずに次の駅まで向かう銀色から緑色した鉄道車(でんしゃ)の往来にさえひっそり構えて身の確立を認(したた)め、夜毎に行われる独断の筆跡パーティが始まる我が根城にまでこの分身(み)を隠し、躍らせるまま小言の体裁を己のみが解る文体にして認めて行った。この心身(からだ)から生れる数多の言葉を、この世に蔓延る悪魔が生き続けた諸事の活性と共に生き永らえさせ、旧い便箋に所狭しく文字と語彙を順々に書き連ねるのは次第に敏捷の整った作家の零落に長じて推敲を引かせた。一線ずつに仕上がる推敲の成果は悉く他人(ひと)の白目のみに映る雑言(がらくた)と成り果て、分った振りして知識を掲げる頭上から滑り落ちる者だけが夢見頃にそれ等の意味を程好く解して脱稿に載せ、最果てを知らない人体の灰汁を悉く又麗美に届けて虚しく独楽(まわ)る新天へと展開させた。まるで無重力に焼け落ちる小言の艶体(ていさい)とは精神(ないじつ)諸共男女に一対の開化を解いて情欲を貪り、止まらず目下で流行(なが)れる詩学の境地へ歩いて行った。いつぞや見知ったドラマの群象(むれ)が所々の人道上に落して行った無天の雪辱を俺に訓(おし)えた儘で、他人を見知らぬ真実(きゅうきょく)に纏わるドグマへの心身(み)の解体を程好く諭して消えて行く。
「まるで別世界の様(よう)。皆齷齪働いて、明日消える命でもないだろうにまるで機関車の様に次の駅からその次へと走って行って…。辟易(たじろ)ぐ事も無い程に密会に集まる人の表情は色取り取りで掴み処の無い無頓の体(てい)に居る。しどろもどろに言葉を吐いて、どれでも失脚しない勇士(きょうじん)の気並(けなみ)はどこまで行っても果(おち)る事の無い凡庸の様(よう)。」
「我は羊飼い。譬え死の谷を歩むとも災いを懼れじ…。…天に居まします我等の父よ。願わくは御名を崇めさせ給え。御国を来たらせ給え…我等に罪を犯す者を我等が許す如く、我等の罪をも許し給え…我は天地全能の創り主、我等の神を信ず。我は聖霊の教会、我等の主イエス・キリストを信ず…」
行けども行けども老夫婦が呟き束ねる御心の門前に敷いて置かれたモンクの叫びを我も認めて、この処に咲く雷霆から糧が地に降り落ち、その糧を以て花(み)を咲かせたような悪魔の剣をこの身に被り、傷(けが)を負いながらも又明日に活生の兆しを夢見て歩き続ける背陣の獅子の如く心中(こころ)に神の群れを率いて世の壁に挑んだ期間(ひび)は唯悪事(まちがい)の元であったと静かに認め、その認めた期間(きかん)を街(ここ)で過した故に俺の眼(まなこ)は真実を見なくなり耳は冷静を失い、滞らずあの川路(ライン)を落ちて来る初春の命(ことば)に気付かなくなり始めて居た。青表紙の内に程好く充満した俺の温度(ぬくもり)は誰にも何にも知れる事無く唯小言を謳歌する処にあって、心胆に根こそぎ夢を奪われた蒼茫の群れは漲り溢れて剣(つるぎ)を以て、俺の静所を穢す汚物の群れと成り果(お)ちた。
無言の軋轢にふと束の間心身の衒いを着忘れて、信心深さを闇の内へと葬った勇者のドグマは明度(ひかり)を忘れて卓に着き、床に就いて、行くは白々燃え落ちて行く斜陽の残光に身を翳す程に仕切(ついたて)を知らぬ破廉恥の態へと被さった。労力は労々と朗らかに垂直に天へと伸びた一閃を講じる如くにその身を立身(た)てさせ、行くは又古豪と謳われた小人の気力に武者震いを放ち憶えた悪行の教理へと埋没させ得た分身(わがみ)を起こし、夢想の源泉(メッカ)へと引率して行く泥濘に嵌った歯車の待遇は分身(われ)に一片の悔いも残さず唯夢想(ゆめ)へ突進するdugongの如くにその肌には人に似た光沢が冴え渡って唯又ひたすら分身(われ)を魅了した。果てを見知らぬ我が夢想への境地はつい陽光の勢いに満ちた自然(ひと)への活生を幅広い物と認(したた)め俺は愚天を欲しがる一匹の悪魔の体(てい)に身を潜めた頃、我が身を隠した大木の洞(うろ)の内には果てを見せぬ暗闇(やみ)の虚空を屹立とさせて確立し、分身(われ)が憶えた無線の明度としかと対峙する形容(かたち)に成った。
風が吹こうが槍が吹こうが陽が下りようが嵐が起きようが我が人道(みち)をゆっくり体を軋らせ進むオルガの滑車(くるま)の他の諸物に忖度許さぬ傲慢とも似た我執の質は、唯ひたすらに我が夢の園へ向けて闊歩して行く合間に程好く収められ身の程に静かに沈んだ豊沃の衒いを見た後(のち)我儘と成り果(お)ち、悉く燃え盛る悪の華に手向ける揺籃の質を垣間見ている。目印の無い身寄りの無い人道(みち)をてくてくとぼとぼ歩いて行って、今日へでもなく明日へでもない魅惑の活生を採り損ねた一匹の紋白蝶にはオルガの小波(さざ)めきが昨夜から到来した黒鳥への人の無力に己が尽力を傾けて、何者にも値するよう始終の能力を不断(ふんだん)に呈し得た後、オクラホマに咲く蕩尽の気熱を微力に啄み功を得ながら、終ぞ止まない鮮明の栄華へその身を燃やして行った。まるで駱駝が一瘤目に咲く無気力への労を根絶やしにさせるが如くにオアシスへ辿り着いた盲人を何処(いずこ)へかへ追い遣って頃合い見計らった頃には既に一輪の白花(はな)を咲かせず綻び荒地(はめつ)に見せた徒労を操る防塵がその身を化えて何者にも無い鮮烈極まる小乗を操る牧者と成って行く摂理(の)を小言に見せつつ、あわよくば生粋成る哉、〝何処へも行けぬ〟と嘆き苦しむ盲人の眼(まなこ)には一筋の涙も昇らぬ儘に人の骸を記された緩やかな甲板がその地に佇んでいるのを静かに、すごすご知り得た。晴天成る哉、程好く温もった人の華(あせ)が染み得た無業の荒地は悉く呑む為の水をもその地中(ち)へ吸い込み、困り果てた念人から成る無聊の収載を又悉く眼(まなこ)に記して、無我夢中に連れ逃げ惑う若輩(じゃくはいたち)は凡そ何者(なに)から遠ざかるのかも知らずに居た。慌てふためく大蛇(おろち)の牙は程好く置かれた人間(ひと)への抄録を記する事無く又虚空の闇内へ還(もど)って行くかのようで頼り無く、俺の生前に剰え置かれて在ったこの世の法則・規則を収めた定款に視線を遣る程無駄は無いと俺は又この身を律して拒み、つくづく人間(ひと)の脆弱(よわ)さに痛感せしめた人間(ひと)のこの地の襲来に、目を細めながらに失望しつつも絶望して行き、最早一片の慰謝等でこの傷口が塞がらないのを孤独に携え明瞭に識(し)る。
夢想(ゆめ)の境地は人間(ひと)の華(あせ)を吸い込み終えて純白(まっしろ)な人間(ひと)のキャンバスを抱え込み、その程度を遠い夜空に咲いた銀色のシグマへ掲げて体裁(からだ)を繕う即席成る処置を講じた。元より失くしたこの聖人の光に微力を憶えて、純白に輝き誇ったあの聖典から成る人間(ひと)への効力の程度をこよなく傾聴し、あわよくば彼(か)の初春に咲き誇り我が保身しむる桃色(ピンクいろ)した沙羅双樹の大樹(き)にこの身を安めて、その洞が在れば身を隠し、又知恵有る悪魔を構築しむるべく、とこの心身(み)は瞬く間に光って行った。艶やかに光り輝くこの仔細な身体(からだ)は暗空(よぞら)を象る星々の様に暗いこの荒地に於いても身を拡ませない儘闊歩して行き、下らない馬具に結んだ人の「徒労」の程は瞬く間にして意を身に着せつつも初春を忘れた人間(ひと)の初心へと還り行き、咲き誇った死地への影は御息所(みやすんどころ)に入った人のオルガにも似た無気力にその信心(こうりょく)を浸した労働の照準に又一端の無言を照り付け、焼き付けられた人の我欲は無欲とも称されつつも牙は大蛇(おろち)の如くか弱き女身に噛み付き、肢体をこの手で億劫にも労を伴い隠し終えたその庭の沙羅双樹の下(もと)に、根深く太く、唯一介の女身への憎念の糧をこよなく照らし終えた女のドグマが土中(そこ)で燃えた。尽きる事の無い人間(ひと)の怨念とはひっそり輝く夜空の星々の様にその身を消さずに、何者(なんらか)の許可が無くては棘(いばら)の道をも歩まされないとほくそ笑みながら在る主(あるじ)に約束されて、小言を漸く独自の聖典へ記されて行く一対毎の文体の如く程好く成長させる事に費やした人労(ろうりょく)とは又一介に於ける成功を認めたようで、明日からの己の為の糧の刈入れをいとも容易く終える人間(ひと)の諸労へと変え行き遣った。弱り果てた悶絶に縛られ果てた一匹の蝶(オルガ)は滞り無く夢想(ゆめ)が何者かに読まれて散らばって行き、各々に割り当てられた夢想(ゆめ)への白痴に程好く切り詰められて、又次第に脆弱(よわ)り行く身の程に想いを寄せながら何処かで隠し得た金の財宝が隠密にその我が身の周辺(あたり)で成就するのを根強く観ている。琥珀色した人家の裾には陽光が渡し終えた歯車への白を勢良く(せいよく)置いて、言葉の限りは詰る事無く又夢想(てん)の境地へゆらりと還る滴を根強く待った。然るに今夜食する夢想を捗る糧の領分を程好く定量に寝かせ置いて指揮る算段が付かず、小言は未だに文体と成らず儘の一翼さえ担えず果た果た仄めき揺れ散る亡国の主(あるじ)と成り得た。橙(オレンジ)色した算段には窮境から成る零落への微動に伴い、麗しの君と賛じた孤独の主がその表情の所々に憔悴示し歌い踊って、何分(なにぶん)ぱっともしない抑留の利かない新天地への懸念(かか)る想いにその身を焼き切り、程好く熟した無業の襲来人(しゅうらいびと)は自己の阿行(おもねゆ)く未開の園まで大きく闊歩を繰り返し、照準が効いた零落に盛る炎の群れをも我が手に残した。残陽冷め遣らぬ日輪の花咲かせた午後の温(ぬる)みに、新天地はまるで別天地へと名を変え実(み)を変えて程好く街中を漫ろ歩きする迄と成り行き、凡人も非凡人も無い緩やかな根城を衒った人間(ひと)の曲道(カーブ)にぽつんと置いた一廉の種漬花(くろう)を将来(さき)に見て精神(み)を憂い、程無く荒んだ心体の揺るがぬ先を目下火花を散らした有名無実の硝子器(はこ)の底で果てを知り得ぬ俺の欲望が再度ほくそ笑む形で夢を見て、滞らず捗る筈の下天の徒労が覚醒するまで夢を着実体(からだ)を着出して、何処へも行かぬ物臭の体(てい)を程好く鞣した。