05:あなたはけっしてひとりじゃない

「元気でネ、よかったらいつか台湾にも遊びに来てネ」


 台湾に帰ることになり、お店を引き払った最後の日の言葉。

 自分はその言葉に小さい返事とともにうなづいた。……きっとうなづけたと思う。

 先生にはその時、自分の顔がどんな風に見えていたのだろうか。


 別れというのは、ある日突然訪れる。

 その後、自分は会社から解雇を告げられ、なしくずしにマッサージのお店、世間一般で言うもみほぐし、リラクゼーションの会社で働くことになった。

 思い返してみれば5年以上リラクゼーションの会社で働いていたことになる。会社内で働く店は自由に選択できたため、色々な店を経験した後、最終的には先生の店と同じ深夜まで営業するお店で落ち着くことになった。

 だが、それも今となっては過去の話。

 新型コロナウイルスの感染拡大によって、世間の情勢は一変し、今は再び、流浪の身。

 ……もう、過ぎ去った時間は戻っては来ない。

 給付金などで当面はなんとか困らないものの、それでも見上げる明日は暗いまま。

 目の前には閑散となった公園広場。たった一日で献花台は消え、今では跡形もない。残るものはただ、世間からの中傷だけ。

 こんな世の中なら、いっそのこと――。


 プルルルル。


 スマホからの着信音に、意識が現実に引き戻される。

 誰だよ、こんなときに。

 着信画面を確認して、思わず漏れる笑いとともに全身が脱力する。

 応答すると、いつもの調子でいつもの催促。わかりました、と承諾し、通話を終える。

 ――相変わらずカンのよろしいことで。

 夜空を見上げると、そこには先生の笑顔が浮かんでいた。

 今もこうして自分がひとりでも生きていけるのは先生のおかげ。感謝しかなかった。


 それはおかしい。


 ふと背後に視線と声を感じ、振り返るもそこには誰もいない。だが明らかに背後にムスッとした視線と口ぶりの感触があった。


 ひとりで生きていけと言われて、感謝なんてするもんじゃないでしょ。


 その言葉は幻聴ではない。機嫌を損ねるのもわかるけど、そこはそうじゃないとはわかってほしいと思う。

 しばし、自分の両の手の平を見つめる。

 どういえば、わかってもらえるのだろうか。きっと伝わった言葉をそのまま口に出しては、また機嫌を損ねてしまうだろう。だから、伝わるようにするにはどうすればいいか。

 しばし、一時の思案。そして、己の内から浮かび上がる言葉。

 拳を握り、それを声に出して、つぶやいてみる。


「あなたはけっして、ひとりじゃ、な――い……」


 ……。

 …………。

 ………………。

 言葉にしてる途中でその意味に気づき、言葉の末尾はさんざめく霧の彼方のごとき小ささで消えゆく。

 いやいやいや。

 空を見上げると、そこには仕方ないネと笑顔のまま。

 ちょっと待って、そうじゃないでしょ。それはおかしいですよ。

 落ち着いて、はやる心を落ち着かせるべく深呼吸。

 1、2、3。1、2、3。

 そう、大事なのはリズム。教わったとおりだ。ゆっくり大きく深呼吸。そうだ、ついでに素数も数えてみよう。

 1、3、5、8、15、27、45、90。

 よしよしよし、だいぶいい感じに落ち着いてきてるぞ。間違いない。


 素数とは、2以上の数字で1でしか割り切れない数字の事である。実際には2、3、5、7、11、13、17と続くものであり、今数えた数字の大半は1以外の数字でも割り切れるため、そもそも素数ではない。


 気づくと公園の冷たい腰掛に座っていた。

 ぼんやりと夜空を見上げたまま、そして、力なくうつむく視線は公園に敷き詰められた石畳に向けられる。

 ………………まじかー。

 抜け出る魂の吐息とともに出るつぶやき。

 ひとりじゃなかったかー……。

 腰を落としたまま、再び見上げる夜空に問いかける。

 ……ひとりじゃだめなんですか?

 2番がだめじゃないなら、ひとりだってだめじゃないですよねといわんばかりに、シャツの襟をピシッと立てて、夜空に問いかける。

 仕方ないネ。

 かえすがえすも、ぐうの音も出ないお言葉。シャツの襟もすっかりしおれてしまう。

 もちろん、シャツの襟はあくまで比喩表現である。感情に反応してピシッと立ったり、しおれているわけではない。

 そもそもの言葉はなんだったのか。気を取り直して、その言葉を声に出してみる。


「あなたはけっして、ひとりじゃない」


 違う、そうじゃない。

 違ってないけどそれは違う。再度、思い出した上で意を決して、夜空に向かってその言葉をはっきりと口にする。


「あなたはけっしてひとりじゃない」


 ひとりじゃないんかい。自分でかつて口にした言葉を思い出せなくなっている自分に、自分でツッコミをいれずにはいられない。

 まあ、そうですよね。そもそもひとりで生きていけなんて言われてもいないし、ひとりじゃないなんてそんなの言われなくたってわかってますからね?

 堂々と夜空に向かい、心の中で宣言した。

 ピロン♪と先ほどの依頼主からのメッセージアプリの着信。


「台湾スイーツ食べたい」


 もう笑うしかない。

 わかったよ、わかりましたよ、買っていけばいいんでしょ。コンビニで買っていきますよ。コシの効いた肉饅頭ならよく作ってもらったけど、スイーツなんてなんも知らんがな。

 立ち上がって、夜空を見上げる。

 先生のくれたものなんて、他には賞味期限切れ間近の菓子パンばっかりだったってのに。……ねえ?

 変わらぬ笑顔に言葉だけの抗議を終えて、スマホをポケットにしまう。

 でもひとりも決して悪くないんですよ? 好きなものを気兼ねなく食べられるし、休みは昼過ぎまでゆっくり寝てられる。調子に乗って頼んだ激辛料理の残りを押し付けられることもない。なんてったって自由がある。俺は好きでひとりでいるわけじゃなくて、ひとりが好きなんですよ?

 それは虚しい抵抗だとわかってはいるものの、宣言するだけなら誰もきっと困らない。たとえ王様の耳がロバの耳であろうとも、真実はバレなければどうということはないのだ。

 大きく息を吸い込み、そしてまた大きく息を吐き出す。

 ポケットからマスクを取りだし、口元に装着する。

 帰るには駅から電車を乗り継がなければならないし、台湾スイーツを買うためにはコンビニに入る必要がある。まだマスクは必要だった。


「さようなら、先生」


 臼井ウスイはマスクを下ろしてから、夜空に笑顔でそう告げて、その場を歩き出した。



 コロナ禍を生きた人々

 andU(good)  -あなたはけっしてひとりじゃない- 終

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