幻想彫像、または青い血液

夜凪 大虚鳥

幻想彫像、または青い血液


 曲線を引く。前髪が手元に影を落とす。指先が震える。鉛筆を突き立てる。瞬きで視界が揺れる。水滴が落ちる。眼球がヒリついた。

 目を閉じて、顎を上げて、背を反らして、息を、つく。私の吐いた息はあなたの気配を捉えた。薄く目を開けると、日の落ち始めた暗い部屋に。机と、椅子に凭れる私と、デスクライトと、白い、あなたが見えた。

「酸欠だ。呼吸を整えて」

 視界があなたの手で遮られる。私は息をした。

 私は鉛筆を取り落とした。



 頭の奥がぱちりといった。目を開いて息を整える。気管支がざらついて酸っぱい。つま先に絵筆がぶつかってカタンと鳴った。卓上ミラーの中の私と目が合った。フィクションの中で悪夢から飛び起きるキャラクターは、きっとこの私と同じ顔色をしているんだろうと思った。

 いつの間にか日は落ちきっていた。デスクライトの白熱灯は切れていて、夕焼けの薄明かりだけが部屋をぼんやり照らしている。さっきのぱちりという音はフィラメントの切れた音だ。白熱灯に触れるとまだ僅かに暖かい。ゆっくり瞬きをする。

 机上の画用紙に目を落とすと、歪んだ下書きの上に薄緑色が塗りたくられていた。失敗を悟った。私は地に落ちた筆を拾う。床が薄緑で汚れていた。私はそれを不思議そうに見ていた。緑色なんて塗るつもりじゃなかった。下書きもまだ甘い。自分はさっきまで線画をしていたつもりだったのに、いつ筆を持ったのか。

 まあ、どうでも。


 筆洗に筆を落とす。透明水彩が水に溶けて、筆先には透明がいる。失敗したという事だけだ。私は、あなたの事を描きたいのにあなたの事を何も知らない。何色を使えばいいのかも分からない。三ヶ月ぶりに絵を描く、当たり前か。

 両手で掴んだ筆の先を自分に向ける。これがもしナイフだったら、傍から見たら私は気がおかしくなった芸術家気取りだろう。きつく握った手から血が垂れた。伸びた爪が早く切ってくれと言う。私は自嘲気味に笑って、シーリングライトをつけた。部屋が馬鹿みたいに明るくなった。


 新しい画用紙を出す。曲線を引く。あなたの姿を思い浮かべる。指先に画用紙のザラつきが伝わる。頭に奇妙な浮遊感がある。鉛筆を持ちなおす。瞬きをする。あなたがそこに居る気がした。

 あなたは背が高い、サラサラとした白銀のボブヘアと灰の目をしていて、私が視界にとらえた時はいつも和服を着ていた。銀の刺繍のある白い着物に青朽葉の帯。銀鼠の羽織。下駄を鳴らして歩く。私があなたに初めて会ったのは雨の日でしたね。

「そうだね」

 今日は、あなたの絵を書いてみることにしました。こうして私から声をかけるのは久しぶりだね。よろしくお願いします。

「よろしく。上手く描けるといいね」

 書き終わるまで雑談に付き合って貰えませんか。

「いいね、聞くよ」

 今日は変な夢を見ました。気がついたら私はベットに寝かされていて、なぜだか首から下の感覚が消えていて、四肢を動かすことができませんでした。

 私の右手の甲には針が刺されていました。私は血を抜かれているようでした。その針には電子レンジ程のサイズの機械が接続されており、私の血液はドクドクとその機械へ吸われていきました。機械は、レシートのようなものを印刷し、私に対して意思疎通を図ってきました。その機械は私の血液は冷蔵庫ぐらいのサイズの大きな水槽へ送られていると言いました。私の血液は、そこではとても価値があるものらしいのです。