又その人道(みち)を先へ行くと、先程体を覗かせた花一輪は苦労を越えて身重と成り行き、屍を知らぬ労に咲き輝いた人労は既に伽藍を見上げて良き事だけを最善と講じる露を呑む草と成った。人はそれを母子草(ぬくもり)とも見て問題とはせず、又歩を進める矢先にどんな苦労が在ろうとも文言を汗に変えて人を汚(けが)す行為を図るまい、と決心して居た。揺るがずの運命(さだめ)にひっそり精神(み)を浸し終えると逡巡極まる春への諸行は既に一介の社(やしろ)と骸と着終えて、何処まで辿ろうと人間(ひと)の夢想(ゆめ)とは終い果て(ついはて)得ぬと業を煮やして自閉(から)を見破り、十(とう)迄立たぬ未熟の児の如く両親(おや)に依った新緑の芽吹きを果て無く観て居た。自然は己の実体(ていさい)をまるで改装でもするかの様に爆発的に熟した種の実を一同に並べてこの下天から天空に支えた虚空の主を呼び起こす如く流れる命の実を食べ、人に差し出す幻惑を講じる面(おも)の手には常々見測られた人間(ひと)の思考の源が屈強に踊って光を放ち、人間(ひと)の心中(こころ)へやがて差し込む青い命より成るその一閃は人間(ひと)の身分で未熟とも成る脆弱(よわ)い斑点に返り咲いた。もどかしくも終ぞ見果てぬ小木(こぎ)の振動からは揺す振り起された人間(ひと)の無関の体裁(からだ)に能力(ちから)を注いで、能力(ちから)も貰った人間達はしどろもどろと成りながらも体を動かす事には丈夫と成って、雪解けを知らない乳呑み児の程度にその思想(こころ)の在り処を隠して行った。
この世に落ちて唯風と人間とに揺さ振られ続いた俺の心身(からだ)は余す部分(ところ)無く今は唯常緑に照り映え行きて、人間(ひと)から知られぬ一介の固執をこの精神(こころ)へ落した儘にて街中と家中(いえなか)とを闊歩し続け、行くは身分を除いた生粋の僥倖をその精神(まなこ)に得ようと十分過ぎる脚力を呈して奮迅して居た。紛争し行く我の小手(こゆび)に又小さく輝く小宝(かて)を灯して身の丈に乗せ、上手く渡ろうとする天界迄への二本の地道を迂回しないで行進しようと試みて居た。一本は天界(ゆめ)に迄直通して居り、もう一本はUターンするように結局はこの今自分が居る詰らぬ個室へ舞い戻らせる算段を講じて居た。しかし昇る以前(まえ)では俺の精神(こころ)は未だに真実を見知らずその時期での摂理(なりゆき)を知らなかった為うっかりその一方に腰掛け両脚(あし)を昇らせる事に愚動の程度に気付かずに居て、丁度好い機会(タイミング)がその二本の地味(みち)や自身を取り巻く自然(かんきょう、又はいのち)から得られる事を狡く望んだ。尽きせぬ誤解は順々体が膨大(おお)きく成るように尻尾を巻いて後塵を消し、どれ程の巨躯か大抵分らぬ怒涛の嵐の如くにその前触れを静かに抑えて我と対峙し、夢想(ゆめ)の胸裏はまるで天界(そこ)には無い物である、とまで自身に言い聞かせる程、私の愚鈍は要を得なかった。しかし太鼓を叩いた様に攻撃の手を止めぬ俺の両手は、然るにこの肥え太った朝・昼・晩の飯を平らげた古狸程の大腹をぽんぽん叩き、狸太鼓で寝鎮めた行燈の灯りを体好く消して篝火を焚いた人の夢想の純心には明くる日から見る苦労の様子が悉く消え失せ始めて、遂には又闊歩(あるき)始める孤高の勇士は何処かへ志を置き遣ったように新たな信心をその身に秘めて、下界には無い夢想の境地を掲げて神童と成り得た。所々で後悔を燻る思想が呈する老獪紳士が我先にと人の群像を操り人が目指した夢への鉾先に加勢が芽生えて、何処と無く行き着く固陋の舟は一艘とも二艘とも無く、まるで日記を付(か)かない遊興への美談に明け暮れるようになって行った。寝食を共にする筈の己の分身達はやがて静かに俺から離れたように寝静まって行って、小言を連呼し果てる有終の美力にのんべんだらりん追い縋り泣き付いて、行く果て知らずのその放浪(さすらい)に僅かな寂寥を見た後(のち)に俺は見る見る内に侵食され行く我が身を投げて居た。その「侵食」した主とは実体(からだ)こそ見えぬが確かに現実に成立して居り、俺が誰かと卓を囲む時も体臭を流す時も寝る時も、又遊興に侍る時にも失(な)き体の儘にて共に居て、俺が泣いても笑っても思案に暮れても怒っても、一向にその実力を変えない儘に唯我儘な体(てい)を程好く見せて俺の精神(あたま)を闊歩して居た。透明色した硝子器が俺の周囲(まわり)には常に在って、その透明無色が講じてこの成体を成したのかと直ぐさま気付いてみたが、余りに無力な現実の残像に力を加える部分(ところ)が見付からず、暖簾に腕押し如くに俺の労は闊歩を取り止め、人が自然に順応して行くように俺はその影と共存始めて、小言は束の間俺の助力と成りつつ俺自体(そのもの)を記録して行く道具(かけはし)と成り行きその身を隠した。孤独に打ち震えた十六から二十歳までを凡そ自分の自覚(かくせい)の年と決めて俺は暫くこの一国を自身の母国と称してまるで日本(ひのもと)を砦と化したが、やがては疲れて、歩き疲れた徒労への限度は金を見始め地位を見始め、他人(ひと)を見始め人間(ひと)を見て、明確に興した下天での正義と悪義の内に己の尽力が程好く解け澄み燃え尽きるのを見て、五感の仔細に自らメスを入れる如くにその内実より成る財産を採り得て、この地上で最も自身に近付く自伝の程を一体文章にして纏め上げる事に尽力始めて、他人には伝わり切らない我が内成る刃(やいば)の成果をこの白紙へ納める事を一生の望みとしていた。それから躍動を損ねる事無く自承のみを育み続ける文体(ないよう)の程は尽きせぬ個人(ひと)の純真から成る欲望を自ら抱えて下天に降り立ち、〝分らぬ、解らぬ〟と呟き続けて明日の為にとやがてはそれ等を無視して生く他人の躍動を他所に、通り一遍に自我を咲き誇らせた人として当然の欲望(ゆめ)をこの個室(ち)へ降らせた。盛大豊かに人の温厚が諸人の言動を頼りにこの世(ち)へ降りて、何事の失墜も人への失態も何処(どこ)まで行けども成す術も無く小躍りし、小言を小さな懐(ケース)に入れて対人との分を知れども世は満ち行きて、所々で削り取られる自活(じりき)の生粋がまるで天から地中深くへ、見えない処へ、落ちて行くようだった。今日こそ何も喰わずで一日過ぎて半日が通り行く頃自体の活性について何かと明度(あかるみ)を見、如何でも人に対する救いを得ようと路頭へ迷うまるで小羊を再び自身へ取り入れ回想計らい、十九世紀(むかし)と現在(いま)との悪口(あっこう)を見知る程の迅雷の態にて余程を知って小言を履き替え、行くはロボットの様に、又行くは人の様に、又果ては悪と正義の狭間に生きる灰色人種(はいしょくじんしゅ)の様な白粉(おしろい)に化けた風采をこの身に従え、机上で気丈に振舞う少年紳士は心身(み)の潔白を何度も晴らそうと躍動して行く。動かない世間の浪間(なみま)を激しく揺れる体裁と内実とを揃える我が分身の要塞は一介に生きる未熟(しょうねん)の麓へまで着き身体(からだ)を昇って、未熟に帰する幾許かの懊悩に止む活力を再び目にしたが果ては手中を抜けて、気付けば何処までも無い人の気丈を自身(じしつ)の机上に見て行った。この自身(じしつ)の机上に於いては遥か太古から継続せしめた有限の床しさを人の孤高を歩き終えて現代まで持参する節が在って、小言も体裁も個々(こじん)の内実共々、唯学問に纏わる教材が訓(おし)えた人への活動の程と成り行き、行程を運ぶ人の肢体(て)頭脳(あし)は何処へ行けどもまるで湖で暴風雨を待つ様な不定の信心を所構わず唯地中深くへ投げ棄てて行く様で、獅子の子と唯人から怖れられた有限の人智(めいし)は地中深くへ潜り住んで、人から世から、遂には乖離(はな)れて唯厭世を謳うまでに堕ちて行った。田舎の空に緑(あお)い林檎が体好く咲いて、人が手足を黙した言動の向うへ未(ま)だ落さない頃、何処まで行っても果てを知れない夢が人に熱した熟創の喪失を不断(ふんだん)に雨と降らせて、唯又人が歩くこの世(ち)を静かに固め行く初春(はる)の網羅を人が呈する季節(けしき)へ映して行った。〝唐変木〟成る不逞の輩と寝起きを共にする不埒な男女が凍えて話す「春のお宿」は何処へ行けども矢張り熱気球の体(てい)して不定に膨らみ、火事の如き燃え盛る人の体熱に踊らされる傲慢の歩先は瞬く内に未知へ通じて、ドラマが一つも興る事無く、熟成は又妖精と消えたようだ。白紙に映された、人の目の形をした億土に見たのは人が凡そ満月の夜に炊いた魅惑(ロマンス)に伏せられる人の卑しさの集束(しゅうそく)に過ぎず、もんどりうった高空での砲音(げきてつ)とは又人の欲を普段(ふんだん)に使わせながらも人生(げんじつ)を活きる対象(もの)と化え、行くは果てしない儘己(おの)が白熱を知る靴音の後を付いて来るよう仕向ける音頭と成った。四肢が凍らされた熱帯に住み着く移住の民は内に暇を持て余した〝欲鳥(よくどり)〟が身を化え住み着き、彼(か)の詩人が一羽を持つと他人(ひと)からされた青鳥(とり)の一羽をまるで宙から抛り落されたように世間(ちじょう)で受け容(と)め、恰も狩りへでも行くかの様に唯益荒男に手向けた野菊の春夏奉納に帰すまで終ぞ戯れ、行くは又信天翁の子守唄を地中深くより漏らされるように児を地中(ぼたい)より採り挙げて、人への性の謳歌を好く好く自然の底より唯持ち上げられるのを無欲に期待して行く。無論整体を頃合い見計らった頃に窶れた顔した古豪の老婆が心中に現れ、その母体(からだ)に濡らした人の本能が全ての快感(オルガ)を欲しがった矢先の事である。無造作に投げ出される宇宙(からだ)の肢体は〝行くは万事〟と狭筵へまで期待を絆され、犬馬の如く良く働いた一介(ひと)への労資を悉く冷め遣られ行く春夏を謳う挽歌へ返して、やがては届こう宙(てん)への褒美を自らの手で逆手順(さかさ)に歪曲(ま)げて失態と化し、聖霊がこの身(ち)に帰して行くのを黙して見ながら、悉く愉快を手にする一介の消火器(ひと)へ掲げて音頭を執らせる方法を暗算で人へ課した。