クサビの効用について

第2話 森川一郎氏の感想より

 米河氏の作品を拝読しました。

 これは御自身の経験ではなく、Z氏の経験を踏まえたフィクションであるということであるが、それは大した問題ではない。

 要は、養護施設という場所に住む一種孤児的な扱いを受けた人物が、他者とは言え家庭というべき場所を定点的に紹介され、そこを軸に成長していく物語と解釈できますので、その前提をもとに話を進めます。


 のっけから主人公の回想部分に「次善の策」という言葉が出ておりますが、確かにこの構図は、本来親元もしくはせいぜいその親族までの間で育つべきところを、それができない故にその状況下においてのベストを追求した結果である。

 無論この増本さんという家庭を紹介される前もそうであるが、紹介された後のことについても、氏が指摘している「次善の策」という言葉は該当し得ます。


 これは短期里親という制度をうまく活用し、定点的な救いの場を与えることで成果を挙げることの出来た事例として非常に興味深い要素をもっております。

 その点においては、確かに特殊事例の下における少年の成長物語であるという指摘が可能でありましょう。

 しかしよくよく考えて見直してみれば、これはどの子においても、無論、時代や地域や環境、無論ここは男女も問わぬ普遍的な親子の、あるいは子どもを育てていく大人たちと大人たちに育てられる子どもの典型的かつ普遍的な要素がしっかりと見て取れる物語であると申せます。


 かねて米河君は、私との論争においてオンオフを問わず、いつの時代にもある若者の姿を描いた作品として、炎のランナーという映画を例示されています。それは私よりいささか若い世代の、英国の若者たちが主人公です。一人はケンブリッジ大学、もう一人はエディンバラ大学の学生で、共に陸上競技においてオリンピックに出場して金メダルを獲得しておりますが、その環境や立場を見れば特殊に見えたとしても、その姿はいつの時代でもどの地でも見られる、典型的な若者の姿である。

 しかるにかの米河君が書かれた作品もまた、その映画の主人公たち同様、典型的な少年の反抗期のような時期を得て成長していく姿を描き切ったと言えます。


 今作で出てくる母親というのは、幸か不幸かはともあれ、主人公の作家氏とは血のつながりも戸籍上のつながりもありません。そこだけ取れば全くの他人です。

 とはいえ、主人公の少年を実の息子も同然に愛情をもって接した。

 後に作家となりしその少年に対する、かの母親の子育てには幾分の問題点もあったことは間違いない。それは私も拝読して感じました。私自身の家族が、あるいはよつ葉園の女性職員がこの母親のような言動を子どもらにしたら、私でもさすがにこれは注意するであろうと思うところも散見されました。

 しかしながら一方で、彼女には大きなアドバンテージもあった。それはすでに10年以上前から男の子を育てていたこと。それも、実の息子さんたちだ。その経験の成功も失敗も含めてのノウハウが蓄積されていたことである。

 彼女の夫である本作では、主として「親父さん」という言葉で語られている人物がしっかりとその家の子どもたちを見守るかのように、冷静かつ客観的な目をもってその家における少年の姿を見守っておられた姿が、私には印象に残りました。

 その方はどうやら私から見て年齢で親子位離れているようですが、私らの世代に限らずあの時代を生き抜いた人としては、いささか異質な感じも見える。しかしながらそれ故に、あるべき父親像というものがそこから垣間見えてきました。


 私自身は養護施設よつ葉園という場所で人生の後半を過ごしてまいりましたが、それにしても、うちにいた子らとは、増本さん宅のお子さん方は表面的には相違点が少なからずみられましたね。そのあたりは追ってお話していきたい。

 ただひとつ私が大きく印象に残ったこととしては、その息子さんたちは大学などで離れていた時期を除いて、幼少期からずっと御両親と同居されていますが、親子がずっと同居するということの功罪もまた、その方々を通じて感じるところは幾分ありました。これは作者がその真逆の人生を歩んで来られたゆえのルサンチマンとやらから来るものかなとも感じたが、必ずしもそうとは言えまい。それを言うならむしろこの主人公たる作家氏とやらは、親子の同居に批判的ですらある。否定的とまで行ってしまうといささか言い過ぎ感も出るが、確かに批判的ではある。


 スープの冷めない距離という言葉で表されるような兄弟姉妹、親戚付合いというものを作家氏は、肯定的な側面も描いていると同時に、かなり批判的にも描いているように見受けられました。

 無論ここで描かれた主人公の作家氏と実在の米河清治氏とは全く別人として扱われるべきものであるが、これまでの論争で米河君とお話してきた印象から私が受けたものを述べるなら、明らかに批判的な姿勢がそのベースにあると思われます。

 主人公が大学卒業後増本さん宅に架電して事実関係を確認ていく過程からも、辻田さんというその親せき宅への思いがしっかりと伝わってくる。

 両家間でいかなるやり取りがあったのかはこの作品からは明らかにされていませんが、それはまあ仕方ない。彼がある程度中に入りつつも外からの目で増本さん宅と辻田さん宅を見ていたからこその分析ができていることには間違いない。

 そこに至るまでの家庭内外における過程にはにどんなことがあったであろうか、ある角度から見ればこのようなこともあったのではないかと想像可能な分析も作家氏の口から出されている。

 それをふまえれば、これもまた、典型的な兄弟、ここでは実の姉と弟ということになりましょうけれども、金の切れ目が縁の切れ目ならぬ親の死に目が縁の切れ目のような、そう言いたくなる事案と言えましょうかね。


 私個人としては、個人としての米河君に対しては何もそこまでかたくななことばかり言わずともよかろうという思いは少なからずあります。とはいえ、今時の成人されてすでに50代半ばにもなろうという方に対して、いくら私が前世代の大物とも思わんがまあ百歩譲っていただいて大物とやらであるとしましても、どうしろと申せる立場でもありません。

 そこはまあ、論争でちょっと話がてらには振ろうとは思っておりますけれども、何かを強制する立場でもありませんからな。


 ともあれ、この作品をもう少し精査の上で、米河氏との論争に向わせて頂こうと思っております。


 

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