春 第一次攻撃 (3)いつだって ペンは剣より強し

【ここまでの粗筋】

 天然系な主人公「駿河轟」は大学一浪中の身。

 以前は充実していた筈の彼女や親友との関係も、留学や自身の受験失敗と共に、全てご破算で、人生は灰色。

 常に「なりゆき任せ」で生きている駿河は、一応受験に集中している体ながら、友人に誘われた昼食先で出会った同窓の女子「ソウシ」に気もそぞろになってしまう。

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 雨の日に初めてソウシと一緒に昼食をとってから、数日が過ぎようとした頃(丁度、良い具合に僕は彼女のことを忘れかけていた)、ウィニーがまた、食堂にやって来た。

 此頃になると,僕はすっかり講義に出るのが億劫になって,朝から食堂兼自習室で座りっぱなしで,相変わらず一高時代のように自分の好きな方法で勉強を進めていた。

 持ち物と言えば代数学辞典,幾何学事典,ドイツ語の対訳,物理学精講等々。

 それならば予備校になど行かなければ良いではないかと思われるが、出欠の確認は意外と厳格で、来たか来ないかだけでやいのやいの言われるのも癪であるし、毎日『通学する』というリズムが身体と気持に与える効果から考えても、予備校に来るだけは来ていた。

 そして好みの講義(理科や社会)だけは気が向いたときだけ聞いていたものの,今では考えられないくらい狭苦しい教室と長机そして長椅子(というかベンチ)に耐えきれず、大抵は1コマだけ我慢するともう最上階の食堂に逃げ込んでいた。


 ウィニーなどは律儀に講義に出ているので、決まって休み時間にだけ探しにやって来る。


「おお、居たか。」

「…居るさ。」

「今日は天気も良いし、坂でも下らないか。」


『坂を下る』=『研数学館に行く』ということを示していた。 駿河台と三崎町を結ぶ坂は二つある、一直線に下りる男坂と、葛籠折りに下りる女坂。


 折角忘れかけていたというのに十日ぶりに動揺した。

 何の心の準備も無しに研数学館に連れて行かれる。

 案の定、今日も僕は裾切れしたジーンズに裸足、サンダル。然も教材は、三省堂書店の紙袋入りときている。

 否、心の準備をしたところで、身体(身繕い)の準備など出来る筈もなく、結局一緒なのだ。


「おい、またか…。わざわざ坂を下らんでも、其の辺で良いだろう。」

「天気が良いと、此処の知り合いはもっと遠出して(即ちサボって)了うんでな。」

「仕方ないなぁ…。」


 元々一人で居度いくせに、付き合いの良さだけは折り紙付きだった僕は、またも自らの見窄らしい姿を晒しに男坂の階段をえっちらおっちら下りていく羽目になった。


「よぉっ!」


 ソウシは今度は背後から背中を叩いて現れた。


常時いつもわざわざ済まないねぇ。」

たまには、其方から坂上がって此方に来たらどうだ?」

「いやぁ、婦女子には、此のじめじめした季節、坂を上がるのは辛い。それでいて此処の奴らは昼飯を食うにはネタがないときているから。」

「何処にする? 此の辺? 神保町?」

「そうだね、今日は天気が良いから淡路あわじ美土代みとしろの方まで足伸ばそうか?」


 今回も僕は全く蚊帳かやの外のまんまで昼食場所の相談が済み、ぼつらぼつらと歩き始める。

 前をウィニーとソウシがダラダラと歩き、僕は其の後を連いて行く。


 彼は、同じ午前部でも『午前部Ⅰ類』。本人曰く、中学校は他所よその超名門男子校を優秀な成績で不合格となり、高校では『女子が居るから』という理由で一高うちにやって来た、自称『地頭』の良い、押しは強いが悪気のない男だった。


