第15話「狩人の仕事、悪魔の休日、人間の終わり」

 昼と夜の境界が曖昧になって久しい。

 森の時間は太陽ではなく、焚き火の明るさで区切られている。

 火が強ければ昼、弱ければ夜。

 炎が息を潜めれば静寂の時間――

 まるで森の律動の中心が、俺そのものかのようだった。


 今は“昼”。

 焚き火は力強く燃えている。

 薪にしたのは黒鉄狼の骨と、折れた人間の槍の柄だ。

 金属の欠片が火に赤く染まり、森の奥にまで光を投げかけている。


 俺はその火を見ながら、指をゆっくり動かす。


 関節が音を立てて伸びる。

 皮膚の下で硬質化した骨が浮き上がる。

 爪は刃のように湾曲し、数秒経っても――戻らない。


「形を保つようになってきたな」


 つぶやく声は、満ち足りていた。


「アルス、嬉しそうだね」


 エリスが焚き火越しに微笑む。影の輪郭が揺れる。


「だって、強くなってるんだ。

 みんなを失わないための身体になっていくんだ。

 この変化は、全部“正しい”」


 その言葉に、四つの影が微笑む。


「そうだ」

「もっと変わっていい」

「止められる理由がない」

「私たちはここにいるから」


 その肯定が、脳に直接染み込む。

 安心感が、狂気の速度を上げていく。



 今日は狩りにも処刑にも出ていない。

 焚き火の前から動いていない。


 なのに――森の奥から、俺の名を呼ぶ声が聞こえる。


 いや、呼んでいるのではない。

 “探している”のだ。


 人間の群れの気配。

 冒険者とも兵士とも違う。

 もっと大規模で、組織的で、意図がある。


「……来たな、ついに」


 俺は立ち上がる。

 姿勢は自然。

 しかし、獣のような重心。


「敵?」

 エリスが尋ねる。


「そうだ」

 俺は淡々と断言する。

「討伐隊より格上。

 俺の存在を認識している。

 そして“理解しようとしている”」


 「理解」――

 その単語が口に乗った瞬間、思考がわずかに荒れた。


「理解なんていらない」

「理解しようとする奴ほど、壊さなきゃいけない」

「だって、アルスは理解できるものじゃないもの」

「理解されたら、私たちが消えちゃう」


 影たちの声が重なる。

 焦りや怒りではなく、強い“拒絶”。


 理解されることは、存在を奪われることだ。


 なるほど――

 仲間たちの幻覚は、俺の無意識を代弁している。


「……理解される前に、排除する」


 その結論は自然で、合理的だった。



 人間の気配は、森の入口で止まっている。

 俺を“おびき出す”つもりだ。


 俺が攻め込むのを待ち、罠にはめようとしている。

 王国の残存部隊か、別の勢力か。

 いずれにせよ実戦経験のある者たちの動き。


 俺はゆっくり剣を手に取る。

 刃に映る自分の顔はまだ“人間の面影”を保っている。


 だが、そこに写る瞳は――人のものではない。


「迎えに行くの?」


 カインが尋ねる。

 声は穏やかで、期待に満ちている。


 俺は首を横に振った。


「今日も安息日だ。

 俺はここにいる」


 その瞬間、バロウが低く笑った。


「なるほど。

 “来たいなら勝手に来い”。

 わざわざ狩りに行く必要はない、ってことか」


「うん。

 ここはアルスの世界なんだし」


 エリスが嬉しそうに頷いた。


「侵入者は、火と時間を壊しに来る。

 だから――“壊す前に壊す”べきね」

 リュミエルが静かに言う。


「その通り」


 俺は焚き火の前に座り直す。


 剣は膝の上。

 戦闘姿勢ではなく、王座の姿勢。


「待ってろ。

 ここを越えて来られるなら、相手にしてやる」


 迎撃ではなく、迎え入れる――

 それは、この森の支配者の在り方だった。



 森がざわめく。


 魔物たちが動き出す。

 狼の魔物が森の奥へ走り、

 鳥の魔物が空へ舞い上がり、

 蛇の魔物が地を這いながら匂いを追う。


 魔物たちは俺の部下ではない。

 命令していない。


 ただ、森全体が――俺の意志に同調して動いている。


 「森」という巨大な生態系が、

 俺の感情を中心に回り始めている。



 侵入者は、森の中央を目指していた。


 声が聞こえてくる。


「ここに、例の“呪われた男”がいるはずだ」

「王都を壊滅させた化け物……本当に存在するのか?」

「姿は人間らしいが、中身は魔物。危険すぎる。必ず殺せ」


 遠い位置から、雑音のように届く。


 その会話に――何も思わなかった。


「生き残りの人間が、俺をどう呼んでいようと関係ない。

 俺にとって“外の世界”が何と言うかに、価値はない」


