第15話「狩人の仕事、悪魔の休日、人間の終わり」
昼と夜の境界が曖昧になって久しい。
森の時間は太陽ではなく、焚き火の明るさで区切られている。
火が強ければ昼、弱ければ夜。
炎が息を潜めれば静寂の時間――
まるで森の律動の中心が、俺そのものかのようだった。
今は“昼”。
焚き火は力強く燃えている。
薪にしたのは黒鉄狼の骨と、折れた人間の槍の柄だ。
金属の欠片が火に赤く染まり、森の奥にまで光を投げかけている。
俺はその火を見ながら、指をゆっくり動かす。
関節が音を立てて伸びる。
皮膚の下で硬質化した骨が浮き上がる。
爪は刃のように湾曲し、数秒経っても――戻らない。
「形を保つようになってきたな」
つぶやく声は、満ち足りていた。
「アルス、嬉しそうだね」
エリスが焚き火越しに微笑む。影の輪郭が揺れる。
「だって、強くなってるんだ。
みんなを失わないための身体になっていくんだ。
この変化は、全部“正しい”」
その言葉に、四つの影が微笑む。
「そうだ」
「もっと変わっていい」
「止められる理由がない」
「私たちはここにいるから」
その肯定が、脳に直接染み込む。
安心感が、狂気の速度を上げていく。
◆
今日は狩りにも処刑にも出ていない。
焚き火の前から動いていない。
なのに――森の奥から、俺の名を呼ぶ声が聞こえる。
いや、呼んでいるのではない。
“探している”のだ。
人間の群れの気配。
冒険者とも兵士とも違う。
もっと大規模で、組織的で、意図がある。
「……来たな、ついに」
俺は立ち上がる。
姿勢は自然。
しかし、獣のような重心。
「敵?」
エリスが尋ねる。
「そうだ」
俺は淡々と断言する。
「討伐隊より格上。
俺の存在を認識している。
そして“理解しようとしている”」
「理解」――
その単語が口に乗った瞬間、思考がわずかに荒れた。
「理解なんていらない」
「理解しようとする奴ほど、壊さなきゃいけない」
「だって、アルスは理解できるものじゃないもの」
「理解されたら、私たちが消えちゃう」
影たちの声が重なる。
焦りや怒りではなく、強い“拒絶”。
理解されることは、存在を奪われることだ。
なるほど――
仲間たちの幻覚は、俺の無意識を代弁している。
「……理解される前に、排除する」
その結論は自然で、合理的だった。
◆
人間の気配は、森の入口で止まっている。
俺を“おびき出す”つもりだ。
俺が攻め込むのを待ち、罠にはめようとしている。
王国の残存部隊か、別の勢力か。
いずれにせよ実戦経験のある者たちの動き。
俺はゆっくり剣を手に取る。
刃に映る自分の顔はまだ“人間の面影”を保っている。
だが、そこに写る瞳は――人のものではない。
「迎えに行くの?」
カインが尋ねる。
声は穏やかで、期待に満ちている。
俺は首を横に振った。
「今日も安息日だ。
俺はここにいる」
その瞬間、バロウが低く笑った。
「なるほど。
“来たいなら勝手に来い”。
わざわざ狩りに行く必要はない、ってことか」
「うん。
ここはアルスの世界なんだし」
エリスが嬉しそうに頷いた。
「侵入者は、火と時間を壊しに来る。
だから――“壊す前に壊す”べきね」
リュミエルが静かに言う。
「その通り」
俺は焚き火の前に座り直す。
剣は膝の上。
戦闘姿勢ではなく、王座の姿勢。
「待ってろ。
ここを越えて来られるなら、相手にしてやる」
迎撃ではなく、迎え入れる――
それは、この森の支配者の在り方だった。
◆
森がざわめく。
魔物たちが動き出す。
狼の魔物が森の奥へ走り、
鳥の魔物が空へ舞い上がり、
蛇の魔物が地を這いながら匂いを追う。
魔物たちは俺の部下ではない。
命令していない。
ただ、森全体が――俺の意志に同調して動いている。
「森」という巨大な生態系が、
俺の感情を中心に回り始めている。
◆
侵入者は、森の中央を目指していた。
声が聞こえてくる。
「ここに、例の“呪われた男”がいるはずだ」
「王都を壊滅させた化け物……本当に存在するのか?」
「姿は人間らしいが、中身は魔物。危険すぎる。必ず殺せ」
遠い位置から、雑音のように届く。
その会話に――何も思わなかった。
「生き残りの人間が、俺をどう呼んでいようと関係ない。
