第36話「線を引いた者たちのこと」
焚き火の炎が、やけに静かだった。
燃えていないわけじゃない。
むしろよく燃えている。薪は乾き、火は安定し、煙は真っ直ぐ天へ伸びている。
ただ、その揺らぎには、余白があった。
いつもなら、ここにいるだけで世界の全てが満ちていた。
火と、仲間と、狼と、森のざわめきだけで、心の中は満たされていた。
それなのに、どこかに小さな穴が開いている。
退屈ではない。
不安でもない。
寂しさとも違う。
ただ――足りないものがひとつ増えたような、そんな感覚。
◆
灯は、焚き火のすぐそばに座っていた。
影の輪郭は、前よりもはっきりしている。
肩に見える線。
背骨のように通る芯。
膝らしい折れ目。
それでも顔だけは、やはり曖昧なままだ。
目も鼻も口も、どこにもない。
なのに――“見ている”ことは分かる。
灯は、焚き火も、仲間も、俺も、森も、
そのひとつひとつを、確かめるように見ていた。
◆
「外は、どうだった?」
結局、俺は聞いていた。
問わないと決めていたはずだった。
灯の経験を言葉に縛りたくないと、そう思っていた。
それでも――穴は、少しずつ大きくなっていた。
外の世界で灯が見たもの。
灯が踏んだ地面。
灯が通り過ぎた空気。
それを知らないまま焚き火を囲んでいると、
森の夜が、ほんの少しだけ薄く感じてしまう。
だから、聞いた。
たった一度だけ。
「どうだった?」
◆
灯はすぐには動かなかった。
焚き火の炎が、灯の輪郭を撫でる。
影が少し揺れ、輪郭がわずかににじむ。
やがて、灯は首を――“かしげた”ように見えた。
言葉が喉の奥で転がる。
灯には喉なんてない。
ただ、世界のどこかで“音が生まれようとしている”気配だけがあった。
沈黙が伸びる。
森は息を潜め、
仲間たちも口を閉ざし、
狼だけが静かに尻尾を揺らす。
焚き火の音が、やけに遠く聞こえた。
◆
やっと灯が、声とも音ともつかない“揺れ”を発した。
それは耳では聞こえない。
代わりに、胸の奥にぶつかってくる。
映像のようで、
感情のようで、
匂いのような何か。
バラバラな断片が、脳裏に焼き付いた。
崩れた街並み。
ひび割れた石。
巨大な円の刻まれた床。
その中心で、誰かが石板に指を置いている。
声はない。
だが、唇が動いた。
「ここで、終わりにしよう」
そう言っているように見えた。
◆
胸の内側で、何かが軋む。
痛みではない。
怒りでもない。
悲しみでもない。
ただ、異物感。
この森と、焚き火と、仲間たちの中には存在しなかった種類の「意思」。
“自分で終わりを選ぶ”という感覚。
それを見て、灯は帰ってきた。
あの者たちは、誰かに殺されたわけではない。
滅ぼされたわけでもない。
救いを求めて拒絶されたわけでもない。
自分たちで線を引き、
自分たちで時間の記録を閉じた。
その事実だけが、鮮明だった。
◆
「……終わりにしたのか、自分で」
俺は、思わず声に出していた。
灯は、こくんとも頷かない。
ただ、炎の揺れが一瞬だけ高くなった。
それが答えだ。
あの円の中で石板を見ていた連中は、
誰かに強制されたわけでも、追い詰められたわけでもない。
ただ、自分たちの手で「最後の線」を引いた。
そして、その先を空白のまま捨てた。
◆
リュミエルが、焚き火の向こうで目を細める。
「“自分から終わる”って、ある意味いちばん贅沢よね」
半ば呆れ、半ば感心したような声色だった。
「生き物はだいたい、最後まで足掻くもんだ。
勝手に終わる勇気なんて、そうそう持てやしない」
バロウは肩を竦める。
「だが、終わりを選ぶことそのものは、否定しがたい」
カインが淡々と告げた。
「彼らは“自分たちの物語の責任”だけは果たしたようなものだ」
「問題は――」
エリスが焚き火を見つめたまま言う。
「そのあと“何も続けない”って決めたこと、かな」
◆
俺は黙った。
森は続いている。
焚き火は燃え続けている。
仲間たちは笑い続けている。
ここには、「終わり」という概念がない。
眠る夜はあっても、
最終的な停止は想像しない。
いずれ朽ちる、という感覚そのものが、
この森からは消えつつある。
永遠に向けて、ゆっくりと深く沈んでいく場所。
それが、今の世界だ。
◆
「アルスは、どう思う?」
エリスが、こちらを見た。
「もし、あの石板の前にいたのがあなたなら――