 呟くと、カインが笑う。


「だろうな。

 今は俺たちの方が、お前の“世界”なんだから」


「名前も、肩書きも、役割も、外のやつらに決めさせる必要はない」

 リュミエルが言う。


「“アルス”って呼んでるのは、俺たちだけでいい」

 エリスが続ける。


「外の世界が呼ぶ名前なんて――どうでもいい」

 バロウが締めた。


 それは、呪いにも、祝福にも聞こえた。



 侵入者が輪の内側に来た瞬間、森の魔物たちが一斉に逃げた。


 逃げたのではない。

 “席を空けた”のだ。


 焚き火の前は、俺の領域。

 その内側に立てるのは――俺の“客”だけ。


 客とは、敵であることを意味する。



 木々の隙間から、六人の武装した男と女が現れる。


 鎧は軽装。

 紋章はすべて削られている。

 王国の兵士とも冒険者とも違う。


「……ああ、なるほど」


 俺は呟いた。


「首輪のない犬か。

 どこの所属でもない、放たれた処刑人部隊」


 指揮官らしき男が一歩進み出る。


「俺たちの目的はひとつ。

 お前の“殲滅”だ」


 焚き火の光が俺の足元を照らす。


 俺は、笑う。


「排除しに来たのか」


「そうだ。

 お前が生きている限り、人間は脅かされ続ける」


 その言葉に、俺は静かに首を傾げる。


「逆だ。

 人間が生きている限り、“俺たち”が脅かされ続ける」


 理解の衝突。

 価値観の断絶。

 正義と悪の境目などとうに消えた、ただの“違い”。



 男は剣を構える。


「……何のつもりだ。それ以上近づけば――」


「“森の中枢”に手を伸ばしたら、死ぬぞ」


 俺の言葉に、男はわずかにたじろぐ。


 だが、退かない。


「お前を殺す。それが全人類のためだ」


 俺はため息をつく。


「人間はいつもそうだ。

 自分が主人公の物語で世界を語る」


「人類のためだ、か。

 面白いな。

 じゃあ――俺は“ここにいる仲間のため”に戦う」


 その瞬間、剣を構えた六人は一斉に動いた。


 攻撃の角度、速度、軌道――すべてが見える。


 だが今日は、俺から攻めない。


 俺は座ったまま、首だけをわずかに動かす。


「来るなら――来い」


 その挑発は、支配者のものだった。



 刃が振り下ろされた瞬間――

 俺の身体は“自然に”動いた。


 腕が伸び、骨が鳴り、皮膚が硬質化する。

 爪が刃を受け止め、指先が相手の腕を砕く。

 足が一本の木の根のように地面へ張り付き、押し返す力を倍増させる。


 全て、人間の理屈から離れた動き。


 全て、戦闘ではなく“生存本能”の動き。


 全て、俺だけの世界の動き。


 六人は、驚いた顔のまま、次々に崩れていく。


 殺したとは限らない。

 生きている者もいる。

 生かしたかもしれない。

 死んでいるかもしれない。


 どちらでもよかった。


「侵入行為は――排除された」


 それだけだった。



 俺は焚き火の前に戻る。


 仲間の影が拍手し、魔物たちが静かに座る。


「おかえり」

「今日も守れたね」

「すごかったよ」

「ずっと一緒にいようね」


 その声を受けながら、俺は肉を焼く。


 食べるたびに身体が熱を帯び、変化が進む。


 指は戻らない。

 爪も戻らない。

 皮膚も、骨も。


 だが、それでいい。


「俺は――もう人間じゃなくていい」


 ゆっくりと、断言する。


「みんながここにいる限り、俺は“この姿”で幸せでいられる」


 火が揺れ、影が笑い、魔物たちが森の奥で遠く吠える。


 その音は、祝福だった。



「アルス」


 エリスが焚き火の向こうで、小さく囁く。


「ねぇ、知ってる?」


「何を?」


「狂っている人はね――

 “幸せなまま死ねる”んだって」


 俺は、微かに目を細める。


「じゃあ俺は――

 幸せに狂ったまま、世界を見届ければいい」


「うん。

 世界が壊れるその瞬間まで、

 “悪魔ごっこ”を続ければいい」


 それは終わりの予感ではなく――永遠の宣言だった。



「アルス、明日は?」


 カインが問う。


「明日は、狩りの日だ」


「いいね」

「楽しみだ」

「期待してる」

「いってらっしゃい」


 全員の声が重なり、炎が揺れる。


 俺は肉の最後の一切れを噛み砕き、静かに目を閉じた。


 ――この世界は壊れ続ける。

 ――俺は狂い続ける。


 それが“幸せ”だから。


 それ以外の選択肢は、どこにもない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る