犬ごっこ

かんのまなぶ

なんてイイ女

 ヤバい。なんてイイ女だ、どうしよう…。道を挟んだ通りの向こう側、スキンヘッドのパンクファッション、最高にカッコいい女がタバコを吸いながらバスを待っていた。彼女に近づきたい一心で横断歩道のシカトを決めたその瞬間、最悪のタイミングでバスがバス停に到着してしまった。俺からバス停までは、まだ数メートルの距離がある。

 スキンヘッドがバスに乗り込んだ。パンクファッション出発進行。もう俺は、なりふりなど構う事なく道に飛び出して強引にバスの行く手を遮った。

 運転手の気でも違ったかのようなクラクションの乱れ打ちの中バスストップに成功した俺は固く閉ざされた自動扉を手動でこじ開け躊躇う事なくバスに乗り込み女に愛を告白した。瞬間にもう、この恋は始まっていた。

「おねえさんカッコいいねぇ。いい頭だな。今から一杯奢らせてくれないかなぁ」近くで見るとすぐに分かったが彼女のスキンヘッドはシェービングによる作り物では無く元々髪の毛が生えていない天然のナチュラルシャイニングだった。

「ほんと?ありがとう。お兄さんも超カッコいいよ。初対面なのにゴッド級にノリがイイじゃん。超ファンキー超ファンク、パないね、パない」

 パない?言葉の意味は不明だったが、そんな事はノー問題。彼女のカッコよさと可愛らしさに完全に心を奪われた俺は夢中で彼女に話し続けた。

「どうする?どこに飲みに行く?この辺で、どっか行ってみたい店ある?」

「店なんてどこでもイイよ。でも、こんな町外れじゃあ飲むって言っても、この時間ラーメン屋か蕎麦屋ぐらいしか無くない?酒飲めるトコ」まだ、昼の十二時を少し回ったところだった。

「大丈夫。滅茶苦茶旨い焼肉屋で昼からやってるトコ知ってるから。チェーン店のランチじゃないぜ。老舗の最高級店だぜ」

「いいねえ。だけど私、そんなにお金ないけど」

「奢るって言ったじゃん。大丈夫、金の事なら心配するな。昨日競馬でバカ勝ちしたから」

「凄ーい、チャンピオンだね」

「チャンピオンだよ」

 彼女の名前は虎美。虎美は俺の事をチャンプと呼んだ。チャンプだなんて、そんなオシャレな。正直に嬉しい。チャンプ、チャンピオン、子供の頃からそう呼ばれるのが夢だった。

 チャンプの響きに心酔しながら食べる焼肉、飲み干す生ビール、目の前には最高にイイ女。俺は完全に有頂天。競馬のチャンプ、焼肉のキング、二千円が五万円。俺は全てを手に入れた。

「虎ちゃん、ホラホラもっと食べなよ。すいませーん、カルビ二人前追加でー。あと生もー」虎美は酔うにつれて色々な事を俺に聞いてきた。

「いつも、こんな高いお店でご飯食べてるのぉ?」

「お金持ちなんだぁ」

「独身なの?」

「彼女いないのぉ?」俺は全てその通りだと答えた。まあ、全部嘘だけど、そんなの全然問題ない。だって俺は競馬のチャンプ、焼肉のキング、財布の中には心強い大金四万五千円ものユキチとソウセキが重なり合っている訳だし特攻隊のジャラ銭部隊にだって特攻隊長の五百円玉が複数枚紛れ込んでいた筈だし…、大丈夫、俺って完璧だ。俺達二人は食いまくり飲みまくった。ウーロンハイだけでも二人で三十杯ぐらいはいっただろう。そんなに飲むなら最初からボトルとティーで頼んだ方が安かったかな、なんて、一瞬だけ思ったりもしたけれど、俺はすぐに自分を立て直した。小さい小さい、俺はチャンプ、そしてキング。細かい事を気にするような小さな器はとっくの昔に叩き壊した。

 さすがに少し気になってきた。持ち慣れない大金を持ち歩いた万能感からか、初めて入った料金設定もよく分からない高級感あふれる焼肉店で少々暴走ぎみのオーダーをしてしまっている気がしないでもないのだ。

