春 おケイさん (1)自分の時間を大切にして

【ここまでの粗筋】

 天然系な主人公「駿河轟」は大学一浪中の身。

 以前は充実していた筈の彼女や親友との関係も、留学や自身の受験失敗と共に、全てご破算で、人生は灰色。

 一応再受験に向けた体をとりながら、早くも同窓の女子「ソウシ」に気もそぞろの駿河。

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 一高というところは、受験なんてものは何処吹く風というやつで、学校では何の面倒も見ては呉れなかった。個人面談も入学時に一回、受験前に一回あったきりで、親との面談にいたっては「何それ?」という状況だった。

 ソウシも、其様な一高こうこうに染まりっ放しで、三年間を楽しみに楽しみ尽くし、早慶に滑って了った口だろう。其の気持ちというか、雰囲気は僕もよく理解できた。


 住んでいる所だってみんなバラバラで、こうして冴えない状況で集まっている三人ですら、ウィニーは東京の北東部、僕は神奈川の北西部の先、ソウシは神奈川の南部だ。中には一人で下宿をしている奴も居たので、紀年祭の直前など、一週間から十日くらいは家に帰らないで泊まり込みの準備なんかしていた。


 僕は可成り遠い方面からの通学で、朝の六時前には家を出ていた。そして、其の習性を知っている忘れんぼうの級友たちから、其の日の課題や提出物の確認が大抵五時半過ぎに電話で架かってきた。

 其の中でよく電話を呉れる(というか寝覚めを破るというか)一人に、おケイさんがいた。


 《佐多さた珪子けいこ


 だから、おケイさん。

 一高には数十人規模で卒業生を送り出してくる四中ビシの出身。入学後、隣の席になって以来の幼馴染みというか、古株の友人で、名前の都合上、新学期には決まって近隣の席に居た。

 水泳部のエースで、異性でも同性でも惚れ惚れするほどの笑顔と身体の持ち主。常時他人を穏やかにして呉れる物腰と丁寧な言葉遣いで人気があった。僕は彼女やお世話留学生が居ながらも、素直で正直な隠れおケイさんファンの一人でもあった。

 彼女は水泳選手アスリートだったので、撫で肩の大和撫子体型ではなかった。が、紺の制服を着ると迚も凛として、特に立ち姿と座る姿勢が極めて美しかった。

 まさに、立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花だ。紀年祭で演劇をかければ、当然のように主役を張る。僕らのような其の他大勢の男子にとっては、一高でも五指、いや三指には入る高嶺の花だった。


 僕に負けず劣らず遠い遠い、埼玉の奥地から通っていたおケイさんは、自分も早く家を出る運命にあったので、憶えきれなかった当日の予定について、よく我が家に確認の早朝電話を架けてきた。


 遠距離通学の経験者なら分かると思うが、遠くから通う人間は、始業丁度に合わせて登校するような危険は犯さない。いつ何処で電車が止まるか、自分の気分が悪くなって休憩を入れなければならないか分からないからだ。


 彼女も僕も、中学校は違えど、遠くからの電車通学だったから、一高こうこうでも其の習慣を踏襲して、三十分以上、そう、大抵四十五分か一時間くらいは早く登校していた。当時は一時間以上前から守衛さんが開門して、用務員さんが周辺のお掃除をしていて呉れたものだった。


 併設の中学校からの入学ということで、彼女とは直ぐに親しくなった。男女間でも渾名や呼び捨てが当たり前の中でも、彼女は珍しく、男子を「クン」付けで呼んだ。そして運動部ながら、身のこなしは艶やかと言うか、無駄のない円を描くような綺麗な所作しぐさをする人だった。

 聞けば小さい頃から運動ばかりが好きな活発な子だったので、落ち着きも持たせなければ不可ないというご両親の方針によって、お茶とお華に日舞まで嗜んでいた『中身は筋金入りの大和撫子』だった。


 背筋を伸ばし、姿勢を正した儘口を小さく開けて手を翳して目を細め、(八重歯が可愛いのに)絶対に歯を見せず(それも自然に)、クスクスとよく笑う、笑顔の光るおケイさんは、実に朝日の似合う人だった。


 水泳の朝練は一人で行っては不可ない部則であり、三年になって朝から泳ぐなんていう奇特な人も減り、他の部員がまだ来ていない時、僕はよく「駿河クン、本を読んで居ても良いから、ギャラリーに座って居て呉れないかな。でも時々は、私のことも見てよ。浮いた儘だったたり、沈んだ儘だったりしたら困るから。」と個人監視員を頼まれた。


 無駄のない均整のとれた身体がすうっと水に馴染み、まるで水生動物のように楽しげに水と戯れている。飛び散る水しぶきが朝日にキラキラと輝き、僕は予習用に持っていったドイツ語の対訳本を横に置いた儘肘枕ひじまくらで、彼女の泳ぐ姿にぼんやりと見入っていた。


 短い練習が終わり、タオルドライしただけの髪をポニーテールに結び、再び教室に戻っても誰も来ていない中で、他愛のない話をしたり、ドイツ語の輪読で予習をしてきた箇所の確認をしたり、という日が続いた。


