第37話「名前を呼ばれた気がした」

 夜は深く、森は息をしていた。


 焚き火は揺れ、薪は崩れず、影は沈んでいる。

 仲間たちはそれぞれの位置に座り、灯は俺のすぐそばにいる。


 森は完全だった。

 幸福も狂気も均衡し、何も欠けていない。

 今日の夜も完璧だった。


 だからこそ――わずかな違和感に気づいた。



「……今、呼ばれた?」


 自分の声が耳に届いた時、驚いた。


 言葉を発する必要なんてしばらくなかった。

 森を満たすものすべてが俺の一部で、外側に向けて言葉を出す意味がなかった。


 けれど、今は違う。


 胸の奥のどこかに、小さな“反応”がうまれた。


 遠く。

 気配だけ。

 声の響きだけ。


 名前を呼ばれた気がした。


 たぶん気のせいだ。

 森の中で誰も俺を呼ぶ必要はない。


 でも――たしかに聞こえた。

 「アルス」と。



 リュミエルが目を上げた。


「呼ばれたんじゃなくて、思い出したんじゃない?」


 それは冗談ではなかった。

 本気でそう考えている表情だった。


「外の世界を意識したから、名前が揺れたのよ。

 だってここであなた、もう名前で呼ばれてないじゃない」


 たしかにそうだ。


 誰も俺を「アルス」と呼ばない。

 仲間も、狼も、森も、灯も。


 名前は、必要なときだけ存在するものだからだ。


 “必要”に応じて、世界が俺を定義する。

 今の俺は、名前のない存在。


 中心。焚き火を囲む男。森の核。


 「アルス」は人間の概念に属する名前だ。


 それが揺れた――ということは。



「外の世界で、俺を呼ぶものがいるってことか」


 俺の声は淡々としていた。


 期待でも警戒でもない。

 ただ、論理として導き出した事実を読み上げただけ。


 カインがうなずく。


「呼んでいる、というより見ているんだ」

「お前に、というより、お前由来のものに焦点が合い始めた」


 エリスが言葉を重ねる。


「そして“違和感に名前をつけた”。

 それがたまたま、あなたの名前だった――そんな感じだと思う」


「まあ簡単に言えばだな」

 バロウが焚き火に小枝を投げ込む。


「外の何かが、“お前の形を見つけた”ってこった」



 灯だけが沈黙していた。


 沈黙というより――休んでいるのではない。考えている。


 影の輪郭がごくゆっくりと揺れる。


 灯は“外”を知っている。

 崩れた街の中心にあった円形の刻印。

 数字が並び、最後に横線で終わった石板。

 線を引いた者たちの背中。


 そして――

 そのさらに先にある何かの気配。


 灯が焚き火の光のなかで揺らめくと、

 森全体がわずかに軋んだ。


 音はない。

 でも、確実に“世界の空気が変わった”。



「外の世界には、まだ何かがいる」


 灯の影の奥から、声なき声が生まれた。


 断片的。

 形にならない。

 だが、否定できない。


 リュミエルが眉をひそめる。


「生き物?」


 灯は首を横に振る。


「意思?」


 灯はもう一度横に振る。


 カインが推理する。


「……なら、“反響”だな」


 バロウがうなずく。


「つまり、2000年かけて残った“世界の癖”みたいなもんか」


 エリスがそっと灯の影に触れそうに手を伸ばす。


「答えは、たぶん『誰でもありうるし、誰でもない』なんだと思う」



 そうだろう。


 世界が時間の記録の終わりを自分で選んだ。

 なら、そのあとも“世界という器”は存在し続けた。


 そこに魂が残っていなくても、

 祈りも希いも残っていなくても、

 秩序も理論もなくなっても、


 “器”そのものは――空白として残ってしまう。


 空白は、何かを映す。

 何かを呼ぶ。

 何かを求める。


 その結果、外の世界はこうつぶやいたのかもしれない。


「ここに何かがあるはずだ」


 そしてその“何か”を呼ぶために――

 たまたま、俺の名前の形を借りただけ。


 つまり、こういうことだ。