 胸騒ぎがする。一刻も早くこの店を離れなければ。これ以上の追加オーダーは致命傷にもなりかねない。チャンプの胸騒ぎをよそに虎美は生グレープフルーツサワーを大ジョキで注文した。

「よく飲むねぇー。虎ちゃんの飲みっぷりを見てたら、俺ノって来ちゃったよ。そろそろ焼肉やめてカラオケでも行かない?」

「いいねえー、カラオケ超久し振りいー。じゃあ、これ飲んじゃうね」虎美は大ジョッキを三口で飲み干した。しかし、カラオケとは…、苦し紛れの状況の中、我ながら良く出てきたナイスアイデアだ。

 俺はこの辺りの土地勘に明るい。料金設定格安な上に何百円かをプラスするだけでドリンク飲み放題になるカラオケ店を知っている。カラオケ、うまく行けばその後ラブホ。トータルパッケージで考えた場合ここの焼肉屋の支払いは何んとしてでも三万円以内に抑えたい。確かにココの焼肉は旨い。だが、いくら美味しいからと言っても支払いが二人で三万を超える事はないだろう、と、最初は俺も思っていた。しかし、虎美の食いっぷり、飲みっぷりを見ていると「さすがにコレはちょっとマズいんじゃないか」とゆう気がしてきてしまったのだ。確かに半分は俺が飲んだ、食った、しかし、それにしてもだ。

 これ以上の長居は危険と判断した俺にとって咄嗟に出た「カラオケ行かない?」は苦し紛れとしてはかなり上出来でホームランをかっ飛ばしたとまでは言わないけれど犠牲フライでランナーの一人ぐらいはホームベースに返せたと思う。

 支払いは三万五千円だった。微妙だ。「ごちそうさまー、おいしかったー」と明るく笑う虎美の無邪気さに少しだけ腹が立った。しかし、店の外に出て、そんなダサい気分は一気に吹っ飛んだ。外が明るい、そうだ、まだ昼間だったんだ。ラブホもカラオケも夜より全然お安いじゃん。

 しかし、喜びも束の間、すぐさま違う不安が俺を襲った。時間との戦い、次の対戦相手はタイムだ。

 時計の針は二時四十分を指している。カラオケは最低二時間はする物だし、そもそもラブホの昼間料金って何時までだったっけ…。実はもう既にサービスタイムは終了しているなんて事になってはいないだろうか?仮に、まだ安い料金の時間帯だったとしてもカラオケ終わってから行って間に合う時間までやっているようなモノなのだろうか?さらに言えば、もう、かなり酔っている。カラオケでも酒を飲み続ける事は確実な訳で、そうなるとカラオケ大好き人間である俺ことチャンプが熱唱時間を延長してしまう可能性もゼロだとは言い切れない。カラオケを理由に焼肉から連れ出した以上は直でラブホに誘うのも、やはり少しカッコ悪い気がするし…、俺は一体どうするべきなのだろうか、焼肉屋で貰ったガムを噛みながらシュミレーションを繰り返した。しかし、どうせビールや焼酎ウイスキーで混濁した脳みそだ、そうそうにナイスなアイデアなど浮かんでくる筈も無く、いつしか俺は一切の思考を停止した。

 歌おう!もう歌うしかねえよ。俺は残りの財産一万二千円を全てカラオケで使う事を心に決めた。もういい。もういいんだ。面倒臭い事を思い煩っても何も始まらない。歌おう、飲もう、踊ろう、俺の覚悟が、今、決定した。

 俺は歌った。踊った。狂った。虎美もエナジー全開でチャンプのハイテンションにガブリ寄って来る。俺達は弾けた。二人は時に優雅にデュエット。そうかと思えばパンクロックで丁々発止。二度目の一時間延長も終盤に差し掛かり俺達二人のスパークリング・フラッシュは四時間目に突入しようとしていた。ビーバス&バットヘッドのTシャツにアルコールと焼肉の汗を浸み込ませている虎美に見とれていたら、虎美は俺の腕を取り、何故だか少し指を噛んだ。

 二度目のデートで俺は虎美に全てを打ち明けた。

 現在無職で全く収入が無いとゆう事。完全な家庭内別居では有るが一応戸籍上は妻帯者で有るとゆう事。前回大盤振り舞いが出来たのは競馬に勝った翌日だっただけの事で本当は金なんか全然無く今この瞬間も持合わせが三千円を切っているとゆう事。そして、何よりも本当に虎美の事を好きになってしまったとゆう事を。

