「修羅。」~10代から20代に書いた詩
天川裕司
「修羅。」~10代から20代に書いた詩
「忘却。」
人は人の孤独に対しては、泣くかつよがるかどちらかだ。人目のない、しいて言えば神の目だけがあるその一人の部屋で、どのようにそこに在るか、それを自分の目と神の目から見てどのように映っているかをひたすら思う。クリスチャンで在りながら孤独を思うのは、悪い事か。私は一人煙草を吹かしながら、あることないこと、ひたすら思う。この世の中に在って、どちらかと言えば孤独を思う方で、日々、一人になってしまう事に覚悟を覚え、何もかもが一人という塊に行き着くものとその覚悟を大事にした。友達に会う時も自ずとどこかで線を引き、必ずその延長(さき)にいる。女も、その内に入る。俗に言う「独身」というものに、思いを放った一夜である。いつになってもその事は私を離してはくれず、唯、日々、思い煩う事だけを強(し)いてくる。今夜も、私はたった一人でこれをかき、自ずと人の在り方というものを空想している。この世の得体の知れぬものに、その身を落としてしまったようだ。まるで、唯、徘徊する事だけを強いられたこの人生のようだ。私はいつの日からか、その人生に身を投じてしまったのだ。
最近の子供達が皆そうだ。一人っ子のように生れて、危険から身を避けるべく、わざとその身をむなしいもののようにさせる。そしてそれを人に見せて自分もその気になり、ある程度の許容というものをその自分の内とまわりとに設けることをする。そこで新しい光を見つけようとするのか、けれど、その光だって、もとのあった過去からのものであると、気付く場合(コト)も多い。そうなると、唯の刺激欲しさからきた個人の内からの欲望だった、と新しい光(ミチ)を見つける事になる。そこでも人は思い煩うのか、「刺激」「刺激」できた故の忍耐力のなさから、己を歪めてしまう場合(コト)が多い。今日の、理由のない殺人というのがその歪みの内から出たものであるすれば、それは仕方のない事かも知れない。私もそこに身を置いた。私のその内からくるむなしさは、この世に存在する私のむなしさだと、吟味せざるを得ない。
「恋慕。」
その外れた恋の矢を、踏み石にして生きていかねばならなかった。その現実の所作に、或る男は無意味さを感じていた。
「白日。」
その男はしじゅう布団の上に置かれたノートの白紙を叩き続けて、その想いから、ささる矢を、上手くかわしていた。その嫉妬に狂う己が姿を眺めて、唯、ニヤリと嘲笑(わら)っていた。
「夢追い。」
...なんでもこの男、芸術を主流とする空想家らしい。
「恋愛。」
….
欲望から恋愛が生れ、その故に盲目になって、己が身を焼き散らしてゆく。一人で生れて来た故に、何故、他人(ヒト)が愛せるのか知れる筈がない。己が寂しさを埋め合わすためだけに、それを肴(アテ)にするのなら、その欲望を捨てるのが理にかなう。
「仄か。」
書いたあとのこの空しさ、もはや誰も救いに来ては呉れぬだろう。又、自分で片をつける事をし始め、大抵は、この身の現実への(あっせん)に落ち着くのだ。この詩を見て、誰かが泣いてくれるのならば、束の間にて喜び、その束の間が余りに身寒いものだと知り、その時の自分を悔やむのだ。人は詩を書いてさも空しさを知り、到底、遠く及ばぬ光の国へと手を伸ばそうとする。しかし、その身寒さがあとあとまで残り、この地に立っている一本の葦(ヒト)の事を思わせる。かんなん辛苦は人の間々(アイダアイダ)に生き残り、書く度に、絶対に消えはせぬ真っ黒の壁を現してくるのだ。ボオドレエルよ、人に教えてやれ。この世の苦行の有様がどのようなものかを。
「人跡。」
