メガネくんはオレのことが嫌いらしい
黒い白クマ
メガネくんはオレのことが嫌いらしい
「……メガネくん、どうしたの?」
先程まできつい声で言い返してきた相手が不意に黙り込んだので、遠藤は掴んでいた彼のシャツの襟から手を離した。
ぐらりと傾いた体を慌てて受け止めて、彼を地面に座らせる。自分よりもよほど大柄な相手だ。半ば抱え込むように一緒にしゃがめば、彼の腕が力なく遠藤の肩を押した。
「はな、れてくれ、頼む、」
こちらを見上げた彼の、さっきまではつり上がっていた目尻がすっかり下がっていた。顔が赤い。苦しそうに呟かれた言葉に慌てて立ち上がって、数歩後ろに下がる。
「ちょっと、ねぇオレどうすればいい?」
「いい、から」
目の前で顔を真っ赤にしてしゃがみこむクラスメイトに、遠藤は困ったようにうろうろと歩き回る。自分が何かしたことは明白だ。彼を置いてこの場を去れるほど、遠藤は非情じゃない。でも離れろと言われた手前、何をしてやることも出来なかった。
「カミチャン呼んでこようか?保健室行った方がいい、」
「止めてくれ!」
養護教諭を呼ぼうかと歩き出しかけた足は、鋭い声で縫い留められた。振り返っても、しゃがみ込んだ彼の顔は見えない。
「保健室は、駄目だ」
「でも、」
思わず近寄った瞬間、彼が怯えたように顔を上げる。彼がなぜ遠藤に触れられたくないのかは分からないが、せめてすぐそこのベンチに座らせてやりたい。もう怒られてもいいや、と彼を立たせるべく彼の腕の下に自分の腕を通して持ち上げようとした時。
「ほんと、に、ひぁ、っあ……!」
耳元で弱々しく上がった声が、やけに熱を帯びていて遠藤は思わず動きを止めた。こちらを見る目が、甘く惚けている。
まずい。咄嗟に浮かんだ言葉だったが、遠藤自身何がまずいのかは分からなかった。
***
「ねぇメガネくん、オレの席どこか知ってる?」
昼休み。さっさと食堂で買ったパンを胃に収めて、次の数学の時間までに終わらせなければいけない課題と睨み合っていた時のこと。
ノートに落ちた影と微かに香った匂いに、山崎は顔を持ち上げた。一瞬、げ、という表情を浮かべてしまったのを慌てて笑顔で取り消しながら、彼は自分の隣の机を指さす。
「ここだよ。体育以外に来るの珍しいな、遠藤」
「うん、なんかそーいう気分だったんだぁ」
割合低身長の遠藤を見上げるのが少し不思議な気分だ。いつも彼と会うのは体育館かグラウンドが多いから、教室を背景に彼を見上げている構図は妙に居心地が悪い。山崎は気まずさを紛らわすように、ずれていない眼鏡のブリッジを押し上げた。
こちらをじっと見る遠藤の目線に気が付かない振りをして、山崎は手元のノートに視線を逃がす。話は終わったはずなのに、何かまだ用があるのだろうか。目がノートを滑って、頭に入ってこない。
誰か助けろよ、と山崎は胸の内でボヤく。いつもよく話す友人達も、遠巻きにこちらを伺っているだけだ。まぁ遠藤と積極的に会話しようとする生徒はいないので、助けが見込めないことくらい分かっていたのだけれど。
「メガネくんさぁ、」
「うん?」
「……んーん、なんでもない」
話しかけておきながら、遠藤はふるりと首を振って眉を下げた。そのまま示された自分の席に腰を下ろした遠藤をちらりと見て、山崎はほんの一瞬眉を寄せる。
その一瞬見えた不快さを示す山崎の表情に、遠藤は気がついていた。
なんとも言えないもやもやが腹の奥に溜まるのを感じながら、遠藤はこちらを頑なに見ない山崎を眺める。別に、その顔には慣れているのだけれど、山崎はその不快を必死に隠すからなんだか嫌だった。どうせなら他の奴みたいに、もっと露骨にその顔を向けてきてくれればいいのに。
遠藤は皆に嫌われている。
いや、怖がられている、が正解か。
気分屋で喧嘩っ早い。その小柄な体格からは考えられない位に手癖足癖が悪く喧嘩に強い遠藤は、二年生にして既に停学騒ぎを数回起こしている。特にこの間、先輩の腕を折った話が独り歩きしてしまったのが良くなかった。お陰様でここ数ヶ月は「怒らせたらやばい」と檻から脱走したライオンを見るような目を向けられるようになっている。
別に、カツアゲの現場を見たからお金を取り返してあげただけだ。力加減を間違えてうっかり折ってしまっただけだし、暴れた向こうが悪い、と遠藤は思う。お金はちゃんと取り返して元の持ち主に返したし。
ただ広がる噂に対して、カツアゲ被害者の少年の弁護は焼け石に水。加えてわざわざ訂正する気が遠藤に無かったので、彼は今、お手本のような腫れ物扱いを受けている。
その上、元々常に授業はサボりがち、体育にだけ欠かさず顔を出し、あとは気まぐれに教室にいたりいなかったりする彼は、皆から完全に浮いていた。触らぬ神に祟りなしとばかりに、彼と目が合うだけで皆目を逸らす。なのに、今だってクラス中が遠藤に注目している。
保健室でカミチャン――正しくは神堂先生――に絡むのにも飽きて授業に来てみたが、動物園の猛獣みたいな気持ちになって遠藤は机に突っ伏した。見世物みたいに見られるなら、まだ保健室でクロスワードをしていた方がマシだったかも。あるいは体育館に人がいなければバスケットボールを拝借しても良かった。そんなことをグダグダ考えながら、目線から顔を守るように腕で囲った。
とはいえ、遠藤はその居心地の悪さに気を病んでクラスに入りたく無くなるようなタイプの人間ではない。クラスメイトに興味はなかった。興味のない人間が自分をどう見ていようとどうでもいい話だ。ジロジロ遠巻きに見られると居心地が悪いことは事実だが、それが保健室に入り浸っている原因かと聞かれれば、答えはノー。
では何故授業に出ないか、と言えばそんなに難しい話ではない。教科書を見れば分かることを教わる気が起きないだけだ。
だから遠藤は一年の頃から体育だけ参加していた。体育は教科書を見るだけでは分からない。体を動かしてみないと始まらないから、遠藤は体育にだけ出る。意味があることなら参加する気が起きる、という至って簡単な理由だ。
