16.図鑑

「それじゃユウお先に。今日はちゃんとお部屋で寝なさいね」

 六時限目の授業が終わった途端、ヒナはそう言い残して教室を出ていった。

 その直後、斜め前の席の男子が椅子を傾けながら話しかけてくる。

「なあ、圭佑」

「なに?」

「お前ってさ、俺の好みなんだよな」

 夏の真っ昼間にして瞬間的に全身が粟立つ。

「真顔で怖いこと言わないでほしいんだけど……」

 ホラー映画のジャンプスケアですら、もう少しくらい手心がある。

「あ、悪い。あくまで顔が好みだって話な」

「あんまりフォローになってないけど……。てゆうか、僕の顔ってそんなに女の子みたいなの?」

「どこからどう見てもな」

 転入してきたばかりの頃にも、何人かのクラスメイトに同じようなことを言われたことがあった。

 ただ僕は未だに自分の顔すら思い出せていなかった。

 ここが普通の学園なら、トイレの手洗い場に行くなり暗がりで窓ガラスを見るなりすればいい。

 だがここのトイレには鏡がないし、透明な窓ガラスも一枚もなかった。

 それは情報の入力を極度に制限するという、この学園の治療方針の一環だと聞いている。


 ちょうどその時、僕たちの間を女子生徒が通りかかる。

「お、赤堀あかほり。ちょっといいか?」

 急に呼び止められた赤堀さんは、外側にカールした茶髪のセミロングを細かく揺らしながら足を止めた。

「は? なに? なんか用?」

「いいヤツ付けてんじゃん。そのヘアクリップ、オレに貸してくれよ」

 その言い様は山賊さながらだった。

「は? バカなの? 嫌に決まってんじゃん。てかあんた、ボウズだし」

「オレじゃなくて、ちょっと圭佑に付けたくてさ」

「あー貸す。興味ありすぎ」

 わけのわからないやり取りの末にわけのわからない取引は成立したようだった。

 最たる当事者である僕を蚊帳の外側に置いたままにして。


 白昼の放課後の教室で今まさに、はなはだしい人権の蹂躙じゅうりんがなされようとしていた。

「はいケースケくん。ちょっとコッチ向いてねー」

「え、やだよ」

「じゃあソッチ向いててもいいケド、そのかわり動かないでねー」

 机を挟んだ正面で前かがみになった赤堀さんは、自分の髪を留めていた水色のヘアクリップで僕の前髪を挟み込んだ。

 彼女はクリップから手を離して後ろに一歩引いた途端、たったひとこと、「完全体じゃん」と漏らす。

 その様子を自分の席から見ていた彼は、「やっぱりな」と言いながら、壊れたように首を何度も縦に振った。

 一連のやり取りを遠巻きに見ていた何人かのクラスメイトも、皆一様に”さもありなん”といった表情を浮かべている。

「……あの、もういい?」

 今すぐにでも寮に帰って泣きたい気分だった。

「うん。かなり満足したからもういいよ。お礼にそれ、ケースケくんにあげる」

「結構です」

 前髪からクリップを外して机の上に置く。

 そして更なる厄災が降りかかる前に教室から逃げ出した。


 夏の空はよく晴れ渡っていたが、僕の心は生憎の雨模様だった。

 青い息を吐きながら、じょうろを片手に花たちに水をやる。

 花壇に咲いている花は十種類近くある。

 その中で僕が名前を知っているのは、赤くて背の高いサルビアと、黄色やオレンジで葉の細いマリーゴールドだけだった。

 たったのそれだけであっても、僕が知っている僕自身の情報よりは多かった。

「……町田さんが好きだっていってた花は、なんていう名前だったっけ」

 自分のことを知る方法はわからないが、花の名前を調べる方法はすぐに思いついた。


 職員室に入り一番奥まで進むと、仕事をしている安上先生を見つけることができた。

 先生の机のある通路からではなく、正面に回り込んで声を掛ける。

「お仕事中すいません。ちょっと図書館で調べ物をしたいんですけど……」

 先生は机の上に落としていた視線をおもむろに上げた。

「ん? ああ、それだったら鍵当番の先生に言ってくれるかな。確か――」

「私です」

 安上先生の視線が僕の斜め後ろに移される。

「ああ、今日は宗方先生でしたね。彼のことをお願いしてもいいですか?」

「ええ、構いません。ちょうど私も図書室に用事があったので。杉浦、付いてきなさい」


 無駄のない動きで先を行く宗方先生のあとに続き、やや距離を空けながら階段を上る。

 何か適当な言い訳でもしてこの場から離脱しようか?

