10

 私は随分長くトイレの中にいたのだと思う。歯を食いしばって、なんとか涙を止めた。手の甲で、じゃりじゃりする頬を拭ってトイレを出ると、そこに蝉はいなかった。通りかかった髪の長い女郎が、あんたのねえさん、もうすぐ仕事終わりよ、と、愛想よく教えてくれた。ねえさんじゃなくてお母さんだ、と思ったけれど、私はなにも言わずにただ頷き、小走りで蝉の部屋に向かった。

 蝉の部屋の襖を開けると、蝉はいつもの場所で煙管をふかしていた。その態度があまりにいつもどおりなので、私はなんとなく安堵した。そして、蝉の前に膝をついて、お母さんには言わないで、と頼んだ。蝉は、なんで、とか、そんなようなことは言わなかった。大きな色の薄い目で私を見て、それから軽く頷いた。そして、部屋から出ていった。

 私は、蝉が戻ってくるのを待った。どこに行ったのだろう、と不思議に思うと同時に、不安でもあった。蝉が、お母さんにこのことを話すとは思わなかったけれど、もっと違うこと……、例えば、急に思いなおして、私のことを警察に届ける気になったのかもしれない、とか、そんなことを思うと、胸がずしんと重たくなった。

 私の不安をよそに、蝉はすぐに戻ってきた。手の中に、派手な柄の包みを持っていた。それを、ほらよ、と私に投げ渡して来たので、とっさに受け止める。それにはほとんど重さがなかった。

 「……なに?」

 「いるだろ。」

 なにが? と思いながら中を開けてみると、生理用品がたくさん包まれていた。私は、ありがとう、と呟いて包みを胸に抱えた。人にやさしくされるのに慣れていないから、上手く感謝を表現できたとは思えなくて、それがもどかしかった。お母さんには、知られたくない。その理由を訊きさえしない蝉が、心底ありがたかった。訊かれても、答えようがないから。私自身にも、お母さんに初潮がきたことを隠す理由が分からないから。

 私が黙って、その包みを抱えて座り込んでいると、定位置に戻った蝉がふいと口を開いた。

 「隠したって、永遠に子どもでいられるわけじゃねえよ。」

 その言葉は、見事に私の心臓を貫いた。私は、全身から力が抜けるのを感じた。

 「……分かってる。」

 分かってて、もう少しだけ、子どもでいたい。お母さんの、子どもでいたい。

 「……でも、もう少しだけ。」

 もう少し、もう少し、と、引き伸ばして、私は永遠を望んでいたのかもしれない。涙は出なかった。感情は揺れていたけれど。

 

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