炎を操る水力と火力とのこの地での実益を兼ねられた果ての人への報酬とは又誰からも当てにされぬと良く良く曲げられ果てた億土の建物内(じんちゅう)に在り、慌てて寄越した人への〝加速〟は時代に恨まれ人を成長させ行き、死闘に燃え行く神の御手と人に決めさせていた。妙な縁起を担いで老獪と成り行く人の〝人智〟は折好く忍耐と勇気とを履き違えて行き、小言を人と世から遠く離れた別途へ吐き行く曲げられた早熟を知り着いて一度は泣いて、又一度は怒り、又一度は悦び、唯楽しむ間も無くその身が宙(てん)へ帰されて行くのを別天地(分身が住む場所)より傍観(なが)めて無効に終わる未熟の成長を黙して見ていた。神から来る物、悪から来る物、を夫々別途を以て別の地から寄り来る対象(もの)と黙して誤認し、唯自然より人へ紹介され行く糧(たね)の素質は人の脳裏(こころ)に誤解を招き、何時しか見えた〝古き良き醜態〟をこの世(ち)の所々へ種を蒔きつつ成熟させて、選り取り見取りの両刃の剣は何時の間にか人が繋いで行った逡巡迄の過程(いろどり)を堅固に唯固く閉ざして護り、良く知る過程のみを人に歩かせて行く規範(とりきめ)を擁して行くのだ。明日迄(あしたまで)の規範(とりきめ)であると誰もが見知り、そこで掲げられ行く人の掟は又他人(ひと)を刺す対象(もの)と成り変わって行って、背徳への逡巡はやがて道徳への逡巡へ形(すがた)を化えて人の脳裏(こころ)へ焼き付き言動を鈍らせたようで、何時しか人は唯現在(いま)のみを活きる無重の傀儡へと成り果てて居た。焼噛む貴人(きじん)は何時(いつ)でも唯何に付けても焼噛み誹り、言葉を借りる者とは思考も借りて身の末のみに按じて生き抜き、何事について同等を唱する者は夜中に明かりの傍にて行燈を焚きながら自分(おのれ)のみが認める正義を呈して他人(ひと)を裁いて、唯一様に皆、自分の生地を探して行った。新しく思想を欲しがる者は譬え体が宙に浮いても地に足着けて他人から妬まれる対象(もの)を掴もうと必死に成り行き、孤独に生きた者は縦しんば栄光の内に真実(ひかり)を見付けて朝陽の下(もと)を這い回るように成り行き、束の間他人を蹴落とす者とは口も耳も無いまま唯目だけを信じ、夜の闇に真実(ひかり)を見出し、何も根拠(いのち)を持たぬまるで詭弁の様な暗唱を口減らしするように他人(しんじつ)を退け、我執に浸り、固陋に佇む宇宙の存在へと目を輝かせて行った。個々の周囲にその数を減らした他人の魅惑は凡そ億土へ向けて闊歩を始めた郷里(りそう)への巡回を徘徊しながら崩壊して行く自身(み)の解(ほつ)れに唯感動をして、その他所から生れた感銘の程に丈夫とされ得た嘴を割られても一向に滅気(めげ)ずに飛び立とうとする己の自力に逞しさを知り、滞らず地中より宙(てん)へと昇る活力の程を今度ばかりは他人に重ねた。朦朧とし果てる独力の歯車には遂に訪れた朝陽が真っ向から射し、行くは羽伝(はねづた)いに又宙(てん)へと放り込まれる人の希望(ものさし)が謳う燕への芳香を自活が生んだ毒牙に持たせて自己に迎える音頭と称し、新たな生への進展を覚える何時しか知り得た独楽(どくがく)の旱魃に始終見て来た毒牙を引き込み、男性(おとこ)と女性(おんな)を二重に翳して透視し得た天候の内には限り無い愛情を掲げた独歩(せいぎ)が見えた。
形が定まらぬ落穂(おちほ)の数を鋤と鍬とを以て秤へ掛けたが、人には己が初めて目指した正義が分らず見分けを急くにも基準(ていど)を知らずに、程好く泣き濡れた朝露に埋れた桃源に呼ばれた嵐にのっそり口付けをし、し終えた俺は悉く謙遜するように形(すがた)を消し行く自然(いのち)が束ねた抑揚の程に逡巡する間も無い程更に又自活に浮遊を晒して、野原を歩いた亀は風に追い抜かれた事を知らない儘で齷齪働く生活(ろうや)へ帰した。見慣れた季節は真新しく成り、見知った大地は別天地と成り、知り得た〝麓〟は跳躍台(とびだい)と成り、真逆に働く五感の程度は調度を過ぎた白痴を知り行き、従来に構築し得た生活(どりょく)の基盤は夕闇を含めた球体の様に成り行き自らが跳び跳ねて地上を天井をその躍動に身を任せたまま姿を変え行く動体の圧政に程好く絆された熱気球の様に成って唯奔放に俺の行く当てを失くさせ、時に先回り・後着しながら、俺の白紙(こころ)に脚色させた。脚色され行き見慣れた季節(けしき)は唯傍観し得るに耐える感覚の大小を評価への高低に変え行き、例えば細雪に降る濃緑の密度を言葉へ変えて形容させる事も露とも労に厭わずし終えて仕舞える一介の尽力にまで体裁は生え変わり、俺の映り行く最善の弄策とは又、静かに景色を傍観せしめる人間のアカデミーに唯〝実現〟の燈火を鬱蒼この身に茂らせて行く老獪から成る実力の程に、その一対と成った小言の効力とは又洗身捧げる天への宝物の様に成り行く。繁く通い詰めた〝感動発電所〟への道程(みちのり)はそう私には未だ離れた対象(もの)ではないまま一向に戻らぬ感動を啄む小鳥の一群(あらし)は休む事無く、未だ俺の還りをこの身の麓で待ち詫び鮮明に灯された眼(まなこ)は不義を極めた精彩に躍動する日を静かに待った。小躍りする小鳥(とり)の雛にはまるで嘴も無い程己の餌を啄み又己の糧へ運ぶのを忘れたようで、憶え切れない自然の摂理は個々の麓へそっとひっそり漂い着くがその糧の程をより確かめて吟味するのは生体にしては到底無理な理由(はなし)に成り変わり、次に行く目的地では自身の置き所と拠所とを興味と煩悩とに任せて譬え歪曲されても許可する程小鳥の杜撰は徐に跳ね、未知は知れども現実(じじつ)を語らぬ木馬の様な小鳥の分身とは又、事実を黙して遂には語らぬ唯の置物の様に熱心に暴君を振舞う体裁(じつりょく)を実に付けて居た。果して陸(ろく)でもないと親や子を持つ一対の鷗に身の程知られても一向に現状(じじつ)を曲げられないまま唯乱暴詩人の体(てい)にて暴君を謳う日が在っても陽は直ぐ同様に昇って、二日、三日と過ぎ行く現行(ひびのながれ)に痺れを切らして譬え〝一対〟の正義に向って見ても鰥夫の孤高は慰められ得ず、益々固陋に生き行く〝昇り〟の態にてずっと俯き真っ直ぐ歩き、実直成る未熟の程度(ほど)をひたすら感けて愛し続けて、時折聞える無力の希薄は程好く押された天使の具現(なかみ)を暴いて行くのだ。暴けども暴けども、中々、一向に止まない涙の程度(ほど)は折好く降った汗の体(てい)にて摩り替り行き、新緑の葉裏に何者かにより又折好く発酵された老体を想わす無気力(よわさ)を始終に見せつつ俺の四肢(からだ)はそっと頭(こころ)を離れて又宙(てん)へ戻った。孤独の日々は謳われないまま唯記録へ留めて自体を謳歌し、俺へ辿る過去の憂いは未熟の儘で唯繁く通った感動の一群(あらし)を呼び集めて泣き、鼓動を感じた一体(からだ)はやがて天地の全体を包むくらいに一群(あらし)を呼んでその具現(からだ)を置き、延命を図る人の弄策を悉く眠らせ始めた老獪な技巧を迎えて在った。
〝白痴は恥ずべきではない。人の労苦はまるで天から下りた糧を憶えて翼が生えて、悉く人に与えられ得た自然(てん)が講じる一群(あらし)の夜には一段と輝(ひか)る明星が下り着き、名声を下界人(ひと)から貰ったルシファー成る怪人の妖精(こども)は寸尺違わぬ評価を身に付け明度を増し行く。滞らず人に流れ着く愚行の数(ほど)は余程狂った一群(あらし)をまるで漏斗を通して人の脳裏(こころ)へ込ませたようで、宙(てん)から下り得たその粒揃いの愚行とは元天使の輪(リング)に似た幻想(みじゅく)を白痴は教えて数えた物だと君も知って居る筈である。唯知らぬは一時(いっとき)の恥、知るは公明の恥と、愚行を数えた爛漫には凡そ人から生れた乱心が生き、時代が変わる毎に妖精の類(たぐい)も知ったかする間に移行して行く天文の中火を程好く知らしめたルシファーの体裁(ぐあい)に落ち着くのである。一向に変わらぬのは唯人を囲む自然(せつり)と摂理(せつり)、論理(せつり)と成長(せつり)、約束(せつり)と言葉(せつり)であって、明日を生き抜く人の温厚を又程好く熱し熟して行くのもここに下り立つ循環(せつり)の程に在る。最果ての見えぬ、まるで終着駅が地上(ここ)から浮いた宙の中程に在ったとしても君は驚かされず、他人の振りを見て我が癖直すように目下溢れた知識の氾濫を体好く宙へ投げ込むように乱心掲げて常人と成り、巷を往来し行く目下の下人に尊い安堵を憶える日々もそう遠い日の事ではないで在ろうと、君は又、夢見勝ちに我の振りを見ながら思い過ぎる。この「安堵」を過ぎ去った思惑(おもいで)の内には何時(いつ)か君が見知り得た有限に刺さった海馬の働きが活き、その働きが見せ得た白粉を塗りたくった神童の様な小僧が息し、唯飴を頬張る眠た気な田舎の少年には荷が重すぎると、戯れを忘れた雛に成り切る信徒の言葉は轟かずに落ち、君の寝耳の内にはひたすら求められた君への共存への共鳴が君の周囲(まわり)を飛び交う小鳥の命(こえ)と一緒に轟いて居た…(云々)〟、悉く俺への賛美はあのルシファーを空から落し得た宙(てん)の正義と人の正義が又悉く明暗を仕分けるように地にて解体し、人に食べさせた幻想・神話の出来とは創り終えた当人から遠くに置かれた知識人(エリート)により解体され行き、俺が食する頃には、勿体振った知識の扉が全ての創造が宙(てん)へ届くのを妨げるように在って開かず、唯、その論書を著した暇人達から得る鍵が無くては何処へも行けない柵(しがらみ)の生い茂った荒地(あれち)へと俺を誘導せしめて、モンクに似せた合鍵屋の主人は偽(ダミー)の心臓をつい食い破って夢の内へ現れ、水を被り終えた人身を喰い潰す悪鬼の実体へと又その実(み)を変えた。