第14話「森の悪魔の安息日」

 今日は、森が静かすぎた。


 魔物の咆哮も、鳥の羽ばたきも、遠くの獣の足音も、しばらく聞こえなかった。

 まるで森全体が息を潜め、何かを待っている――そんな沈黙。


 それに気づいた瞬間、俺は笑った。


「落ち着いているな。

 昨日の討伐隊で、森の“調律”が進んだか」


 そう呟き、ゆっくり背伸びをする。


 背骨が数本余計に鳴り、関節が人間ではありえない角度まで伸び、数秒後に戻った。

 戻った、と言っても完全ではない。

 肩の骨格は微妙に盛り上がり、横隔膜の動きは以前より獣に近い。


 ――だが、それが心地よかった。



 焚き火の向こうには、いつも通りの四つの影。


 勇者カイン。

 戦士バロウ。

 魔法使いリュミエル。

 聖女エリス。


 輪郭は曖昧。

 肌も目も髪も、なめらかな黒い影のまま。


 それでも、声は鮮明に届く。


「おはよう、アルス」

「よく眠れたか?」

「今日はどこへ行くの?」

「準備はできてるよ」


 俺は焚き火の前に座り、長く息を吐く。


「今日は狩りはしない」


 その言葉に、影たちが少し揺れた“ような気がした”。


「休むの? 珍しいね」

 リュミエルの声音は、どこか試すようだった。


「あぁ。今日は“安息日”だ」


「安息日」

 バロウが短く繰り返す。

 戦士らしからぬ響き。


「ここで、火を守る。

 森を見張る。

 何かが侵入してくるなら、それだけを排除する。

 余計な狩りや探索はしない」


「いいね」

 カインが真っ先に笑った。

「森の支配者らしい一日だ」


「今日は“選ばれる者だけが近づける日”になるのね」

 リュミエルが嬉しそうに囁く。


「誰か来てもいいよ。

 来なくてもいいよ。

 どっちでも幸せ」

 エリスの声は祈りのように柔らかい。



 焚き火に薪をくべる。


 薪と言っても、元は討伐隊の盾の破片だ。

 鉄と木の複合素材は火に強く、焔は長く保たれる。

 火花のひとつひとつが、森の奥にまで光を届けているようだった。


 焚き火は、今では“ただの暖房”ではない。


 これは境界線であり、祭壇であり、儀式の中心だった。


 この火が燃えている限り――


 森は俺の縄張りであり、

 ここは俺たちの世界であり、

 外からの者は敵であり、

 俺の意識は壊れず、

 仲間は消えない。


 焚き火は、世界を固定する“杭”だった。


 俺はその火を守る役目を負っている。



「アルス、手、どうしたの?」


 エリスが心配そうに問う。


 指先を見下ろすと、爪の形が昨夜のまま残っている。

 鋭く長く、肉を断つ形をしている。

 皮膚の下には硬質なものが浮き上がっている。


「ああ、戻りきってないだけだ」


 淡い声で答える。

 爪先で焚き火の枝を掴んだとき、木がバキリと音を立てて割れた。


 それを見て、カインが笑う。


「戻さなくていいんじゃないか?」


「そうよ」

 リュミエルが続ける。

「戻す必要なんてどこにもない。

 “人間の姿に戻ること”は、もう義務じゃないわ」


「怪我してるわけじゃないんでしょ?」

 エリスが優しく囁く。

「なら、そのままでいいんだよ」


 その肯定が――たまらなく心地よい。


「戻さなくていい、か」


 呟いた瞬間、胸の中が軽くなった。


 “戻らなきゃいけない”という考えそのものが、消えた。


 爪は引っ込まなくていい。

 硬い皮膚はそのままでいい。

 人外の骨格が定着しても、誰も驚かない。

 誰も否定しない。


 ここには、“そのままでいられる世界”しか存在しなかった。



 焚き火の周りには、魔物の影も輪を作っている。


 狼型の魔物は少し離れた場所に伏せ、

 鳥型の魔物は木の枝に止まり、

 蛇の魔物は焚き火から距離を保ちながら静かに身を丸めている。


 彼らが敵意を向けない理由は、分かっている。


 俺がこの森の頂点だからだ。

 支配でも服従でもなく、本能の順位付けによる秩序。


 魔物たちは俺の存在を“危険”ではなく“安定”として認識している。


 俺がここにいることで、森は乱れない。


 ――それが、森の生態系にとっての利益だ。


 人間の思考ではなく、