他の授業は遠藤にとっては教科書さえ渡してくれれば不要なものであった。読めば分かるのに、何を教わるというのか。
事実成績は常に上位であるゆえに、大人も強く何かを言ってこない。否、大人も遠藤を恐れているだけかもしれないが。
兎角、遠藤は乱暴者で保健室登校の、立派な立派な「問題児」だった。
いつもそんな様だから、遠藤のことを見て顔を顰めるやつなんて沢山いる。そう、なんなら、顰めないやつはほぼいないと言ってもいい。だから、嫌われ慣れているはずなのに。でも、もやもやする。
メガネくんにこの顔されるとなんかムカつくんだよなぁ。遠藤は内心ぼやいた。
メガネくんと渾名で呼んでいるからと言って、別に遠藤と山崎は親しいわけじゃない。むしろ、遠藤本人はメガネくんの本名すら知らない。
メガネくんは、やけに野暮ったい、絵に描いたような四角い大きな黒縁眼鏡をかけている。彼の印象の八割をその眼鏡が持っていっているから、遠藤がメガネくんと呼んでいるだけだ。
加えて大抵マスクをつけているから、彼が眼鏡とマスクを外したら、すれ違っても気が付かない自信すらある。あとはいつも甘い匂いがするなぁ、くらいの認識。
初めて「メガネくん」と呼びかけた時に「……あ、俺?」の困惑の一言を付けつつ応じた山崎は、それ以降、遠藤にメガネくんと呼ばれれば律儀に反応している。反応してくれているので、遠藤はメガネくんの本名を覚える必要が無い。それに、他のクラスメイトと同様にどうでもいい相手だ。メガネくんはメガネくんであって、それ以上ではない。
それでも他のクラスメイトと違って、メガネくん、として個体認識しているのは、彼が遠藤に向けてくる「嫌い」が、他の有象無象が遠藤に向けてくるみたいな「嫌い」と違うからだ。
話せば普通に返事をする。なんなら、好意的な顔すらしてみせる。なのに、近づけばそっと距離をとり、話しかければ一瞬顔を強ばらせる。この取って付けたような「別に嫌いじゃないよ」という態度が気に食わないのだ。
「遠藤、そういや今日この列当たるぞ」
「えマジ?」
「多分お前三十六番だな。問題集は?」
「んなの家だし。提出今日じゃねーじゃん」
「はは、まぁな。でも当てられたら前で解かなきゃだぞ?」
「じゃあそんとき黒板で解くわ。メガネくん問題だけ見して」
ほら、こうやって「普通」に話しかけてくる。そのくせ、遠藤が「見せて」と体を乗り出せば、彼は少し、ほんの少し、身を引くのだ。
ムカつく。
遠藤はわざと身を乗り出して山崎の問題集を取り上げた。案の定一瞬引きつった顔は、直ぐに笑顔で隠される。
「三十六?」
「あぁ、多分」
「じゃー五と七も覚えとこ。ん、ありがと」
「凄いな、すぐ暗記できるのか」
「まぁこんくらいならね」
感心したように笑う笑顔に嘘は感じられない。でも、引きつっている。
中途半端に普通にしようとするくらいなら、皆のように遠巻きに見世物にしてくれていいのにさぁ。
何となくその笑顔から逃げるように、遠藤はまた机に突っ伏した。
遠藤が伏せたのを確認してから、山崎はそっとマスクを上げ直した。リュックからハンドクリームを取り出して、自分の首元に塗りつける。本物のオレンジよりも甘ったるい香料の匂いは嫌いだけれど、彼が隣にいるのなら、何かで誤魔化さないとやっていられない。チャイムの音に顔を上げた彼に気が付かれないように、山崎は詰めていた息を吐き出した。
予想通り三十六番を当てられた遠藤は宣言通り黒板で問題を解くことにしたらしい。解いてきた答えを書き写す生徒よりもよほど早く書きあげたが、隠す気のない計算メモに教師の小言が飛ぶ。合ってるからいーじゃん、と不服そうに答えた彼に、結局数学教師は黙って肩を竦めた。
「ザッキーは遠藤怖くねーの?」
「藪から棒だな」
数学が終わるなり、またふらりと教室から遠藤はいなくなる。途端に飛んできた友人二人に山崎は思わず苦笑いを浮かべた。
「牧原より余程話が通じるぞ」
「あは、マッキー言われてやんの」
「ひっでぇ!」
「大体、怖がる理由もないだろ」
教材を片付けながら山崎が牧原に肩を竦めて見せれば、野田がでもさ、と声を落とした。
「ザッキー、遠藤のこと苦手だろ」
思わず、山崎は手を止めた。
「野田には、そう見えるか?」
「うん。なんか、避けてるように見える」
「そんなつもりはないんだが」
「そう?俺らみたいに怖がってるようには見えないけど、関わりたくは無いのかと思ってた」
あまり深堀して欲しくない話題に、山崎は言葉を探す。そう、確かに、苦手だ。でも、別に遠藤のひととなりが問題な訳ではなくて。
ちょうど良く鳴ってくれたチャイムにあやかり、この話題を有耶無耶にするべく野田と牧原を彼らの席に追い払う。不安げな野田の目線には気が付かないふりだ。
ため息混じりに隣の空席を見やって、山崎は眉を下げた。野田の言うように見て分かるのならば、遠藤本人にも避けていることは伝わっているのだろうか。だとしたら非常に、悪いことをしているような。
尾ひれに背びれにつきまくって魚種の変わりかねない噂は信用ならない。そういう類の噂は耳にしてもいつも聞かなかったことにする山崎にしてみれば、遠藤はごく普通のクラスメイトだ。まぁ、すれ違うと血の匂いがすることがあるのは事実だが。
いくら血の匂いがしようと、山崎は直接遠藤に殴られたことはないし、喧嘩を見たこともない。つまり避ける理由はない。もし避けていると気が付かれているのなら、それは相手を不快にするだけの迷惑行為。止めなくてはならない。
ならないんだけど、と山崎はもう一度ため息をついた。本当に、遠藤のひととなりの問題では無いのだ。問題はただ一つ。
彼が保健室に入り浸っていること、それだけなのだから。
***
ガシャン、となにか金属質の物が落ちるような音がした。続けて、人の呻き声。ビルとビルの隙間、大抵不良が溜まっているその路地から聞こえた音に、山崎は少し躊躇する。