“終わりにしよう”って言えた?」
そんなの、考えるまでもない。
「言えないな」
即答だった。
「終わらせるためにここまで堕ちたわけじゃない。
続けたくて、世界を壊して、森を作って、焚き火を囲んでる」
俺は、炎を見つめたまま続ける。
「俺が欲しかったのは、きれいな終わりじゃない。
汚くてもいいから、続いていく今だ」
◆
仲間たちは、誰も反論しない。
リュミエルは「そうよね」と笑い、
バロウは「らしいな」と鼻で笑い、
カインは「予想通りだ」と呟き、
エリスはただ、嬉しそうに目を細めた。
灯だけが、じっと俺を見ている。
言葉はない。
けれど灯の中で、何かがゆっくりと形を変えた気がした。
◆
世界のどこかで、薄く軋む音がした。
森の外側ではない。
もっと、根っこのほう。
俺の骨の奥で、
形を保っていた“何か”が、ひとつ溶けた。
それは人間としての感覚の残り滓だったのかもしれない。
「終わること」に対する恐怖。
線を引かれた世界を見ることへの嫌悪。
そういう感情の一部が、静かに剥がれ落ちた。
代わりに残ったのは――単純な興味だった。
◆
「……見てみたいな」
その言葉は、喉を通る前に自分でも驚いていた。
アルスとしての俺ではなく、
世界の中心としての“何か”が、勝手に口を動かした。
「終わりを選んだ世界が、それからどうなったのか」
灯が、微かに揺れる。
焚き火が、小さく爆ぜる。
森の木々がざわめき、
添え木のように張り巡らされた根が、わずかに引き締まる。
世界は、その言葉を聞いていた。
◆
「行ってみれば?」
リュミエルがあっけらかんと笑う。
「世界が終わったあとに何が残るのか、
自分の目で見るのも悪くないでしょ?」
「俺たちは止めない」
バロウが言う。
「止める理由がない」
「帰る場所なら、ここにある」
カインは静かだ。
「お前が帰りたいと思う限り、森はいつでも受け入れる」
「それに――」
エリスの声音は、やわらかく、それでいて深かった。
「あなた、**本当はちょっとだけ“外に触れた灯を羨ましがってる”**でしょ?」
図星だった。
◆
灯の影が、焚き火の奥でわずかに膨らむ。
外の世界の残骸を見てきた存在。
自分の意思で森から一度離れた存在。
帰る場所を知っていて、それでも外に触れた存在。
それを見て、俺の中のどこかが、確かに揺れた。
羨望でも、嫉妬でもない。
ただ――**「同じ景色を見ておきたい」**というわがまま。
それは人間らしい感情のようでいて、
今の俺には、ほとんど異物のようでもあった。
その異物が、まだ完全には死んでいなかった。
◆
「今じゃない」
俺は、自分の中の衝動に線を引いた。
灯は帰ってきたばかりだ。
森も、焚き火も、仲間たちも、まだ“今日の夜”を味わっている。
ここで立ち上がって外へ出るのは、
あまりにも森に対して礼を欠いている。
「今日は、まだここの夜だ。
外を見るのは――その次だ」
それを聞いて、世界はほっと息を吐いたように見えた。
木々のざわめきが優しくなり、
狼の寝息が深くなり、
焚き火はゆっくりと丸く燃える。
◆
灯は、ただ俺の隣に座った。
肩が触れるような距離。
影と影が重なりあう位置。
言葉はない。
だけど、意味は分かる。
「一緒に見に行こう」
いつか。
今じゃないけれど、いつか。
終わりを選んだ世界の、その先を。
時間を殺した連中が残した、空白の続きを。
一緒に見に行こう、と灯は言っている。
◆
胸の奥に、ひとつだけ形の良い熱が灯った。
それは森に属さない。
焚き火にも属さない。
仲間たちにも、狼にも、灯にも属さない。
「外に対する小さな期待」。
それが、俺の中で生まれた。
森の外へ出たいと願う悪魔。
それは本来、この世界には不要なはずの感情だ。
だけど、誰も否定しない。
森は、俺の内側で生まれたその願いを――
静かに包み込んだ。
◆
焚き火に薪をくべる。
火が大きくなり、影が揺れ、
森の夜が一段階、濃くなった。
今日のところは、それでいい。
まだ外へは出ない。
まだ終わりには触れない。
だが、確かに一歩近づいた。
この森の終わりに。
その先に続く、新しい世界の始まりに。
そしてその夜も、
その悪魔が願う未来は、
またひとつ、形を変えながら深く沈んでいった。
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