地中深くに刺さり終えさせられた天文の弓から放たれた矢の数々とは人の知らない未知なる脅威の内にひっそり隠され、身をこの世の中で落ち着け得たルシファーの矢文はまるで漆黒に塗られた真実の光を程好く体裁に乗じて人の実を知り人の知恵と知識に関係して行き、古豪とされ得たルシファーの漆黒とは唯真実だけを人に伝える対象(もの)と人から知られて未知へと下り行き、未開を知り得た人の類(たぐい)は動植物より歪められた偏光(めがね)の成す業にふと又その実を示され、墓穴の様に地中深くまで行き届いた新天へ飛ばされ絆され、暗空(よぞら)に適した愚行の数々(あらわ)を愚民と称し得た数多に紛れて薫香漂う密室の前面(まえ)まで身を潜めて行き、自然(せつり)を報しめられた人の悪行だとは流布される間もない。唯自然(なりゆき)が制する静なる源流(どうりょく)に人はその肩と尻とを押され、四肢を魅力に紛らわすようにして子供(みじゅく)の力に作用されたその手足は左右され行き身は固められ行き、如何する間も無く、人は唯悪行(あくぎょう)の内に正義が自ら宿って来るのを自然に待って、己の歩足は己の目的(せいちょう)の為のみに使われるのを願って行くのだ。良い鴨が手に入ったと、自然に収めた動力の数はやがて人々(ひと)から伝わり俺の対象(もの)と成り果て身を固めて、俺の手足を動かすのには次第に高まる流行の坩堝に鎌首挙げたディケンズの書物が怪物の体(てい)して身を塗り込めた。俺の心中(こころ)は塗り込められたその黒が元より在った俺の純心(しろ)色を程好く灰色へ染め上げ、過去・現在・未来の三つに生き行く得体知れずの現行の行方を追う事と成り行き、唐突の無い三拍子に又突如として葉っぱを巻き上げられ発破を掛けられた夢遊の共鳴(さけび)は何の知る由も無い儘その儘の態にて自然に歩き、俺をそうした三つの砦へ一つずつ辿り着かせる浮遊の主に突如として奪われた幻惑を生む斧を、又何時(いつ)か何処かで取り扱わねば成らぬ一介の剣士が憶える心情に駆られ、それでも練り歩き、路頭に唯迷う進退窮まる矛盾の昇華を一介の身上(みのうえ)に掲げて活力を採り、俺は又、どの砦の内にも俺だけが住み込める精彩なオルガを一匹飼って居た。
所構わず黒泥(ず)んだ妄想が天から下りた〝指示〟によりあらゆる変質にその身を負かされ、一対の男女が自閉を覗いて世間に晒され天下を海にしたまま〝市中牽き回し〟を妄想させられた儘、それまで知らずに居た光明(ひかり)に妄想が活きて行くのを見定めて、〝古き良き〟と称され得た黄金(ゆうぐれ)に唯疎んじられつつ、夫々の、否一対の思惑(こころ)に取り残された白紙に緑色を始めにして白色へ迄一連の脚力を天地へ晒した儘でまるで〝早漏〟の様に成って仕舞った。独りの女子が東京に位置した鶯谷からやって来て、電車に乗り込むその身体(からだ)は周知の様相に程好く見透かされた様になりつつ遮二無二働く白色の陽光が天窓から差し込むようにして市街の電車の二窓三窓からすっと差し込んだ頃合いには白い体内に見惚れさせるまでの人間(ひと)への言葉(こころ)が漸く火を灯して行った。好く人間(ひと)の活性を呑み干して来たその独りの女は幼少の頃に見知った凄惨な人情が二重にも三重にも加速する様に一性が取り巻かれて身許を失い、一旦基母(ベース)を離れた一子の女性は何処からやって来たのか全く知り得ぬ独房の外界に置かれた嫡子の様な体裁と成りつつ、同じく一子と見られ得る男子の一性には程好く思惑(こころ)が透かされ、あらゆる物事が既に己の経験の為にと至宝に見紛う生粋から成る身欲の精神へと己の我欲は成り得ぬ女体と芯とを呈して、独りの女は闊歩を擁した。頃合い見計らった市街の活力は女が丁度男の社(やしろ)へ入り込もうと試みる時その女性の脚力を動かす芯にまで陽光を平等に当てつつ、まるで男よりも一女(おんな)がこの身分を取り巻いた自然(かんきょう)に愛されて居るように錯覚させてはそこに集った男の群れを精力で圧倒して行き、一男(おとこ)に残された誘惑への鼓動は唯ひっそりと、鬱蒼と茂ったこの世の悪行(あくぎょう)の社(やしろ)に取り囲まれた震え声の様に頼り無い身分に成り落ち着いて、風呂で一身湯浴みした後身を清める以前(まえ)にまるで一身を一新に解体され行く様に一男(おとこ)の煩悩(からだ)は身寄りを失くし、気付けば自分達の周辺(あたり)を知らぬ表情(かお)して歩いて行く女性の美しさに程好く無視された儘、酷い孤独に一身を堕として行った。男性は男女一対として初めに置かれた有力の生粋に無力を取り付けた後(のち)不意に吹いて来た風に足を操(と)られた後(のち)に一度女性(おんな)の泉で己の活力を得ようと身を寄せた事が在ったがそれでも矢張り間髪入れずに女性がその都度無視を続けて一男から得る愛情を足元の地に棄げ蹂躙した為、一男の純情は自分が向う将来(さき)の闇に咲いた華の嵐にもう一度、否何度か身を寄せる事を試みたがそこに居残った性情の破片は皆悉く生粋のオルガを求め始める癖を身に着け、その時でも一男の純情を余所目にしたまま一女は何にも我慢した風で無いまま我が棲家をだけ求めるように闊歩して行き、とうとう男女の間にこの地上での壁が出来上がった。両性共己(おの)が性愛から得る個別の活動はまるで天地に於いて作用される様に各自が飛ぶ先を見付けようとしたが両性共各自に割り当てられた独歩を受け取る正義(みもと)を得られず、男性は女性を、女性は己の独走のみを担ぎ得る自然(かんきょう)が呈する土台を求めて生きて行った。当面の両性が求める愛情の賛歌の内には、放埓に撒かれた麗しが置かれる如く小さな賛美歌への伴奏が流れて来るようで、共倒れに成らぬ様にと正義と悪義とが理性と偶像とを天から与えられた四つの四肢に取り付け巻いて、小言をこれ以上聞きたくないとした男性は女性を担ぎ得たこの世を網羅する程の母体(どだい)からその一身(み)を引き離した後、唯何処(いずこ)から吹き何処(いずこ)へ吹き抜けて行く冬の大空を彩った寒風を一身に受けつつもひたすら己の肢体の片方のみを支え続ける頼りを求めて、何処(どこ)か遠くへ、今立ち尽くして居るその場所(ところ)から遠くへ離れ去る事を願い祈りつつ、脇目をも振らずに独歩した為、時折温みを見せる女体を女体としか見ず辛抱強く闊歩して行く。何処(どこ)かに咲いた目的地へ歩いて行くその所々で弱々しくひっそり光った希望の様な物をその道上を歩き生く男性(おとこ)は見て居たが、当面この地上で自分が願った理想(ゆめ)を包容し得る温みを得ようとしなかったので自分が地上(ここ)を離れて天へ召される迄は、と独自に磨き上げた理想(ゆめ)の数々は取り退(の)けて、女性(ぬくみ)を自分から遠ざけて置き遣った儘、この世で吐き続けねば成らぬ小言の連呼にとにかく躍起と成って覇気をも燃やした。時折吹き荒ぶ荒れ野の果てから生れた精神(こころ)の暴風(あるじ)はまるで大陸の間を飛び波(わた)りつつ要所で糧を得て生く蝗の実力にふと又俺迄分を届けて、他人と練り歩いたこの世の迷路を何処(どこ)まで行けども目的(ひかり)を見せぬ地中(みち)のドグマと称して自己のオルガと共鳴させ行き、悉く人の小言は歴史を紡いで現行(げんざい)まで自活を運び得るベクトルを作り終えて居た。その方向へ又闊歩して行く人間(ひと)のドグマとは十人十色の花を咲かせて無闇に跳び付き、跳び付かれた自然(しぜん)の項目は一瞬根絶やしにされる程の人の力の襲来を程好く被った後で自活により塞がれて居た小言の数多を人へ降らせ、頭上に溜まり終えた小言の糧を小さく見積もった純白の両手(いのち)は静かにそれ等を各自の足元へ落して人と歴史の幅との共存を取り留め出した。人の思惑(こころ)の内にも街の内にも、ひっそりと小さく建てられ終えた白い教会からは何時(いつ)でも絶える事無くドグマを表す程の賛美への伴奏が漏れ落ち、人の小言と同様にして人の頭上に落ち咲いたドグマの数を又もう一度人の両手(いのち)により各自の足元へ引き落とされたが、人が果てに神の神義を得ようとした為、その教会より結果的に漏れ落ちた神秘の程は、人にその内実(うち)を見せずまま人にとって救済(すくい)の源(もと)と成った。男も女もこの世で俗に謳われた英雄のみを愛そうと試みた者達は自分達から遠い真義について真剣に取り上げる事をせず、唯それ等は〝自分達から遠い物〟と各自が各自の胸に釘を刺す様に取り付けて正義(ひと)を自分から取り離した為、口も耳も重い、目に見える現実のみを愛する頭脳(ひと)の傀儡へと成り落ちた。まるで天界より追放され堕ちたルシファーの体(てい)に成り落ちた人の傀儡達は、その頭脳により構築された神話のみに心身(み)を浸す様に自分達の理想(ゆめ)を挿入して行きその同じ頁の内に物語を描き、〝神話だ〟と分っていても、現実が突き立てる剣の勢いに感ける様に敗れた者達の内幾人かは、その物語の方を愛してもう一度敗れて行った。その敗れた者達が何人も現世に生きる人々からは何処(どこ)へ行ったか見破れない為神話が噂を呼び、噂が神話を創り出し、又人の頭脳がその噂を解体して伝説と謳った為現世(ひと)には皆目見当付かずの無聊が生れて、人をまるで藪睨みする体(てい)の一塊(いっかい)の蟠りが空と地に解け、そこで生き行く人のドグマは生来各自へ届いた黄金にも匹敵するとされた神話の数は一纏めにされ、まるで氷蔵に押し遣られた様にゆっくり見下ろす事の出来る一塊(いっかい)のオブジェと成り得た。
散々地上や宙や、伝説の内に人により構築された一通を歩き終えた独りの女は、様々な単純(モノクロ)により構築された人のドグマを手中にした儘出会う物、人に己への賛歌を唄わせ傷口を洗い、その二つの物によって散々傷が入(い)った女の肉体(からだ)は精神(こころ)を忘れたようで、男性を自分の目的への完遂の為に一つずつ積み上げられる土層(かいだん)の様に見上(みさ)げて、終ぞ叶わぬ男の理想(ゆめ)をその肉体(からだ)の内に留めなかった。明確に唯男女達(ひとたち)が神義(かみ)を神秘としか見なく成った現世(ころ)には、神の国から揺れ落ちる蜘蛛の糸の様な未完の命綱(いと)は人の夢の内にのみ留め置かれて、有名無実に咲き誇る名人の記録の内に顔を覗かす一瞬の温もりのみを手中に収めた後、男女(ひと)は自ず設けられた自分達に適する人道(みち)にその一体(み)を置き遣り、良しとした。自分達を生来支えた母体(どだい)はこの地上に倒れないので男女達(ひとびと)は一新に気力を向上させつつ再び人の骸を着せた儘にて構造(からだ)を持ち得て、呑みたい時に水、喰いたい時に食、使いたい時に道具が男女達(じぶんたち)を常に取り巻いて居た為に渇きも飢えも不便も知らずに身(おのれ)を咲き誇らせて、地上(じんせい)で起った全ての物事(れきし)は全て自分の為に成されたものと各自が受け止め、又歩き出した後(のち)、曇った夜空に遂に人工の月が自分達に巡り会った事実(こと)をそこに集った男女達(ひとたち)により賛美された。
