29
「……知りたくなかった。」
蚊の鳴くような声が出た。その声のか弱さに、私は更に苛立つ。蝉は、なにも言わずに車を走らせている。
「私は、間違ってるの? お母さんといたいだけなのに、それはいけないことなの?」
やはり口から出る声は、やわやわとか細い。
蝉が、唇だけで小さく笑うのが分かった。
「知らねぇよ。」
いつもと同じ、蝉の物言い。
「合ってるとか間違ってるとか、そういうのは知らねぇよ。この街で生きるって決めたときに、そういうのは捨ててる。」
私は、助手席でサンダルを脱ぎ、脚を引き上げるみたいに膝を抱えて、蝉の言葉を頭の中で反芻した。
この街で生きるって決めたときに、そういうのは捨ててる。
私は、決めていないから苦しいのだろうか。この街で生きるとも、どこかに行くとも。決めていないから、こんなに……。
「いつ、決めたの?」
「昔。」
「昔って、いつ?」
「ここに来たとき。」
蝉の返事はそっけなくて、多分蝉にとって、私が訊いたことは、思い出したい記憶ではないのだろうと分かった。それでも食い下がろうとした私を、蝉が横目でちらりと見る。
「俺は、自分で自分を売った。あの店にな。男だから、大した金にはならなかったな。……そのときだよ。」
自分で、自分を?
私の頭の中に、あのいつもの畳の部屋で、遣り手のおばさんに向かって自分を売り込む蝉の姿が浮かんだ。常の派手な装いではない。貧しい子どもだと一目で分かるような、ぼろぼろの着物を着て。それでも蝉は、きれいだっただろう。
じゃあ、私はどうしよう。私にだって、自分で自分を売る道はある。そうすれば、お母さんといられる。たとえ、お母さんがそれを望まなかったとしても。
「……蝉、親はいないの?」
「いたらこんなとこに自分を売るかよ。」
「……そう。」
蝉の年齢から考えて、戦争でごく早いうちに親を亡くしたのかもしれないな、と考えたけれど、蝉に確かめる気にはならなかった。
「だから、俺には分からねぇよ。なんでお前がそんなにいづみに執着するのか。」
蝉が淡々と言った。もう、暗い道をまっすぐ行ったところに、病院という名のあばら家が見えている。
「鳥のひなが、はじめて見る生き物を親って信じてついていく。そんなもんなんじゃないのか、お前といづみは。」
そっけなく吐きだされた台詞にも、腹は立たなかった。もしかしたら、蝉の言う通りなのかもしれないと思った。でも、私の胸はどうしようもなく、二週間ぶりのお母さんとの再会にはやっている。
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