「僕は『出来ない』んじゃないんだ。ただ、『運が無い』んだ。運を錬成して呉れる予備校があれば、其処に言った方が東大文一には合格するんじゃないかね。」

「修験者の修行か、参禅会でも行けば良いじゃないか。」

「おお、そうか、何処がやってるか調べてみるか。あっはっは。」


 全くおめでたい。それでいて憎めない奴である。


「君さぁ、東大法科、東大法科っていうけど、一体何に成り度い訳?」

「官僚だね。安泰、安泰。」

「ポリシー無いわねぇ。官僚っつったって、何省で何をやるとか、そういうのってないの?」

「先ずは入学せんと意味がないだろう?」

「其の入学のために動機っつうもんが必要でしょうに。それが何かって聴いてんのよ。」

「だから官僚になるっつうのが動機だって。」

「…実につまらん奴だ。」


 まるで僕が空気か何かで、居ないかのように二人の会話は続き、三崎町から神保町、駿河台した、小川町、淡路町へと、梅雨の貴重な晴れ間の中を歩いて行く。


「ギエンはさ、何に成り度いの?」

「ん? 宇宙物理学者。」


 突然振り返って話を振ってくるソウシに、ドギマギしながら言葉を返すと、彼女は少し歩調を弛めて僕の隣にやって来た


「へぇ。私はまた、お坊さんにでもなるのかと思ってた。」

「何でさ?」

「ギエンって聞いた時に、何か語感からして、お寺の子なのかなとか思ってさ。ほら、頭だってツルッツルに剃ってたじゃない。」

「残念でした。違いました。」

「仏教だから宇宙物理学、とかじゃなくて?」

「インド哲学も嫌いじゃないけど、それ以前に宇宙とか時間とか空間とか、よく分からないじゃん。だから。」

「ふーん…分からないのに? 成り度いの?」

「分からないから、分かり度いんだな。」


 喋りめとしては自然に会話が出来た頃、僕らは淡路町の喫茶店に着いた。


 *     *     *


 男女間いせいかんと言ったって、浪人生である僕らの話題は、一高の頃と大して変わりはしなかった。

 哲学的な話か、文学的な話等々、其の年頃が好きそうな、凡そ結論なんか出ない話で一時間でも二時間でも話していた。

 喫茶店のランチで時間を潰して頭を休め、家に帰ってから八時間くらい勉強する。それが僕等の典型的な毎日のスタイルだった。


「ソウシは、何に成り度いのさ?」


 僕は、食後の温かいレモンティを口にしながら尋ねた。


「私はねえ、物書きかな。」

「明治時代でもないのに、今時物書きか?」


 ウィニーが嬉しそうに身体を揺らしながら訊ねる。


うるさい、いつだって『ペンは剣より強し』なんだ。物書きといっても、色々あるんだよ、今の時代。ジャーナリストから商社の広報、弱電メーカーのマニュアル書き、参考書書きに問題集書き、自分の腕で勝負する世界に行き度い。」

「なんだ、俺には目標を絞れ絞れと言う割に、随分広いんだな、ブン屋、広告屋から受験産業までか? そもそも「ペンは剣より強し」だって官僚のことだろうに。」


 ウィニーが若白髪の頭を此方に向けた儘言う。彼は食事が遅くて、まだ食前のサラダをモサモサと食べていた。


「そう言われればそうだよね。でも、まだそれくらいしか分からない。」

「しかしさ、ソウシ様ともあろうお方が、なんで私大文科志望で研数通いなんだ? どうして駿台の午前部文科Ⅰ類じゃないんだ?」


 彼女の名前を一度だけ三年の模試上位者リストで見かけたことのあった僕は、少し慣れて突っ込んだ質問を浴びせてみた。(一高こうこうの当時は『御気田箏詩』という名前が珍しかったから憶えているだけで、顔と名前は全然一致していなかった。)


「私さ、早稲田の一文か、三田慶大の文科に行き度い訳よ。別に駒場東大の文三志望じゃないから。」

「逆に、何で東大じゃ駄目なのさ?」

「国に縛られた物書きって、もう流行らないじゃん。」

「縛られた、って国費で教育してるってことか?」

「うーん、それもあるし、私は其の儘研究をするのが目的でもないし、税金で安く勉強してきた安穏感ていうのかな、ぬるま湯的な所が一高の時に嫌いになったっていうのもあるかな。」


 考えてみれば、国の税金で教育を受ければ、いずれは国に貢献するのが当時の僕らの頭の中では当然と思えていた。自分の好きなことをやるのならば、私学に進むという彼女の言葉が漠然と分からないでもなかった。


「現役の時、何処受けたんだ?」


 僕は調子にのって、まだ問い続けた。


「そう言うギエンは?」

「俺ぁ、京都の理物。」

「私は、早、慶、明、中。全て文科。」

「で?」

「結果のこと? ギエンは、此処に居るんだから京大駄目だったんだよね?」


 僕は、紅茶を飲みながら頷いた。


「私は早慶以外は受かったよ。明大と中大。」

「何でどっちかに行かなかったんだ? 女子は浪人しないだろう、大抵。」

「第一志望以外に行っても仕方ないでしょ。私の性格ならいつまでも後悔を引きずるに決まってる。そういうギエンなんか第一志望しか受けてないじゃん。」

「それぁ、確かに行く気もない所を受けても仕方がないからなぁ。」

「親としては、『受かったんだから行けば』という話はあったけど、結局、早慶に未練は絶対に残っちゃうしね。それなら一浪しても良かろうって。」


 ソウシは、何やら遠い目をしながらアイス・ココアをストローで飲み干した。


 *     *     *


 其様な此様なで、彼女が突然目の前に現れてからというもの、僕の生活は動揺しっ放しだった。

 それからは、心静かに食堂で受験準備を進めていても、昼前になると、


「友達付き合いは大事だよ、此処で燻っていると暗くなる一方だ。見てみろ回りの奴らを、合格と引き替えに悪魔に魂を売ったような蒼い顔をしていやがる。ああ、厭だ厭だ、さあ、席を立って外で昼飯だ。行くぞ」


 と、毎日のようにウィニーが誘いに来る。

 頑なに断る理由もなく、そうではなくても混んでくる昼食時間帯には外に出て了う僕としては、誘われるが儘に坂を下り、そして動揺するという日々が何日か続いた。

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