傘のお礼

惣山沙樹

 高校二年生の僕はまだ「児童」と呼ばれる歳だ。来年になって誕生日を迎えれば、成人になって選挙権も与えられるわけだが、それにしては僕はまだ幼すぎる。

 足踏みしている。同じところで。

 同級生らが部活や恋愛に熱を上げている一方、僕は帰宅すれば幼児期から買い与えられた図鑑をめくって退屈を紛らせているような日々を送っていた。

 僕は動画も観ないしゲームもしない。聴いている音楽は、父の影響で九十年代の洋楽だったし、同世代と共有できる話題を何一つ持ち合わせていなかった。

 失礼にならない程度には他人と会話はできるけど、休み時間はイヤホンをつけて周りを遮断してやり過ごしており、弁当も一人で食べていた。

 つまりは、友達と呼べる人がいなかった。


 梅雨入りして、いつ雨が降るかわからないし、時間ごとの天気予報を見るのも面倒だったから、折りたたみ傘をリュックに入れて登校するようになった。

 その日、五時間目から雨が降り出し、日本史の授業をぼんやりと聞きながらたまに外を眺めた。

 雨を表す言葉が日本には沢山ある、とは何かで聞いたことがあるけれど、今の雨をどう言えばいいかわからない。

 五月雨? いや、漢字からすると五月に降る雨のことを呼ぶのか。今はもう六月だ。あっ、旧暦か? それならそう呼んでもいいのか。

 気になったが、僕は授業中はスマホは出さない。なんてことのない、普通の雨。そう片付けて黒板に視線を移した。

 放課後になっても雨は降り続けており、僕は玄関で折りたたみ傘を取り出した。すると、背の高い金髪の男が僕に寄ってきた。


「なあ、高原! 傘、入れてくれねぇ?」

「……えっ」


 安田だ。彼のことなら嫌でも知っていた。うちの高校は「染色禁止」だが「脱色ならいいだろう」等と屁理屈を言って金髪を保ち続けている男。いつも周りには人が絶えず、明るい笑顔を安売りしている――そんな印象のクラスメイトだ。


「駅まででいいから。なっ?」

「まあ、いいけど……」


 安田は本当にデカい。百八十センチはあるだろう。対する僕は百六十五センチくらいで、これ以上の成長は諦めていた。安田は言った。


「俺が持った方がいいよな。貸せよ」

「あっ、うん」


 男二人が入った折りたたみ傘の中は酷く窮屈だった。僕も安田もリュックを背負っていたが、おそらくずぶ濡れ。安田なりに気を遣っているのだろう、傘は若干僕の方に傾けられており、安田の左肩はどんどん湿ってきた。


「なあ、気になってたんだけど。高原っていつも何聴いてるの?」

「言ってもわからないよ」

「言うだけ言ってみろって」

「……ニルヴァーナ」


 これっきり、話題が打ち切れるかと思いきや、安田は意外な反応をした。


「マジで? 俺、アルバムだとブリーチが好き!」


 そこは普通、ネヴァーマインドか、ちょっと捻ってイン・ユーテロだ。デビュー作を知っているとは。

 坂道に差し掛かり、足を滑らせないよう慎重に下りながら、僕は尋ねた。


「洋楽、詳しいんだ?」

「そこそこ。叔父さんが好きなんだよね。その影響」

「僕は父親の影響」


 雨足が急に強くなってきた。安田が言った。


「ちょい急ごう」

「ま、待って」


 そっちは足が長いんだから、一歩の大きさの違いくらい考えてくれよ、等と思いながら、必死に安田に着いていった。

 駅はまだ遠い。とっくに閉店したのであろう、看板の文字が消えかかった元喫茶店の建物の前まで来て、安田は足を止めた。屋根があったのだ。


「高原、休憩すっか」

「うん……」


 早歩きをしたのでじんわりと汗をかいていた。雨音は強く、激しく、それこそロックドラムのように屋根を叩きつけていた。

 安田は折りたたみ傘を閉じ、濡れた自分の金髪をかきあげた。彼が持った折りたたみ傘からは、ぽと、ぽと、と水がしたたり落ちていた。


「俺さ、前から高原と喋ってみたかったんだよな」


 そんなことを安田が言い始めた。


「お前って、いつも音楽聴いてるじゃん? もしかしたら趣味合うかも、って期待してた」

「まあ……合ったね」

「すげぇ嬉しい。なぁ、友達になってよ」


 僕はうろたえた。そんなに直球で持ちかけられたことなど今まで無かったのだ。うんいいよ、そう素直に返してやり過ごせば楽なはずなのに、僕はペラペラと持論を語りだした。


「友達って、いつの間にかなっているものじゃないかな。そうやって宣言してなるものじゃないと思う。確かに共通点はできたけどただそれだけ」

「わっ、案外冷たいのな。そういうとこ、ますます気に入ったけど」

「……変な奴」


 曲が変わったかのように、さあっと辺りが静かになった。雨は目に見えて小降りになっていた。そろそろ、いいだろう。


「安田くん、行こうか」

「あっ、まだ待って。傘のお礼する。目ぇ閉じて」

「……うん?」


 わけのわからないまま、言われた通りにすると、唇に柔らかいものが触れた。それから、吐息が顔にかかった。


「えっ? えっ?」


 驚いて目を開く。してやったり、とでも言いたげに、ニイッと口角を上げる安田の顔があった。


「お前って捻くれてるようで素直なとこもあるんだな。もっと知りたくなった」

「……その傘、あげる。僕一人で帰るから!」

  

 そして、駆け出した。


「おい、ちょっと! ごめんって高原!」


 安田はそう叫んだものの、追いかけてはこなかった。


 ぐっしょりと濡れて自宅に帰り、すぐにシャワーを浴びた。こびりついて離れない、さっきの感触。

 安田はなぜ、あんなことをした? 誰にでもしているのか? ただの戯れ?

 鼓動は高鳴り、なかなか収まらなかった。


 翌日、登校すると安田はいつものように人に囲まれていた。僕の顔を見るなり、その輪から外れて近寄ってきた。


「高原、おはよう! 昨日、傘ありがとな。やっぱり返すよ」

「いいよ。安田くんが持ってて」

「でも」

「いいから持ってて」


 あれは確かにキスだった。あの傘を持っていれば、その時記憶と結びついてしまう。だから、嫌だった。


「……安田くん、一人にしてくれないかな。あっちに戻れば」

「あっ、うん、ごめん……」


 それから、安田は僕に話しかけてくることはなかった。僕だってあのことは忘れようとした。

 でも、できなかった。僕は耳をそばだて、安田の情報を集めた。高校卒業後は、父親の後を継ぐため建築系の学科のある大学に行くらしい。

 僕は法学部を目指していたから、大学に行けば離れ離れ。

 梅雨でなくても雨は降った。それは秋雨とか時雨とかいうやつだ。あれから、調べた。どんな雨だろうと、雨は雨だから――僕はその度に、あの日の「傘のお礼」を思い出してしまうのだ。

 そうして、安田とはろくに話さないまま卒業し、大学生になり、二十歳になった。

 

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