黒澄

田辺すみ

前編

 ウィジェーヌ、マーレの森に入ってはいけない。


 修道院長からそう言われて、まだ見習いであった私は森の入り口で待っていた。1680年初めの頃だろう。その呼び名の通り、枝葉の重なった深い森は黒々とした喉を見せて、人を呑み込もうとしているようだった。鶫の森には“インク職人”が住んでおり、二、三ヶ月に一度インクを届けにやってくる。私は受け取りのために使いにやられたのだった。


 インク職人は無口な男だった。ずんぐりと背は高いのだが、肩をすぼめて歩き、落ち窪んだ目は濡れた苔のよう。瓶になみなみと詰まったインクは、それは黒く、一点の濁りも無い。美しい純真な黒だった。紙に引けばどんな色よりも際立ち、染み付いて決して消えない。私は感嘆し、写本に夢中になった。字を書いているうちは、悩みや不安を忘れられたこともある。


「あの男は異教徒だ」


 しかし他の修道士たちがそう言っているのを耳にした。我々と敵対関係にある東の帝国の奴隷であったが、戦火に紛れて逃げてきたのらしい。の奴隷である間に改宗させられ、では言葉も不自由であり、村人たちの嫌悪の目から隠れるように森で暮らし始めた。どこで学んだのかインクづくりと炭焼きの技術があったので、それを糧として生き延びている。修道院の薄暗い机で『ヒルサウ年代記』を写しながら、私は全く異なる心持ちになった。この黒は、だからこそ生み出せるのではなかろうか。神の光が届かないからこそ?


 その日、私は森へ逃げ込んだ。母が修道院にやってきたのだ。によって王宮から追放される前に、息子たちの顔を見にきたなどと、白々しい−子供に母親らしい愛情など持ったためしも無かろうが。村人や修道士たちがこちらを遠巻きにしながら囁き合う。ああ、あれが。王の愛人だった母親が差し出したところ、こんな軟弱な息子は要らぬ、と言われたとかなんとか。太陽王と呼ばれながら、蔑みの瞳は凍えるように冷たい。狩猟場で銃声と猟犬が吠える声に怯えて泣く幼い私を、王は一瞥しただけだった。軍幹部であった名義上の父は息子たちに軍隊教育を施し、できが悪ければ容赦無く折檻した。どちらの“父“からしても、私は関心の対象ではなかった。足を踏み込めば外側から見るより、森の中は明るかった。樹冠から溢れる陽光に下草が蒼く瞬く。樹皮が香り、至るところに動物たちの気配がする。私は濡れた頬を拭って見惚れた。


若旦那ムシュー、インクはどのようにしてつくられるかご存じですか


 インク職人の静かな声音を思い出す。煤をにかわで練ってつくることもできますが、上質なものは没食子インクと申します。虫瘤むしこぶから抽出した没食子酸と鉄屑を反応させ、削ぎ落として樹脂を混ぜて使います。虫瘤というのは、虫の寄生や産卵によって植物の一部、枝や茎や葉が瘤のように膨れ上がったものです。割ると中から卵や幼虫がわいてまいります。私は自分がその愚かで哀れな幼虫の一匹であるような気がした。他の多数のものと瘤の中に押し込められ、外界のことを何も知らないうちにぎ取られ、轢き潰され、どろどろに溶ける。私はけれども、あの美しい黒にすらなれないのだ。

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