面倒事は嫌いだ。制服姿の今不良に絡まれれば、学校に連絡がいきかねない。出来ればこのまま恙無く家路につきたかった。でも、不良の喧嘩じゃなかったら?身動きが取れなくなっている人などがいたら目覚めが悪い。山崎は眉をひそめながら、聞いてしまったものは仕方ない、と足音を立てないように狭い路地を進んだ。
少し歩くと右側のビルが途切れて、駐輪場らしいひらけたスペースに出た。辺りがやけに鉄臭い。目に入った一人立っている後ろ姿に見覚えがあって、考えるより先に思わず声が出た。
「遠藤?」
「あれぇ、メガネくんじゃん。どしたの?」
「いや、音が……」
聞こえて、と続ける前に音源を見つけて思わず苦笑いを浮かべる。遠藤の足元には、お手本のような鉄パイプと他校の制服の男が二人、転がっていた。
「ねぇメガネくん飲み物持ってる?喉乾いたんだけどこいつらのせいでペットボトル破れちゃったぁ」
転がっている男のうち一人の背中を思い切り踏みつけてから、遠藤がニコニコと笑みを浮かべて近づいてきた。落ちていた見覚えのあるリュックを拾って渡してやりながら、山崎は首を傾げる。
「破れた?」
「そぉ、アレ」
遠藤が指さす方を見て、山崎は目を瞬かせた。ひしゃげたお茶のペットボトルが転がっている。
「棒、受け止めたら破れた。ウケんね」
「……お前、ペットボトルだけで応戦したのか?二人に?」
「ん?うん。だって手に持ってたし。飲もうとしたとこだったのに、最悪ぅ」
むくれた遠藤の顔を見やって、この表情だけ見れば随分と可愛いんだが、なんてずれたことを考える。遠藤の見てくれは大層可愛らしいのだ、元から。ただそれも足元に伸びた不良がいれば台無しだが。
山崎は彼に渡すべく、自分のリュックから水筒を取り出した。が、視界の端で動きを捉えて眉を寄せる。気が付かないふりをして、小さく口を開いた。
「遠藤、三秒数えてしゃがめ」
低く呟かれた山崎の声を拾って、遠藤がきっかり三秒後に身をかがめる。山崎が思い切り手に持った水筒を振れば、遠藤の真後ろまで来ていた男の横っ面にそれがめり込んだ。呻いて男が倒れる。立ち上がって遠藤が口笛を吹いた。
「やるね」
「どうも」
そのまま水筒を遠藤に渡せば、彼は気にすることなくそれを開けて飲み始める。伸した男が完全に気絶していることを確認して、山崎はもう一人の方も足で転がして顔を上に向けた。指紋は残したくないな、と思いながら顔を覗き込む。こちらも気絶しているとみていいだろう。
「正当防衛だよな?」
「うん、殴ってきたのはそっちが先」
「ならまぁいいか……こういうのって通報したほうがいいのか?」
「んー、オレは大抵転がしとくけど。気になるならそこに交番あるから言っとく?サイトウさんなら顔見知りだし」
「なんで顔見知りなんだ……」
「なぁいしょ」
なんとなく予想はつくものの肩を竦めて、山崎は遠藤の後について交番の方に向かう。歩きながら遠藤が振り返って、手に持った水筒を差し出した。
「あんがと」
「あぁ、もういいのか?」
返された水筒を受け取ろうとしたら、腕を引かれる。バランスを崩してよろければ、鼻が当たりそうな距離に遠藤の顔があった。前屈みのまま驚いて固まる山崎を見て、遠藤は機嫌良さげにへにゃりと笑った。
「今日はメガネくん、オレのこと嫌いじゃないんだ」
「……え?」
「んふふ。だっていつもは近づいたらすぐ後ろに下がっちゃうでしょ?」
「そ、れは……気づいてたのか」
遠藤は、申し訳なさそうに眉を下げた山崎の腕を離す。喧嘩を見られた時は益々距離を取られると思ったのだが、思いのほか彼は肝が据わっているようだった。むしろ距離が詰まったようで、遠藤は嬉しかった。
「なんで今日は平気なの?」
「……今は血の匂いが濃いから、気にならないんだ」
「え?」
言葉の意味が分からなくて、遠藤は首を傾げる。
「いや……なんでもない」
聞き返そうとしたけれど、山崎は遠藤が何か言う前に足を早めて交番の方に向かってしまう。もやもやした気持ちを持て余しながら、遠藤も慌ててその背中を追った。
***
「カミチャン、そんなガチガチにしなくても平気だってぇ」
「駄目だよ、結構盛大に捻ってるんだから。それに遠藤くん、動かすなって言っても動かすでしょ」
先程、体育のサッカーで遠藤は手首を捻ってしまった。転んだ時に咄嗟に腕をついたら、頭は守れたものの手首に体重をかけてしまったらしい。捻ったし痛いのは事実なんだけれど、と遠藤は不服そうに自分の手を固定する包帯を睨んだ。
「湿布くせぇし暑い!」
「わがまま言わないの」
ムッとした顔をしていたが、乱暴に頭を撫でられて遠藤はへらりと笑った。
神堂先生は、遠藤を見て顔を顰めない数少ない人間だ。優しくないけど、遠藤を檻の向こう側から見てくるようなこともない。遠藤に普通の接し方をしてくれる大人は、学校には彼しかいない。
「遠藤くん、今日はどうすんの?六限は出ずにもう帰る?」
「んー……明日提出のやつここでやる」
「分かった。じゃ、いつもの机使ってね」
「はぁい」
利き手がこれだとやりにくい、と思いながら椅子を引いて何気なく窓の外を見やった時。ふいと横切った人影に、遠藤はあれ、と動きをとめた。
メガネくんだ。
どうしてこんな時間にここにいるんだろう、と遠藤は首を捻る。俄然、興味が湧いた。
「ねぇカミチャン、やっぱオレ今日もう帰る」
「そう?気をつけて帰ってね」
「うん、また明日ね」
リュックを掴んで、保健室を足早に出てから走り出す。保健室の横を通って向こうに行ったのならば、校舎裏の方だろう。確か、何の為かもよく分からないベンチがあるくらいの、何も無い場所だ。
次の六人限は、自分のクラスは教室で授業の筈。メガネくん、サボるようなタイプだったっけ?なんとなく気になって、遠藤は彼を探した。校舎の壁に寄りかかるように立っていた彼を見つけて、遠藤は足を止める。
「メガネくん」
「……遠藤?」
どうしたんだこんな所で、と山崎が読んでいた本を閉じる。珍しくマスクをしていなかった。
「メガネくんこそどうしたの?」
「どうした、か。うーん……お前と同じだと思うぞ。サボりだ」
