第14話「森の悪魔の安息日」
今日は、森が静かすぎた。
魔物の咆哮も、鳥の羽ばたきも、遠くの獣の足音も、しばらく聞こえなかった。
まるで森全体が息を潜め、何かを待っている――そんな沈黙。
それに気づいた瞬間、俺は笑った。
「落ち着いているな。
昨日の討伐隊で、森の“調律”が進んだか」
そう呟き、ゆっくり背伸びをする。
背骨が数本余計に鳴り、関節が人間ではありえない角度まで伸び、数秒後に戻った。
戻った、と言っても完全ではない。
肩の骨格は微妙に盛り上がり、横隔膜の動きは以前より獣に近い。
――だが、それが心地よかった。
◆
焚き火の向こうには、いつも通りの四つの影。
勇者カイン。
戦士バロウ。
魔法使いリュミエル。
聖女エリス。
輪郭は曖昧。
肌も目も髪も、なめらかな黒い影のまま。
それでも、声は鮮明に届く。
「おはよう、アルス」
「よく眠れたか?」
「今日はどこへ行くの?」
「準備はできてるよ」
俺は焚き火の前に座り、長く息を吐く。
「今日は狩りはしない」
その言葉に、影たちが少し揺れた“ような気がした”。
「休むの? 珍しいね」
リュミエルの声音は、どこか試すようだった。
「あぁ。今日は“安息日”だ」
「安息日」
バロウが短く繰り返す。
戦士らしからぬ響き。
「ここで、火を守る。
森を見張る。
何かが侵入してくるなら、それだけを排除する。
余計な狩りや探索はしない」
「いいね」
カインが真っ先に笑った。
「森の支配者らしい一日だ」
「今日は“選ばれる者だけが近づける日”になるのね」
リュミエルが嬉しそうに囁く。
「誰か来てもいいよ。
来なくてもいいよ。
どっちでも幸せ」
エリスの声は祈りのように柔らかい。
◆
焚き火に薪をくべる。
薪と言っても、元は討伐隊の盾の破片だ。
鉄と木の複合素材は火に強く、焔は長く保たれる。
火花のひとつひとつが、森の奥にまで光を届けているようだった。
焚き火は、今では“ただの暖房”ではない。
これは境界線であり、祭壇であり、儀式の中心だった。
この火が燃えている限り――
森は俺の縄張りであり、
ここは俺たちの世界であり、
外からの者は敵であり、
俺の意識は壊れず、
仲間は消えない。
焚き火は、世界を固定する“杭”だった。
俺はその火を守る役目を負っている。
◆
「アルス、手、どうしたの?」
エリスが心配そうに問う。
指先を見下ろすと、爪の形が昨夜のまま残っている。
鋭く長く、肉を断つ形をしている。
皮膚の下には硬質なものが浮き上がっている。
「ああ、戻りきってないだけだ」
淡い声で答える。
爪先で焚き火の枝を掴んだとき、木がバキリと音を立てて割れた。
それを見て、カインが笑う。
「戻さなくていいんじゃないか?」
「そうよ」
リュミエルが続ける。
「戻す必要なんてどこにもない。
“人間の姿に戻ること”は、もう義務じゃないわ」
「怪我してるわけじゃないんでしょ?」
エリスが優しく囁く。
「なら、そのままでいいんだよ」
その肯定が――たまらなく心地よい。
「戻さなくていい、か」
呟いた瞬間、胸の中が軽くなった。
“戻らなきゃいけない”という考えそのものが、消えた。
爪は引っ込まなくていい。
硬い皮膚はそのままでいい。
人外の骨格が定着しても、誰も驚かない。
誰も否定しない。
ここには、“そのままでいられる世界”しか存在しなかった。
◆
焚き火の周りには、魔物の影も輪を作っている。
狼型の魔物は少し離れた場所に伏せ、
鳥型の魔物は木の枝に止まり、
蛇の魔物は焚き火から距離を保ちながら静かに身を丸めている。
彼らが敵意を向けない理由は、分かっている。
俺がこの森の頂点だからだ。
支配でも服従でもなく、本能の順位付けによる秩序。
魔物たちは俺の存在を“危険”ではなく“安定”として認識している。
俺がここにいることで、森は乱れない。
