復讐は季節をこえて

志村佐和子

第1話

 わたしは、小さい頃からよく言えばのんびりしていて、悪く言えば人の行動のはやさについていけなくてしょっちゅう置いてきぼりになっていた。

 幼稚園でみんなで校庭に出て水遊びをしようというときも、ひとりだけ着替えが追いつかず、水着になれないままで教室で先生を困らせていたら、水鉄砲を持った男の子が入ってきて、普段の洋服のままのわたしに思いきり水をかけた。

 最初は顔に勢いのよい水を打ちあてられたことに泣き、それから、気に入っていたフリルのついたワンピースが水浸しになってしまって、肌にあたる感触が気持ち悪いことに泣いたことを覚えている。

 一歳上の男の子だった。けんとくん、と呼ばれていて、彼は問題児であるようだった。

「けんとくん、水遊びは外でって決まってるでしょ」

 先生が答える。

「着替えるのが遅い方が悪い」

「でも、お着替えしてない子に水鉄砲を打ったらびしょびしょになっちゃうってわかるよね?」

「びしょびしょにしてやろうと思ったからそれでいいの」

 けんとくんは泣きながら服を脱がされているわたしに水鉄砲をまた打った。肌に直接当たる勢いのよい水鉄砲は案外に痛くて、濡れたことよりも思ったより痛かったということにわたしは泣いてしまった。

「泣き虫」

「泣かせたのは誰? けんとくんでしょう!」

 先生が叱る。

「泣き虫なのが悪い」

 けんとくんは水遊びに戻っていった。きゃあきゃあと声がする校庭の中で、けんとくんのけらけらと笑う声だけがわたしの耳によく響くような気がした。

 わたしはけんとくんに構いやすいターゲットだと思われたらしく、けんとくんはそれからもわたしのことを執拗に狙って、大きなブロックの上に乗っているところにやってきて、ブロックを蹴って揺らしたり、室内でおままごとをしているときにお椀に接着剤を流し込んで使えなくしてしまったこともあった。接着剤をどこから持ってきたのかは知らないが、それを先生に相談しに行ったとき、接着剤をどこから持ってきたのか、接着剤を無駄に使ってはならない、と怒られたのはわたしだった。

 わたしはそれでも黙っていた。いつかはけんとくんは卒園していくからだ。

 けんとくんはわたしより一年はやく卒園した。よかった、とわたしは安堵して、それまでよりも活発に遊んでみたけれど、自分に合わないことはするものではなくて、すぐに普段通りにゆったり遊ぶようになった。

 とても楽しかった。


 小学校に入るとまた雰囲気が違っていた。勉強をするからだ。勉強はのんびりしているわたしでもついていけるような速度で行われていて、だから成績はふつうより少しいいくらいだった。

 友達もできた。ゆかちゃんという子で、ゆったりしたわたしを引っ張ってくれるようなところのある子だった。移動教室で、どこに行くんだっけ? とぼんやりしているわたしをゆかちゃんは手を引いて連れていってくれた。

 給食を食べるのは相変わらず遅くて、ゆかちゃんは呆れたようにわたしを見ていたけれど、ちゃんと時間内に食べ終わるように急かしてくれた。

 ある日、休み時間に校庭で遊んでもいいということをわたしたちは教えられた。日にちによって一年生が遊んでいい日、二年生が遊んでいい日、三年生、四年生、と分けられているらしい。その日はちょうど一年生が校庭で遊んでいい日だった。

「校庭に遊びにいこうよ」

「でもわたし走るのもボール遊びもへただよ」

「いいよ、ただぼーっとしててもいいし、お散歩してもいいんだから」

 ゆかちゃんに言われて、そうか、わたしはてっきり走ったりドッヂボールをしたり何かしないといけないと思いこんでいた自分の発想をひっくり返されたようで、ずいぶん驚いた。

 校庭に出てみるとよく晴れていて、気持ちがよかった。ただそれだけでとても自由だという気がした。学校はつまらない場所ではないけれど、ずっと教室にいなければいけないことや、決まったことしかできないことに文句がたまっていたのだなと気付かされた。

 ゆかちゃんは校庭の端にある遊具の方へ行ってみようか?とわたしに尋ねた。それは遊具が比較的空いているから言ってくれたのだというゆかちゃんの配慮を感じたのでわたしは、