珍しいねと言おうとして、遠藤は結局口を閉じた。いつも教室にいない自分は、山崎がちゃんといつも授業に参加しているかなんて知らない。ただのイメージだ。それは、遠藤が嫌いなものと同じ。
「あれ、メガネくんもしかして具合悪い?」
「……あぁ、うん、ちょっとな」
遠藤の言葉に、山崎は誤魔化すように笑みを浮かべた。
そう。遠藤の言う通り、山崎は今具合が悪い。だからサボっていたのだ。酷く頭痛がしたから、外の空気でも吸えばマシになるかと思って。山崎は目を泳がせた。何も知らない遠藤が次に言う言葉は予想できた。
「保健室行けばいいのに。具合悪いって言えば帰れるよ」
予想通りの言葉。それが出来たらサボりなんてしない。
「いや、そこまでじゃないよ」
「でも、」
数歩、遠藤が山崎に近づく。
いつもよりも強く遠藤から香ったそれに、山崎は思わず彼から離れるように不自然に動いた。遠藤の顔が不安に歪むのを見て、しまったと思うがもう遅い。
「今日は、オレの事、嫌い?」
「違うんだ、これはお前のせいじゃ、なくて」
「じゃあなんで?校舎ではオレと話したくないの?誰かにオレと話しているところを見られたくないから?だから、校舎の外なら話してくれるの?」
畳み掛けるように聞かれた言葉に、山崎はただ首を振る。
「違う、違うんだ!やめろ遠藤、ほっといてくれ、こっちに来るな!」
もとより背中は壁に預けているから、逃げられる場所なんてたかがしれていた。近づいてきた遠藤が、山崎のシャツの襟元を掴む。
「離せよ遠藤!」
山崎は遠藤の腕を掴んで己から引き剥がそうと力を込めた。でも、喧嘩慣れした遠藤はビクともしない。お返しとばかりに細身の腕から考えられないほどの力で下に引かれて、山崎は体勢を崩した。
この間路地で会った時のように、目の前に遠藤の顔があった。鼻が当たりそうな距離。怒っているような、泣いているような声で、遠藤が吼える。
「どうせ嫌ならもっとちゃんと避けてよ!メガネくんが中途半端に優しくするから、だから、」
違うんだ、と叫ぼうとして開けた口からは、いやに熱を孕んだ息だけが落ちた。襟元を掴む遠藤の腕は、怪我でもしたのか、包帯が巻かれている。そこから強く伝わる保健室の匂い。ただでさえ彼はいつも、薬と消毒液の混ざったあの匂いを纏っていて、近づくことを避けていたのに。この距離で、しかも、今は人もいないからとマスクを外していた。
嫌な記憶の蓋が叩かれる。
頭がギシギシと痛む。
脳で反響した低い男の声が。
瞼の裏でチラついたカーテンの景色が。
瞬時に回った熱で、視界がぐらつく。
「……メガネくん、どうしたの?」
遠藤の手が離れた。体に力が入らずによろければ、彼が慌てて山崎の体を受け止める。触れた体温に心音が上がる。勘違いするなと必死に自分に言い聞かせながら、遠藤の肩を押した。
「離れてくれ、頼む、」
なんとか顔を上げれば、困惑した顔の遠藤と目が合う。あぁまただ。彼を見上げているのが不思議な感覚だった。離れていく体温に縋りそうになるのを、自分を抱いて堪えた。体中が熱い。
「ちょっと、ねぇオレどうすればいい?」
「いい、から」
「カミチャン呼んでこようか?保健室行った方がいい、」
「止めてくれ!」
思わず叫んだ。それだけは駄目だ。今あそこに踏み入れたら、確実に。
「保健室は、駄目だ」
「でも、」
足音がまた近づく。来るな、と必死に睨みつけるが、彼は止まらない。ただ心配してこちらを見るその目を見るのが辛くて、山崎は固く目をつぶった。
立ち上がらせる気なのか、腕が触れる。なかば抱き込むように体に回った腕から伝わった他人の体温が、あぁ、駄目だ、誤魔化しが効かない。
「ほんと、に、ひぁ、っあ……!」
拒絶を示そうとしたはずの山崎の手は目の前の相手に縋った。媚びたみたいな声が零れるのが止められない。もう駄目だ、気が付かれてしまう。離れろ、とどんなに命令しても、刷り込まれた熱が浅ましく相手を求めて言うことを聞かなかった。
「……ねぇ、どうすれば楽になる?どうして欲しい?」
耳元で呟かれたテノールは、こちらの熱が伝染したのか、それとも自分の脳が勘違いをしているのか、やけに甘い。
「この、まま、少しだけ……すまない、が……」
匂いはトリガーに過ぎない。一度スイッチが入ったなら、例え遠藤がすぐそこにいたとしても今の波をやり過ごせば大方収まるはずだ。そうしたら、ちゃんと説明して、離れてもらえばいい。
腕に力が上手く入らない。崩れそうになる体が、思いのほか強い力で抱き止められた。
「他には?何か出来るなら、教えて」
殆ど働かなくなった山崎の頭には、それは酷く魅力的な言葉として響いた。顔を上げれば、彼と目が合う。髪と同じ焦げ茶の瞳が、どろりとした熱をもってこちらを見ていた。
「……キス、して……欲しい、」
途端に影が差した視界と奪われた呼吸に、ようやく五月蝿い声とチラついていた景色が散った。
***
ほとんど聞き取れないほどの声量で呟かれた言葉に従って、遠藤は彼の口に噛み付いた。すぐに舌がこちらの唇を舐めたのに少し驚いたが、素直に受け入れてやる。
なんでこうなってるんだっけ。
てゆーか、なんで嫌じゃないんだろ。
遠くで六限開始のチャイムが聞こえる。眼鏡のフレームが当たるのが邪魔で、片手でそれを取り上げた。片手で取るとフレーム歪んじゃうんだっけ、なんて後から思ったけれど、山崎が気にする素振りを見せなかったのでいい事にする。
山崎は完全に座り込んでしまっていたから、中途半端に右膝だけ立てた状態で彼を抱えている遠藤の方が彼を見下ろしている。なんか首痛いな、と思って姿勢を変えれば、薄く開いた彼の目と視線が絡む。すぐに伏せられてしまったけれど、一瞬光ったその灰色がかった瞳が綺麗で。
まずいな、ともう一度脳裏で呟く。
今度は何がまずいのか遠藤にもよく分かっていた。相手はどうみたって普通じゃない。だから、これは事故だ。なのに、乗せられてる。分かってるのに、この状況に甘んじてる自分に驚いた。
おかしいな、オレそんなに飢えてたっけ?
