銀河は揺籃に眠りて

AZUMA Tomo

綿奈部編・1

 それは酒を飲んだあとの帰り道だった。

 いくらこの都市が経済特区で発展しているとはいえ、それ故に経済格差が激しい。土地によっては貧しさに喘いでる人間が今夜寝る場所を求めてさまよい歩くことも少なくない。それは力のないものが搾取される世界だ。

 何が言いたいかと言えば、親もなく産み落とされた小さな肉体が息絶えて転がっていることもある、ということだ。それは発見されれば警察に通報されて適切に処理されることもあれば無視されることもある。大概が公衆トイレや、袋に包まれて遺棄されることが多い。

 だからこそ、夜道の傍に置かれたゆりかごが異様だった。

 酔いのせいで何か見間違えをしたのかと思ったが、違った。

 それは確かに、籐でできたゆりかごだった。

 ――無視すればいい。

 俺の心が警鐘を鳴らす。異常なもの、異様なものには近寄らないのがこの道で生き残っていく原則だ。

 そうわかっていた。


 俺の踵は通り過ぎたはずの道をくるりと転回し、爪先はその籐のゆりかごの方へ向いていた。好奇心は猫をも殺すと言うが、俺はまさしくその猫なのかもしれない。

 だが、ただの粗大ゴミならそれでいい。むしろそれがいい。よく聞くような赤子の遺棄状態とは違うわけだ。もしそのゆりかごの中に子供が残されているのならまだ生きているかもしれない。それでいい。ゆりかごの中の生き物が死んでいるのなら警察に連絡すればいいだけの話だ。

 薄暗い街灯と街灯のちょうど中間に放棄された籐のゆりかご。近づいていくと見た目からも柔らかい布が敷かれていることがわかった。街灯が照らしきれなかった影の中。さらに近づかなければ中を確認することは叶わない。

 

 その日は生温い風が吹いていた。秋も始まったという季節なのに風だけが妙に生温くて、大きな獣の呼吸のように感じた。


 人間の死骸を好んで見ようと思う者など少ないだろう。俺もそうだ。死体が入っていたら嫌だと脳が拒絶反応を起こしているのに、確認せずにはいられなかった。

 覗き込んでしまえばゆりかごの中を確認できる位置までとうとう辿り着いてしまった。緊張で肩が強張り、指先にビリビリと痺れが走る。しかし、わざわざ引き返してきたのだ。中身を確認せずに立ち去ることなど今更できなかった。


 上半身をそっと傾ける。なるべく距離をとって中身を確認しようと思った。首を無理やり伸ばして、ようやく籠の中身を確認することができた。


「――な……なんだ、これ……」

 真っ白な布の中央に赤い液体に塗れた物体がひとつ。これだけ液体に覆われていれば布も赤く染め上がっていそうなものの、その物体以外は真っ白で綺麗に保たれていた。物体の中央は拍動しているように見えた。肉の塊だ。その塊は数ミリ単位で蠢きながら、確実に生きている。

 生きている。そう確信した瞬間に胃の中へ流し込んだはずのアルコールやら晩餐やらが食道の方へ迫り上がってくるのを感じた。ただの死体なら見慣れる、とまでは言わなくても何度も目の当たりにしたことはあった。だが、人の形を保っていない肉の塊が拍動している様を目撃したことはない。

 ――気持ち悪い。

 そのままゆりかごの中へ嘔吐しそうになるのを堪え、俺は咄嗟に背を向けて胃の中のものをアスファルトの上にすべてぶちまけてしまった。

 見てはいけないものだ。俺は見てはいけないものを見てしまった。

 禁忌に触れた感覚が全身の血液を瞬時に沸騰させ、そして同時に筋肉を凍りつかせる。

 ――一刻も早く忘れるべきだ。

 嘔吐したから冷や汗が噴き出ているのか、この光景のせいで全身が震え上がっているのか。

 俺は強張った肉体に鞭を打ち、なんとか己の吐瀉物を飛び越える。ゆりかごには背を向けたまま、飛び越えた勢いのまま走り出した。

 そして、俺はどのように帰宅したのか。記憶がない。


 その日は生温い風が吹いていた。秋も始まったという季節なのに風だけが妙に生温くて、大きな獣の呼吸のように感じた。まるでその獣の鼻先に己の体が突きつけられているように感じるほど、生き物の感覚を覚える風だった。

 人間の死骸を好んで見ようと思う者など少ないだろう。俺もそうだ。死体が入っていたら嫌だと脳が拒絶反応を起こしているのに、確認せずにはいられなかった。

 覗き込んでしまえばゆりかごの中を確認できる位置までとうとう辿り着いてしまった。緊張で肩が強張り、指先にビリビリと痺れが走る。しかし、わざわざ引き返してきたのだ。中身を確認せずに立ち去ることなど今更できなかった。

 上半身をそっと傾ける。なるべく距離をとって中身を確認しようと思った。そして首を無理やり伸ばしたとき、その筋の伸びる感覚に俺はハッとした。

 ――この状況を俺はどこかで経験したことがあるはずだ……!

 しかし、それに気づくには遅く、俺の視覚は既に例の物体を捉えていた。

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