第36話「線を引いた者たちのこと」

 焚き火の炎が、やけに静かだった。


 燃えていないわけじゃない。

 むしろよく燃えている。薪は乾き、火は安定し、煙は真っ直ぐ天へ伸びている。


 ただ、その揺らぎには、余白があった。


 いつもなら、ここにいるだけで世界の全てが満ちていた。

 火と、仲間と、狼と、森のざわめきだけで、心の中は満たされていた。


 それなのに、どこかに小さな穴が開いている。


 退屈ではない。

 不安でもない。

 寂しさとも違う。


 ただ――足りないものがひとつ増えたような、そんな感覚。



 灯は、焚き火のすぐそばに座っていた。


 影の輪郭は、前よりもはっきりしている。

 肩に見える線。

 背骨のように通る芯。

 膝らしい折れ目。


 それでも顔だけは、やはり曖昧なままだ。


 目も鼻も口も、どこにもない。


 なのに――“見ている”ことは分かる。


 灯は、焚き火も、仲間も、俺も、森も、

 そのひとつひとつを、確かめるように見ていた。



「外は、どうだった?」


 結局、俺は聞いていた。


 問わないと決めていたはずだった。

 灯の経験を言葉に縛りたくないと、そう思っていた。


 それでも――穴は、少しずつ大きくなっていた。


 外の世界で灯が見たもの。

 灯が踏んだ地面。

 灯が通り過ぎた空気。


 それを知らないまま焚き火を囲んでいると、

 森の夜が、ほんの少しだけ薄く感じてしまう。


 だから、聞いた。


 たった一度だけ。


「どうだった?」



 灯はすぐには動かなかった。


 焚き火の炎が、灯の輪郭を撫でる。

 影が少し揺れ、輪郭がわずかににじむ。


 やがて、灯は首を――“かしげた”ように見えた。


 言葉が喉の奥で転がる。


 灯には喉なんてない。

 ただ、世界のどこかで“音が生まれようとしている”気配だけがあった。


 沈黙が伸びる。


 森は息を潜め、

 仲間たちも口を閉ざし、

 狼だけが静かに尻尾を揺らす。


 焚き火の音が、やけに遠く聞こえた。



 やっと灯が、声とも音ともつかない“揺れ”を発した。


 それは耳では聞こえない。

 代わりに、胸の奥にぶつかってくる。


 映像のようで、

 感情のようで、

 匂いのような何か。


 バラバラな断片が、脳裏に焼き付いた。


 崩れた街並み。

 ひび割れた石。

 巨大な円の刻まれた床。

 その中心で、誰かが石板に指を置いている。


 声はない。

 だが、唇が動いた。


「ここで、終わりにしよう」


 そう言っているように見えた。



 胸の内側で、何かが軋む。


 痛みではない。

 怒りでもない。

 悲しみでもない。


 ただ、異物感。


 この森と、焚き火と、仲間たちの中には存在しなかった種類の「意思」。


 “自分で終わりを選ぶ”という感覚。


 それを見て、灯は帰ってきた。


 あの者たちは、誰かに殺されたわけではない。

 滅ぼされたわけでもない。

 救いを求めて拒絶されたわけでもない。


 自分たちで線を引き、

 自分たちで時間の記録を閉じた。


 その事実だけが、鮮明だった。



「……終わりにしたのか、自分で」


 俺は、思わず声に出していた。


 灯は、こくんとも頷かない。

 ただ、炎の揺れが一瞬だけ高くなった。


 それが答えだ。


 あの円の中で石板を見ていた連中は、

 誰かに強制されたわけでも、追い詰められたわけでもない。


 ただ、自分たちの手で「最後の線」を引いた。


 そして、その先を空白のまま捨てた。



 リュミエルが、焚き火の向こうで目を細める。


「“自分から終わる”って、ある意味いちばん贅沢よね」


 半ば呆れ、半ば感心したような声色だった。


「生き物はだいたい、最後まで足掻くもんだ。

 勝手に終わる勇気なんて、そうそう持てやしない」

 バロウは肩を竦める。


「だが、終わりを選ぶことそのものは、否定しがたい」

 カインが淡々と告げた。

「彼らは“自分たちの物語の責任”だけは果たしたようなものだ」


「問題は――」

 エリスが焚き火を見つめたまま言う。


「そのあと“何も続けない”って決めたこと、かな」



 俺は黙った。


 森は続いている。

 焚き火は燃え続けている。

 仲間たちは笑い続けている。


 ここには、「終わり」という概念がない。


 眠る夜はあっても、

 最終的な停止は想像しない。


 いずれ朽ちる、という感覚そのものが、

 この森からは消えつつある。


 永遠に向けて、ゆっくりと深く沈んでいく場所。


 それが、今の世界だ。



「アルスは、どう思う?」


 エリスが、こちらを見た。


「もし、あの石板の前にいたのがあなたなら――