白紙が新緑の萌芽を遠くに咲いた雪山に茂らせた為、小鳥が独りの女と男との間に生れる何者かに寵愛され得た児(こども)の手によりすっかり生き得て自覚(おのれ)を手に取り、己の両脚(あし)でまるで獲物を狩りに行くように力強く闊歩を始めて、届かぬ天空へ迄も虹を踏み台にして駆け上がって行く精神力(きゃくりょく)を見せて居た。そうした児(こども)の精神(あし)の揺れ動きには当面働き続ける強靭がまるで天の虚空から下(おろ)されたような神秘が在るのを、男女はその児(こども)の肉体に阻まれた故に見せられた後、又男女達(じぶんたち)の体力は〝あの雪山へ駆け上がって新緑に打ち破られた人の掟(ドグマ)を生来人の将来を見据えて置かれた何等かの協定へ繋げられる財産へと変える事が出来る…!〟と強く決心を憶えて、初春を待たずに児(こども)が男女達(じぶんたち)から何等かにより取り除かれる迄、体力(からだ)と精神(こころ)に強く鞭打ち、人が得る筈の果てへ向けて唯闊歩を始めた。良く良く形成(ていさい)を変化させ行く雪山に咲いた人の理想(ゆめ)とは、多勢が集まり不可能を可能へ変え行く地上の神秘を指す対象(もの)ではなく、独断との内で個人により変えられ行く宙と個人(ひと)とを結ぶ一線の内に認められる契約から成る産物を指す対象(もの)として在り、男女が共に、各自が地上(このよ)を生き抜く為の糧を得ようと躍起と化した構築(さんだん)の内に在るものだった。唯〝悟り〟は何時(いつ)の時でも男女(かれら)に遣って来て、必ず複数(むれ)で居る男性(おとこ)の采配には屈せず形も折られず、形成(いのち)を郷里(エデン)に咲いた源泉(みず)から引いて果実を実らせていたが、常に独りで居る女の傍(よこ)に在るのは人の形を借りた悪魔であって、凡そ人の為にと創られたその内実(しょうたい)は男性(ひと)から離れ過ぎた誘惑(あく)の傀儡と成る事が自然(せつり)の内で静かに定められた故の姿と成り果て、男性(おとこ)の目には何時(いつ)も真実(ひかり)のみしか純粋に映らず又頼り無い性質が伴われて居た為、次に彼(か)のEve(おんな)がAdam(おとこ)へ誘惑の真実(ひかり)を持参する前に男は周辺(あたり)の自然をも味方に付けて、女性(おんな)を自分達から遠く離れた地中へと追い遣った。その頃には人の創った時代の力(いきおい)により悪は蛇から人へと変って居た為、女性(おんな)は獣に身を堕とす必要(こと)無く男性(おとこ)と交われる実力(すがた)を兼ね保(も)ち、男性(おとこ)の悪心が悪行(あっこう)を振り上げる余地が在る場所へは何処へでも自らの精神力(きゃくりょく)を従えて付いて行け、その〝聖地〟と人が称した人から未開の地へと何時(いつ)でも行けた。その行為と目的(けっか)とが常に男女(ひと)に対して自分達への栄光だけを見せて居た為男女から成る全ての行動(やくどう)は正義を奏でて闇を葬り、時折その未開地(せいち)から吹き飛ばされ行く偉人と人から称された肉体(もの)達への追悼さえ忘れて、男女(じぶん)達は男女(じぶん)達の結末を終焉にはせず切り開くのだと惨憺した儘奮迅して居た。数々の歴史がそうした未開地(せいち)に住む、或いは辿り着こうとする男女(もの)達の頭上に輝き通り過ぎた頃、通り過ぎた筈の歴史(しんじつ)は一通り人により掴まれもう一度錯覚を男女達(じぶんたち)の精神(こころ)に咲かせた後で返り咲いた欲望(きぼう)への活動とはしないで、理想(ゆめ)としてその身を鎮め置きつつ、何者にも弱点を見せない薄弱に縋る強靭の程を寸志取り付けられて、取り付けられた男女の欲望は見る見る内に人の手垢の故に雪達磨式に一体を膨らませ天迄昇り、やがては現行(ちじょう)を見下ろす男女(ひと)の掟(ドグマ)として据えられて居た。人が現行(このよ)と個人とを繋ぎ止めるようにして見続けて行く男女の夢とはまるで四肢に翼が与えられた様にその精神(あし)を現行(ちじょう)に立たせて男女の間を練り歩き、転ばぬようにと意識(つえ)を持たされ歩かされる個人(ひと)の活力とは又この現行に明確に認められる実力を身に付け個人を助けるようで、理想(ゆめ)は遂に無意識(やみ)に建てられた柵を越えて現行(このよ)に辿り着けた。その現行(ところ)で理想(ゆめ)の番人とは又多勢(ひと)の推薦により男女(いっつい)と決められ理想(ゆめ)が織り立てた現行(げんせ)に於ける人の欲望は勢い付いて、まるで児(こども)が未熟の内に調子付く儘茨を折り行き人の固陋と理性(たから)とから成る独走に油を差して、滑(ころ)ぶ者と尚活歩(かっぽ)する者とに仕立て分けて、水を差された現行(げんざい)の人々(ひと)の正義は正義から遠く離れた無理を吐くように成った。
子供も大人も未熟と成人とに仕立て分けられ、人にとって訳の分らぬ曖昧を回避するべく単純(モノクロ)の正義(きじゅん)に寄って正義と悪義とが分けられる〝一刀両断の人の煩悩(せいぎ)〟が燃え立ち舞い上がり、人の頭上に咲き遣られた煩悩(ほんのう)の程度は足繁く通い詰めた〝小人達の巣窟〟に投げ捨てられた後又その四肢には翼が付けられ、加工を得手とする現行人の手中(て)に落ち落札された。明日を吹く風への脚色(いろどり)も無い儘人の覚悟は唯過去へずっと遡る弄図を描き、燃え盛った欲望の火の粉は常に個人(ひと)の四肢と五感を抓るように悪戯始め、唯自然の様に置き去られた頭脳(りせい)と六感(きぼう)だけがその火の粉と核心とを鎮めようとはするが一向に止まぬ欲望の脚力は次第に現行(いのち)を侵食し始め、人の生来とは又この現世(うつしょ)に在る物なのか、と見紛う程に、個人(ひと)にとっては自生(かいか)と未開とを繋ぐ両刃の弓矢と成った。悉く男女(じぶん)達の独房に敷かれた狭筵が男女(ひと)を閉じ込めた理性(しぜん)の刃(やいば)に逆らい始めて信念(ねつぼう)を抱き、遂には男女達(じぶんたち)の命が絶滅(ぜんめつ)する迄尻尾を振って付いて来て居た樹海の生気を皆殺しにして個を護り、各々に置かれ得た男女(ひと)の能力を何処でも開花し得るようにと男女(ひと)の精神(あし)が駆け回る領域(はんい)をも少し拡めて、漸次拡げた無欲から成る境地は漸く男女から成る我欲が制する境地と成り果て更に成長を始め、人の熱力(いきおい)に絆された流され人(びと)の内には人間らしく〝肉体(にくよく)と精神(せいよく)とが人の為に充分に発揮される、人間と自然とが共有して天(もくてき)を仰ぐ事の出来る開拓を進めて来たのだ〟と多勢(ひと)の所作を賛美する者も出た。様々な自然の樞を宙へ放って浮彫とさせ、(嘆く個人の内に潜んだ)精神が未だに神秘の内に潜む和(ぬくもり)を欲した生粋の欲望が人が天(しょうらい)へと独歩して行く道上(かてい)の内の所々に光って咲いた人の衣に縋り付いて泣き叫び、早く己の心身をこの現行の速度を落として自然(せつり)が構築始める神秘の社(やしろ)を具現化させて置き遣って欲しいと人を束ねた〝古き良き〟時代に生きた鋼鉄の刃は夫々の思惑(りせい)に咲かせられた自然から成る夢想のオルガを成熟させ得て箍を焼き切り、何事にも共有を憶えた男女は自然の神秘(からくり)に寄って決意を迷路(パズル)の様に分散させられ煩いさえ持ち、行くは楽を興じて活路を枯らす愚行の神秘と認めて自然(しんぴ)を現行(しんぴ)と採り変え、個より形成される男女の一対は何事に就いても〝共有〟を図る事の出来る白紙のオルガを心底に認め得たと見紛い始めて、生春(せいしゅん)が講じた独断のオルガは複数(むれ)の内に在る男性と独りの女とを一対にした儘呑み込んだ後、個人が連ねた欲望の逡巡を悉く皆殺しにした。
当然の報酬を貰いたいが為に男女はまるで空から生まれ落ちた妖精の様に翼を自らの背に取り付け、何時(いつ)か、生きて居る内に見知った野原に咲く竜胆(りんど)の青をその儘心中(こころ)に浸す事を試みて、遠くから借りて来た後光の灯(あか)りを胸にひらひら舞い踊り、何処(どこ)へ行くでもなく小さな滝の様な葦の集落へと身を寄せて行った。「遠く」とはこの場合、二人(だんじょ)が見知らぬ土地を指すものとして在り、星々が夜空に身分を照らすように咲き誇る暗黙のテリトリーを指して言ったまでのもの。誰も未開の地に足を踏み入れる事の出来ない云わば未知・無知を知らされる境遇に自ず恐怖を報される悉く白い城(とりで)を嫌ったあの紋白蝶の体(てい)に身を寄せる如く自然な振舞いはこの二人に特別ではない。通りすがりに二人の心中(こころ)に咲き乱れて新たな理想(ゆめ)を描(えが)かせた無教の境地へ辿る直前、自らを律した諸人のアンソロジーは矢張り二人に特別ではなかった。
