第4話 亡き母は心のどこかにいる
「フュン、よいですか! この世を一人で生きていくことは出来ません。人は、必ず誰かを必要として、誰かと共に生きていくのです。一人でも生きていける! なんていう傲慢な考えはしてはいけませんよ。私たちは皆で手を取り合って協力して生きていくのです。そうなっていけば、皆が幸せになっていくのですよ。あなたも、そこのあなたも、そのまた向こうのあなたも、誰かと繋がっていくのです。ですから、誰かを一人にしてはいけませんよ。もちろん自分から一人になってもいけませんよ。大切な人たちに寂しい思いをさせてならないのです。いいですね。フュン」
「フュン、よいですか! 人間は必ずしも善の心ばかりではありません。必ずどこかに悪を持っています。善と悪の両方の心を持つのが人間なんですよ。だから、あなたも悪に心が負けて、心を黒く染めてはいけません。そして、善に囚われて盲目になってもいけません。一途な善は、純粋な悪と何一つ変わりがありません。ですから、あなたは両方の心を持ったまま生きていくのです。善の心。悪の心。互いをプラスとマイナスに捉えて、二つを合わせてゼロにするのです! よいですか。あなたがその無の境地へと至れば、この王宮の中にいても、生きていくことが出来るでしょう。ここからここは王宮となるのです。いついかなる時も油断は出来ません。だから、出来る限り感情をゼロに近づけるようにコントロールしなさい。難しいことかもしれませんがね。あなたが生きるにはそうしなければならないでしょう。私はあなたが強く生きてくれることを願っていますよ」
「フュン、よいですか! 色々な事を教えてあげたかったですが、幼いあなたにはなかなか理解ができない事ばかりだと思います。ですが、先の二つを守ってもらえれば、私がいなくとも、必ずやあなたの生きる上での指針になると思います。そして最後に私の願いを預けます。勉強や訓練などを大事にするよりも、何よりも人を大事にしなさい。人を助けることが出来るのもまた人だけなのです。ですから、あなたを救ってくれるかもしれないのもまた人であります。だから人を最も大切にしてくださいね。これだけ肝に銘じておきなさい。あと、私はいつまでもあなたを愛していますからね。たとえ私が死んだとしても。そうですね。私は、きっとお化けになってしまっても、あなたを愛してますからね。あはははは。だからフュン。あなたは、最後まで生きてくださいね。いつまでもそばにいますよ。心の中にね! ブイ! あははは!」
◇
夢の中の母は、最後にピースサインをして消えた。
元気で愉快で少し変だった母との懐かしき思い出は泡と消え、フュンは目覚めたのだった。
【お前は人質になれ】
そう父親に暗に告げられた事で悲しさと寂しさはより増していた。
直に言ってもらえた方がどれだけ気が楽であったか。
この複雑な感情を吐き出す。
はけ口がどこにもない。
今は亡き母。言い渡してきた父。
辛く当たってくる継母。傲慢な弟。
フュンのそばには心休まるような家族がいなかった。
路頭に迷いそうな状況に、フュンは押しつぶされそうだった。
それに、そもそも物にも人にも愚痴を吐き出すような男でもないのが余計に辛かった。
だから、フュンはどこかで気持ちを整理しようと一人で努力していた。
実は前日の食事会から帰ってきてからの記憶がない。
今座っている椅子に座った記憶も当然なかった。
朝になって机の前で起きた自分に驚くほどであった。
どうやら自分はここで突っ伏して眠っていたみたいで、顔と腕には机に沿った型がついていた。
フュンは、その痕を鏡で見て微かに笑い、夢の中の母にも微笑んだ。
幼い頃に聞いた母の忠告を今になってまた思い出したのである。
フュンの母が亡くなったのは7年前の出来事。
当時の彼は8歳。まだ幼い少年であった。
母は慈悲深く、お茶目でやんちゃな女性。
今もある王宮の木に登っては、木の上にいる虫を取り、自慢げに息子に見せるような元気一杯の人だった。
どこからどう見ても健康優良児の彼女が、ある時、病にかかってしまい亡くなってしまったのである。
彼女が亡くなった当時のサナリア王国は平原の統一間近であり、王宮もまだ完成には至らずで、アハトもまだ王として即位していなかったために、王妃の地位も当然に空白であった。
なので、あと数年丈夫に生きていれば、フュンの母が本来は王妃に即位するはずだったが、病のためにそれが頓挫して、ズィーベの母が王妃となったのである。
だから、王妃の息子としての記録がフュンには残っていないのである。
実際は第一王子としてあるが、格的には第二王子のズィーベが上になってしまっている。
それもあるからか。
王はフュンを人質に出来たとも言えるだろう。
残酷でもあるが、フュンはお家存続のための生贄となったのだ。
「そうか。僕は、そろそろこの王宮を出なくてはならないんだ・・・・だから大切な母上との思い出があるこの地にいる間に、夢に出てくれたのかな……ありがとう母上・・・・・いや、待てよ。化けて出てきたのかな!? あははは」
呟いたフュンは悲しくても前だけは向いていた。
母の生きてください。
この約束を果たすため。
健気な彼は今日と言う一日を懸命に生きる。
あらゆることに力はなくとも、彼の心は愛で満たされていて、そして心が強く成長していたのだった。
◇
その日のお昼。
フュンは、王宮の庭を見に来ていた。
色とりどりの花々。勢いよく生い茂る木々。
母が好きだったこの光景が、いつもと変わらないことに、心が満足していた。
フュンはある木の前で立ち止まる。
たしかここは、母が登ったことのある木であったなと思い出すと自然と笑みがこぼれた。
彼の母は面白い人であったのだ。
