第9話
あの後も俺と谷さんはバイトの日々が続いた。
谷さんの先輩は、俺に殴られたことをホテル側に言わなかったのだろう。バイト風情に一発喰らわされたのが恥ずかしかったのか、あるいは谷さんに悪いことをしたと思ったのか。理由はどうあれ、季節は秋を過ぎ、冬を迎えて年を越し、俺たちは3月最終日もバイトをしていた。
「今日でこの仕事も終わりやね」
4月1日から冷蔵庫は宿泊客が自由に使えるように中身を空にすることになったと通達が来たのは、3カ月前のことだった。
備品置き場で谷さんと向かい合って、昼ご飯を食べる。
俺たちがしてきた弁当の交換も、今日で終わりだ。
俺は容器を受け取り、代わりに谷さんにおにぎりを渡す。
「いただきます」
詰められていたのは、玉子焼き、赤ウィンナー、ほうれん草の胡麻和え、ミニトマト。
「俺が谷さんに交換を言い出した時のおかずだ」
「原点に戻ることにしました」
谷さんは懐かしそうに笑う。
「あれから結構作ったから、もう忘れてると思てたわ」
「あの出汁巻きの衝撃、忘れる訳ないじゃん」
黄身と白身がキレイに混ざり合った、ふっくらとした玉子焼きが俺を誘う。齧ると優しい昆布出汁の香りがふわりと広がった。
「うんまい。うちのおかんには無理なヤツだ」
「じゃあ陸くんが主任に作ってあげたら。きっと喜んでくれるんちゃうかな」
「そうかなぁ」
高校のこと、進学先の大学のこと、春休みの話など、何ということのない話題を重ねたところで、俺は切り出した。
「谷さんは、これからどうするの」
これまで何となく聞いてはいけないような気がして言い出せなかったが、弁当を囲むのも今日まで。雑談のひとつとしてなら聞いても許されるような気がした。
谷さんは口の中の物を全て飲み込み、お茶を一口飲んでから言った。
「またMRの仕事、することになった」
「へぇ」
「昔のツテでやらへんかて言うてくれる人がおってな。一回行って話聞いてみたら、小さいとこやけど雰囲気も良さそうやってん。もう一回頑張ってみよかなと思って」
「そうなんだ」
「だから今日、この仕事終わったら引っ越しや」
「引っ越し」
うまく言葉が消化しない。引っ越しって何だっけ。あれか、ここじゃない場所へ家を移すことか。
「この辺りで?」
「ううん、新しい会社の近く」
スマートフォンを開いて谷さんが示した会社の住所は、ここからいくつも電車を乗り換えないと行けないような、まぁまぁの都会だった。
「結構遠いね」
「僕も初めて住む場所やからドキドキしてる」
「そっか。手伝わなくて大丈夫?」
「そんなに荷物もないからね。気持ちだけもろとくわ」
あ。
今、谷さんは俺に気を遣わせないように作り笑いを向けている。
この人は最後の日まで、相手のために一生懸命笑おうとするんだな。
このまま流してしまうことも出来た。でも、最後に見る谷さんの顔が他人みたいな笑い顔なのは嫌だなと思ってしまった。
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