俺は数々の夢想に手足の頭脳(こころみ)を延ばして引く手あまたに重なり光り輝く風来のアンソロジーに表情を取り付けたまま唯自分の行方を按じ、遠くから潺(せせらぎ)を見せて来る小さな小川は近寄れば数段幅も水量(めかた)も大きく成りつつ、まるで俺が小川(そこ)へ辿るのを何かが、誰かが待って居てくれたような予想を知って居た。だから俺が、開化されたこの地から未開の地へ行き、そこに何が誰が現れようとも一向に驚かず怯まずに居られたのにはその予想が俺に放った深遠が少なからず在る。俺の身辺(まわり)には暗雲どころか晴天に浮んだ白線を束ねた様な白雲が早雲と成り群れ出して幅を作り、下天に浮んだ諸々の出来事の笠を以前(まえ)に増して俺好みに合せて拡がった。その所で小さなスポーツをして居た公民の奴隷と俺は成り行き、しどろもどろして居る小さな四肢は俺の頭脳(のうりょく)に合せて又複雑と成り、遂には孤島を飛び越え人の輪を見た。付かず離れずドッジボールの様に球体が宙を彷徨う女子供が賑わうスポーツを知ったが況やそれは女子供に限らず人体・宙へと躍動し、男子(おとこ)の体(てい)にも満ちて行く春雨の内に咲いた一輪の竜胆の群青を艶やかに空(くう)に濾したようなおぼこさをふと誰もの足跡に残して行った。俺が青春と称された淡い時の流れに乗って静かに何処かへ運び遣られる頃に又小さく深緑(ふかいみどり)の園を目前(まえ)にしてどんと横たわった黄砂のグラウンドに、小から大を兼ねた人間の躍動がスポーツの内で頻りに伸び縮みしつつあの青空に咲いて俺を魅了して、又魅惑に満ちた瞳をグラウンドへ向けさせられた俺はこれから向かおうとして居た目的地(ゆきさき)さえ遠くへ置き遣った儘、小さい眼(まなこ)で知った旧来の友の体と表情(かお)を唯静かに眺めて認め、温存していた活力(パワー)の上限を二分に延(ひ)き出す事を両脚(あし)に知らせた。努めて紅(あか)く振舞う俺には旧来も正来(しょうらい)も続け様に自分の麓へ越して来たような多忙を見て取り、次第に潤(ふや)け始めて、それ以上の水に浸かる術を又遠くへ置いた儘にて田舎(じっか)を忘れて都会(しゅうらく)へ飛び立ち、汗を流して唯運動に励んで行く男女子供を清しく見初めて凡庸を知り、俺の棲家はそこから身近な人間(ひと)の内に在るのを見て知った。
長らく、そこへ辿り着く迄、ドッジボールをやって居ると想わせてくれた人間(ひと)の全景は、情景と交わりグラウンドの背景を彩り俺と人間(ひと)とを覆って居た山峰の頂頃(いただきあたり)から小鳩がすうっと青を映した黄砂へ下りて来る頃真相を明かしたようで、唯鼠色や黄土色を光らせて人間(ひと)人間(ひと)との間を縫い付けて居たボールは区切(くっき)り紅のラインが人間(ひと)が各々持って居た領分を仕切る様に体を横たわらせて、人間(ひと)がその黄砂の上で何をして居るのか明然と見させた。まるでその見せた向きは俺とも言えず誰とも言えず自然に向って延ばされたようで屹立として在り、俺がそこから何処(どこ)へ向かおうともそのラインはしっかり俺に纏わり付いて、どの場所からでも、皆がして居るスポーツ(あそび)を囃して見せた。まるで薄ら蜃気楼にでも巻かれた様に背景に深緑を設けた黄砂は静かに佇み、俺の目前では妙に散らばる女子供が先ず現れ、その人数(かず)の背後に潺が置かれたように区切りが成されて、その波(わた)った先には男が見えた。どうやらその黄砂の上で跳ねて居た情景と光景は始め俺に女子供がやって見せる女子ハンドボールの試合を見せて居たようで、その景色は同時に俺に、この試合では両手を使う事を再確認させられていた。又、形式(かたち)だけに見えるチームワークの快調を知らされ、やがて棄てられるその短命の程につい躓き掛けた。規則(ルール)に従いチームに居た内の独りに声を掛けて許可を得た後俺は試合(ゲーム)に参加し、陽光の一線ずつから冷めて聞える自然(せつり)の荒声と静声(せいじゃく)を少しずつ聞いた後見る見る視野(もくぜん)は拡がり、俺の身辺(まわり)には俺の小学校から中学校の頃に集めた旧友が集って戯れて居り、自然の隙を突いたように各自が居場所(ポジション)を見付けて、掠め取った所定位置に身を静めた後に彼等は俺とハンドボールをし始めた。
程好く人数をばらけて散らばった心算だったが、黄砂が時折巻き上げる砂塵に別の景色を見るのか試合(ゲーム)が指す進行(むき)を各自で認めず、俺も自分から遠ざかった所に佇み進行(むき)に逆行(ふむき)を漂わす紅白の囲いがゴールにしては余りに遠い事実を見て取り、潤(ふや)けた心は友人を暗くさせた。これ等は取分け過去から常識として在り今に驚かせず、始めの内は楽しかったが相応に人間(ひと)が真顔を見せると派手には成らない。明るく輝く黄砂の上の黄金に小さく所々に立った暗雲が顔を見せると忽ちムードは逆転して行き、一度チームに近付き掛けた活力(エネルギー)の程度は青空へ吸い込まれた体(てい)を採って沈殿して行き、もろもろと水の底に溜まった粉の一角はチームにとって蟠りと成る。成長して居た熱気の渦は時折吹き去る冷風にその身を預けてまるで青空と地中とに進行(むき)を定められた様に体を低く飛ばして火照った四肢(ひと)を覚まして行った。それにしても進行され行くゲームの程度は熱気を沈めて俺に向き終え、突然飛んで来た白球の様な珠玉を一度自分達を囲むライン上で片手で弾き白陣(もと)へ戻すが、球が向った先は黒服を着た審判の元であり、その両脚(からだ)に打つかり行方を見せない。俺は何度かこのような経験を繰り返したが試合の進行(むき)は進んでいるのか否か果して分らず、黙した様に進行も規則(ルール)も勝敗を決する得点の程度も曖昧と成り、それでも深い地中に蠢く虫の群れが自然の摂理(ルール)に従い人から離れた処で生き行くように、この試合(ゲーム)の進行(いのち)も唯生きて行った。丁度俺のライン上から片手で弾く玉の二投目は旧友として在るFという男子生徒の元へ向かった。Fはここぞとばかりに俺から譲り受けたその緩く宙へふわりと浮いた球を捕えて、ハンドボールながらに得意のサッカーの熱気(いきおい)を持ち出し蹴りを放って緩い球をまるで夏の白球の様に形(すがた)を変えさせ、相手の陣を割ろうとしていた。しかし、緩く、ふわりと浮いた俺の白球に自ず全身(からだ)を近付けようともしたのかFの蹴りが放った球には威力が無いまま速度も付かずに、その格段に遅く走った白球は難無く相手キーパーに受け止められた。その成り行きを見た俺はFに向って「お前…」と鼻を片手指に摘まみ青空と黄砂とを見て笑う様に叱責するとFは俺に向って「何?」と真顔を見せて追従させられ、白雲に小さく具えた想い出(むかし)が光る頃、俺の表情(かお)まで遠近を無視したFの表情(かお)には談笑(ぬくもり)を呈した活気に灯され、「なんぼ遠近法無視して遅いねん」と俺が言った後二人してがっはっはっと笑い合えて居た。
深緑に青空が吸い込まれ、黄砂が西から東へ常に全力で穏やかに吹く季節風の様な風に吹き奪(と)られた頃その砂塵の内には黒泥(くろず)んだ煉瓦組石(れんがタイル)が現れ活気を灯し、その地中から響くような活気から成る振動は微妙に徐々に街を造り出して人を見せ、過去と現在と未来とが三段階で空想の内を交錯して行く堅牢な重装をこの街に携え、小鳥が頭上(そら)で歌う声も、白雲が又光る音も、見知らぬ飛行機の機材が奏でる機音も程好く聞こえる地上と成り行き、旧来の友人達と俄かにキャッチボールをして楽しんだ時間は異国に乗じて霧散に晴れ行き、俺達は気付いた時に、古風が制するイタリアンの街角へ立って居た。まさか過去を辿る内に数多の地図(ばしょ)に於いて見て来た感覚に沈んだ喜怒哀楽の程度(ほど)を静かに分かち合えた旧来の友達と再び心中(こころ)を一つにこの様な場所へ来れる等とは、等と俺の何時(いつ)もの妄想(はしゃぎ)癖が飛び跳ね息巻き、その理想(ゆめ)の内から一度ふと目覚めた俺は蒲団に転んだ儘で天井へ向かい、「ギヤマン…」と心中に呟いて居た。
白い靄の様な薄霧が深くも浅くもなくまるでその手中に我等を弄ぶかのようにして色付いた祭壇を我等の目前へと投げ遣った時、俺の眼(まなこ)裏にも薄ら鱗の様な靄が掛って白内の癖を吹き飛ばす程の、深淵を呼ぶ蝦蟇の鼾がけたたましくあの深緑の内から鳴り響いたと信じた内に、小言を空から程好く連呼して来た白い兎の体(むれ)が遥か遠くへ置き遣って居た我が愛しの愛猫の生きた気配(ここち)が無造作に飛び交う黄金の砂金の間を掻い潜って俺の麓へ落ち行き、所々で斑の模様を地中へ沈めて又軽くほくそ笑む陽光の熱泥に身を摺り寄せた尽力から得た賜物とは俺の愛猫の体内を涼しく独走(はし)って滔々昏睡を知り、溜めたストレスの痕跡を終生に至るまで後生大事にするのを躊躇う挙句に俺は又静かに白内に佇む愛情を受け取って、我が家へ還る至極の狂酔へ水浴びを覚え果てた兎は猫へと化けて俺を慕い、初めから在る俺への対象としてその場に伏せた。「その場」とは目下旧友達と朝に夕なに程好く呆けて萎えた喜怒哀楽を埋めた地中を指して居り、俺も家族も自ら何処か未開の未知(ばしょ)へ心体(からだ)を蠢かせた儘時に追従した身分を携え陽光を仰ぎ見、捕まり損ねた烏種(からすだね)を落す苗の一芯に余程縋り付きたい本能を抑えて煩悩を飛び越え体を起こして、俺は遂に密かに時空を越えたオルガを抱えて夜雲を照らし照明(サーチライト)が吹く様に射す移り気の下(もと)でこの身許を落した。やがて未知から成った〝耽溺の茂み〟を掻き分けて一匹の猫が少々泡喰った体(てい)にて脚を走らせ、眠気を覚まして、何れの口から放たれたか知らぬ口火を切ったかの様に丸めた背中(からだ)を大きく揺らして俺に頼った。頼らせる躰をちょこちょこ動かしながら外界(そと)に吹く弱風には生体に対して寒さを植える程の強行の術は無く、行く行く温みを覚える猫の肢体は俺の足元へ絡み付いて陽光の様に温(ぬる)く、確実に安心を寄せ、俺と猫とは誰にも何にも絆され得ない強い絆(ロープ)で結ばれた体(てい)と成った。白紙を裏返した体(てい)の透き通るような襖を開けて隣の部屋へ入ると、俺の愛具(ペット)として過去(むかし)を生きた〝白兵衛(しろべえ)〟と呼ばれた白猫が居た。〝吾輩の名は未だ無い…〟と白兵衛の表情の内には消えて絶えない無欲が小言を呈して俺に向けては向って来そうだったが、遂には部屋奥の闇がその肢体の白を映えさせ文言を奪った為に黒色が闇の内に同化する程の過程(なりゆき)を以て唯新鮮と対峙し、俺に向って無言と無音とを吐き出す以外に白には程好い手立てが無かった。