流石に息が苦しくなって、そっと彼の体を支えながら口を離す。一瞬目線が絡んだ後、ふっと彼の体から完全に力が抜けた。
「ぅお、メガネくん大丈夫?」
手に持った眼鏡を死守しつつ彼の体を受け止める。揺すっても反応がない。
「えっ待ってメガネくん熱くない?熱!?えちょ、ど、どうすんのこれ!?」
暫くあわあわと視線を動かしていたが、人のいないここではどうすることも出来ず。嫌だと言っていたことは気にかかったが、病人をどうするかなんて遠藤の脳には選択肢が一つしかない。そもそも遠藤が咄嗟にヘルプを頼める相手は、この学校に一人しかいないのだ。
「カミチャン!助けてぇ、メガネくんが倒れた!」
両手が塞がっていたのでげしげしと保健室のドアを蹴れば、中から神堂が顔を出した。背中にリュックを、肩に自分よりも大柄な生徒を担いで、サングラスのように頭にちょこんと眼鏡をのせた奇っ怪な来客に、いつも眠そうな目が大きく見開かれる。
「帰ったんじゃなかったの、ていうかファイアーマンズキャリー上手いね」
「そんなん今どーでもいいし!メガネくん熱出てんの!」
ぎゃんと吼えた遠藤を通す為にドアを大きく開けてから、神堂はようやく担がれている生徒が誰なのかに気がついたらしい。
「山崎くんかぁ……あー、分かった、とりあえずベッド……いや、ソファの方がマシかな」
ほらこっち、と神堂が示したソファに遠藤は山崎を寝かせる。テーブルに彼の眼鏡を置いてから、自分のリュックを床に放った。何故か引き出しから小さな瓶を取り出した神堂に、遠藤は首を傾げる。
「何それ、香水?」
「そー。もっと強い匂いがすればごまかせると思うから」
空中にひと吹きすれば、人工的な甘い匂いがたちまち部屋に充満する。他に誰もいなくて良かった、と言いながら神堂は遠藤の腕をとって包帯に強く吹きかけた。甘ったるい匂いに遠藤がちょっと顔を顰める。
「なんで?」
「ここの匂いがダメなんだってさ、山崎くん。消毒液とか……あと湿布とか?」
「あー」
自分の手首を見て、遠藤はそういえば痛めていたんだった、と瞬きする。思い出したら、割合無茶をした手首が痛んだ。固定してもらって良かった、とさっき神堂にぶつけた文句を頭の中で撤回する。ぜってぇ言わないけど。
「だから、彼本当はここに来たくないはずなんだよ。まぁ熱が出た子をほっとく訳にも行かないからしょうがないんだけど……冷えピタも駄目かなぁ、とりあえず氷か」
「ねー、匂いがだめってさ、その……」
さっき、彼の様子がおかしかったのもそのせいだろうか。聞いてみたかったけれど、どう説明すればいいか分からなくて遠藤は言葉につまる。氷嚢を手にした神堂はもごもごと口篭る遠藤を見て、腕を組んだ。
「遠藤くん、手ぇ出した?」
「はぁ!?」
「見たんでしょ?君ほんと隠し事下手だな」
君の手の湿布にも反応したんじゃないのと事も無げに言って、神堂は氷嚢を山崎の首元に置く。手ぇ出してないし、と言いかけた言葉はもごもごと口の中で消える。
「だ、ってオレのせいでなんか変だったし……頼まれたことしただけし」
「まぁ、僕がどうこういう話じゃないけどさ」
何とははっきり言わない遠藤の頭を軽くぺちりと叩いて、神堂は肩を竦めた。話すかどうか決めるのは本人だ。
「遠藤くん、山崎くんと家の方向同じだよね。起きたら彼のこと送ってあげてくれる?」
「そうなの?ならまぁ、別にいい、けど」
なんで知ってんのと呟いた遠藤に、避難経路でグループ分けするじゃん、と神堂は名簿のバインダーを示した。
「君ら二人とも印象的な生徒だから、色々覚えてんの」
「何それぇ」
「さてと、そんなことより遠藤くん。ちょっとクラス行って山崎くんの荷物貰ってきて。早退ってそこにいた先生に伝えときな」
「……はぁい」
話を逸らされ不満げではあったものの、割合素直に遠藤は保健室を出ていった。
神堂はその背に手を降ってから、遠藤の放ったリュックを拾ってパイプ椅子に乗せた。早退の為のプリントを埋めているうちに小さな呻き声が聞こえて、山崎が身を起こす。
「お、起きた?」
「……ここ、は、」
「ごめんね、保健室。熱出てたから遠藤くんが運んでくれたの。山崎くん、目つぶってな」
「すみません……」
「いいよ、君のせいじゃないし」
すぐに腕で目元を覆った様子に、神堂は少し眉を寄せる。
「山崎くん。言いたくなったら、言っていいんだからね」
「……はい」
何度か繰り返した会話だ。そして彼が言うことは、ない。多分この先も。神堂はプリントに視線を戻す。
「歩いて帰れそう?親御さん呼ぶ?」
「いや、大丈夫です、歩いて帰れると思います」
「遠藤くんに付き添ってもらおうと思うんだけど、それで大丈夫?」
「……あいつは、授業は?」
「どうせ出る気ないから、なんて僕が言っちゃダメかもしれないけど。でも一人で帰すのも心配だし」
「なら、お願いしようかな……」
起きれる?と尋ねれば、山崎は顔を覆ったままゆっくりと半身を起こす。空いていた掌に体温計を渡し、ソファに落ちた氷嚢を拾い上げた。
「熱が出た心当たりは?」
「……朝から頭痛はありました。体育後で酷くなったので、適当にサボってやり過ごそうとしたんですけど、遠藤に見つかって……まぁ、倒れたみたいですね」
適当に濁して答えれば、そう、と神堂は笑って頷いた。ピピ、と体温計の機械音が鳴る。