 *     *     *


 普通のホームルームならば、新学期から一月か二月もすれば席替えになる。しかし、ウチのホームルームは文科と理科の間で志望を転向したか、してもしきれない者許りのドイツ語選択で、何やら偏屈で変わり者が多かった所為か、秋まで全員が揃うという日が無かった。

 つまり毎日誰かが休んで(またはサボって)いた訳だ。それを口実にというのでもないが、誰からも席替えの話が出ないので、級長の僕は職権濫用気味に、ベーデもエリーも居ない味気ない日々を、隣席がおケイさんということで心の安寧としていた。(但し、基本的にホームルームで受ける二時限目だけがクラスと座席を固定されていたので、実質的にそれほど周囲の顔ぶれに飽きることもなかったのだが)


 僕は世界史についてこそ『コノ無学、無教養!』とエリーに叩かれてはいても、日本の古い物や有職故実には他人より長じていることを自認していた(それでもエリーは僕の知らないような細かいことまで知っていることがあったけれど)。

 おケイさんは、東大の文三が第一志望。中でも日本史学を希望していたので、話が合うことも多かった。彼女は何にでも真面目で、それでいて嫌みもなく、勉強も本当によく出来た。(こう書いていると、何かベーデやエリーやシィちゃんに対する当てつけのように感じられるかも知れないが、実際に正反対のような、実に分かりやすい淑やかさだった。)


 体力があって、而も、小さい頃から沢山のお稽古事をしてきた御蔭で時間の使い方が上手で、受験準備も朝早くから夜遅くまできちんとこなしていた。


 其様な彼女にも弁慶の泣き所、アキレス腱はあった。それが数学。決して出来ない訳ではないが、どうしても文科の科目と比べると見劣りする。文三に合格するためには何点あってもあり過ぎることはない。


 僕は当時既に京大の理学部を志願していたので、数学は得意科目だった。文科から理転した人間というのは、大抵ある日突然数学に開眼することが多い。

 逃げていたからか、はたまた食わず嫌いだったからか、何にせよ数学を解くということが出来ない状況が、突如として機能的に対処可能になる。そうなると何やら自分でも分からないくらい数学を解くことが楽しくなり、解いて解いて解きまくるほどのフリークスになる。

 広辞苑ほどの厚さのある笹部氏の代数学や髙木氏の解析学を終えて、今では黒大数と呼ばれている研文書院の『大学への数学』や新問奇問許りを集めたマイナーな問題集、図書館の奥に山積みになっている明治から戦前にかけての旧制高校・大学の入試問題などを解いていた。

 今から思えば、こうした濫解の姿勢は、其の後の基礎学力にはなったけれど、受験前の高校三年としてはもっと腰を落ちつけて『一本の筋』を通すような勉強の仕方をしておいた方が良かったのだろうと痛感する。


 後悔は兎も角、其様な僕はおケイさんから頼まれて、放課後の空いた時間、数学の個人教授を拝命した。其の代わり、僕が部活でドイツ語の授業を休む時のノートと復習は、おケイさんがきちんと整理をして呉れた。

 おケイさんには当時、つきあっている彼氏がちゃんと居た。小泉まもる。書道・美術・ドイツ語選択クラス、日本橋の画廊の長男で、特に日本画と声楽の才能が高く、どちらでも東京芸大の合格も間違いないだろうと言う、それでいて変人でもなく、人の好い男だった。

 生まれながら少し色の薄い、しなやかな毛をふわりと長めに伸ばしていて、これまた嫌みもなく、育ちの良さが滲み出ている、男子からも好感のもたれるタイプだった。彼は学科科目については基礎さえ押さえていれば、他は創作の才能を磨く方が大切なので、おケイさんの家庭教師には向いてはいなかっただけだ。


 ごついゴシック調の柱の合間にはめ込まれたガラスを通して西日が射し込む黴臭い教室の中で、彼女と僕は机を鍵の字にして勉強をした。僕にとっては良い復習になった。例をあげながら問題を解いていくと、彼女は驚くほど飲み込みが早かった。どうやら文科用に選択した数学の授業が合わなかっただけらしかった。


「あ、すごーい。解る。どんどん解けるよ。駿河クン上手だね、有り難う。」


 秋という季節。完全下校までの二時間半、気持ちの良い勉強が出来た。でも、彼女には毎日喉に引っかかった骨があった。小泉君かれしが、毎日廊下で彼女の帰りを待っているのだ。彼にしてみれば心配でもあろうし、終われば一緒に帰り度い気持ちともなろう。僕はそれを当然の気持ちだと思った。

 しかし、彼女にとっては、それが裏目になった。

 彼には必要な受験の準備がある筈だ。秋の大切な二時間を我が身の為に廊下で待たれるというのは彼女にとって心の重荷だった。大問を一問解き終えて小休止になると彼女は必ず廊下に出て行った。そして僕に遠慮するかのような小さな声で


「先に帰って。お願いだから。今は小泉クンにも大事な時期の筈じゃない」

「大丈夫、待ってるよ。」

「厭。私のことを考えて呉れるなら、お願いだから自分の時間を大切にして。」


 聞いてはならないやりとりが途切れ途切れに聞こえる中、僕はぼーっと外の緑を見ながら、次の問題を所在なく眺めていた。

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