一度死んだのに何故又俺の向かう部屋の内に生きて居るのか、考えれば眠る程に悪行に児(こども)が纏い付く体(てい)にて感情(こころ)に安定を得られず、俺と白とは程無くその無言劇が打ち切られる迄まるで無意識(知らず)内に生きる心地を憶えさせられ、殆ど夢だか正気だか知り得ずの泡沫(うたかた)の心境(ここち)に場合(きかい)は転じた。〝死んだのに…〟と思うと途端に俺の心身(からだ)は恐怖に駆られ四肢の機能は全く緊迫しつつ、取り留めも無い夢想の誘惑に固陋が飛び交い、頑なな意識が俺を呈して愛具(ペット)との冷たい対峙に終始終着して居た。執着の縛(ばく)から精神(こころ)を放ち切れずの俺の醜悪の懐からは追々尽きない自衛の精神(こころ)が明度(あかるみ)目掛けて飛翔した儘遂に本拠(ベース)へ還り切らずに、愛想好くした微塵の純情は我が愛猫の両脚元(あしもと)にぽつんと落ちて、〝俺に、こいつは向って襲って来るかも…〟等と、天使の輪を飾り立てた白の胸毛と浅く愛せる芝生の様な白の頭毛(あたま)を程好く愛撫しながら、俺は考えて居た。白の背の向うに、もう一匹猫が居た。そいつは生きて居り、白が見せた嘗ての気色を携えずに唯自然が呈した樞の冷たさに体温(ぬくもり)を以て縋り付き飛び回って居る様子であって、その吐く息も微熱を帯びて青白(つめた)くなかった。その為生来の美術(うつくしさ)が腰掛け程度に知り得たその猫の背中(からだ)に載って居り、取分け牙(とげ)を発さず未知(やみ)も無く、襲う気配は俺に無かった。しかしその生きる猫に俺が知り得る生歴(けしき)や共鳴し得る悶絶さえ無かったからかその猫にはやや愛着が湧かず、体表を茂らせた黒豹の様な美麗が神秘を織り交ぜて、背景(けしき)に在った黒色(やみ)に紛れて次第に同化し、俺が動いた次の瞬間生きる猫は見えなくなった。
セメントで覆われた道標の向うに現実に於いて見知る事の出来る喜びと癇癪と哀しみ、怒りが先立って人の感情が在り、良く良く華(あせ)を人が手に取り筆を執って友情を惜しむ間も無く九尾の夕日から成る一線ずつに黒玉(こくぎょく)の軽快の様なものが人の目に分かる程に上手に乗せられ又馬跳びをする如く人間(しょうへき)を越えて自然に溶けて行く行く命に向って大喝すべき俺の影(かて)へと身を化わらせて行く。孤独を孤独とせず儘友人については偽証を吐かず、背伸びだけして躰を自然に治癒させ己の丈夫を独房にて唯暗悶豊かに感情(ゆうき)を彩り哀しみ憶えて、何処と無く行くこの心身(からだ)の行方はしどろに唯俺の背を押し肩を抱いて英雄が連なる神の境地へ身(いのち)を浮かばせるのに尽力して居たのである。引切り無しに我が身に起こる心労の程と怪我の功名を終ぞ定めずまるで五月雨の程度(ほど)にゆっくり地に行く滴は天を知らぬ儘情緒に沈む人の心配に彩られて行き、せめて冷めて仕舞った露の溜まりをこの庭の片隅へと置き咲かされた人に纏わる群像のピリオドに依頼させよと又成長の下に往来して行き、俺から見えぬ毒牙(よくぼう)の柵はつい又足が光に延び行き、一つの仕事を曖昧の内に片付けさせる無能(しぜん)の謳歌を一身(ひとえ)に憶えた。所々で掻い摘んだ奈落の底から浮かび上がった一糸の労苦を例えて命綱に見、朝令暮改で人の気を操る有名無実(ひとかどのゆめ)は唯青白(つめた)い吐息を吐きつつ異国に初歩を見漫ろ歩いて、一時(いっとき)見果てた夢想の狂句は遂に掴めぬ人間(ひと)の理想(ゆめ)に雪解けの様に溶けて身の穂を縮め、明日天罰が下るであろうと密かに配した他の命の節制をして俺は現実(むそう)へと向く破天のオルガをきっぱりこの手に掴み取ろうと一時(いっとき)夢見た自訓の奏する覚悟の程を軟く解いては手綱を緩めて、唯、己の人生の最果てに神が在るのか悪が在るのか、この世で気遣う一方(いちず)な熱心を仄かに心中(こころ)に留めて活気を牛耳り、人間(ひと)に生れた覚悟の程は俺へ溶けてやがては消えた。雨が降り落ち泥濘を晒した地表の程は如何でも夢想を咲かせた人間(ケース)の活気(こころ)に勇気と華(あせ)とを与えて賛歌を見出し、不意にざわつき模様を注いだ地中に蔓延る虫の色葉(いろは)は怒涛に行進(ある)いて余程を吸い込み、地中が支えた地表の嵐は喉が嗄れた狼の群れを又深緑の内へと還して行くのに帳尻合せて、地表を歩く人間(ひと)の四肢を満足に歩かせる程空を仰いだ。調子が棚引く青空の果てには五月に吹いた季節の順化が体好く昇って身を折り始めて、俺がもう直ぐ辿り着こうと熱気を擁した初春の終りは唯時制に紛れて身を振り回し、未熟な用地は貞操を着替えて行った。少々の季節の矛盾を脇(よこ)へ追い遣り横目に埋めた進行の手綱をふと又緩めて身を置き直し、当てが変えられた俺に傍居(かったい)を訓(おし)えた順化の刃(やいば)は行進(ある)く用地を程無く地中へ黙して沈めて、俺の直行(ある)く矢先は闇に紛れて希望(あかり)を知らずに予定調和に能力(ちから)を許した。七転八倒する献身を身内へ宿した滑稽さえ成る雷の老婆は運良く身を粉に燃やした熱の余韻(あまり)に微かに乗じて気を押し安めて、空の白光が陽光の内に又何本かその身を呈して身を燃やして行く頃、雷雨を鎮めた孤高の老婆は又何時しかみたいに俺に現れ訓(おし)えを拡めて、神の天使(つかい)と自身を照(しょう)して俺の身を程好く引いて行く。
薄ら眩(ぼや)けた濃煙(のうえん)の向うにひっそりと又暗空に漂う老婆の姿が在った。この老婆、何処かで見知った存在(もの)の様だが今いち釈然(はっきり)とせず、唯何か、俺にずっと複雑な事を訴え続けて居た様である。小声に小言を唯並べ立てるのは机上に敷かれた教書(テキスト)の紙面の上をその頁毎に飛び交う人の煩悩の様でもあって両性並び立たず、より精確な自己診断を俺は身内に隠れて下さねば成らぬ醜態に似た算段を自分に向け講じなければ成らなくなった様で、今にも何処かへ吹かれて飛んで行き、目前の領域(テリトリー)から消えて失(な)くなりそうなその老婆の身の上を心身安らかに落ち着けて又自分の領域に受容しなければと俺は奮起させられて居た。両者・両性を取り巻く自然(きせつ)の吐息は凡そ初春から夏に懸ける時制を謳って居るようで、俺は幼少の頃より憶えさせられた人と物事との流れを既に宙(そら)に向って暗唱出来る程小言の様に繰り返し話す事が出来、あの老婆との密会にもそうした小言を謳う唄声が静かに程好く身辺(あたり)を包んで俺と老婆の両性が紡ぎ奏でるで在ろう行く末を、暗黙の内に有に帰す手腕を俺は自身に具えて居るで在ろうと安息の日にて想うように身を律して踏ん張り、唯二人だけの密室を同化させ得る程度の実力をこの密室(へや)に付けさせようと唯、この老婆と二人で画策して行く。その老婆は名前をTと言った。愉快な老婆(ひと)であって、その四肢の萎えと特に下肢の麻痺から俺の熱情や煩悩、又泡(あぶく)の様な対人に纏わる際に身を出す焦燥を体好く程好く鎮め得る熱戦の様な温暖が生れて来て居り、俺はその自然に掻き立てられ得たような無重の温暖に見事に勇気を見せられ己の五肢をも引き寄せられて、限り無くこの世で二人切りの密室(どくぼう)に華を咲かせ得る気力を付されて歩いて行った。そうしてその密室(ひとりべや)の内に咲いた葦の華束が程好く又実りを終えた頃にはその木々には草花の大枝小枝は密室(いっしつ)に耐え切れなくなり外界(そと)へ流れ出て他人(ひと)の目に触れる代物(もの)と成り着き、やがては二人の労力・気力は二人で纏めた一人分の妄想(はしゃ)ぐ転回の内に巧く丸め込まれる形を採って大事と成り着き、他人(ひと)を二人の妄想の内へ招き入れる際に発揮され得る活力(えいよう)と成るのを俺は既に未然に於いて認識して居た。その老婆は身嗜みについてとんと苦労して整えた節が無いようだったが俺と居る時だけは気力を講じて俺を安い眠りに就かせ、泡(あわ)と消えない無冠の体裁に華を保(も)たせたTは己の心身(からだ)をまるでその精神(こころ)を支えた四肢に依らせるように密室に何時しかひっそり咲いた闇へ向けて光らせて、やがて自身がその闇に近付いて行く自然から成る時制に任せて闇に落ち着き、身辺(あたり)が闇である事から余計に自身(せいりょく)が発揮され得る事を俺に教えたように心身(からだ)は丸く成って、丸く成り得たTの身体(からだ)は俺に向って滔々と輝き続ける程の脆懇(しっこん)を身に着け闇から陽光(ひかり)の広場(うち)へ降りた様だった。生命(いのち)の丈夫を知りながら躰の丈夫を知り得ない何かにマンネリし尽したような俺の心向きはTから程好く外れて外界(そと)に生き着く桎梏と成り得る他人の気力を射止めて落ち着き、滔々と流れ続ける時流の成果が果して俺にとってどのような効果をこの地上で生むべきものか、終ぞ知らされ得ない現実の両刃を感じ俺は、その生死に向い人の活力が同様に自然によりまるで彫刻される様に奪われ行くその両刃の所作に怒りと奮起とを同時に携えたようで一度Tの心身(すがた)を見遣り、Tは唯俺の目を真っ直ぐ見詰めて微動もせずに白いベッド上に転がる風采のみを示して身に付け、俺の余念をひたすら締め出し、密室から遠く離れた見慣れない地へ置いた。俺は老婆のTを愛して居たから外界の他人には一切目を遣らずにひたすらTの為に成る事だけをまるで自分にしてやるように盲目と成りつつ尽力して居り、その盲目が過ぎて時にはTを自分と全く置き換えて仕舞いTの主観(そんざい)を無視した儘で自分の喜ぶ物事(こと)だけをするように成った時期があってその都度己を律し、律した俺は自分の心身が〝どうかこのTの為だけに喜ばれるものと成り、温かくT、そして外界と飽和する迄の体温(ねつ)が通った五肢と成り着き動くように…!〟と一端に語られ得る虚言の混じった意識の中で混濁した祈りを見ながら密かに又、あの遠方(とおく)へ置き遣られた自身から出た儘で分身の体温(ねつ)を欲しく思い直し、何時(いつ)かそれが置き遣られた遠地迄行こうと算段して居た。