「37.6ね、まぁギリ微熱かな。帰って大人しくしてれば収まると思うよ」
「はい」
「ねぇー!メガネくんのリュック訳わかんねぇくらい重いんだけどぉ!」
バタンと音を立てて開いたドアから、遠藤が顔を出す。その音に目を開け、ごめんな、と山崎が笑えば遠藤が気まずそうに目線を泳がせた。
「起きたんだ。へーきそう?」
「あぁ、微熱だったよ」
「遠藤くん頑張って彼の荷物持ってあげてね」
「え、悪いですよ、」
「いーよぉ。こんなん具合悪いのに持ったらふらふらしちゃうでしょ」
遠藤は山崎のリュックを背負ったまま、自分のリュックを前に抱える。なんとなくこっちを見る山崎の素顔が見慣れなくて、遠藤は視線をずらした。
テーブルに置かれた眼鏡とポケットに入れていたらしいマスクをつければ、いつも通りのメガネくんの完成だ。遠藤は立ち上がった彼に、今度は視線を合わせて手を差し出した。
「はい。帰るよ、メガネくん」
「え、」
「ぽやぽやしてて転けそーなんだもん。じゃあカミチャン、また来週ねぇ」
「気をつけてね。山崎くん、帰ったら保健室に電話かけて」
「あ、え、はい」
問答無用で山崎の手をとって、遠藤は保健室のドアを開ける。
何も言わずに帰路を進む遠藤に、山崎はかける言葉を探して戸惑った。気遣ってくれているのか、歩くスピードは随分とゆっくりだった。
「……何も、聞かないんだな」
結局選んだ言葉は随分と言葉足らずで。それでも言いたいことは伝わったらしく、遠藤は振り返ってへらりと笑った。
「んー、元気になったら聞く。ねぇ今の熱もオレのせいだったりする?」
「いや、これは……今朝から具合は悪かったから……」
まぁ半分は酸欠のせいのような気もしたが、そもそもねだったのは自分だ。お前のせいじゃない、とだけ断言すれば、遠藤は呆れたように眉を下げた。
「メガネくん保健室無理なら、具合悪い時はちゃんと休みなよ」
「……うん、そうだな」
約束ね。それだけ言って遠藤はまた黙って歩き出す。曲がり角で次どっち、と聞かれながら山崎の住むマンションまで進んだ。
玄関先で荷物を下ろしてから、それじゃあ、と帰ろうとして遠藤はふと口を開く。
「そういや、メガネくんと一緒に住んでる人いつ帰ってくんの?一人暮らしじゃないでしょ?」
「あぁうん、両親と住んでるぞ。ただ、今日は二人とも泊まりなんだ」
「え?一人なの?大丈夫、じゃないよね?」
今も微妙に焦点のあっていない目で玄関の鏡に寄りかかっている山崎を見て、遠藤は眉を寄せる。一刻も早くベッドに行けと言いたい見てくれだが、家に人がいないんじゃあそうも寝ていられないだろう。
「まぁ、なんとかするよ」
「メガネくんさぁ、実は結構馬鹿だよね……」
なぜ突然馬鹿呼ばわりされたのか分からず瞠目する彼に、遠藤は肩を竦めた。
「メガネくんさえ良ければ上がってもいい?流石にふらふらしてるのほっぽって一人にするの寝覚め悪ぃ」
「え、悪いよ」
「メガネくんが嫌なら帰るけど。迷惑とかそういうのは無しね、今更でしょ」
「まぁ、確かに……お願い、してもいいか?」
正直一人だときつい、と小さな声で続ければ、いいよぉ、といつも通り間延びした答えを投げて遠藤は靴を脱ぐ。振り返って靴を揃える様に、案外お行儀がいいもんだ、と山崎は胸の内で呟いた。
「メガネくんとりあえず座って、ってオレが言うのも変だけど。解熱剤ある?」
「そこの棚だ。二段目」
「はぁい。コップこれ使っていい?」
「あぁ」
「薬飲む前になんか食った方がいいよね」
「お前の後ろにクラッカーの箱あるだろ」
「これ?」
ダイニングテーブルに座ったまま遠藤の質問に答えれば、手際よく薬の用意が進んでいく。渡された電話の子機から山崎が保健室に連絡を入れている間、遠藤はクラッカーの箱と格闘していた。上手く開けられなかったらしい。
ようやく開いた箱から袋を一つ取り上げて破りながら、これオレも一枚食っていい?と山崎が電話を切った瞬間に聞くものだから、思わず頬が緩んだ。覗く幼さに、甲斐甲斐しく言葉を重ねる様に、彼に抱いていたイメージがどんどん塗り変わっていく。
「むしろ俺は一枚でいいから残り食ってくれ」
「そぉ?あ、これ美味いね」
口元に差し出されたクラッカーを大人しく口で受け取れば、遠藤の手が離れる。なんだか餌付けされているみたいだ。
「勝手に台所使ったらまずいよね。夕飯食えそーならなんか買ってこよっか?ゼリーとかの方がいい?」
「あー……冷蔵庫のうどん食えって言われてるんだよな、賞味期限切れてるから」
「あは、何処んちもやっぱそういうのあるよね。オレもよくこれ食っといてーって言われるもん。じゃあ台所使っちゃっていい?」
「お願いしていいなら、むしろ頼む。親には後で話しておくよ」
多分使われても気にしない、と付け足してから解熱剤を口の中に放り込む。
「じゃあメガネくんは寝てて。今四時過ぎでしょ一……六時にご飯作って起こして、それでオレ帰るから」
「分かった。ありがとうな」
「いーの。あ、タオルとかある?冷やした方が楽でしょ」
「タオルはそこの棚だな」
「ん、分かった。一枚借りるよ」
山崎は、そんなに親しくない相手の筈なのにすんなりと家にあげてしまったことに今更ながら苦笑した。まぁ今になって警戒してもな、と思いながら立ち上がる。
「着替えてくる」
「んー、着替え終わったらベッド入んなよ、タオル持ってくから。部屋どこ?」
「廊下出て右」
