春 第一次攻撃 (1)学生服は脱いだといっても

【ここまでの粗筋】

 天然系な主人公「駿河轟」は大学一浪中の身。

 以前は充実していた筈の彼女や親友との関係も、留学や自身の受験失敗と共に、全てご破算になってしまった。

 常に優柔不断、相手任せ、なりゆき次第、で生きている駿河は、予備校でも相変わらずのらりくらりの生活を送っていた。

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 何だかあたかも自分が模範的・典型的な浪人生のような言いぶりをしてきたが、予備校一辺倒の浪人時代の始まりだったかと言えば、決してそうではなかった。


 級長を務めていた都合上、半自動的に同窓会の委員となったことで、其の若手会合に頻繁に顔を出していた。

 会員情報の整理、会報の発送、同窓会の開催準備等々、卒業したというのに半ばクラブ活動的に相変わらず一高に足を運んでいた。卒業直後などというのは、大学受験不合格の悲壮感もあることはあるが、十ヶ月も先の再度受験のことなど前途遼遠たるもので、まだまだ《時間がある》という暢気な気分で包まれていた。

 其の若手が親交を深める目的で、五月に遠足に行った。遠足といったって郊外まで出掛けた訳でもなく、駒沢公園で皆の顔と名前を覚えるのが主たる内容のお遊びをしてきただけだ。浪人生のくせに、其様なことをしている暇があれば、単語の一つか公式の一つでも確実に覚えろというものだ。


 のこのこと出掛けて行ったところで一高時代、内部の一般的な女の子とは、ごく一部を除いてあまり縁のない生活をしていたし、同窓会の若手にはどういう伝統か美術クラスや文化部やフランス語選択の人間が多いので、知った顔も殆ど居なかった。

 そう、最初から知った顔といえるのは例のウィニーくらいが精々だった。況してや女の子となれば、『はて、同じ学校でしたっけ?』とでも、互いに云い出しそうなくらい全く知らない顔許りだった。


 其様な中、待ち合わせ場所に指定された渋谷のハチ公前でぽつりぽつりと委員の若手が集まって来る様子をぼんやりと眺めていると、とある一人の女の子だけが目についた。ライトピンクに細いブルーストライプのボタンダウンシャツを着て、黄色みを帯びたレンズの眼鏡をかけた女の子だ。どうして目についたのか、全く分からない。兎に角、目についた其の瞬間に頭から離れなくなって了ったのだから仕方がない。


 *     *     *


 一高こうこう時代には、僕だって彼女も居たし、其の後の閑香ちゃんだって居た。其の他に恋愛感情の一つや二つや三つや四つ、否、もっと早く中学校時代からだってあったけれど、恋愛感情というやつは、ある日ある時突然、此方の都合など何も考えずにやってくる。


 あの《妙に気になる》というやつだ。


 一高では周囲に何と言われようと、時には彼女にさえ否定されようと、朴歯の足駄に先輩譲りのボロボロの弊衣破帽の学生服、そして腰手ぬぐい、持ち物と言えば、教科書は殆どロッカーに置きっ放しで、大抵文庫本一冊を丸めてポケットに押し込んで学校に通っていた。

 ドイツ語の授業があるときだけ、教科書と辞書を素手で持って、流行に敏感で噂話の大好きな女の子なんて大の苦手で、一高こうこう時代の最後の彼女らしき女の子だって生きた化石のようなお嬢様学校の娘だった僕が、当時流行の格好をした《黄色みを帯びたレンズの眼鏡をかけた女の子》が突然気になって気になって仕方がなくなった。

 それまでは、流行などを追わない格好をした女の子しか気にならなかったのに、大学受験の不合格がよほどショックだったのか、と疑われるほどの方向転換だ。


 *     *     *


 さすがに学生服は脱いだといっても、ベルトが外れて了って本体だけになった腕時計をポケットに入れ、ダンガリーのボタンダウン・シャツにコットンパンツをとっかえひっかえ、足下は精々茶のローファーかサンダル程度の恰好しか出来ない僕が、どうにも其の《鳥渡お洒落》で《今風に隙のない》娘が気になって仕方なくなったのだ。


 駒沢公園で一頻り親交を深めた後、一高こうこうの傍で二次会ということになったが、僕はと言えば、此の頃はまだ真面目、というよりも極度の面倒くさがりで、渋谷方面に向かう皆とは反対側のバス停で、あの《黄色みを帯びたレンズの眼鏡をかけた女の子》を含める旧友と先輩方に手を振って別れた。  


 *     *     *


 其の後、同窓会の雑務にも何度か顔を出したが、彼女は既に大学生なのか、はたまた何かの都合で時間帯が合わないのか、あの《黄色みを帯びたレンズの眼鏡をかけた女の子》には会わない儘に梅雨の時期を迎えた。


 鬱陶しい、じめじめとした気候のなかで、僕はローファーなんか履くのが面倒になって、裸足にサンダル、ジーンズで予備校に通っていた。

 流石に朴歯の足駄など履いて行けば、予備校では迷惑になるくらいのことが分かっていたからではなくて、予備校に向かう道筋にマンホールが多かったことと、予備校の廊下がプラスチックタイル貼りだったからに他ならない。