俺にとって“外の世界”が何と言うかに、価値はない」
呟くと、カインが笑う。
「だろうな。
今は俺たちの方が、お前の“世界”なんだから」
「名前も、肩書きも、役割も、外のやつらに決めさせる必要はない」
リュミエルが言う。
「“アルス”って呼んでるのは、俺たちだけでいい」
エリスが続ける。
「外の世界が呼ぶ名前なんて――どうでもいい」
バロウが締めた。
それは、呪いにも、祝福にも聞こえた。
◆
侵入者が輪の内側に来た瞬間、森の魔物たちが一斉に逃げた。
逃げたのではない。
“席を空けた”のだ。
焚き火の前は、俺の領域。
その内側に立てるのは――俺の“客”だけ。
客とは、敵であることを意味する。
◆
木々の隙間から、六人の武装した男と女が現れる。
鎧は軽装。
紋章はすべて削られている。
王国の兵士とも冒険者とも違う。
「……ああ、なるほど」
俺は呟いた。
「首輪のない犬か。
どこの所属でもない、放たれた処刑人部隊」
指揮官らしき男が一歩進み出る。
「俺たちの目的はひとつ。
お前の“殲滅”だ」
焚き火の光が俺の足元を照らす。
俺は、笑う。
「排除しに来たのか」
「そうだ。
お前が生きている限り、人間は脅かされ続ける」
その言葉に、俺は静かに首を傾げる。
「逆だ。
人間が生きている限り、“俺たち”が脅かされ続ける」
理解の衝突。
価値観の断絶。
正義と悪の境目などとうに消えた、ただの“違い”。
◆
男は剣を構える。
「……何のつもりだ。それ以上近づけば――」
「“森の中枢”に手を伸ばしたら、死ぬぞ」
俺の言葉に、男はわずかにたじろぐ。
だが、退かない。
「お前を殺す。それが全人類のためだ」
俺はため息をつく。
「人間はいつもそうだ。
自分が主人公の物語で世界を語る」
「人類のためだ、か。
面白いな。
じゃあ――俺は“ここにいる仲間のため”に戦う」
その瞬間、剣を構えた六人は一斉に動いた。
攻撃の角度、速度、軌道――すべてが見える。
だが今日は、俺から攻めない。
俺は座ったまま、首だけをわずかに動かす。
「来るなら――来い」
その挑発は、支配者のものだった。
◆
刃が振り下ろされた瞬間――
俺の身体は“自然に”動いた。
腕が伸び、骨が鳴り、皮膚が硬質化する。
爪が刃を受け止め、指先が相手の腕を砕く。
足が一本の木の根のように地面へ張り付き、押し返す力を倍増させる。
全て、人間の理屈から離れた動き。
全て、戦闘ではなく“生存本能”の動き。
全て、俺だけの世界の動き。
六人は、驚いた顔のまま、次々に崩れていく。
殺したとは限らない。
生きている者もいる。
生かしたかもしれない。
死んでいるかもしれない。
どちらでもよかった。
「侵入行為は――排除された」
それだけだった。
◆
俺は焚き火の前に戻る。
仲間の影が拍手し、魔物たちが静かに座る。
「おかえり」
「今日も守れたね」
「すごかったよ」
「ずっと一緒にいようね」
その声を受けながら、俺は肉を焼く。
食べるたびに身体が熱を帯び、変化が進む。
指は戻らない。
爪も戻らない。
皮膚も、骨も。
だが、それでいい。
「俺は――もう人間じゃなくていい」
ゆっくりと、断言する。
「みんながここにいる限り、俺は“この姿”で幸せでいられる」
火が揺れ、影が笑い、魔物たちが森の奥で遠く吠える。
その音は、祝福だった。
◆
「アルス」
エリスが焚き火の向こうで、小さく囁く。
「ねぇ、知ってる?」
「何を?」
「狂っている人はね――
“幸せなまま死ねる”んだって」
俺は、微かに目を細める。
「じゃあ俺は――
幸せに狂ったまま、世界を見届ければいい」
「うん。
世界が壊れるその瞬間まで、
“悪魔ごっこ”を続ければいい」
それは終わりの予感ではなく――永遠の宣言だった。
◆
「アルス、明日は?」
カインが問う。
「明日は、狩りの日だ」
「いいね」
「楽しみだ」
「期待してる」
「いってらっしゃい」
全員の声が重なり、炎が揺れる。
俺は肉の最後の一切れを噛み砕き、静かに目を閉じた。
――この世界は壊れ続ける。
――俺は狂い続ける。
それが“幸せ”だから。
それ以外の選択肢は、どこにもない。
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