「行きたい」

 と返事をした。

 遊具の方へ向かっているとわたしの頭に向かってサッカーボールが飛んできた。全く気がつかなかったわたしはサッカーボールに頭を打たれて倒れてしまった。

「だいじょうぶ!?」

 とゆかちゃんは言い、頭がしびれるように痛かったわたしは、うん、と舌足らずで言って彼女を心配させた。

「サッカーボールも避けられないのかよ」

 倒れたわたしに合わせて座り込んで話していたゆかちゃんがきっと敵意を見せて振り返る。そこに立っていたのはけんとくんだった。

「当ててくる方が悪いでしょ!」

「おれは2年生だから、1年生は2年生に逆らえないんだよ、知らないの?」

「きょうは1年生が校庭を使う日ですけど」

「おれは使っていいの」

「なんで?」

「お父さんが、社長だから」

「意味わかんない!」

 ゆかちゃんは怒りをあらわにして、やっと動けるようになったわたしを引っ張って保健室に連れて行き、話の顛末を保健室の先生に怒りながら伝えてくれた。わたしはそれをベッドに横になりながら聞いていた。

「仕方ないのよ」

「仕方がないって何がですか」

「あの子は休み時間に何年生の時間であっても外で遊ぶし、体格の違う5年生や6年生にも殴りかかっていく。弱そうな子を見るといじめる。そういう子なんだと思う」

「じゃあやられっぱなしでいればいいんですか」

「なるべく目立たないようにしてるのがいいかもね」

「そんなのひどい!仕方ないなんてこと、ないはずなのに」

 先に教室に戻るようにとゆかちゃんは言われて、わたしのことをずいぶん心配しながらゆかちゃんは保健室を出ていった。

「だいじょうぶ?」

「少しふらふらします」

「重いボールをぶつけられたものね」

「はい」

「わたしはあなたのことを知っているの。あなたはけんとくんにいじめられているのよね」

 このときはじめてわたしはいじめという言葉を聞いたと思う。それでもわたしは意味がわかって、

「はい」

 と答えた。

「幼稚園のときからそうであるというふうに先生、わたしのことね、わたしの息子から聞いていて、大変なことだと思っていたの」

「息子?」

「同級生なの、けんとくんと」

 そうなんですか、という言葉は声にならなくて、じゃあなんで助けてくれないんですか、という言葉を言いそうになり、あわてて自分の口を閉じた。

「大変だろうけどがんばってね」

 わたしは、がんばらなくてはいけないのだ。


 わたしが3年生になって、けんとくんは4年生になった。1年生と2年生は他の学年やクラスの教室に入ってはいけないし、他の学年のひとも1年生と2年生の教室に入ってはいけないという決まりがあったけど、3年生からそれはなくなった。

 けんとくんは友達を数人連れてまっすぐわたしのところへやってきた。わたしは席でぼんやりしていて、異様な気配に気がついた時には椅子から引きずり下ろされて、殴られていた。けんとくんの友達にも殴られた。どうしてこんな理不尽な暴力を受けているのかわからなかった。けれど痛みで何も言えなかった。髪の毛は引っ張られてぐちゃぐちゃになり、右の頬も左の頬も目の辺りも殴られてはっきりとものが見えなくなった。

 さあっとけんとくんたちがいなくなって、クラスメイトはどうしていいかわからないようだった。わたしは机を元の位置に戻して、椅子を元に戻して、座り、次の授業の支度をした。ずっと妙な雰囲気が漂っていた。授業が終わり昼休みになると顔を殴られたところのあざが目立ってきたので保健室に行った。

「ひどいねえ」

 と言いながら保健室の先生は何もしてくれないことをわたしは知っていた。

 わたしが黙っていろいろを貼られたり消毒を受けていると、ゆかちゃんが保健室に入ってきた。

「聞いた!教室に来たって!なんなの意味わかんない!」

 わたしはゆかちゃんの顔を見て安心して泣いてしまった。はっとなったゆかちゃんはわたしの頭を撫でながら、

「いつか復讐してやる」

 と言った。

 わたしはその言葉を強く受け止めてしまって、復讐というのはすごくこわいものだからやめようよ、と言いかけ、けれどそう言ってくれたゆかちゃんの気持ちはありがたかったので何も言葉を返さなかった。