 朴歯の足駄というやつは、地面との摩擦係数が低い場所では非常に不安定で、特にマンホールの上で歩みを停止しようと試みようものなら、晴れた日でさえ股関節脱臼は覚悟せねばなるまい。況してや雨の日にマンホールの上を歩こうものなら、ヤスデやムカデなみに足の股関節を持っていても足りないくらい危険なのである。

 おまけに、予備校のある駿河台に通うためには丸ノ内線を使っていたので、朝の混雑は想像を絶するものがあり、貴重な朴歯が何処かに紛失して了うという危機感があったからだ。


 折りたたみ傘にダンガリーのシャツ、ジーンズにサンダルという、当時の早・明・法大生でさえもしないだろうという冴えない格好をした、如何にも浪人生の僕は、梅雨の間、こうして駿台本部校舎の最上階の食堂で常時カレーライスを突きながら、精々ウィニーとだけ話をしている日々だった。


 *     *     *


 ウィニーに研数に誘われた翌日。朝っぱらからこれまたいつにもまして熟睡したのか、顔をぱんぱんに腫らした彼に『今日は研数に行くんだから食事はするなよ』と言われ、午前中の講義が済むと、本部校舎の前にこれまた冴えない格好でやって来た彼と一緒に、研数へと向かった。


「一体全体、何だって、わざわざ研数なんだ?」

「彼処にも知り合いは居るだろう、まあ、偶には違った顔とも昼飯を食おうや。」

「違った顔と言ったって、どうせ、知った顔なんだろう?」


 何様な男と昼食をとったところで、出て来る話のネタなんぞ知れたものだ。現役で大学に進学した女子の行方やら、模試がどうだったかくらいの話題しか出て来やしない。


 揚げ句の果てには不勉強を棚に上げて、自分がどれだけ不幸か、早く来年の試験を乗り越えて明るい将来を考え度いものだなど始まる。

 病院に集っている、実は元気な一病息災のお年寄りと似たり寄ったりの、これまた冴えない会話になるに決まっている。


 小雨の降る中、門を潜った研数は、素晴らしいほどの歴史的建造物で、彼方此方から滝のように雨が流れ落ちていた。

 母校の建築も素晴らしい職業病ならぬ学生病(水虫、彼方此方に黴、シミ等々)をもたらして呉れたが、それにも負けないくらいの歴史を誇る研数の校舎では、まだ午前の講義が続いていた。


「なんだ、こりゃ私立文系の講義じゃないか?」

「そうだ。」

「男で私立文系なんて、知り合いに居たか?」


 そうこうしている間に、終業ベルがなり、受講生がドヤドヤと出てきた。


 僕が先刻まで居た『午前部理科Ⅰ類』なんてのは前にも書いた通り旧帝大理系志望だから、殆どが男許りで、偶に居る女の子にしたって髪の色が烏より黒いんじゃないか、というくらいの天然もので、それこそ僕が全く冴えない格好をしていても自己嫌悪に陥ることなどなかった。

(繰り返すまでもないが、高校卒業と同時に目前の《楽しみ》とか《期待》という存在のすべてを失って了った僕としては、こういう環境の方が落ちついたのも事実だけれど。)


 が、研数の私立文系ともなれば、所謂普通のお洒落をした女の子たちが沢山居て、予備校といえども華やいだ雰囲気だった。一中ちゅうがく一高こうこうも、凡そそういう華やいだ女の子達とは無縁な環境だったので、其様な中に来ると、流石に自分自身の格好に違和感と自己嫌悪を感じ始め、じりじりと居心地が悪くなってきた。


 更に、普段は地味を貫き通していたエリーは別として、「身嗜みこそマナーの第一歩」として外見に一切の隙が無かったベーデや閑香ちゃんを前にしても、弊衣破帽を貫き通したほどの自分が、こうも易々と《普通》の女の子たちを前に《まいりました》と白旗を揚げて了うことにも自己嫌悪を感じていた。


「な? 違った雰囲気も必要だろ? ああいう形振り構わない《午前部》も勉強には悪くはないが、偶にはこういう情操教育というか精神の涵養というのも必要だ。」

「そうかぁ・・・?」


 ウィニーのもっともらしい理屈に内心で賛同して了う自分に、自己嫌悪の念を一層強くして、返事も曖昧になって了う。

 それよりも、自分に似つかわしくない此の場所から一刻も退散し度いという気持でいっぱいだった。


「うう…何だい、知った顔なんか出て来やしないじゃないか、誰も。」

「いやいや、まあ鳥渡…待って呉れよ。」


 私立文系とは言っても、一高こうこうで知った顔の男なら、此の中でも直ぐに分かる筈だと思っていたから、どうせ彼らはサボったのだろうと考えた。


「おい、もう行こうや、居いねぇよ、どうせ…。」

「おう、来た来た、よう!」


 帰りかけた其の時、ウィニーが大声を上げて相手に挨拶をすると、横を向きかけていた僕の肘を掴んだ。

 そして、彼が待っていたという相手を見た瞬間、僕は、しゃっくりが止まらなくなって了った。

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