第37話「名前を呼ばれた気がした」
夜は深く、森は息をしていた。
焚き火は揺れ、薪は崩れず、影は沈んでいる。
仲間たちはそれぞれの位置に座り、灯は俺のすぐそばにいる。
森は完全だった。
幸福も狂気も均衡し、何も欠けていない。
今日の夜も完璧だった。
だからこそ――わずかな違和感に気づいた。
◆
「……今、呼ばれた?」
自分の声が耳に届いた時、驚いた。
言葉を発する必要なんてしばらくなかった。
森を満たすものすべてが俺の一部で、外側に向けて言葉を出す意味がなかった。
けれど、今は違う。
胸の奥のどこかに、小さな“反応”がうまれた。
遠く。
気配だけ。
声の響きだけ。
名前を呼ばれた気がした。
たぶん気のせいだ。
森の中で誰も俺を呼ぶ必要はない。
でも――たしかに聞こえた。
「アルス」と。
◆
リュミエルが目を上げた。
「呼ばれたんじゃなくて、思い出したんじゃない?」
それは冗談ではなかった。
本気でそう考えている表情だった。
「外の世界を意識したから、名前が揺れたのよ。
だってここであなた、もう名前で呼ばれてないじゃない」
たしかにそうだ。
誰も俺を「アルス」と呼ばない。
仲間も、狼も、森も、灯も。
名前は、必要なときだけ存在するものだからだ。
“必要”に応じて、世界が俺を定義する。
今の俺は、名前のない存在。
中心。焚き火を囲む男。森の核。
「アルス」は人間の概念に属する名前だ。
それが揺れた――ということは。
◆
「外の世界で、俺を呼ぶものがいるってことか」
俺の声は淡々としていた。
期待でも警戒でもない。
ただ、論理として導き出した事実を読み上げただけ。
カインがうなずく。
「呼んでいる、というより見ているんだ」
「お前に、というより、お前由来のものに焦点が合い始めた」
エリスが言葉を重ねる。
「そして“違和感に名前をつけた”。
それがたまたま、あなたの名前だった――そんな感じだと思う」
「まあ簡単に言えばだな」
バロウが焚き火に小枝を投げ込む。
「外の何かが、“お前の形を見つけた”ってこった」
◆
灯だけが沈黙していた。
沈黙というより――休んでいるのではない。考えている。
影の輪郭がごくゆっくりと揺れる。
灯は“外”を知っている。
崩れた街の中心にあった円形の刻印。
数字が並び、最後に横線で終わった石板。
線を引いた者たちの背中。
そして――
そのさらに先にある何かの気配。
灯が焚き火の光のなかで揺らめくと、
森全体がわずかに軋んだ。
音はない。
でも、確実に“世界の空気が変わった”。
◆
「外の世界には、まだ何かがいる」
灯の影の奥から、声なき声が生まれた。
断片的。
形にならない。
だが、否定できない。
リュミエルが眉をひそめる。
「生き物?」
灯は首を横に振る。
「意思?」
灯はもう一度横に振る。
カインが推理する。
「……なら、“反響”だな」
バロウがうなずく。
「つまり、2000年かけて残った“世界の癖”みたいなもんか」
エリスがそっと灯の影に触れそうに手を伸ばす。
「答えは、たぶん『誰でもありうるし、誰でもない』なんだと思う」
◆
そうだろう。
世界が時間の記録の終わりを自分で選んだ。
なら、そのあとも“世界という器”は存在し続けた。
そこに魂が残っていなくても、
祈りも希いも残っていなくても、
秩序も理論もなくなっても、
“器”そのものは――空白として残ってしまう。
空白は、何かを映す。
何かを呼ぶ。
何かを求める。
その結果、外の世界はこうつぶやいたのかもしれない。
「ここに何かがあるはずだ」
そしてその“何か”を呼ぶために――
たまたま、俺の名前の形を借りただけ。
つまり、こういうことだ。
外の世界は俺を求めているんじゃない。
“何かを呼ぶために俺の名前を使っただけ”だ。
◆
胸の内で、薄い火花が散る。
不快感――だった。
あの円の中の連中は、自分たちの手で「終わり」を引いた。
それは理解できる。
好むことはないが、選択として否定する理由もない。
だが、問題はそのあとの世界だ。
終わりを決めたくせに――
空白の意味を埋めようとして誰かの形を借りた。
そこに意図があろうとなかろうと関係ない。
無意識であろうと意図的であろうと関係ない。
「勝手に呼ぶなよ」
焚き火が一瞬爆ぜた。
仲間たちは笑わない。
茶化さない。
驚かない。
ただ、俺に注意深く寄り添ってくれる。
「怒っていい」でもなく、
「気にするな」でもなく。
**“理解している”**という距離で。
◆
灯がそっと寄り添ってくる。
狼が灯の膝に頭を置く。
世界には敵も味方もない。
ただ、焚き火を囲むこの場所にだけ――明確な“味方”がいる。
それでいい。
それ以上はいらない。
◆
「行くんだな」
カインの声は確信だった。
「外に」
反論する理由もなかった。
「行く」
俺はそう答えた。
でも――今じゃない。
「今日の夜が終わってからだ。
夜を捨てたら、この森の礼を欠く」
リュミエルが一番嬉しそうに笑い、
エリスが小さく息をつき、
バロウが「らしいな」と呟き、
灯がわずかに炎を揺らし、
狼の尻尾が一度だけ地面を叩いた。
◆
森は、それを聞いて深く息をした。
木々のざわめきが、低く、長く、音楽のように続く。
地面の奥底で、根がゆっくりと脈動する。
世界が準備を始めた――まだ開かない扉の裏側で。
外に出るためではなく、
外へ出ても帰れるように。
◆
焚き火が高くなった。
ただ炎が大きくなっただけではない。
火が“道の光”になった。
夜の終わり、
外に向かう一瞬、
俺はこの焚き火を見て歩き出す。
それを世界が保証した。
◆
夜が終わるまで、まだ少し時間があった。
誰も喋らない。
でも静かではない。
幸福と狂気と優しさが、火の周りに渦巻く。
灯は、肩を預けるように俺のそばにいる。
狼は、灯の膝元で眠っている。
仲間たちは、それぞれの思索の海に沈んでいる。
誰も未来の話をしない。
外のことも話さない。
いい夜だ。
◆
でも――耳は知っている。
外の世界は、もう俺を“探し始めている”。
意図はない。
意思はない。
偶然か必然かもわからない。
ただ空白に形を貸せるのがたまたま俺で、
その結果、名前を呼ばれた。
そのことに気づいた時、
俺の中の静かな怒りは――ゆっくりと熱に変わっていった。
奪われたわけじゃない。
搾取されたわけでもない。
ただ“雑に扱われた”。
それが最も嫌いだ。
◆
「戻る場所があると知っている状態で外へ出る」
それは、かつて俺が一度も許されなかった旅路。
勇者の右腕として生きた頃、
村も城も家も仲間も、旅立つたびに失ってきた。
失って、失って、失ったまま歩き続けた。
だが今回は違う。
失われない。
奪われない。
ここは壊れない。
だから、外へ行ける。
やっと。
◆
夜が、終わりに近づいている。
外の世界と森の境界が、暖かく、柔らかく、薄くなっている。
世界はこう言っている。
「出ていってもいい。
戻ってきてもいい。
どちらでもいい。
すべてはあなたが望む未来のなかにある。」
その悪魔が願った未来は――
今日も、ひとつの形を完成させた。
明け方、俺は森を一度出る。
そして世界を見て、
帰ってくる。
最初の夜の終わりが、もうすぐやってくる。
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