大賢者ミズカ様は当たりが強い
氷波真
第1話 ミズカ様と邂逅する
野獣の咆哮に大地が震える。
それは、熊によく似ている生物であったが、民家一軒ぐらいなら軽く踏みつぶすであろうその巨体、赤く凶悪に光るその眼光——本来
巨獣と対峙している一人の青年。
こちらはごくごくどこにでもいそうな男であった。中肉中背の体軀に一見平服のような服装、長くもなく短いとも言えない茶色がかった髪、特徴に欠ける顔立ち。どこの街や村に行っても
彼が勇者の仲間の一人、武闘家アシット=イグザスであると一目で見抜ける者はまずいないだろう。
アシットは精悍な表情を熊のような魔獣へと向けている。
再度咆哮が轟くも、彼は動揺せず、静かに、それでいて長く息を吐いた。
「……休戦中でも、野良の魔獣まで制御する気はないってか」
彼の呟きが終わる前に、魔獣が三度目の咆哮とともに、一瞬伸びのような姿勢をとった。
刹那、太く鋭い爪を光らせた前脚が、アシットの顔面目掛けて振り下ろされる。
ブオンッ!!
豪快に空を切る音。
軽く後方へと飛んで攻撃を回避したアシットの顔に、空振りが生んだ突風が吹きかかる。
彼は思わず笑みを浮かべていた。戦闘を楽しむ趣味があるわけではない。
かつて旅立ち間もなくの頃、出身村近くの山中で同型の魔獣に遭遇した時のことをふと思い出しての笑みだった。
「あの時は、
あれから幾年月、未熟な見習い勇者だった幼馴染の少年は、数々の功績を打ち立てて世界中から英雄と崇められ、人類の悲願である魔王討伐への期待を一身に受けている。
ともに戦ってきたアシット自身も、勇者の仲間と称されるに恥じぬだけの成長を遂げたと自負している。
今は巨大な魔獣を前にしたところで怯んだりすることはない。冷静でさえいれば勝ち確の戦闘だった。
再度繰り出された爪による攻撃を受け流す。彼は普通に戦って普通に勝とうとはしていなかった。今更そんな経験を積んだところでなんの意味もない。逆に言えば、この程度の相手でも、より強大な敵を意識して戦うことにより十分修行になる。
「より速く、より強く……」
丹田に力を込め、ゆっくりと息を吐き出し、わずかに前傾姿勢になる。それだけで武闘家の攻撃準備は完了である。
「より高い精度の攻撃で……一撃で倒す」
一撃で決着をつけることができなければ、今後熾烈になっていく戦いを乗り越えていくことなどできない。
もちろん隙を伺い、間合いを量るのに時間をかけすぎるのも論外だ。魔王やその側近がそんな猶予を与えてくれることなどあり得ないのだ。
(——次、
動物の熊は学習能力が高いと知られているが、この魔獣も相対している人間がただのエサではないと悟ったのだろうか。二足立ちで身体を大きく見せ、グルグルと喉を鳴らして威嚇しながらも、すぐには追撃せずに様子を見ている。
「こっちから行く!!」
アシットは叫ぶや、勢いよく大地を蹴り、一瞬で間合いを詰めた。
反射的に魔獣の前脚が顔面目掛けて振り下ろされてくるが、アシットは大木をも薙ぎ倒しそうなその豪腕(豪脚?)を左腕で受け止めると、グッと両脚に力を入れ、拳を突き上げ跳躍した。
「
グシャッ
骨が砕ける生々しい感触が伝わってきて一瞬目を伏せる。アシットの拳は魔獣の顎を的確に撃ち抜いていた。
そのまま
振り返ると、大の字に倒れた魔獣は口から泡を吹き、目からは光が消えている。どうやら事切れているようだ。
「……」
生まれ故郷の風習にならい、合掌してしばし黙祷する。人間に仇なす魔獣とはいえ、生命を奪ったという事実はきちんと受け止めねばならない。
「……お前も運が悪かったよな。こんな山の中に勇者パーティの一員がいるなんて思わねえもんな」
そう声をかけ、また背を向ける。
自らが滅した者の安息を願う優しさを持つ彼は、一方で勇者とともに数々の死線を越えてきた強者でもある。既に今しがたの戦闘から何が得られたか省みていた。
自らの拳を見つめ、独りごちる。
「やっぱり打点が高い時は、ジャンプしてから攻撃モーションに入るよりも、下から突き上げた方が踏み込みの力が乗っかって威力が増すな……」
その威力は、放ったアシット自身の想定を超えるものだった。再度己の拳を見つめる表情が明るくなっていく。
「うん、これは使えるぞ。何かカッコいい技名をつけよう……翔び立つ感じだから
先ほどの拳を突き上げる動作を軽く再現し、彼は控えめに発声した。
「しょーーりゅーーけん」
誰も見ていない深い山中だ。こんなことしていても別に恥ずかしくはない。
「……いい感じだ。とても決まってるし、斬新でオリジナリティに溢れている。こんなの披露したらみんなビックリするぞ」
アシットは昂揚していた。修行のために山籠りを始めてまだ何日も経っていないというのに、いきなり新必殺技を会得できた。凄い成果だ。
目を輝かせて独り言を口走る彼は不覚にも気が付かなかった。背後から微かに喉を鳴らす音が発せられていることに。
その呼吸音はすぐに大きな咆哮に変わる。
「グアァァァァァ!!」
「えっ?」
間の抜けた声が出てしまう。
振り向くと、魔獣はまた二本足で立ち上がっていた。手負いとなった獣は眼光を更に凶悪に光らせている。
「くっ!
ついさっき編み出した技を、あたかもこれまで数々の強敵を打ち破ってきたかのように言っていることはさておいて、今の彼に余裕はなかった。
魔獣は既に両の前脚を振りかぶっている。落ち着いて対処すれば簡単にあしらえる筈なのだが、慌てたアシットは咄嗟に適切な応接ができなかった。
左腕で顔を覆うが、先ほどのように力を込めてのガードではない。ダメージを受けることは不可避だ。
「くっ!」
反射的に目を閉じてしまったのは恐怖からではなかった。
突然、目の前の魔獣が目を潰すような強烈な光に包まれたのだ。一瞬遅れて凄まじい轟音が耳を
ドォォォォォォン!!!!
一時的に目も耳も効かなくなったアシットが、魔獣が黒焦げの炭と化していることに気が付いたのは数秒後のことだった。
「……雷?」
呆然とする彼に、別の方向から声が掛けられる。
「もう大丈夫よ」
機能を取り戻した耳に透きとおるような声が聞こえてくる。
振り向くと、そこには杖を携えた一人の女性が立っていた。
「…………」
木々の間から差し込まれる陽光に、腰まで届く金色の長い髪を煌めかせ、美しく整った顔立ちに凛とした切れ長の目。その蒼い瞳はこちらを見据えている。
その女性は見知った人物であったが、アシットは女神に邂逅したかのような心持ちで、しばし言葉を失い、ただ見蕩れていた。
「……あっ」
数秒の後、我に帰った武闘家はその人が何者か気がつき、その美しい人の名を呼んだ。
「……ミズカさん?」
「あら」
金髪の女性は、ほんの微かに口元を綻ばせると、また透きとおるような声を出した。
「これはこれは。森のクマさんにじゃれつかれて、へっぴり腰で泣きそうになっている世にもみっともない殿方がおられると思ったら、知り合いのザコ武闘家さんじゃない」
滔々と流れてくる耳心地良い涼やかな声。
アシットはいきなり酷い毒舌を浴びせられたことに気がつくまでに少しの時間を要した。
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