28.先生
薄い茶封筒の口を開き中を覗き込むと、そこには二枚の紙が入っていた。
まずは手前の一枚を引き抜き、膝の封筒の上に載せる。
それはA4のコピー用紙で、下の部分の三分の一ほどは破られてしまっていた。
「それは私が昨日、朝比奈さんに渡したものよ」
死体検案書
1.氏名:朝比奈 陽菜
2.性別:女
3.生年月日:平成■■年■月■日
4.死亡年月日:令和■年■月■■日
5.死亡時刻:午後4時30分頃
6.死亡場所:■■県■■市内 国道■号沿い
7.死因
直接の死因:出血性ショック
原因となった疾病または外因:自動車との衝突による多発外傷
それは安上先生の新聞記事や宗方先生の手紙やビデオよりも、よほど直接的だった。
「ほとんど即死だったんじゃないかしら」
「……この、破れている下の部分は?」
「昨日、彼女が破ってそこの窓から外に放り投げてしまったの。彼女はそれをみて、ほとんどの記憶を取り戻したみたいだった」
「そこには……何が書かれていたんですか?」
先生は白衣のポケットからしわくちゃになった紙片を取り出し、ほとんど死人のように冷たくなっていた僕の手に握らせた。
「自分で確認なさい」
突き放すような口調であるにもかかわらず、先生の目は慈愛と哀れみに満ちていた。
数秒間の逡巡を経て、丸まった紙片を丁寧に広げ、そこに書かれていた内容に目を通す。
「……ああ」
不思議と驚きはなかった。
封筒にあったもう一枚の紙は、文章ではなく写真のコピーだった。
もっともそれは写真といっても、普通のポートレートや風景写真ではない。
「それも私が昨日、彼女に渡したものよ。この世界にはルールがあって、彼女が自分で気づいてしまった以上、彼女の持ち物であるそれを渡さないわけにはいかなかったの。そしてそれは彼女の物であるのと同時に……杉浦くん。あなたの物でもある」
白と黒の二色で構成されたのその写真の脇には、アルファベットと数字で様々な情報が記載されていた。
「彼女は昨日、宗方先生の眼鏡を通して、この時の姿のあなたを見てしまったのでしょうね」
写真の中央にポツンと浮かんだ、丸くて小さな塊。
これがきっと僕なのだろう。
「彼女、大粒の涙をこぼしながら、私にこう言ってきたの」
『私の……私のことなんて、私の命なんて……そんなものなんて、どうでもよかった! お腹の赤ちゃんさえ、助かってくれたらって……それだけを願って、祈って、信じて……それなのに……それなのに!』
「結婚してからもなかなか子宝に恵まれなかった彼女は、定期検診で行った病院で妊娠していることを知らされた」
ヒナは。
「少しだけ浮かれてしまっていたのかもしれない。でも、それも仕方がない――ううん、当然のことでしょう」
ヒナは僕の。
「病院を出た彼女は、少しだけ早歩きで役所に向かった。急げば今日中に妊娠の届けを出すことができる。そうすれば、母子手帳を貰うことができたから」
だから僕にはもともと。
「彼女はなにも悪くなかったの。ただ、運が悪かっただけ。でも、彼女は自分のせいだって、そう考えた。もう少しだけ、ほんのわずかにでも、自分が注意を払っていたらって」
記憶なんていうものは、存在していなかったんだ。
「横断歩道を渡っている時に、赤信号を見落とした車が右折してきて」
僕は。
「消えゆく意識の中で彼女は、沈み始めた真っ赤な太陽を見つめながら祈り、そして願った」
もう一度だけでいい。
「あなたの――お腹の赤ちゃんが無事なことだけを」
ヒナに。
「杉浦くん。あなたがこの学園に再びやってきたのは、一目でもいいから自分の子供に会いたいという朝比奈さんの願いが、あなたに届いたからじゃないかしら」
僕はいつの間にか母親のお腹の中にいたときのように、床の上で体を小さく丸めて泣いていた。
白鳥先生は両膝を床に突きながら、僕の背中を優しく撫でてくれた。
「ユウくん、だったかしら? その名前、
「……せんせい……ぼくは……ヒナに……おかあさん……に……」
「まったく……もう。先生、すごくすごく悩んで、ここでは二度と他人の分の荷物は背負わないって、そう決めていたのに」
先生は小さく溜め息をつき、やれやれというジェスチャーをした。
ほとんど先生に負ぶさるような形でA棟まで連れてこられる。
道の部屋――冥道の扉を開けた先生は、白衣の襟を正しながら僕に背を向けた。
「ねえ。あなたは、『かごめかごめ』って
「……はい」
生まれてきてさえいなかったはずの僕なのに、その歌詞とメロディーはすぐ頭に浮かんだ。
「その歌詞のなかに、『夜明けの晩に』っていうのがあるでしょ?」
それは鶴と亀が滑る直前の部分だった。
「夜明けの晩って、あなたはどういう意味だと思う?」
「……わからないです」
「そんなものは存在しない。現実の世界ではね」
先生が話していることの意味が全くわからなかった。
「朝比奈さんのことは私に任せておきなさい」
「……先生?」
「さようなら、ユウくん。最後に先生らしいことができてよかったわ」
先生は冥道の部屋の奥へと進んでいき、その中央あたりで急に姿を消した。
「先生っ!」
追いかけようと一歩踏み出した時、部屋の扉がバタンと大きな音を立てて閉じてしまう。
扉は押しても引いても、そして横にずらそうとしてもびくとも動かなかった。
「……そうだ」
町田さんにもらった眼鏡を掛けて扉を見る。
しかしそこにあったのは、左半分が欠けた道というプレートと、真っ白な真新しい壁だった。
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