第一章 売れ残りの花嫁
第1話 辺境伯の家
「ほんっっっとうに使えない子ね!」
ばしん、と乾いた音が廊下に響く。
既に空腹で倒れそうだったローリエは、頬を叩かれた衝撃でふらつき、床にへたりこんだ。
「いつもそうやって、か弱いふりをして! 余計に腹が立つのよ!」
「すみません、セリナお姉様」
金切り声を上げて怒鳴りつける姉に、ローリエはひたすら謝り続ける。
姉といっても、彼女はモントレイ辺境伯の実の娘で、養女であるローリエとは血が繋がっていない。
陰鬱な紫髪のローリエと異なり、彼女の髪は美しいブロンドだ。
血色の良い艶やかな肌、丸みを帯びたふくよかな体、そして貴族らしい煌びやかなドレス――古びた使用人服を繕って着ている、痩せっぽっちのローリエとは何一つ似ていない。
「明日、ユリウスが帰るまでに終わらせとけって言ったじゃない。どうしてこんな簡単なことすらできないの?」
「すみません……」
セリナの婿、ユリウスが帰ってくるのは一週間後と言っていなかったか。
ドレス二着のサイズ直しを、どうして簡単なことだと言えるのか。
ローリエは喉元まで出かかった言葉をぐっと飲み込んだ。
「まぁ、セリナ。何事かと思ったら、この子がまた粗相をしたの?」
叫び声を聞きつけたのか、辺境伯夫人が香水の匂いをぷんぷん漂わせてやって来る。
セリナはころっと表情を変え、猫撫で声で母親に訴えた。
「そうなのよ、お母様。また約束を破られてしまったわ」
「ローリエ、少しはセリナを見習ったらどうなの? そんな調子だから、いつまで経っても結婚できずに売れ残るのよ」
辺境伯夫人は呆れたように言い、ローリエに軽蔑の目を向ける。
この家に味方はいない。
唯一ローリエに優しくしてくれたお祖母様は、昨年の暮れに帰らぬ人となってしまった。
今やモントレイ家の人間はおろか、使用人たちまでローリエをこき使っている。
育ててもらった恩がなければ、今ごろローリエは辺境伯の屋敷から逃げ出しているだろう。
「お母様、この子は社交の場にすら出られていないのだから、売れ残りだなんて言ったら可哀想よ」
セリナはくすくす笑い、「まぁ。実際、舞踏会に出たところで、誰にも相手をされないでしょうけど」と付け加える。
それにつられて夫人も笑うと、
最近流行りの化粧らしいが、ローリエにはどうも美しいとは思えなかった。
「とはいえ、いつまでもこの家に置いとくわけにはいかないし、早く嫁ぎ先を見つけてあげないと」
「あら、セリナは優しいのね。でも、こんなに器量も見目も悪い子を、もらってくれる人がいるかしら。モントレイの名に恥をかかされたら困るわ」
母と娘は仲睦まじく会話を続ける。
ローリエを侮辱することで、二人の機嫌が保たれるのならそれで良い。
壁に手をつき、ローリエはゆっくりと立ち上がる。
「ドレス、明日までに何が何でもどうにかしなさい。ユリウスとの食事であれを着たいの」
空腹で立っていることすらやっとなローリエに、セリナは容赦なく言い放つ。
メイドたちに押し付けられた客間の掃除だけでも夜までかかりそうなのに、ドレスまで。
どう頑張っても明日までに終わる気がせず、ローリエはセリナから見えないよう、俯いて涙ぐむ。
しかし、ローリエに拒否権はないのだ。
「……かしこまりました、お姉様」
「今晩寝ずに作業をすれば終わるでしょ。できなかったら鞭で打つから」
セリナはふんと鼻を鳴らした。
「約束を守れないところは貴女の実父と似ているわね。そういう血なのかしら」
続けて夫人も嫌味を言うと、「お茶にしましょう」と娘を連れてその場を後にした。
(父は何故、私をこの家に預けたのだろう)
薄暗い廊下にぽつんと残されたローリエは、ぼんやりと考える。
いつか父親が迎えに来てくれると希望を抱いた時期もあったが、約束の養育費さえ支払わない男が、どうしてローリエを迎えに来るのだろう。
(泣いたってどうにもならない。どうにか終わらせないと)
ローリエは涙を拭い、客間の掃除に向かうのだった。
ꕥ‥ꕥ‥ꕥ
「痛っ」
うつらうつら居眠りをしかけていたローリエは、指に針を刺した痛みでハッとする。
(寝たら駄目。早く続きを縫うのよ、ローリエ)
そう自分に言い聞かせるものの、視界が霞んで手元がおぼつかず、後頭部はずきずき傷んだ。
自室として与えられている真っ暗な屋根裏部屋の中、蝋燭の灯りだけを頼りに繊細な作業をしていたので、目が疲れてしまったのだろう。
ローリエは仕方なく縫い物を一時中断し、乾いた喉を潤そうと燭台を手に部屋を出る。
どれほど夜がふけたのか正確な時間は分からないが、屋敷の中は真っ暗で、既に使用人も寝静まった後のようだ。
ただ一ヶ所だけ、三階中央の部屋からうっすら灯りが漏れている。
(あそこはモントレイ伯の執務室……こんな遅くまで仕事を?)
ローリエは不思議に思った。
というのも、モントレイ辺境伯は怠惰な男で、最近では従者やセリナの婿に仕事を任せ、日がな一日ぐうたらしているのだ。
(もしかして飲んだくれて、灯りを消さずに眠ってしまったのかもしれない)
給仕部屋へ向かうのなら手前の階段を下りれば良いが、ローリエは辺境伯の部屋が妙に気になり、忍び足で近づいた。
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