人はおしまいから自分を見て、冷静になることがある。それは、この現実への煩いから来るものであり、そこから脱出しようという本音(思惑)から来るものである。人は、自問自答を重ねて己というものを知ろうとし、この世への遠慮を覚える。そんな事をして一体何になるというのか、そう問えば、人はボオドレエルの空しさを知り、この真実へとかえろうとする。その煩わしき事をくり返せば、それはその人の癖となり、やみつきになる。一体、この世界は何なのか。人は生きている内で死ぬ事を知り、黄泉の国の事を思い煩う。あのニイチェの反ぎゃくも、わかり損ねた事のように人は見知り、この世と黄泉の国とに片足ずつを置くのを努めるのである。人は、生きながらに死ぬ。何度死んでも死にきれぬこの地で、人は又、哲学の文字を書き続けるのだ。
「落意。」
その純粋なる一瞬に、気が落ちたのである。
「跳躍。」
時間が過ぎ去れば、書いた事を重んじて、満足に浸る。
「ついとう。」
私は今、悲しみを惜しんで「沖田浩之」という人の遺胞の前にいる。死ぬ事は、かなしくないにしても、“自殺”がいけない。お前は、沖田浩之という人物は、私の前に、姿を現してくれた。その喜びを、消化できずにまだ、どんなものか、わからないままに、お前は勝手に、私の前から姿をけした。何故、一つも語ってくれなかったのか。何も語る事がないというのはあるわけのない事、何を語りたかったのか、言ってくれ。お前の、すぐ傍にいた友人達は、お前が死ぬわけがないということを、ひんぱんに、語っていた。語りながら、泣きながら。….私は、文章を上手くかこうと日頃、思うにしても、今このお前の遺胞の前では、何もそれが、浮かばない。“マスコミ”がとりつく、その半信半疑をさえ気にはするものの。それとは別(関係)に、お前という人間の死が、かなしい。何故、かなしいのか。よくわからない。
他人(ヒト)が、ものを語る、私も、ものを語る、だけど、何も、語れない。その一度の終りを、この世で見る事が、そんなにかなしいとは思わないけれど。手がぶるう。所詮、上手くもかけない。お前は、死を、どのように思っていたのか。「お前は、まさか、死んだ事がわかっていないのではないか.」しかし、それならば、この私をも裏切った事になる……。人の死を、幾人、見ても、皆、同じに見えるのだ。沢山でも、たった一つ。人間の前に、沢山の死は、一つのものである。文章の上手さ、出来具合いを考えてる内に、このかなしさも又、薄れてゆく。ありきたりだ。ありきたりだ。異法の事か。お前のした事は。….否、そんな事はない筈である。この汚れた、世間の中で、お前は、この世間に、“汚れ”を見たのか、他人(ヒト)と話していやす事よりも、死を選んだのか。“死の向うには、何があると思ったか?私は、つい、尾崎豊を思い出した。お前の死は、似ている。一つにしても、似ている。これから、華やかな王道が、あったように見えるのに、その自らの手で、つい、まちがえて、死というものを選んだのだ。言葉が、見つからない。それが妥協だろう。否、本音なのだろう。落ち着けない。何かに、気がはやる。
私は、明日、学校がある。又、いつものように、行かなくてはならないわけだ。ある事、ない事に、口を割りながら、明日から、又、他人(ヒト)に合わせる事を努める。果たして、何に合わせているのか。正直のところ、語る事が出来ない。これが、人の孤独というものなのか。寂しすぎる。こんなに、人の世間では華やかなのに、何故、寂しいか。どこへ行ってしまったのだ。お前という人間は。私の前から、姿を消して。しかし、ついに、この文章でさえ、かくのが疲れてしまった。ここら辺りでやめよう。この私の意図も、果たして、他人(ヒト)の心に、通じるのか。
私には、愛する人がいない。守る者だって、家族以外(両親)、他にはいない。その私が、こうして、生きているのだ。「つい、死んだ。」などと言われると、生来、とても、迷惑な話である。しかし、それさえも、受け継いで行かなければならぬ….。つらい、つらい….。お前は、何を自負して、何に死んでいったのか。自負するものが、何の、なかったのか。いや、….。
「修羅。」
一旦、又、ここで、脆弱(よわ)くなる。一度は、かぎりなく、修羅に近づけたのに…..。
「修羅。」~10代から20代に書いた詩 天川裕司 @tenkawayuji
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