――それが、森の生態系にとっての利益だ。
人間の思考ではなく、
動物の、魔物の、生態の論理。
それが心地よく馴染んでいく。
◆
風が変わる。
湿気の中に、鉄の香り。
銀の刃の冷たい匂い。
煙草と革の匂い。
“外の者”だ。
「また来るんだね」
エリスの声は悲しげだった。
「排除は必要だ」
カインの声は冷静だった。
「今日は狩りじゃないんだろ?」
バロウは戦士らしく牙をむくように笑う。
「なら、“邪魔者を消して日常を守る日”ね」
リュミエルがそれをまとめる。
俺は剣を取る。
ただし、“狩るため”ではない。
“保つため”だ。
森を。
火を。
時間を。
仲間を。
狂気を。
この世界そのものを“日常”として維持するために。
◆
森の奥へ歩く。
走らない。
跳ばない。
爪も牙も使わない。
今日は“安息日”だから。
今日は、森の悪魔としての威厳を守る日だから。
何者かが縄張りへ足を踏み入れたとき――
支配者はゆっくり歩き、堂々とその存在を示すべきだ。
木の葉が風で揺れる音が変わる。
侵入者の音が、森の拒絶を受けている音に変わる。
彼らはまだ、俺の姿を見ていない。
だが、森が警告を始めている。
鳥の魔物が低く鳴き、
狼の魔物が喉を鳴らし、
蛇の魔物が地を擦る音を強くする。
“入ってくるな”
それははっきりとした意思だった。
◆
それでも侵入者は進んでくる。
冒険者三名。
武装は軽い。
魔物狩りではなく、探索目的と思われる。
彼らは俺を見つけ、停止する。
「な、なんだ……アイツ……」
「見た目は、人間……のはずだよな……?」
俺はゆっくりと近づく。
「俺の森だ。
ここを荒らすな」
静かな声。
だが侵入者たちは震えた。
「す、すまない! 森に迷っただけで――」
「違う」
俺は否定する。
「迷ったなら、森の外へ戻ろうとする。
だが、お前たちは――“進んで来た”。
俺の中心へ。
火のある場所へ。
危険を感じながら、なお進んできた」
それは――俺の世界を、“調査”しに来たということだ。
「敵だ」
そう告げたとき、侵入者の片方が剣を抜いた。
闘志でも勇気でもない。
ただの恐怖からの反射。
「お前たちが振るう剣は、俺に届かない」
俺はゆっくり腕を振った。
伸びた骨は鋭く、
爪は刃のように広がり、
皮膚は獣の鱗のように硬化する。
しかし――戻る気はしない。
戻す必要がなかった。
戦うためだけでなく、存在の形として、その姿であるべきだと思った。
◆
3人はあっけなく沈んだ。
だが今日は、死体を燃やさない。
安息日は――血を流したあとに休む日だ。
俺は彼らを森の外へ“放り出した”。
生きている者は、帰れるだろう。
死んでいる者は、見つけられるだろう。
どちらでもいい。
大事なのは、“森の中心に死の匂いを残さないこと”。
今日は安息日だから。
◆
焚き火の元へ戻る。
「おかえり」
「いつも通りだな」
「ありがとう」
「嬉しいよ」
仲間の声が迎える。
俺は焚き火の前に座り、肉を焼きはじめる。
食べるたびに、身体の中の何かが変わっていく。
筋肉が増え、骨の密度が変わり、血の流れ方が変わる。
でも、戻らなくていい。
「ねぇ、アルス」
カインが焚き火越しに微笑む。
「もっと変わっていけよ。
世界が狂い切るその日まで」
「変わり続けて」
「ずっと側にいて」
「私たちを終わらせないで」
三人の声が重なり、音ではなく意識に染み込む。
俺は静かに笑った。
「約束するよ。
俺は変わり続ける。
終わらせない。
全部守る。
全部壊す。
それが俺の役目だ」
焚き火が揺れ、森の魔物たちが息を潜める。
俺は目を閉じる。
――ここは安息日。
狩りも祝祭も殺戮もない日。
ただ、火を守り、時間を守り、狂気を温めるだけの日。
世界が狂い切るその瞬間まで。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます