二十一話 迷い②

「俺なら触れずに去る」


 低く穏やかに、男は告げる。


、俺ならな」


 もはや二人の立ち位置には乖離があると、自分の意見は参考にはならないだろうと、彼は言っているのだ。


「私はここに……友達、って勝手に呼んでいいのかわかりませんけど……できるだけ笑って、この先も幸せに生きていってほしいなと思う人がいるんです」


 だが考えれば考えるほど、わからなくなる。アルチェが彼女に与えたいと思ったは、もしかして独りよがりに過ぎないのではないか、と。


 自分がしようとしていることは、本当に彼女たちの幸せに繋がっているのか? 解き明かしたことで、逆に後々泣かせるような事態になりはしないか? アルチェが来たことで、彼女たちをかえって不幸や困難に巻き込むのではないか? そんな答えの出ない疑問に絡めとられて、どうにも動きが取れなくなっているのだ。


 そして同時に、


 ———じじ殿みたいに泣かせて……もし、またその理由がわからなかったら……


 自分に理解が及ばないことがあるかもしれないということを、心のどこかで恐れてもいた。


「……ひとつだけ伝えてやれるのはなぁ……どんなに力があっても、どんなに頭を悩ませて誠心誠意向き合っても……結局お嬢ちゃんは、誰の幸せにも責任なんかとれやしないってことだよ」


 男がぽつりと言った。


「死ぬほど不幸にしてやりたくても、天に昇るほど幸せにしてやりたくても、それを最終的に判断するのは……決められるのは、その当人だけだ」


 町を見下ろしながら、彼は静かに言葉を紡ぐ。


「……前に俺の先生が言ってた。この世には正解も間違いも存在しない。ただそこには選択があるだけだって。覚悟っていうのは、誰にも何事にも自分の選択の責任を押し付けずに、その一個人の真ん中にある本心を……その者がその者たる選択を、選び取ることなんだって」

「……その者がその者たる選択を」


 思わず呟いたアルチェに、彼は困ったように笑いかける。


「そんなん言われても、なかなか難しいよな。見栄に嘘に建前に誤魔化し、そんなものでこの世は溢れているんだから。その中で溺れないようにするには、随分と胆力がいる。……どうして手を出すか迷っているのか、聞いてもいいか?」


 アルチェはしばらく黙った後、口を開いた。


「この地の領主一家が、変化を嫌う嫉妬深い女神様とやらに祟られてるというのを、聞いたことはあります?」

「噂程度には」


 彼は軽く肩をすくめて頷いた。恐らく知っているに違いない。


「その女神をかたる人間の、背後にいるものがまずいかもしれないんです。十年近く前に壊滅したって聞いていた組織なんですけど……でももし、まだ勢力が大きく残っているのなら話は別です……何か切り札があればともかく、一地域で抵抗し切ることは難しいのではないかと思います。そうなると、私が事態を明かすことで、ここの人々が別の意味で危険にさらされてしまうかもしれません。でもこのまま放置していけば……私の友達が殺されてしまうかもしれない」


 うめくように言えば、男は告げられた内容に動揺する様子もなく頷いた。


「確かに潜む神ザグラあがめる連中は、大陸に広く深く根を張っていたからな。全盛期であれば、逆らうことが狂気の沙汰さただったのは間違いない」

「……やっぱり、あれもこれも全部わかってて黙ってるんですから……意地悪な人ですね」


 アルチェが不満を隠さずに睨むと、


ねるなよ。軽い口は、災いのもとだろ?……ああ、わかったわかった。俺が持ってる限りの情報はやるから」


 笑いながら彼は答える。


「それについては、正直そこまでは心配いらないと思うぞ。主な部分というか、それまで権勢を誇っていた部分については、間違いなく潰れているからな。いかな〝潜む神の使徒ザグラニゥ〟と言えども、本気のを相手取って、何事もなく済むわけがない。……ただまぁ、あそこも一枚岩じゃないからな。生き残って主力の座を奪い取った一派が、多少残っているんだろうさ」

「……その座を奪い取った一派とやらから、派遣されてきた人でした。なんてオチじゃないですよね、あなた」


 アルチェが腹立ちまぎれに疑いの眼差しを向けると、男は吹き出した。


「馬鹿言わないでくれよ。俺はむしろそいつらに狙われる側だったんだ。それも熱烈にな。あんまりモッテモテなんで、困り果ててたんだよ。ボインのお姉様なら大歓迎だが、むさい野郎にばっか寝込みを狙われるもんでな。そしたらリヴァルト王国のおっかない宰相殿が、あいつらを潰してくれた。とうとう安眠を手に入れた俺は、拍手喝采で三日三晩祝杯をあげたのさ」

「……渇望しておいて手に入れた瞬間自ら手放す、いい悪例ですね」


 彼は嫌味たらたらのアルチェに微笑んで付け加える。


「だから義理堅い俺は、もう返せない恩を彼に返す代わりに……その愛孫まなまごちゃんに、あと少しだけ手を貸してやってもいいと思っているよ」

「……なら、今晩ちょっと手伝ってください」


 アルチェはむくれたままそう呟いて、憤懣ふんまんやるかたないというように大きなため息をついた。

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