「はぁい」
散々醜態を晒したからか、それともことある事に覗く遠藤の人の良さ故か、単に熱で自分の危機管理が馬鹿になっているだけか。随分と気を許している、というか許しすぎている自覚はあった。
とはいえ熱がキツイのも事実。今は人がいる状況に感謝して寝てしまおう、と部屋に向かう。部屋着に替えてベッドに潜り込めば、思ったよりも参っていたようですぐに頭が重くなる。キッチンで鳴る水音を聞きながら、山崎は意識を手放した。
「……くん、メガネくん、おーい」
軽く体を揺すられて、山崎はゆっくりと目を開けた。ぼやけた視界の中で、人の形を捉える。渡された眼鏡を大人しく受け取って、やっと視界がクリアになった。
「あれ、遠藤?」
「そだよ、寝惚けてる?メガネくん熱出したからオレがかんびょーしてんの」
「……あぁ、そっか」
「んふふ、すんげぇ髪ボサボサ」
伸びてきた手が優しく山崎の髪を撫でる。そのまま額に手を当てた遠藤は、満足気に頷いた。
「熱下がったっぽいね。ご飯食えそ?」
「た、ぶん」
「おっけー。とりあえずこれ水ね」
渡されたコップを反射的に受け取る。枕に落ちていた濡れたタオルを持ち上げて、起きられる?と遠藤が尋ねた。
「座って食えんなら座った方が楽でしょ」
「……うん、起きられると思う」
「ん、ゆっくりでいいからね」
そのまま彼は部屋を出て、ドアがパタンと閉まった。少しの間、山崎はぼーっと手に持ったコップを眺める。段々目が冴えてきて、彼は待てよ、と頭を抱えた。
俺、めちゃくちゃ迷惑かけてないか?
説明抜きに醜態を晒した挙句キスをねだり、気絶して、家まで送ってもらい、世話まで焼かれている。挙句の果てに夕飯の準備までさせてしまった。役満どころではない。今更ながら申し訳なさでいっぱいになって、山崎は一人頭を抱える。
水を飲み干して、のろのろと起き上がりダイニングのドアを開けた。ダイニングすぐ横のキッチンから遠藤が顔を出す。
「お、起きれたー?じゃあこれメガネくんの夕飯ね」
「ありがとう……なぁ遠藤、何から何までごめんな」
「いーよぉ。なんかよく分かんないけど、オレのこれが悪かったんでしょ?」
ひらひらと包帯を巻いた手を振る遠藤に、山崎はゆっくりと頷いた。
遠藤は己の包帯に視線を落とす。神堂が思い切り香水を吹きかけたお陰で、まだ人工的な甘ったるい匂いが山崎の苦手だという匂いを消していた。洗い物をした時に水に浸った筈なのに、随分とまぁしっかりかけてくれたものである。匂いを消してくれてありがとうと感謝するには、ちょっとフローラルが過ぎるのだが。
ダイニングの入口から動かない山崎に、座るよう促す。どっちが家主なんだか。ノロノロと彼が置かれた椀の前に着席したので、遠藤も彼の正面に座った。
「くったくたに煮たから多分食えるよ」
お粥みたいな感じー、と笑えば山崎が頷いて、彼の前に置いたうどんに手を伸ばす。まだ本調子ではないのか食べることに集中しているのをいいことに、遠藤はじっと彼を観察した。
素直に、いやむしろ積極的に、彼の無茶な要求を飲んだ理由。放っておけずにここまでお節介をしたくなった理由。多分、半分は罪悪感だ。もう半分はなんだろう。
「……中学の頃」
視線を椀に落としたまま、徐に山崎が口を開いた。
「うん?」
「養護教諭と、ちょっと、なんていうか……色々あって」
一度言葉を切って、また食べることを再開する。遠藤は黙って続きを待った。
「……それ以来、保健室が怖い。それから、匂いも。パニックになるし……、まぁ、うん。見ただろ」
何があったか、聞かなくても何となく分かった。同時になんとなく分かった自分が、遠藤はたまらなく嫌だった。
刷り込みか、自己防衛か。山崎自身にもいつから、どうして「こう」なったのかは分からない。初めてことが起きて、あいつが捕まるまでの半年の間に、いつの間にか紐づいていたらしい。
「保健室とか病院って、独特の匂いがするだろ。救急箱の匂い、っていうかさ」
「うん、分かるよ」
「あれもダメなんだ。だから、病院に行く時は他の匂いのきついもので誤魔化したりするんだが」
「香水とか?」
「そう。他にも、ハンドクリームとか」
「あぁ、だから時々メガネくんから甘い匂いがしたんだね」
遠藤が呟けば、山崎は目線を上げないまま頷いた。
「もしかしてさぁ……オレの服、匂いついてた?保健室にいつもいるし。てか、オレも自分で病院くせーって思うことあったもん」
「……あぁ。だから、避けてたんだ」
「そっかぁ……結構不便なんじゃないの?こういうの使えないってことだよね」
自分の包帯を再び見やって、遠藤が不安げに山崎の目を覗きこんだ。遠藤は傍から見ても怪我が多い。この間のような喧嘩をたびたびしているならば、遠藤には怪我の治療が出来ないというのはなかなか想像しがたい話なのだろう。
「怪我なら冷やせば大抵大丈夫さ。具合が悪い時も……保健室は視覚的にも苦手だが、病院ならまぁ匂いさえ誤魔化せばギリギリ耐えられるし」
「……やっぱ、メガネくん馬鹿だよ。めっちゃデカい怪我とかしたらどうすんの。入院とか出来ねーじゃん。全然大丈夫じゃないでしょ」
自分でも漠然と感じていたことを指摘されて、目線が逃げる。目線の端で、遠藤の顔がゆがんだ。
「ごめん。メガネくんのせいじゃないのに」
「……いや、その通りだよ」
