27.選択

 白鳥先生のあとに続き保健室まで戻ってくる。

 真向かいに座った先生は、机の引き出しから出した茶封筒をこちらに寄越した。

「これは?」

「朝比奈さんがこの学園を去った理由よ」

「……去った?」

「ええ」

 すぐにでも飛びかかって、体に空いた穴に手を突っ込んで真っ二つに引き裂いてやりたかった。

 だが、そんなことをしてしまったら、一度は消されたはずの僕が再びこの場所に戻ってきた理由と、その方法を知ることができなくなってしまう。

「先生が……ヒナのことを消したんですか?」

「いいえ。私はそんなことはしないわ」

「だってあなたは、魂が消えてなくなることこそが救いだと、そう思っているんでしょう?」

「ええ、そのとおりよ。だけどね、杉浦くん。私は生徒にそれを強要したことはないわ。ただ、選択の一つとして教えるだけ。そういう意味では、宗方先生のやり方はフェアではなかった。生徒たちに選択肢を示さずに、『余さず本来在るべき場所に戻す』とか言って息巻いて」

 先生は鼻息を荒げると、やれやれというジェスチャーをした。

「以前この学園に来た――小早川と名乗っていたあなたは、転入してきた次の日にはもう体育倉庫の裏で自分の姿を見て、それで全てを思い出したみたいだった。だから私、あなたにこう言ったの。『全部なかったことにできる方法もあるのよ』ってね。そうしたら顔を真っ赤にして暴れ出して……。もう、大変だったんだから」

 あのメモはきっと、その日の夜にでも書かれたものなのだろう。

「でもね。あなたは結局そのあと、納得して消えていったのよ」


 ここまでの先生の話が嘘だとは思えなかった。

 むしろ宗方先生によってもたらされたものよりも、遥かに多くの情報が彼女から得られていた。

「杉浦くん。あなたが掛けているその眼鏡、町田さんのものでしょう?」

「はい。彼女が学校を去る時に、僕にこれを」

「あの子、ここから出ていく前に私のところに来てくれたの。あなたに感謝してたわよ」

 確かに彼女には何度も感謝の言葉を掛けられた。

 しかし僕がしたことといえば、学園内をほんの少し一緒に散歩して、寮の前の階段で彼女の手をとったことだけだ。

「あの子は生前、五歳の女の子だったの」

「え?」

 僕はてっきり、同じ年齢の者たちがこの学園に集められているものだとばかり思っていた。

「彼女はその日、お母さんと一緒にスーパーマーケットに出掛けたの」



 町田さんのお母さんはとても忙しい人だった。

 だから彼女、ただ買い物に連れて行ってもらっただけなのに、本当に嬉しかったんでしょうね。

 繋いでもらった手をブンブンと振り回して。

 それでお店に入って、お母さんは夕ご飯の買い物を始めたの。

『ママ! わたしちょっとおかしうりばにいってくるね』

『いってらしゃい。でも、ひとつだけだからね』

 お母さんと繋いでいた手を離して、彼女は一人でお菓子を見に行った。


 しばらくして、とっておきのお菓子を手にした彼女は、お母さんの姿を探して店内を歩き回った。

 お母さんは野菜売り場にはいなかった。

 お母さんはお肉売り場にもいなかった。

 お惣菜売場にもパン売り場にも、お母さんはいなかった。

 もしかしたら、私を置いて帰ってしまったのかもしれない。

 私がわがままばかり言う子だから、お母さんは嫌になってしまったのかもしれない。

 そう思った彼女は、手に持っていたお菓子を元あった場所に返して、お店の駐車場でお母さんの車を探した。

 でも、お母さんの車は白色の軽自動車で、スーパーの駐車場には同じような車がたくさん駐まっていた。

 彼女は結局、車をみつけることができなかった。

 もしこの時、もう一度だけお店の中に戻っていたら、彼女のことを必死になって探しているお母さんを見つけられたでしょうに。


 スーパーから家までの道を知っていた彼女は、迷うことなく家に向かうことにした。

 大きな道路を渡って、お弁当屋さんのある曲がり角を曲がって、あともう少しで家に着く。

 拭っても拭っても溢れ出る涙で視界を歪ませながら、彼女はいつの間にか走り出していた。

 そんな時、道路脇の家の庭から犬が吠える声が聞こえたの。

 それはとても大きな声だった。

 驚いてしまった彼女は道路の脇を流れている小さな側溝に、背中から落ちてしまった。

 普段だったら乾ききっていたそこには、前の夜に降った雨水が急流の勢いで流れていた。

 彼女の小さな体は、狭い側溝にすっかり嵌まってしまった。

 顔の上を越えて流れていく水で、何度も何度も咳き込みながら、彼女は思った。


『ああ、あのときおかしうりばになんて行かないで、おかあさんと手をつないでいればよかった。そうすれば、おかあさんにおいていかれることなんて、なかったのに』



「彼女の後悔は、この学園のどの生徒よりも強いくらいだった。もし宗方先生が彼女に花壇の世話係という役割を与えなければ、すぐにでも消えて居なくなっていたでしょうね。あそこの花壇にはあの子のお母さんが好きだった、ペチュニアが植えられていたから」

 町田さんの話をする白鳥先生の顔は、僕がこの学園にやってきてから見たどの表情よりも穏やかで、それに悲しげだった。

「杉浦くん。この学園は後悔にさいなまれ傷ついた魂の、最初で最後の拠り所なのよ」

 先生のその言葉は、この学園が存在している理由を最も端的に説明していた。

「……僕もなんですよね? それは僕も悔いを残して、死んだってことですよね?」

「いいえ、あなたは違う。前にも言ったでしょう? あなただけは特別なの」

 それは僕が一度消え去ってから、再び戻ってきたことを言っているのではなかったのか?

「杉浦くん。遅かれ早かれあなたも選択しなければいけない。その時にどちらを選ぶかはあなたの自由だけど、その前に自分がこの学園に来た理由くらいは、知っておきなさい」

 先生は僅かに眉をしかめめながら、僕の膝の上にある封筒を指さした。

「え? これはヒナの……」

「ええ、そうよ。でも、あなたの物でもある」

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