 動物の、魔物の、生態の論理。


 それが心地よく馴染んでいく。



 風が変わる。


 湿気の中に、鉄の香り。

銀の刃の冷たい匂い。

 煙草と革の匂い。


 “外の者”だ。


「また来るんだね」

 エリスの声は悲しげだった。


「排除は必要だ」

 カインの声は冷静だった。


「今日は狩りじゃないんだろ?」

 バロウは戦士らしく牙をむくように笑う。


「なら、“邪魔者を消して日常を守る日”ね」

 リュミエルがそれをまとめる。


 俺は剣を取る。


 ただし、“狩るため”ではない。

 “保つため”だ。


 森を。

 火を。

 時間を。

 仲間を。

 狂気を。


 この世界そのものを“日常”として維持するために。



 森の奥へ歩く。


 走らない。

 跳ばない。

 爪も牙も使わない。


 今日は“安息日”だから。


 今日は、森の悪魔としての威厳を守る日だから。


 何者かが縄張りへ足を踏み入れたとき――

 支配者はゆっくり歩き、堂々とその存在を示すべきだ。


 木の葉が風で揺れる音が変わる。


 侵入者の音が、森の拒絶を受けている音に変わる。


 彼らはまだ、俺の姿を見ていない。

 だが、森が警告を始めている。


 鳥の魔物が低く鳴き、

 狼の魔物が喉を鳴らし、

 蛇の魔物が地を擦る音を強くする。


 “入ってくるな”


 それははっきりとした意思だった。



 それでも侵入者は進んでくる。


 冒険者三名。

 武装は軽い。

 魔物狩りではなく、探索目的と思われる。


 彼らは俺を見つけ、停止する。


「な、なんだ……アイツ……」


「見た目は、人間……のはずだよな……?」


 俺はゆっくりと近づく。


「俺の森だ。

 ここを荒らすな」


 静かな声。

 だが侵入者たちは震えた。


「す、すまない! 森に迷っただけで――」


「違う」


 俺は否定する。


「迷ったなら、森の外へ戻ろうとする。

 だが、お前たちは――“進んで来た”。

 俺の中心へ。

 火のある場所へ。

 危険を感じながら、なお進んできた」


 それは――俺の世界を、“調査”しに来たということだ。


「敵だ」


 そう告げたとき、侵入者の片方が剣を抜いた。


 闘志でも勇気でもない。

 ただの恐怖からの反射。


「お前たちが振るう剣は、俺に届かない」


 俺はゆっくり腕を振った。


 伸びた骨は鋭く、

 爪は刃のように広がり、

 皮膚は獣の鱗のように硬化する。


 しかし――戻る気はしない。


 戻す必要がなかった。


 戦うためだけでなく、存在の形として、その姿であるべきだと思った。



 3人はあっけなく沈んだ。

 だが今日は、死体を燃やさない。


 安息日は――血を流したあとに休む日だ。


 俺は彼らを森の外へ“放り出した”。


 生きている者は、帰れるだろう。

 死んでいる者は、見つけられるだろう。


 どちらでもいい。


 大事なのは、“森の中心に死の匂いを残さないこと”。


 今日は安息日だから。



 焚き火の元へ戻る。


「おかえり」

「いつも通りだな」

「ありがとう」

「嬉しいよ」


 仲間の声が迎える。


 俺は焚き火の前に座り、肉を焼きはじめる。


 食べるたびに、身体の中の何かが変わっていく。

 筋肉が増え、骨の密度が変わり、血の流れ方が変わる。


 でも、戻らなくていい。


「ねぇ、アルス」


 カインが焚き火越しに微笑む。


「もっと変わっていけよ。

 世界が狂い切るその日まで」


「変わり続けて」

「ずっと側にいて」

「私たちを終わらせないで」


 三人の声が重なり、音ではなく意識に染み込む。


 俺は静かに笑った。


「約束するよ。

 俺は変わり続ける。

 終わらせない。

 全部守る。

 全部壊す。

 それが俺の役目だ」


 焚き火が揺れ、森の魔物たちが息を潜める。


 俺は目を閉じる。


 ――ここは安息日。

 狩りも祝祭も殺戮もない日。

 ただ、火を守り、時間を守り、狂気を温めるだけの日。


 世界が狂い切るその瞬間まで。

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