しばし沈黙が降りる。気をそらすように、また一口運ぶ。遠藤は料理に慣れているのか、山崎が自分で作る夕飯よりよほど美味しかった。
「ねぇ、聞かれたくないことだったらごめんね、その……そいつ、今もメガネくんの中学にいんの?」
山崎は黙って首を横に振った。捕まった、という呟けば、遠藤がほっと息を吐いた。
「俺は、何も言わなかったけど、他の子がいたみたいで……それで、まぁ……映像は消したのかな、俺の所には、何も。俺も別に、話さなかったし。だから、俺の事はあいつと俺しか知らない」
「……親も?」
「知らない。匂いが駄目なのも、知らないだろうな。二人とも仕事で家にいないことが多いから」
食べ終わった椀をもって立ち上がりかけたのを、遠藤に制される。空の椀を奪ってキッチンに引っ込んだ彼を目で追えば、すぐに水の音がした。
「包帯濡れるだろ」
「いーの。オレ、メガネ君があとは夜寝るだけですーってなるまでいるからね。ていうか食べ終わったしオレ帰るから寝てね、っていうのか正解か」
「……ありがとう」
ちらりと確認すれば時刻は午後七時前だった。確かにこれ以上遠藤を引き留めるのは悪い。
隅に置いていたリュックを持ち上げて、玄関に向かう彼を追う。靴を履きながら、遠藤が低い声で呟いた。
「あの時、さ。言うこと聞かないほうが良かった?」
すぐにキスのことかと思い当たって、山崎は眉を寄せた。
「……あれは、俺が悪い。お前は悪くない」
「だぁから!メガネくんすぐに大丈夫とかお前は悪くないとか言うけど、そーじゃねぇんだって。メガネくんは嫌じゃなかったのって話!てかオレあんときメガネくんと違って素面だったかんね!オレはオレの意思でやったの!いい!?」
「お、おう」
立ち上がり振り返って、遠藤がぐいと顔を寄せて言い切った。勢いに押されて山崎が頷けば、満足気に笑う。
「で、メガネくんはオレにどうして欲しかったの」
「お、れは……あぁなったら、早いところ発散した方が収まるから、ありがたかったが」
「いつもそうなの?」
「あんなに人のすぐ側でパニックになったことはそうないからな。初めてだよ。だから俺自身よく分からない」
「……やな事思い出したりしなかった?」
不安げな表情に、ゆっくりと首を横に振った。むしろ頭の中でガンガンと五月蝿かった声が散って助かったくらいだ。
近距離に人がいる状況でパニックになったことは、今回が二回目。一度目は神堂に見られたが、収まるまで離れてもらっていた。遠藤だから大丈夫だったのか、元々そういうものなのかはよく分からない。とりあえず、確かな事として。
「遠藤なら、大丈夫」
「……メガネくんそれさぁ……あ゛ー、まぁいいや」
何か言いたげな様子ではあったが、遠藤は苦笑いを浮かべて黙りこんだ。少しの間の後、じゃあさ、と彼がゆっくりと話し出す。
「オレに慣れたら、マシになったりする?」
「え?」
「嫌な思い出とくっついてるから駄目なんでしょ。オレもいつもおんなじ匂いするなら、保健室じゃなくてオレの匂いだと思えるようになれば平気かなーって、あれ?待って待ってなんかオレ結構気持ち悪いこと言ってる?」
わたわたと焦りながらなんて言えばいいの、と言葉を探す遠藤に、山崎は思わず尋ねる。
「なんで、そこまでしてくれるんだ」
「なんでって……だって、このままじゃオレ喧嘩の後か香水ぶっかけた後しかメガネくんと話せねーじゃん」
遠藤は答えた。キョトンとした顔で、さも当然、といったように。言いようのない気持ちが頭の中で渦巻いて、山崎はただ、そうか、と掠れた声で答えた。
「じゃあ、治すの、手伝ってくれるか」
「ん、オレに出来ることなら。じゃあ、メガネくんは鍵閉めたらちゃんと寝るんだよ」
「あぁ」
幼子に言うように言ってから、彼が玄関のドアを開けた。閉じる直前、隙間から彼がへにゃりと笑う。
「また月曜ね」
「またな、遠藤」
やけに甘ったるい香水の匂いが残った玄関に、山崎はしばし突っ立っていた。我に返って、鍵を回して、言われた通り大人しくベッドに戻って。なんだか考えなきゃいけないことがたくさんできたような気がしたけれど、本調子じゃない脳味噌はあっという間に夢に掴まった。
一方マンションを出た遠藤は、自身のスマートフォンを引っ張り出して顔を顰めた。慣れた手つきでタプタプと着信履歴に折り返しをかける。
「とぉちゃん、オレもう十七歳だしまだ十九時時なんだけど!着信十件はえぐいって」
『良かった生きてた!』
「会話のドッチボールやべぇ一」
ものの十分で家に着くのだからわざわざかけなくても良かったかな、と後悔しながら帰路を進む。心配症の主夫は寄り道するなら連絡してよぉと耳元でクレームを入れてきた。
『またどっかで喧嘩してるのか何かに巻き込まれたのかと思ったよ。友達と遊んでたの?』
「そーじゃなくてぇ」
『じゃあ、何してたの?』
「んー……」
どこまでちゃんと言おうかな、と逡巡して、結局口をついたのは。
「恋してたぁ」
『そっかぁ……え?』
「うん。じゃー切んね、十分くらいで帰るし」
『……え待っておかしくない?え?聞き間違い?』
「ばいばーい」
ぶちんと一方的に通話を終わらせて、遠藤は一つ伸びをした。
うん、恋だね、恋。
罪悪感以外の残りの半分に名前をつけることに成功して、遠藤は上機嫌で家に駆け出した。
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