第11話「旅の地図が歪んでいく」

 焚き火の火はまだ弱く暖かかった。

 朝の森は静寂に満ちている。

 霧が立ちこめ、木々が影絵のように並び、湿った土の匂いが満ちている。


 俺は目を開け、背伸びをした。


「今日もいい日になりそうだ」


 口調はいつも通り穏やかで柔らかい。

 しかしその言葉は“ここに留まり続ける意思”そのものだった。



 焚き火の向かいに、仲間たちの影が揺れている。


 その姿は曖昧でぼやけているのに、声は鮮明だ。


「今日は北へ進もう。山の方に強いやつがいる」

 ――カイン


「南の川沿いにも、一度戻りたいな。新しい肉が食えるぞ」

 ――バロウ


「魔力の濃い地点を回りたいわ。あなたの身体がもっと変化するはず」

 ――リュミエル


「オアシスの近くは、穏やかで……幸せだったよね。また行きたい」

 ――エリス


 幻覚たちは“狩りルート”を提案してくる。


 まるで旅を続けているかのように。


「今日は……どのルートにしようか」


 俺は焚き火の前で地面に棒を走らせ、地図のような線を描いた。

 森の地図なんて存在しないのに、線はどんどん複雑化し、網目になって広がっていく。


 その線のひとつをなぞって、俺は笑った。


「これだな。今日はここを通る。

 強い魔物がいるし、肉も美味しそうだ」


 “旅の目的”が完全に歪んでいるのに、口調は平和そのもの。



 森の奥へ向かう途中、違和感が走った。


 足跡。

 冒険者のもの。


 革靴の跡。

 そして魔力感知の痕跡。


 ――人間が、この森に入ってきた。


 過去の自分なら、救助に向かっただろう。

 それどころか、保護し、共に帰還しようとした。


 だが今の俺は、思考が違った。


「人間か……邪魔だな」


 その言葉は淡々として、冷たく、感情がなかった。


「今は忙しいから、会うつもりはない」


 声は穏やか。

 言っている内容は、完全に“排除の思考”。


 人間は“会うべき対象”ではなく

 “旅 ―― 幻覚の世界 ―― 幸せを壊す可能性のある異物”へと変わった。


 そこで仲間の声が重なる。


「気にするな。行こう」

「無視でいい」

「君の世界に関係ない人たちだ」

「私たちを守って。外の人は……敵じゃないけど邪魔だよ」


 声が優しい。

 だから疑わない。


「……あぁ。行こう」


 人間の痕跡を完全に意識から切り捨てて、森の奥へ進んだ。



 魔物との戦闘は、もはや日常だった。


 今日は槍尾虎そうびこ――巨大な尾の槍を持つ虎の魔物。


 その尾が振り下ろされた瞬間、俺の身体は“勝手に”変化した。


 腕がわずかに伸びる。

 指が鋭くなる。

 関節が逆に曲がる。

 そしてすぐ戻る。


 皮膚が硬質化し、骨が伸び、筋肉がねじ曲がって――

 瞬きの間に“元の人間の姿”に戻っていた。


 変形していた証拠はどこにもない。

 だが感覚は確かに残っている。


「……たまらないな。

 身体が勝手に答えてくれるって……最高だ」


 狂気の言葉。

 しかし声は、柔らかく幸福に満ちている。


 魔物を解体し、肉を仕分ける。


 筋肉、脂肪、臓器、骨――丁寧で正確な手際。


「ここの肉、最近のお気に入りだ」


 仲間の声が返す。


「いいね」

「早く食べよう」

「あなたの変化につながる」

「今日も、幸せにしようね」



 焚き火の前に肉を並べ、仲間4人の席を整える。


「さぁ、食べよう」


 その瞬間、森の奥から人間の悲鳴が聞こえた。


 冒険者が魔物に襲われている。

 助けに行ける距離。

 走れば間に合う。


 でも俺は、一口目を噛みしめながら呟いた。


「……大丈夫、俺が行かなくても“誰か”が助けるだろ」


 声は人間のもの。

 思想はもう人間ではない。


 仲間の影が嬉しそうに揺れる。


「そうだよ」

「気にしなくていい」

「ここが君の世界だ」

「私たちを守って」


 温かな肯定が心地よく全身を包む。


 冒険者の悲鳴は遠のき、森は再び静かになる。



 焚き火の炎が揺れ、仲間の影が踊る。


 俺は安心したように笑った。


「終わらない旅は楽しいな」


 仲間の声が、重なる。


「終わらせないで」

「ずっと一緒に」

「変わり続けて」

「人がやめられなくても、人をやめても……どっちでもいいよ」


 俺は答える。


「全部守る。それが、俺の幸せだから」


 人間の言語で。

人間離れした価値観で。

優しく、狂って。


 森の夜は静かに深まり、

 終わらない旅は、さらに深みへ沈んでいった。


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