「見て見て! フュン! これがレアもの。サナリアオオカブトよ! サナリアにしかいないカブトムシなの!! ほらほら、見てよ」
「はいはい。良かったですね。母上」
「そうでしょ! あなたもこれを取れるように立派な木登り名人になるのよ。ふふふ。なかなか上まで登るのは難しいから、もう少し大きくなったら挑戦しなさい!」
思い出されるのは楽しい思い出だけ。
元気いっぱいの母の笑顔だ。
そして別な場面も思い出す。
木登りをやめた母は庭の隅にしゃがんでいた。
「こっちこっち、こっちに来なさい!」
「はいはい。母上、なんでしょう?」
フュンの母は、朝顔の後ろに隠れているように生えている細長い緑の草を、か細い指でつついていた。
この草は青い匂いがしなかった。
ほぼ無臭であった。
「これこれ、この草ですよ。覚えておいてください。これがサナリアだけに生えている薬草。サナリア草よ。ただの雑草だとみんなは勘違いしてますが。この草には消毒と治癒の効果があって、すり潰して体に塗ると傷が早く良くなります。そして、すり潰してから水で煮ると胃腸が良くなる薬になりますよ。だからね、それを料理に混ぜちゃいます。するとあらビックリ! 胃腸が整ったりする料理に早変わりするじゃあ~りませんか! どう? 凄いでしょ! 誰かを治療する時に使いなさい……あ、そうだ! 今から私がその料理と薬の作り方を教えてあげるからね。お家に入りましょう」
「え!? 母上。今、外に出たばかりですよ」
「いいのいいの。お外なんていつでも出られるからね。これを教えるのは今しかないのよ! あはははは」
どんな時でも強引であった。
そんな母の記憶しかない。
でも楽しい人だった。面白い人だった。いつも笑顔な人だった。
そして、この傷薬の作り方を伝授してくれた時にフュンの鼻がひん曲がった。
サナリア草は、草としての匂いが無い分、すり潰してから煮ると強烈な匂いがしたのだ。
目眩までしてきたフュンは顔をしかめる。
「フュン! 鼻をつまんで我慢しなさい。これはね。とっても体にいいのよ。匂いは我慢! 我慢!」
と言いながらフュンの母も我慢ならずに鼻を押さえていた。
「あと、直接飲んだら不味いですからね。気を付けてね。だからお料理に混ぜるのよ。ササッと混ぜちゃいますよ!」
「は、母上…これを入れたら料理が美味しくなるのでしょうか? 不味くなるのでは?」
「え?」
「いれない方がいいのでは、せっかくの料理が台無しになったら、もったいない」
「何言ってるのよ。これは薬膳のお料理になるのよ。別に美味しさを求めてないわ、一番大切なのは体の調子を整える事よ。たまに食べなさいね。いいわね!」
「え!?」
「んんん~。嫌そう顔をしてるわね。それじゃあ私が週に一度は作ってあげるわ。お母さんからの料理なら食べられるでしょ! 二人で食べましょうね」
「えええ」
「露骨ね。よいですか。王や貴族の前では、自分の表情を隠しなさいよ! 人には感情を読まれてはいけません。でも私はフュンの考えてることをすぐに分かっちゃいます。なぜならお母さんですからね。おほほほ」
「母上。母上こそ誰かに感情を隠すのが無理なのでは? 気持ちが顔に出やすいですよ」
「…そ、そんなことないわよ。おほほほ・・・・大丈夫。おほほほ」
と、ちらちらとフュンを見る母親だった。
◇
フュンは庭のベンチに座りながら、そんな楽しい母との思い出を振り返っていた。
ここにある木を見て、草を見て。そして花を見て、虫を見て。
目の前の景色全てに母との思い出が詰まっている。
そんな大切な場所がこの王宮の庭だった。
母親とはほんの短い間だけしか共に生きていないが、確実に自分の生き方の中に母がいる。
いつでも隣で笑ってくれているのだと。
フュンはそんな気がしていた。
フュンが、ぼうっとしていると、いつのまにかメイドや執事、兵士たちがたくさん集まっていた。
庭のベンチの前に数十名が集まり、フュンに挨拶をしたいがために押し合いながら一人一人が前に出てくる。
「え!? 皆さん? どうかされましたか? こんなに集まって? 何かありましたか?」
「フュ・・・フュン様、どうかご無事で。我らは感謝の言葉と感謝の気持ちだけしか、フュン様に送れませんが、フュン様のご無事をこの王宮から祈っております」
真摯な執事マルフェンが挨拶し始めると、続々とメイドたちも話し出した。
「祈っております」「私もです」「フュン様、どうかお気をつけて」
「・・・あれ? わざわざ皆さん。僕の為に集まってくださったんですね。ありがとうございます! ありがとうございます」
丁寧に一人一人に返事を返すフュンは、柔らかな笑顔を皆に向けた。
「俺たちだってな。いくぞ。せーの」
「「「兵士一同も、フュン様のご無事を心から願っています」」」
「はい、皆さんも。どうかご無理はせずに。体に気を付けて」
「「「ありがとうございます。王子!」」」
兵士たちは大きく声を出して、勢いよく敬礼した。
皆。優しいフュンとの別れを惜しんだ。
この場の者たちにとって、フュンとは生涯をかけて主君として仰ぎたいと思った人だったのだ。
だが、それはこの国の事情により叶わない。
ならばせめて、フュンがここにいるまでの間だけでもそばにいたい。
そう思う者はこの王宮の中にも少なからずいたのである。
その後。
一人一人と楽しく会話をしたフュンは、母を亡くした後に自分が歩んだ道は間違えていなかったのだと皆の笑顔を見て確信した。
悲しい出来事の中でも、いいことはあるものだと、人質として出発する日まで、フュンは満足した日々を過ごしたのだった。
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