 そんなことを考えているうちに、あっという間に図書室に到着してしまう。

 先生はポケットから出した鍵束でドアを解錠すると、「入りなさい」と言いながら、視線を初めて僕の顔に向けた。

 その時、眼鏡の奥にある切れ長な目が、一瞬だけ大きく見開かれたように見えた。

「あの、なにか?」

「……いや。さあ、中に入りたまえ」

 先生の横を通り抜けて図書室に足を踏み入れる。

「私はこの奥の部屋で作業をしている。もし何かあれば声を掛けてくれて構わない」

 先生は書架の間をスタスタと歩いて『資料室』のプレートが貼られたドアを開けると、薄暗いその奥へと消えていった。

 先生の姿が完全に見えなくなり、ようやく深く呼吸をすることができた。


 植物図鑑は何冊かあった。

 その中に、まさに僕の目的におあつらえ向けな一冊を見つけ、窓際に置かれた三人掛けのソファーに腰を下ろす。

『学校の夏の花だん』という題名が表紙に書かれたその本は、分類上”図鑑”というよりは”ずかん”のほうが近いのかもしれない。

 親切にも花の色別で目次が振られており、花壇に咲いている花は簡単に見つけることができた。

 ラベンダーやケイトウは聞いたことがあったが、ポーチュラカやジニア、それにアンゲロニアといった初めて目にする名前のものもある。

 それらの中にひとつだけ、最近になりその名を覚え、そして忘れてしまっていた花があった。

 町田さんが”一番のお気に入り”だと言っていた、ペチュニアという花がそれだ。

 机の上に本を置いてページに目をやると、説明書きの最後の行がピンク色の蛍光ペンで塗られていることに気付く。

 それはこの花の花言葉だった。


『あなたと一緒なら心が和らぐ』


 僕がこの学園に来た時点で、一番長く在籍していた生徒が町田さんだった。

 その期間は半年に近かったと、本人から聞いた覚えがある。

 僕は二度この学園にやってきたのだと、白鳥先生から昨日、教えてもらった。

 一度目のそれは、半年ほど前だったという。

 だとしたら、町田さんと出会ったのも二度目だったはずだ。

 一度目の僕と彼女は、どんな関係だったのだろうか。

 白鳥先生に聞けば教えてもらえる可能性はある。

 だが、今更それを知ったところで、何かが変わるはずもない。

 それに、僕が知らなければいけないのは、以前この学園にいた僕ではなく、今この学園にいる僕なのだから。


「目的の本は見つかったか?」

 頭上から声を掛けられ顔を上げる。

「――植物図鑑か。そういえば、今は君が花壇の管理をしてくれているのだったか」

 白鳥先生から聞いたのだろうか?

 それともこの人は、僕たち生徒の行動のすべてを見張っているのかもしれない。

「……あの、先生は花が好きですか?」

 今この時にでも、考えていることを見透かされているような気がして、咄嗟に口に出したその質問は、およそ男子高校生が同性の教師に対してする類のものではなかった。

『くだらないことを言っていないで用事が済んだのなら帰りなさい』

 きっと、そんなセリフが飛んでくるのだろう。

 そう予想し、少しだけ身構えながらその時を待った。

 しかし、先生が実際に口にしたのは、あまりに思いがけない言葉だった。

「……そうだな。嫌いではない。いや、むしろ好きと言ってもいい」


 図書館をあとにし、一階の廊下まで戻って来た。

「それでは私はこれで失礼する。君も用事が済んだのなら寮に戻りなさい」

 時間差で先ほどの予想を回収してしまった。

「はい、ありがとうございました。失礼します」

 そう言って、その場から立ち去ろうとした時。

「――杉浦」

 姿勢をやや正して先生の正面に向き直る。

「呼び止めてしまってすまない。そういえば、君に頼みたいことがあったのを忘れていた」

 弛みかけていた緊張の糸がピンと音を立て張る。

「なんですか?」

 先生は眼鏡のつるに手をやると、それを二度ほど持ち上げてから続けた。

「資料室から持ち出したものを至急返却するように。君のクラスの朝比奈という女子生徒に、そう伝えておいてほしい」

 先生が言っているのはきっと、あの時の大きな封筒のことだ。

 資料室から失くなった封筒を持ち去ったのがヒナだと、なぜ先生は知っているのか?

 というか、ヒナが犯人だと知っているのなら、その時に一緒にいた人物が誰だったのかも、この人はきっとわかっていたはずだった。

 そのことに気づいた瞬間、首筋に氷を当てられたような気分になった。

「それともう一つ。これは君に対する質問なのだが」

 生唾を飲み込んでから、「なんですか?」と冷静を装い聞き返す。

「それのことだが」

「え? どれですか?」

 先生の細い指が僕の顔の上辺りを差す。

「君が髪に装着している物だ」

 首を傾げながら自分の顔に手をやると、前髪の中ほどで硬いものが触れる。

 引っ張ると少しの痛みを感じた直後に、パチンと音がして床の上に何かが落ちた。

 それは水色のヘアクリップだった。

 どうやらヘアクリップは一つではなく、二つ付けられていたらしい。

「校則で禁止されていない以上、君がそれを付けること自体は問題ない。ただ、少々気になっていたので訊ねてみた」

 こんなことなら怒られたほうがよっぽどましだった。

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