第23話 山頭火、酢の物を食べる
・酢のもの涼しく逢うてゐる
この句は山頭火が亡くなる1年前の昭和14年の作。
昭和14年のいつ頃よまれた句であるのか、誰と逢っていたのかは分からない。
従って何の酢の物かも不明だが、私はなんとなく胡瓜なますではないかと想像している。胡瓜なますはいかにも涼しさを感じさせる酢の物だ。
酢の物について、山頭火はこんな言葉を残している。
「辛味苦味は食欲を増進する。酸味は―酢物は酒としっくり調和する。」(昭和13年2月14日の日記)。
というわけで、様々な酢の物で山頭火は酒杯を傾けることになる。
まずは冒頭の句について私がこれではないかと想像したキュウリの酢のものを見てみよう。
昭和9年5月20日の日記である。
「樹明がくれた胡瓜を膾にして飲む、胡瓜もうまいが、酒はとてもうまい、陶然悠然としてベッドへ」
胡瓜の膾、つまりキュウリの酢のものだ。山頭火の作るキュウリ膾はおそらくワカメも加えないキュウリだけのシンプルなものだろう。
また「陶然悠然としてベッドへ」とあるが、山頭火の住まいにベッドなどあるはずはなく、もちろん布団のことだ。
続いて酢牡蛎を見てみよう。
酢牡蠣は山頭火の好物で、日記にはこんな記述がある。
「かん酒屋に立ち寄つて、酢牡蛎で一杯やって、それでは福岡よ、さよなら!」(昭和5年12月7日)
山頭火が一杯やったかん酒屋が福岡のどの町にあったかは同じ日の日記に答えがある。
「福岡の中州をぶらぶら歩いてゐると、私はほんとうに時代錯誤的だと思はずにはゐられない」
福岡の中州は昭和5年12月7日から間もなく100年が過ぎようとする現在もなお飲んべえのメッカであり続けている。
さらに昭和7年2月26日にも酢牡蛎について言及している。
「酢牡蛎で一杯、しんじつうまい酒だった!」
この頃山頭火は「きのふは風けふは雪あすも歩かう」の句でも分かるように寒風や雪に苦しめられながら長崎を旅している。この日の「酢牡蛎で一杯」はよほどうまかったのか、日記に「一杯飲んだら空、空、空!」と弾むような記述がある。
広島生まれの私にとって酢牡蛎は幼い頃から舌になじんだ食べ物だが、最近は寒さが極まり牡蠣が一番うまくなる2月を待ち、私の牡蠣日照りがピークを迎える時にようやく食べることに決めている。2月の牡蠣、とりわけ宮島付近の大野地区の牡蠣は「しんじつうまい」もので、広島に住む喜びをひとしお感じる時だ。
その他にも酢漬けにして彼の酒宴を賑わした海の幸はいろいろある。
鰯ではこうだ。
「昼食、小鰯の酢漬、酒三合、私はまた私の極楽を感じた。」(昭和14年9月25日)
この日の小鰯の酢漬は山頭火が手づから料理したもので、内臓を出して開いた小鰯をさっと焼き、それを酢漬けにしたものだろう。鰯は山頭火の好物で別のところで「鰯、鰯、鰯ほどやすくてうまい魚はない」と鰯を賛美してもいる。
鯨では
「まづ鯨の酢の物、エソの刺身、たたき魚の吸物、海老の煮付、等、等、等だ。」(昭和7年11月27日)
上記の御馳走は山口県小郡にある山頭火の住まいである其中庵(ごちゅうあん)での友人たちとの宴会メニュー。
これらは勿論山頭火がふるまったのではなく、いつもの事だが友人たちが持ち寄ったごちそうだ。
頼まれなくともこご馳走を運んできてくれるこんな友人を私も欲しいと思う。
金のない時は一粒の米さえなくなり、一日水だけで過ごすこともある山頭火だが、上記のようなうまいものが彼の舌を喜ばす時もたまにはある。食べるものに関する振り子の揺れ幅は山頭火の場合並はずれて大きい。
小鯛では
「夜、国森令弟わざわざ海の幸―小鯛一籠―を持ってきて下さった、魚に添へてある青紫蘇の香が何ともいへないフレツシウだった、早速焼いて酢に漬けた、ああ、この好下物あつて酒なしとは……、うらめしや。」(昭和7年9月28日)
「下物」は酒肴のことで「かぶつ」あるいは「げぶつ」と読むそうな。
山頭火は酒肴をもっぱら下物と呼ぶが、今では誰にも通じない日本語かもしれない。
鯖では
「なぜこんなに気が滅入るのだろう、くよくよするな、とにかく一杯やりたまへ、―朝から鯖の酢漬をつけてくれてるではないか。」(昭和14年5月8日)
最後にタコでは次の通り。
「酢章魚がおいしかった、一句もないほどおいしかった、湯あがりにまた一杯が(実は三杯が)またよかった、ほんに酒飲みはいやしい(昭和7年4月21日)
ここまで挙げた酢の物で珍しいのは鯨の酢の物だろう。
山頭火の故郷、山口県の内陸地方では冬、おからと塩を混ぜ合わせ、そこに鯨の白身を漬けて保存食とした。それを翌年の夏から秋にかけて取り出し、薄切りにして食べる。酢味噌を添えるのも良いが、大根なますに入れるとおいしいと聞くが、私はまだ食べたことがない。
隣県の山口に行き、昭和7年11月27日の山頭火の宴会メニュー「鯨の酢の物、エソの刺身、たたき魚の吸物、海老の煮付」で一杯やるのが、目下の私の実現可能なささやかな夢だ。
私の住む広島からは車で3時間もあれば行けるのだから。
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