第二章 初恋と聖夜
第一話 心配 ー2032年12月ー
十二月になると、街中が本格的にクリスマスムード一色になる。
さすがに子どもの頃は家族でパーティーをした記憶はあるのだが、四歳下の弟が中学生になった年にその制度もなくなった。
それ以来、友達も恋人もいない私は、クリスマスに特別な思い入れなんてなかった。
だけど教師になってつくづく実感させられたのだが、高校生にとってクリスマスやらバレンタインはとても重要なイベントであり、彼らがそれに懸ける情熱とエネルギーには並々ならぬものがあるということだ。
「クリスマスが近づいてきたねー。あたし、十二月って基本テンション上がるんだよね」
どうやら、上原さんもそんな高校生たちの例に漏れないようだ。三週間後に控えたクリスマスを前に、彼女はその大きな瞳を爛々とさせていた。
「今日の勉強会はいつもより集中力が足りなかったように思います。クリスマスにはしゃぐ気持ちもわからなくはないのですが、上原さんは受験に対して人よりスタートが遅れていることを自覚して、身のある勉強をしてほしいと思っています」
なにせマンツーマンで指導しているわけだから、上原さんの集中具合は嫌でもよく伝わってくる。クリスマスより何より私が気になっているのは、上原さんの受験に対する意識の甘さだった。
上原さんは校内テストの成績は悪くないのだが、それはあくまで偏差値が六十前後の学校での話である。少しでもいい大学に行きたければ、スタートが遅れている分もっと本腰を入れて受験勉強に取り掛からなければならない。
私はいわゆる過酷な受験戦争を経験した人間であるため、どうしても口うるさく言ってしまうのだ。
「あたしなりにやってるよ。勉強時間は間違いなく増えたと思うし」
「……そうですか。少しずつでもいいので、頑張っていきましょうね」
勉強は強制するものではない。教師になったその日から、私が心掛けているスタンスでもある。
だから私の授業中に寝ている生徒がいても、スマホを触っている生徒がいても、注意はしてこなかった。高校は義務教育ではない。勉強するもしないも、すべてが自己責任だからだ。
ゆえに、上原さんにだけ特別な対応をとることはしたくないけれど……どうしても、彼女の受験に対する危機感のなさには焦りを覚えてしまうのだった。
「ところで……クリスマスってさ、先生はなにか予定ある?」
勉強の話から急にクリスマスの話を振られて動揺しつつも、誘われることを予想して身構えた。
教師として、いかなる理由があろうとも生徒からの誘いに応じるわけにはいかないのだ。
「いえ、ありません」
「そっか、よかった」
上原さんは安堵するだけで、特に私を誘うことはしてこなかった。
……誘われたら断るというのに、誘われないことに違和感を覚える自分を恥じる。いつから私はこんな自惚れた性格になってしまったのだろうか?
「う、上原さんは何か予定があるのですか?」
自分の過ちをなかったことにするかのように、あるいは彼女には先約があるのだと確認するために自分から聞いてしまった。
「ママが働いているお店のクリパに行く予定だよ。バイト代、超弾んでくれるんだって」
大袈裟な表現にはなってしまうが、私は目玉が飛び出そうになってしまった。
お店と言っても、私の記憶が正しければ上原さんのお母様が働いているのは普通の飲食店ではなく、男性客と一緒にお酒を飲んで接客することがメインのお店だったような気がするのだが……。
「う、上原さんは未成年ですよ? だ、大丈夫なのですか?」
「バレなきゃ平気じゃん? 今年は別に予定もなかったし、稼いでくるね」
上原さんは淡々としているが、私の方が平静ではいられなかった。
私に“そういう店”に対する知識はほとんどないが、嫌なことを言われたり体を触られたりする心配はないのだろうか。もし好意を抱かれて、断ったときに逆上されたりストーカー行為をされてしまったら?
何も知らないからこそ心配の種がどんどん大きく膨らんで、ひとりで慌てふためいてしまう。
「なんか先生、顔色悪くない?」
「え⁉ そっ、そんなことはないですよ! す、少し驚いただけですので、大丈夫です……」
「先生は、あたしのバイトに反対ってこと?」
相変わらず、察しのいい子だとは思う。嘘をついても仕方がないので、正直に告げる。
「……心配ではあります」
「大丈夫だよ。先生はちょっと誤解しているみたいだけど、ママの紹介だよ? ママって、お店の中でも『ママ』だから一番偉いの。だから娘に変なことをしようとする客がいたら、ただで帰さないと思うし」
なんてことのないように笑って話す上原さんに、反論したくなる。
私が心配なのは、それ以前の話である。少しでも危ない橋を渡るような真似はしてほしくないのだ。
その気持ちがどの立場から発生しているものなのか、自分自身でもよく把握していないために喉の奥が閊えている。
過保護だと呆れられてしまうだろうか。教師としての注意の範疇を超えてしまうだろうか。
親でも友人でも恋人でもない私が言ってもきっと意味のない、耳を撫でるだけの薄すぎる言葉になってしまうとわかっているから、何も言えない。
「……いくらバイト代を弾んでくれるからと言っても、来年はダメですよ? 来年の今頃は本当に追い込まないといけない時期ですからね」
……無難なことしか、言えないのだ。
「わかってるって。ママには大学に進学しても学費しか出さないって言われているし、三年生になったらバイトも勉強のためにやめるつもりだし。今のうちに稼いでおかないとね。あ、もちろん先生が教えてくれた奨学金とかも利用するけどね」
上原さんはやっぱり、とても真面目な子だ。まだ十七歳だというのに、将来のことを考えて行動できる立派な子だと思う。
「学習内容でも奨学金制度についてでも、わからないところがあったら気軽に相談してください。できるだけ力になりますので」
「ありがと、先生。あーあ、サンタさんがお金とか大学の合格通知書とかプレゼントしてくれないかなー。ね、先生はサンタさんって何歳まで信じてた?」
「私のところにはもう来なくなってしまいましたが、今でも信じていますよ。今年もたくさんの子どもたちのところに現れるはずです」
「おー、大人の回答! あたしも今度からそれ真似するね! ……ん? もしかして先生、今あたしのこと子ども扱いした?」
「実際に子どもじゃないですか」
「じゃあ、いい子にしてるからプレゼントちょうだい♡」
「参考書と問題集のセットでどうでしょう?」
「普通にありがたいけど! でも……クリスマス感はゼロだね」
上原さんは笑っていたけれど、普段通りの会話をしていても、私の喉の奥の閊えはその日、取れることはなかった。
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