 復讐してやる、と自分のことのように言うゆかちゃんはすごく人を憎んでいる顔をしていた。わたしもいつかこの顔をするのかもしれなくて、そのことはとてもおそろしかった。わたしもこの顔をして、けんとくんに「復讐してやる」と思うときがいつかくる。でも、いまではない。いまはただ痛くて、やるせなくて、悲しいだけだ。なんでわたしはこんなふうに暴力を受けなくてはならないのかわからないし、家に帰れば両親が心配することもわかっていた。

 お母さんを心配させてしまう、ということに気がついてわたしは泣き、保健室の先生はそれをなぐさめるゆかちゃんと泣き止まないわたしを見て、

「今日は早退するのがいいかもね」

 と言った。保健室の先生は別の先生を呼んで、手続きをしてもらうように連絡をしたようだった。わたしはお母さんを呼ぶと心配させてしまうということが頭から抜けずにずっとおろおろし続けている。

 ゆかちゃんは授業に戻るよう先生に言われて、仕方がなく保健室を出ていった。お母さんは家にいるから電話を受けたらすぐに迎えに来るだろうと思った。それが嫌で仕方なくて、わたしはうろうろしたり座って保健室の椅子をぐるぐる回したりとせわしなく動き続けた。

 お母さんはすぐに来た。

「すいません、お電話いただいて」

 と言ったお母さんはわたしの顔を見てはっとして、どうしたの、と慌てながら言った。

「どうしたの」

 落ち着いた口調でもう一度お母さんは言い、それに答えようとした保健室の先生に重ねるようにしてわたしは大きい声を出した。

「転んだの!」

 お母さんは、いやでも、こんなふうにひどく顔が腫れるなんて、と保健室の先生に説明をしてほしそうな顔をした。けれどわたしは、

「転んだの!わたしが、階段で、うっかり顔から落ちて、それで怪我しちゃって、だから誰も悪くないの、わたしが悪いの。転んじゃったから、わたしが悪い」

 お母さんは黙ってわたしの話を聞き、やはり保健室の先生の説明を求めようとする。その様子にわたしはやきもきしてきて、

「だから、転んだんだってば!だいじょうぶだから!」

 と強く主張した。

 もちろんお母さんが納得したようには思えなかったが、その日はお母さんに連れられて家に帰り、顔のあちこちを冷やして、夕方になってご飯を食べる頃にはすこし腫れは引いていた。けれど紫色になった目の周りの暗い色は隠しきれなくて、仕事から帰ってきたお父さんはわたしを見てちょっと驚いたような顔をした。お父さんはわたしの肩を抱いて、何か言いたそうにしていたけれど、わたしがまったくなにも言いたくないという態度を崩さなかったから、頭をぽんぽんと撫でて夕飯を食べることになった。


 数日学校を休んで、顔の腫れが落ち着いた頃に学校へ行った。みんなわたしのことをどう扱っていいのかわからない様子で、ゆかちゃんだけが明るくわたしに接してくれた。

 たまたまゆかちゃんの来ていなかった休み時間にけんとくんとその友達たちはあらわれて、わたしの席までまたまっすぐやってきた。わたしは、席を立ってけんとくんを蹴った。けんとくんは驚きもしないで、友達たちに周りを囲ませて、わたしの服を脱がせようとした。いやだ、やめて、と言ってわたしはけんとくんをできるだけ殴って、叩いて、蹴って、反抗した。それでもTシャツはまくりあげられて、ズボンを下ろしてパンツを見られた。がん、と強くけんとくんの頭を叩くと、彼はわたしを睨みつけ、友達たちを連れて帰っていった。わたしは急いで服の乱れを直した。けれどこのあと授業をちゃんと聞けるような気もしなかったし、クラスメイトからの目線も痛かった。

「先生」

 授業のチャイムの少し前にやってきた先生にわたしは言った。

「早退します」

 わたしは歩いて家に帰った。家までの道のりが妙に長く感じられた。家にはお母さんがいて、おかえり、と言った。

「しばらく学校に行くのをやめる」

 とわたしは言った。お母さんは、わかった、と決意がこもった口調で言った。

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