 “終わりにしよう”って言えた?」


 そんなの、考えるまでもない。


「言えないな」


 即答だった。


「終わらせるためにここまで堕ちたわけじゃない。

 続けたくて、世界を壊して、森を作って、焚き火を囲んでる」


 俺は、炎を見つめたまま続ける。


「俺が欲しかったのは、きれいな終わりじゃない。

 汚くてもいいから、続いていく今だ」



 仲間たちは、誰も反論しない。


 リュミエルは「そうよね」と笑い、

 バロウは「らしいな」と鼻で笑い、

 カインは「予想通りだ」と呟き、

 エリスはただ、嬉しそうに目を細めた。


 灯だけが、じっと俺を見ている。


 言葉はない。


 けれど灯の中で、何かがゆっくりと形を変えた気がした。



 世界のどこかで、薄く軋む音がした。


 森の外側ではない。

 もっと、根っこのほう。


 俺の骨の奥で、

 形を保っていた“何か”が、ひとつ溶けた。


 それは人間としての感覚の残り滓だったのかもしれない。


「終わること」に対する恐怖。

 線を引かれた世界を見ることへの嫌悪。

 そういう感情の一部が、静かに剥がれ落ちた。


 代わりに残ったのは――単純な興味だった。



「……見てみたいな」


 その言葉は、喉を通る前に自分でも驚いていた。


 アルスとしての俺ではなく、

 世界の中心としての“何か”が、勝手に口を動かした。


「終わりを選んだ世界が、それからどうなったのか」


 灯が、微かに揺れる。


 焚き火が、小さく爆ぜる。


 森の木々がざわめき、

 添え木のように張り巡らされた根が、わずかに引き締まる。


 世界は、その言葉を聞いていた。



「行ってみれば?」

 リュミエルがあっけらかんと笑う。


「世界が終わったあとに何が残るのか、

 自分の目で見るのも悪くないでしょ?」


「俺たちは止めない」

 バロウが言う。

「止める理由がない」


「帰る場所なら、ここにある」

 カインは静かだ。

「お前が帰りたいと思う限り、森はいつでも受け入れる」


「それに――」


 エリスの声音は、やわらかく、それでいて深かった。


「あなた、**本当はちょっとだけ“外に触れた灯を羨ましがってる”**でしょ?」


 図星だった。



 灯の影が、焚き火の奥でわずかに膨らむ。


 外の世界の残骸を見てきた存在。

 自分の意思で森から一度離れた存在。

 帰る場所を知っていて、それでも外に触れた存在。


 それを見て、俺の中のどこかが、確かに揺れた。


 羨望でも、嫉妬でもない。

 ただ――**「同じ景色を見ておきたい」**というわがまま。


 それは人間らしい感情のようでいて、

 今の俺には、ほとんど異物のようでもあった。


 その異物が、まだ完全には死んでいなかった。



「今じゃない」


 俺は、自分の中の衝動に線を引いた。


 灯は帰ってきたばかりだ。

 森も、焚き火も、仲間たちも、まだ“今日の夜”を味わっている。


 ここで立ち上がって外へ出るのは、

 あまりにも森に対して礼を欠いている。


「今日は、まだここの夜だ。

 外を見るのは――その次だ」


 それを聞いて、世界はほっと息を吐いたように見えた。


 木々のざわめきが優しくなり、

 狼の寝息が深くなり、

 焚き火はゆっくりと丸く燃える。



 灯は、ただ俺の隣に座った。


 肩が触れるような距離。

 影と影が重なりあう位置。


 言葉はない。

 だけど、意味は分かる。


 「一緒に見に行こう」


 いつか。

 今じゃないけれど、いつか。


 終わりを選んだ世界の、その先を。

 時間を殺した連中が残した、空白の続きを。


 一緒に見に行こう、と灯は言っている。



 胸の奥に、ひとつだけ形の良い熱が灯った。


 それは森に属さない。

 焚き火にも属さない。

 仲間たちにも、狼にも、灯にも属さない。


 「外に対する小さな期待」。


 それが、俺の中で生まれた。


 森の外へ出たいと願う悪魔。

 それは本来、この世界には不要なはずの感情だ。


 だけど、誰も否定しない。


 森は、俺の内側で生まれたその願いを――

 静かに包み込んだ。



 焚き火に薪をくべる。


 火が大きくなり、影が揺れ、

 森の夜が一段階、濃くなった。


 今日のところは、それでいい。


 まだ外へは出ない。

 まだ終わりには触れない。


 だが、確かに一歩近づいた。


 この森の終わりに。

 その先に続く、新しい世界の始まりに。


 


 そしてその夜も、

 その悪魔が願う未来は、

 またひとつ、形を変えながら深く沈んでいった。

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