「ふーん…。そうだったんだぁ」そうだったんだよぉ。ごめんね虎ちゃん。俺の告白を受けた後も虎美のピッチは変わらなかった。俺も黙って酒を啜った。

「そっかぁ、チャンプの持ち合わせが少ないんだったら今日は割り勘だね。私も五千円ぐらいしかないけどボトル飲みだったら結構飲めるよ」感激の余り、俺は思わずタバコを落した。

「どうしたのよ?早く注文しようよ。すいませーん!一番安いウイスキーをボトルでー。あと、氷もお願いしまーす」虎美の優しさに泣きそうになった。最高の女がここにいた。

「私の友達でジョニー・ディップにハマってる子がいてさぁ。もう凄いの病的なの、空港まで見に行っちゃうしさぁ。そこまでカッコいいかなぁ?」

「あー、カッコいいんじゃない。男のファンも結構多いよ」

「でもさぁ、ウィノナ・ライダーと付き合ってた時タトゥーで名前彫っちゃったんだよ。私は苦手だなぁー、そうゆう人」

「だけど、友達にすらコソコソ隠して自分の彼女を紹介しない奴なんかよりは全然まともな発想じゃない?」

「そっかぁ、それもそうだよね。私にも似たような事たくさん有ったよ。彼氏の友達に会社の同僚だって紹介されたり、外に出る時は絶対に帽子を被れって言われたり」

「なんだよそれ。なに言ってんだソイツ。連れて来いよ、ブッ飛ばすから」

「でもさぁ、しょうがないよ。私、頭こんなだし」

「いい加減にしろよ。こんなって何だよ?言っておくけどさぁ、君は本当に綺麗だよ。虎美は本当に綺麗なんだよ」

「いやぁ、私はいいのよ、もう慣れてるし。人からどう見られてるかなんて気にしない。でもさぁ、やっぱり嫌じゃない?彼氏としては。だから、最初に帽子を被れって言われた時に私は思ったのよ、自分を偽りたくないとか、そんな自己中な自意識で付き合っていた彼氏に恥ずかしい思いをさせてたんだなぁって。帽子を被れって言われるまで相手の気持ちに気ずかなかったんだもんね。そんな事を言わせちゃうなんて、言う方も嫌だったでしょうよ」

「バカったれてんなよ!バカったれて」

 俺は虎美を抱しめた。そして二人は最初のキスをした。場末た居酒屋でのファーストキス。虎美は、つまみで頼んだブリ大根の味がした。

「結婚しよう。俺達今すぐ結婚しよう」

「えっ、ちょっと待ってよ。早いから、それ、いくら何でも早いから」

「早いとか遅いとか言うなよ。時間をケチったら未来が壊れるぞ」

「いや、遅いは言っていないから。でも、いくら何でも今すぐなんて無理だよ」

「どうして?結婚できない訳でも有るのか?訳有りなんだったら二人で乗り越えようぜ。やれるって、俺達だったら出来るって」

「いやぁ…、だってさぁ」

「何だよ?何でも言えよ。俺に相談してくれよ」

「いやぁ、だからさぁ…」

「なんだよ!」

「君、結婚してるじゃん」

「・・・・・・・・・・」

 一本取られてしまった。そうそう、そうだったね。訳有りなの、俺の方じゃん。まあ、それとは別に「飛躍しすぎだって」「付き合っても無いのに結婚なんて有り得ないでしょう」とゆう、至極全うな理由によって今回の結婚話しは破談になった。

「今日の所は分かったよ。でも俺は絶対に諦めないからな」

「ありがとねチャンプ。本当は私も嬉しいのよ、多分、私もチャンプの事好きだし。でもホラ、取り合えず今日は飲もうよ」虎美は俺のグラスにトリスを注ぎ足した。楽しい夜。俺達は酒を飲んだ。

 妻との離婚についての話し合いは驚異的なスピードで進行した。と、ゆーか、ワイフの方は、もう何年も前から自分に離婚を迫って来ていて、今の今まで大した理由も無いのにダラダラとはぐらかしていた自分が離婚するとさえ言えば簡単に成立する話しだったのである。