 外の世界は俺を求めているんじゃない。

 “何かを呼ぶために俺の名前を使っただけ”だ。



 胸の内で、薄い火花が散る。


 不快感――だった。


 あの円の中の連中は、自分たちの手で「終わり」を引いた。

 それは理解できる。

 好むことはないが、選択として否定する理由もない。


 だが、問題はそのあとの世界だ。


 終わりを決めたくせに――

 空白の意味を埋めようとして誰かの形を借りた。


 そこに意図があろうとなかろうと関係ない。

 無意識であろうと意図的であろうと関係ない。


「勝手に呼ぶなよ」


 焚き火が一瞬爆ぜた。


 仲間たちは笑わない。

 茶化さない。

 驚かない。


 ただ、俺に注意深く寄り添ってくれる。


 「怒っていい」でもなく、

 「気にするな」でもなく。


 **“理解している”**という距離で。



 灯がそっと寄り添ってくる。


 狼が灯の膝に頭を置く。


 世界には敵も味方もない。

 ただ、焚き火を囲むこの場所にだけ――明確な“味方”がいる。


 それでいい。

 それ以上はいらない。



「行くんだな」


 カインの声は確信だった。


「外に」


 反論する理由もなかった。


「行く」


 俺はそう答えた。


 でも――今じゃない。


「今日の夜が終わってからだ。

 夜を捨てたら、この森の礼を欠く」


 リュミエルが一番嬉しそうに笑い、

 エリスが小さく息をつき、

 バロウが「らしいな」と呟き、

 灯がわずかに炎を揺らし、

 狼の尻尾が一度だけ地面を叩いた。



 森は、それを聞いて深く息をした。


 木々のざわめきが、低く、長く、音楽のように続く。

 地面の奥底で、根がゆっくりと脈動する。


 世界が準備を始めた――まだ開かない扉の裏側で。


 外に出るためではなく、

 外へ出ても帰れるように。



 焚き火が高くなった。


 ただ炎が大きくなっただけではない。


 火が“道の光”になった。


 夜の終わり、

 外に向かう一瞬、

 俺はこの焚き火を見て歩き出す。


 それを世界が保証した。



 夜が終わるまで、まだ少し時間があった。


 誰も喋らない。

 でも静かではない。


 幸福と狂気と優しさが、火の周りに渦巻く。


 灯は、肩を預けるように俺のそばにいる。

 狼は、灯の膝元で眠っている。

 仲間たちは、それぞれの思索の海に沈んでいる。


 誰も未来の話をしない。

 外のことも話さない。


 いい夜だ。



 でも――耳は知っている。


 外の世界は、もう俺を“探し始めている”。


 意図はない。

 意思はない。

 偶然か必然かもわからない。


 ただ空白に形を貸せるのがたまたま俺で、

 その結果、名前を呼ばれた。


 そのことに気づいた時、

 俺の中の静かな怒りは――ゆっくりと熱に変わっていった。


 奪われたわけじゃない。

 搾取されたわけでもない。

 ただ“雑に扱われた”。


 それが最も嫌いだ。



「戻る場所があると知っている状態で外へ出る」


 それは、かつて俺が一度も許されなかった旅路。


 勇者の右腕として生きた頃、

 村も城も家も仲間も、旅立つたびに失ってきた。


 失って、失って、失ったまま歩き続けた。


 だが今回は違う。


 失われない。

 奪われない。

 ここは壊れない。


 だから、外へ行ける。


 やっと。



 夜が、終わりに近づいている。


 外の世界と森の境界が、暖かく、柔らかく、薄くなっている。


 世界はこう言っている。


「出ていってもいい。

戻ってきてもいい。

どちらでもいい。

すべてはあなたが望む未来のなかにある。」


 その悪魔が願った未来は――

 今日も、ひとつの形を完成させた。


 明け方、俺は森を一度出る。


 そして世界を見て、

 帰ってくる。


 最初の夜の終わりが、もうすぐやってくる。

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