T(あいて)を自分と同様に見過ぎた為にTは自分と成り果てTの為にした事する事は全て自分の為に落ち着き始めて、Tの主観(そんざい)を無視する事でTを想わずに済む自分(おれ)には程好い余裕が生れて次には他人の視線(ひょうか)に意識を向け出し、まるで剥き出しにされた様な俺の全力は、他人の視線(ひょうか)が喜ぶTの表情へ先ず向けられるように、と一段超えた余計(つぎ)の欲望に向けられ始めた。岡目八目、とは良く言ったもので、他人は俺のそのような打算を直ぐさま見抜き、その打算のカバー(おおい)に隠され得ていたあの遠方に置き遣られ何時しかこの密室(どくぼう)へと還って来て居た俺の体温(ねつ)が独りでに躍動し終えた後で他人の視線(ひょうか)から隠れようと陽光の当らぬTが潜んだ闇の内にTと共に身を潜めてTではなく闇と同化して居たその過程をも見抜き、俺が作り上げたTへ向けられる筈の他人から成る視線(ひょうか)は当然の内に唯俺の眼(まなこ)へ向けられて居た。その他人から得る視線(ひょうか)が次第に具現化する様にして実体(できごと)を現実に灯して行く頃、俺は次にその他人の視線(ひょうか)と表情(め)が合わぬようにと憶測し始め、他人がその密室に備え付けられた窓の枠内を通る度に闇の内に身を潜めて即席(ひとまず)の安楽を覚え、落ち着きを取り戻した後Tへの介助をした己の心身(からだ)を今度は照り輝かせて他人が窓の枠内を通る頃を見計らいつつ開示し始め、それでも解体し切れぬ己の分身が遠地から持参し得た欲望の体温(ねつ)には目も当てられぬ程の不義を具えてあった。その「不義」とは唯、人が話し掲げる正義に同化する体(てい)を採りつつ果ては悉く相反する内実(ないよう)を具えたものとして在り、唯俺と他人(ひと)の為に充分働いてTをやがては助ける助力と成るものだった。その事について未然に気付く事が出来なかった俺には次々と襲来し得る他人と自然との躍動が不断(ふんだん)に問題と成り、その問題とは又、この密室を構築し終えた俺が新たな自分にとっての愛情と分身(たいおん)とをその同じ密室(ばしょ)で構築し終える迄の時間の経過が必要だった。まるで同じ事を同様の経過を以て行う事を無駄に思えた故に酷く嫌った俺には自分と自分が作り終えた密室とが共に歩んだその足跡をバックトラックする様に戻るのは時制の内で自身を退化させ得る挑戦(こころみ)であるとも容易に受け取れ、何事にも進化を認めたがったその時の俺に後退は在り得なかったのである。
俺はTが何食わぬ表情(かお)してちょこんとベッド上に横たわるのを少々恨めしく思ってしまう分身(たいおん)を憶えつつまるで夢游に過す体(てい)にて横目に捉えて直視出来ず、彼女の体位の交換を、今度は窓の枠内から見える位置と見えない位置とに分けて自体(からだ)を据えて、良く良く果てが定量の具合を知るようにし終えて行った。彼女は自分の砦の様にして備えられたその白いベッドの上から決められた時間内に観せられるTV番組を愉しみとして居り、まるで又彼女の生き甲斐の様にして咲き乱れた一々の番組を程好く観る事が出来るようにと体位を換え遣る事は、その時から介護者と成った俺にとっては当然の内に為すべき所作の内の一つと成った。しかし彼女が俺の表情(かお)から視線を外しTVを観始めた頃から介護者と成った俺の内では何事にも余計を覚えさせる迄の俺の分身(たいおん)が又頭を擡げて自分の為の熱を俺から引き抜き、俺の心身(からだ)は俺と分身とに分け隔て無く与える温度を悉く自然に当然の内で又作り始めて俺を動かし、その所作が生むその密室内での悉くに見る働きとは又、彼女に向けて成される態(てい)を保(も)ちつつ実は俺と俺の分身へ分担されて向けられた回転(はたらき)と成り得て居た。故に俺は、彼女を宿し賄う体位の交換を俺にとって都合の好いように成して行った。その都合とは、良く良く俺の労力(たいりょく)と気力とを奪わずにこの密室に於いてそうした労働(はたらき)が継続され得る程度を目標にしていた。その密室には時折俺と違った介護士が、俺が密室(へや)に居ようが居まいが、俺が介護者と成り得た時からやって来て居り、俺の意向を全く汲まない労働をこの密室(いっしつ)の内で成し終えて居た。小さな密室(どくぼう)である故にあの遠方に置き遣られて居た俺の分身(たいおん)を取りに行くまで様々な妄想が俺の脳裏(こころ)を取り巻いた時間がそこでは無く、又他所の介護士が成す所作は俺に徐に見えて俺と他人とが共有し得る視線(ひょうか)は開眼させられ、他所で生きる他人が如何でも俺は思慮分別を憶えさせられるように唯他人と他人の所作に気を遣い始めて居た。彼女がベッドの上でどのように体位を換えられてもきちんと外界(そと)から射し込む情報(かて)を見る事が出来るようにと、TVが在る方向から逆の方向に向けられた彼女の心身(からだ)が又正面にTVを観る事が出来るようにベッド上にて彼女の頭と足の向きを逆さにして寝かせていた。そう寝かせたのが俺であったように思える程その彼女の形(すがた)はその密室にて従来映して居た映像を斬新な物に変え俺の精神(こころ)にぽっかり穴を開けて居たようで、実は他所の介護士がそうして彼女を寝かせて居た事に薄々気付き始めた俺と俺の分身が体を一つにして同じその密室内にて生きて居た。
「これも〇〇が(〇〇には体のでかい介護士の名か、他の男の職員の名前が入る)おかあちゃん(Tの事)がTVを観易くする為にしてくれたんやで。」
と俺は、何時(いつ)か過去に従来の俺と俺の分身が掲げ呈した規則に従いながら介護士として働いて居る最中に良く良く口にした様な口調を以て台詞を吐き、又その密室にて彼女と俺が見上げて心安まる華を咲かす試みを自我を治めてして居たようだ。唯懐かしさが、その密室を擁する大きな領分(しせつ)に於いて特に夜勤に努めて居た際に起った自身と自身の分身を両手に携えて心持ち良く俺に襲来し、Tは何とは無しにほくそ笑んだ柔い華束をこの密室(へや)の枠内から体(てい)好く投げ出し終えた具合の体裁を俺に覗かせ安心させて、独房(おれ)と世間(がいかい)とは身を粉に帰した後でまるで金物(かなもの)が溶解させられ同化して行く具合を採って程好く一体と成り得る過程(しんこう)を見せて居た。あの夜勤に落ち着いていた夜に程好く光った光景・情景(かなもの)は見る見る内に見毎に俺と彼女との内に解け入り労を燃やして、この密室から将来(さき)が短い老婆を生ませた。その老婆は名をTと言い、俺の精神(ふところ)に分け入り溶け入って、外界に咲くあらゆる分野で自活を擁して華を咲かせる俺と俺の分身を果て無く同じ体温(ねつ)の内で溶解させた後で一体として、俺に与える事に唯成ろうとしていた。夜が明けて薄暗い朝が来た時外界(そと)は唯驟雨に消え行く霧散と化して物事を俺の精神(こころ)に空けられた闇の内に葬り去って自身は輝き、やがてはこの独房を具えた地中にまで訪れてその効用を発散させる太陽から成る霧散に映る物事(ぶつり)を現実に解かして行き又溶接させて、俺と俺の分身と、Tと他人が闇か明度(あかるみ)に出るまで生き行く為に得る一々の糧を生み、環境(しぜん)に産ませて、悉く生活に辛抱し得る独力に寄る労力(ちから)を万物に分け与える事を約束して居るようであった。
その外界に開放された独房のドアの前にて俺は、ベッド上に寝そべる老婆の体位を一度そのベッドの中央辺りから可なり下方へ誤って引いて仕舞い、〝おかあちゃん〟と称され得るその老婆に「もっと上やで」と御叱りを承けて居た。陽光と外界を吹き過ぎるまるで初春の頃に吹く風が涼しく俺の表情(かお)に当る頃、俺の腕力(かいな)は程好く活力を取り戻すようにこの独房内と外界に寝そべる深緑から吹く自活を携えつつ〝彼女〟と称し得たおかあちゃんの表情(こころ)に話し掛けて、調整の為にこうなったんよ、と軽く撫でた様な叱咤へ対する応えのようにその対応(こたえ)は身を翻しながら独学と独力の狭間で佇んで、唯Tの表情と、Tの心身(からだ)の表情とに選り分けて言い返し、自活は俺の傍らに寝ていた。しかし良く良く見ると、闇の内でも明度(あかるみ)の内でもしっかりはっきり判る彼女の体位は明かに激しくベッドの下方に引かれ過ぎて居て他人にとっては個人の悪心が窺える程非常識な無様(もの)と成り着いて居り、他人からTとは違った具合の御叱りを承けるやも知れぬ、と踏んだ俺は内から焦って他人を刺し終え、保身に努めた俺は分身の熱により照射された光に寄って象られたTの躰が従来から生きる俺の目にもはっきり〝下がり過ぎた体位〟として認め得て、又Tの体位置(からだいち)を誰の視線から見ても状態が良いように直して行った。
この独房の隅々から中央まで所々に咲いた人間(ひと)の視線(め)は悉く俺と俺の分身とTの体の向きを自ず自然が射止めた闇が明度(あかるみ)へ向かわせるように労力を唯費やしていたようで俺には無冠の労力と映り、必ずこの独房の内へ又還って来ると信じられた人間(ひと)の視線(ひょうか)の内で絆されまるで錬金の術を晒した自然から成る人間(ひと)への独力に俺は当てずっぽうで講じた両性(ふたつ)にとっての幸福を束ねて独房(はたけ)に植える事に尽力し始めたように表情(かお)を紅潮させ行き、やがては又その陽光(しぜん)に阿るように独力に不足する白紙を冠した人力(じんりき)の効力と効果を一端に唱える事が出来る新たな独房を自分と自分が愛する者の為に造ろうと体を動かし、唯明然の内にひっそり佇み微笑(わら)う両刃の毒牙に自身を開放しつつ栄華を束ねる事を何者かと競い合った。その自然の内に於いてまるで初めから用意されて在ったかのような人間(ひと)の興味を引く肢体とはこの独房からでも地中からでも良く見える地表に咲いた一輪の竜胆の青白さを放ち、その放たれた青白(あおじろ)は又ひっそり人を束ねて進行(ある)く青空の体(てい)に真っ直ぐ伸び行き成長し始め、俺の目にも他人の視線(め)にも丁度一輪の花がこの地上で成長する様子を具に表していた様であった。
~エンパイア~(『夢時代』より) 天川裕司 @tenkawayuji
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