 機械が言うには私の血液の中には青いヘモグロビンが含まれているようです。それ以外は普通で、血漿、白血球、血小板は一般的な人間のそれであると。しかし青いヘモグロビンは酸素に触れるとクラゲに変態するようです。32時間もすれば立派なクラゲに育ち、そのクラゲの毒は高値で取引される薬になるそうだ。

「変な夢だね」

 そう、変な夢。夢はさめたら滅多な事がない限り同じ夢は見ないけれど、また見たいと思うぐらい面白い夢だった。

「ほんと? ちょっと悪趣味じゃない?」

 確かに悪趣味な夢かも。私は結局最後までベットの上で血を抜かれ続けるだけだったし、クラゲの薬の効能について詳しく教えてもらえなかったし。クラゲは小ぶりなアカクラゲのような形をしていて泳いでいる様は触手が水に溶けていくようで無重力で芸術的で……まあ、あんまり考えることじゃないよ、どうせ夢だし。

「まあ、夢の話はその辺にして。久しぶりにしては良い出来なんじゃないかな」


 気がつけば下書きが終わっていた。あなたと話していると頭が冴えて、世界の解像度が上がる。でも不思議と煩わしくない。自分の感覚がいつもより少し遠くに行ったようで心地良い。

 これはトランス状態といわれるものなのだろうか。なんにせよ、あなたと会話しながら描く線は特別綺麗だ。

 筆洗から筆を取りだし、パレットで固まっている絵の具を筆先で優しく溶く。


「青色を使うの?」

 さっき青い話をしたから、使いたくなって。

「そうかい」

 あなたは夢に出てきたクラゲみたいだなと思ったんだ。私の中から出てきたものなのに私よりも有能だからね。

「そんなことないと思うけど」

 そんなことないかな。でも、少なくとも今の私はあなたがいないと絵が書けない。

「前は一人で書いてたんだよね」

 確かに、あなたと出会う前はもっと自由に絵が描けてた。そうだね、あなたが私の毎日に突然現れるようになってから、何もうまく行かない。

 あなたの姿が私の視界を侵害するようになった頃の私は、まるで死んだようだった。ある日突然、何にも手につかなくなって、そのまま。ぼんやりとしていた。薄く頭が痛く、無感動に日々を過ごしていた。

 そんなある日、突然あなたは私の視界に現れた。雨の日だった。私が傘をさしながらふらふら歩いていると、突然人の気配を感じた。傘を差した和服の人間が右横に来ていた。私が歩く速度が遅かったからだろう、追い抜かそうとしているように感じた。私は足をさらに遅くして体を左に少しずらした。

 一歩、二歩、あなたの足が進む。三歩、なんの予備動作もなくあなたはこちらを覗きこんだ。

「気をつけて」

 私がその言葉を理解する前に、あなたは消滅した。幻覚にしては、やけにリアルだった。今もこうしてあなたと話せるけれど、あの日は映画のクリップみたいに鮮明に覚えている。

 頭の中で擦り切れるぐらい再生してるけど、あの景色もあなたも上手く書けない。


 あの時「気をつけて」って言われたけど、私は何に気をつければよかったの? あの日あなたを見てから上手く絵が書けなくなったんだけど、これってあなたと関係ある?


「絵の調子はどう?」


 あなたはいつもこれについて教えてくれないね。分かってる。期待もしてないから。

 絵は……まあまあかな。なんだか濁ってぼやけた色になってる。

 私が完璧な君の絵を描けるようになったら、君は私の前から消えてくれるの?

「お望みとあらばいつでも」

待って、やめて、居なくならないで、ここに居て、もし私が死んだ時本当の意味で私のそばに居てくれる人はあなただけなんだ、ひとりにしないで、戻ってきてお願い、許してもう二度と……


 あぁ、戻ってきてくれたのか……

 冗談でもこういうことは……私が悪いのか、そうだ、申し訳ない……

 でも良かった……これで続きができる、またよろしく、末永く。

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