七 幻庵の死

 二日後の神無月(十月)五日。

 夕刻から風が吹いて晴天が曇天になった。


 宵五ツ(午後八時)。

「夜分、すみません。主がいつもの癪を起こして苦しんでいますので・・・」

 新大坂町のお堀端にある廻船問屋、吉田屋吉次郎から使いが来た。吉田屋がある新大坂町は大通り一本をはさんで亀甲屋がある田所町の隣だ。

「わかった。おさき。薬箱にいつもの痛み止めを用意してくれ」

「和磨に共をさせます。起こします」

「寝かせておけ。往診は私独りでいい・・・。吉田屋から亀甲屋は近いから寄ってくる」

 幻庵は薬箱を持って使いの者とともに往診へ出ていった。


 和磨はこの経緯を臥所の褥で聞いていた。

 吉田屋吉次郎は胃に病を抱えている。夕餉はすんでいるはずだ。この刻限に吉田屋から使いが来るのは妙だ。父を呼びだす口実かも知れない・・・。

 和磨は己が寝ているように布団を丸めて褥に入れ、床脇の出書院地袋から、隠していた草履を取りだした。部屋を出ると障子戸を閉めて、縁廊から草履を履いて奥庭へ降り、塀の裏木戸を抜けて外へ出た。

 幻庵の往診先は、亀甲屋藤五郎と親戚筋だと自称している吉田屋吉次郎だ。和磨はこっそり幻庵をつけた。



 幻庵は使いの者とともに、本舟町からお堀沿いに瀬戸物町へ歩いて中之橋を渡り、堀江町一丁目と二丁目の間の通りから万橋を渡って、南材木町の通りから大通りを横切って、田所町と長谷川町の通りを抜け、新大阪町の雨戸が閉められた吉田屋の店表の潜り戸から中へ入り、四半時ほどで出てきた。


 宵五つ半(午後九時)をまわった頃。

 幻庵は新大坂町の吉田屋から通りを横切って、田所町とその南隣の長谷川町の間の通りへ出た。このまま通りを新材木町の方へ進めば大通りへ出て亀甲屋の店表に行けるが、幻庵は田所町の路地に入って、亀甲屋の塀にある、隠し潜り戸を抜けて中に入った。

「ここは亀甲屋の裏手ではないか・・・」

 なぜ隠し潜り戸から亀甲屋へ入ったのだ。なぜ店表から入らぬのか・・・。

 和磨は田所町の路地の入口で四半時ほど幻庵を待ってから、その場を去った。



 夜四ツ半(午後十一時)過ぎ。

 風が出てきた。

 幻庵が亀甲屋の隠し潜り戸を抜けて路地から田所町と長谷川町の間の通りへ出てきた。通りを西へ進んで大通りを横切り、新材木町と南材木町の間の通りから万橋の東詰へ出た。


 幻庵が万橋を渡りはじめた時、

「火の用心なさいませ・・・。夜も遅うございます。お気をつけてお帰りを・・・」

 万橋の西詰めの堀江町一丁目と二丁目の間の通りから、腰に提灯の柄を差した夜回りが拍子木を打ちながら橋を渡ってきて幻庵に声をかけた。夜回りに扮した和磨だったが、一間ほど離れてすれ違った幻庵は和磨に気づかなかった。


 幻庵は十徳を羽織って薬箱を持ち、総髪茶筅だ。付き人はいない。服装と持ち物から、医者が往診で帰りが遅くなったと判断できる。

「ご苦労様でございまする・・・」

 幻庵は夜回りに丁寧に答えてすれ違った、その直後、和磨は拍子木を打つのをやめて懐に入れ、腰に差した柄の先の、提灯の明りを吹き消した。


 幻庵は背後の様子に気づかぬまま万橋を西詰めへ渡り終えたその時、音も無く幻庵の背後に忍び寄った和磨は、襟に差していた鍼治療の長鍼を抜いて、涙ながらに幻庵の後頭部、髪の生え際に深々と突き刺した。父上すまぬ、これも室橋家のためだ・・・。和磨の頬に涙が流れた。


 幻庵が後頭部の首筋上部に違和感を覚えた瞬間、痛みとともに心臓が止まり、手から提灯と薬箱が滑り落ちるのを感じたまま幻庵の意識は遠のいた。

 和磨はすぐさま幻庵の提灯を受け止めて火を吹き消し、崩れ落ちる幻庵に肩を貸すように抱えて橋から堀端へ幻庵を運び、幻庵の躰を堀の石垣にそわせて足からずるずると堀へ入水させた。そして、薬箱と提灯を堀端に置いて、堀江町一丁目と二丁目の間の通りを西へ戻っていった。

 幻庵が落下した堀は、六助が発見された新材木町から続く堀だった。



 翌日。神無月(十月)六日。

 明け六ツ半(午前七時)。雨の朝。

 鍼医室橋幻庵が、南材木町と堀江町二丁目にかかる万橋西詰め橋の下から発見された。


 検視した町医者竹原松月と検視検分方の日野徳三郎は、室橋幻庵の後頭部の鍼跡を確認して、酔ったあげく心の臓が止まって堀に落ちたと与力の藤堂八郎に告げた。

「松原。御内儀に、酔ったあげく心の臓が止まって堀に落ちたと伝えろ・・・」

 堀から引き上げられた遺体が鍼医の室橋幻庵とわかった時、すでに藤堂八郎は使いを走らせて、幻庵の妻のおさきを大伝馬町の自身番に呼んでいた。

 藤堂八郎は近くに停めてある大八車を目で示して、幻庵の遺体を大伝馬町の自身番へ運ぶよう指示した。雨の中、同心と岡っ引きたちは幻庵を大八車で番屋へ運んでいった。


 大伝馬町の自身番でおさきと和磨は運ばれた遺体を見て、幻庵にまちがいないと認め、涙を流した。

 藤堂八郎は、お役目ゆえ先生が亡くなったこんな時にすまぬと断って、昨夜、幻庵がどうしていたか話して欲しいと尋ねた。


 おさきは涙ながらに昨夜の事を話した。

「昨夜、宵五ツ(午後八時)。馴染みの吉田屋から、『主が癪を患ったから往診して欲しい』と使いが来て、幻庵は、『近いから亀甲屋にも寄ってくる』といって薬箱を持って独りで出かけました。夜中、風が吹いて雨になりそうでしたので、亀甲屋に泊ったと思ってました。幻庵は亀甲屋とは親戚同様の付き合いでした・・・」


「ご足労ありがとうございました。今日は先生の身元確認です。また話を訊きに伺いますので今日はお引き取りください。幻庵先生は、今宵、ご帰宅していただきますので・・・」

 藤堂八郎は、幻庵先生が亡くなった大変な時にすまなかった、と詫びた。

 おさきは無言のまま和磨に付き添われて大伝馬町の自身番を出て、雨の中を本舟町の自宅へ向った。

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