「うん、そうと決まったら、なるべく早く出て行ってね」

「えっ、いやぁ、あのさぁ、一応この部屋の名義は俺になってる筈なんだけど」

「はあ?あんた何言ってんの。家賃も光熱費も、もう何年も私が払ってたじゃない。あんた知らないだろうけどさ、先月この部屋更新だったから。払っといたから、私が。わ・た・し・が払っといたから、更新代」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「どうせ慰謝料なんか払えないんでしょう?だったら身一つで出て行ったらそれでチャラにしてやるって言ってんのよ。分かったら、もう、とっとと出てってよ」

 元女子プロレスラーだった妻のドロップキックが俺のアバラにメリ込んだ。腕力では到底かないっこない。アバラの痛みを我慢しつつ、俺は何年も前から妻が用意していた離婚届に署名捺印をしたのち、スポーツバックにCD数枚、代えのシャツやパンツなどを詰め込んで住み慣れた我が家を後にした。最後に、元妻から千円借りて。

「あのさぁ、最後の最後まで悪いんだけど、電車代っつーかバス代っつーか…移動費用、貸してくんないかなぁ…」

 俺は千円とは言わなかった。

 妻は俺に千円札を投げつけた。千円札は俺まで届かなかった。俺は床に落ちた千円札を拾い上げポケットにねじ込んだ。

 千円札をポケットにしまう俺を見ている元妻の横顔は窓から差し込む夕日を背に、逆光の中、とても強く、美しかった。

 アバラが…、折れていた。どうりで痛い筈ですよ。そりゃ、そうだよね、プロレスラーに蹴られたんだもの。たはははは、って笑ってる場合じゃねえんだよマジ痛え。俺は、虎美に借りた現金と友達から借りた国民健康保険証を持って総合病院へ駆け込んだ。街の外れで老朽化している虎美のアパートのすぐ近くの病院へ。

 病院のロビーで薬を待っていると若い男と手を繋いだ元妻が俺の前を通り過ぎていった。ドロップキックが得意な私の元妻。俺に気ずきもしないで楽しそうに目の前を通り過ぎて行った妻を見ながら、アバラ痛えんだよバカヤロウ、幸せになれよクソヤロウ、何て事を思いつつ俺は薬を待っていた。スポーツ新聞を片手に。

 病院から戻ると虎美はすでに仕事に出ていた。虎美は自分のアパートのすぐ近くで「スナック虎ちゃん」とゆうスナックを経営していた。カウンター席だけの五人も入れば満員になる本当に小さなスナックだ。

 虎美のアパートに転がり込んで今日で二日目。昨日も「スナック虎ちゃん」で朝の四時まで飲んでいたけれど、その間、虎ちゃんに来た客は俺一人だけだった。ちゃぶ台に乗っかっていた「お腹が空いたらお店に来てね」とゆう虎美の書置きに先導されるように小腹を減らした俺は昨晩に引き続きスナック虎ちゃんへと出掛けていった。

 虎ちゃんは昨日とはうって変わってカウンターびっしりの満員状態だった。手の平を顔の前で合わせて「ごめんねぇ」と口だけ動かした虎美に「大丈夫、時間潰してまた後で適当に来るよ」と告げて俺はスナック虎ちゃんの扉を閉めた。

 時間を潰すと言っても金は無い。当てもなく町をブラつくにはまだアバラが痛すぎる。行く当てのない俺は虎美のアパートに逆戻り前の家から持って来たCDの中からキャプテン・ビーフ・ハートのトラウト・マスク・レプリカをチョイス。焼酎を飲みながら瞳を閉じていた。

 ビーフハートと焼酎に心酔してると、ふいに虎美の家の電話が鳴った。人の電話に勝手に出る訳にもいかないので最初はシカトしていたが電話は全然鳴り止まず、何よりトラウトマスクが聞きずらくなって非常に嫌。俺は受話器に耳を当てた。

 電話は虎美からだった。電話の向こうで虎美はひどく動揺している。

「どうしたんだ虎美、落ち着けって。なに言ってんのか全然分かんねーぞ」

「栗原君が!栗原君がぁ」

「栗原君?栗原君って誰だよ?栗原君がどうしたんだよ」

「とにかく早く店に来てー」

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