15.特殊
決して枕としての使命を忘れてしまったとういわけではなかった。
しかしどうやら僕も、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
それを知った時にはもう、屋上に彼女の姿はなかった。
仕方なく一人で階段を駆け下りると、人の目を気にしながらそそくさと寮に帰って朝食をとり、何もなかったかのように振る舞いつつ登校し、そして今に至っている。
後ろの席に座る少女は、僕と同じかそれ以上に平静な装いで、「おはよう」と声を掛けてくる。
「起こしてくれたらよかったのに」
少しだけ口を尖らせながらぼやいた。
「ユウ、すごくよく寝てたし、それに二人で一緒に寮に帰っているところを誰かに見られたらヤバいでしょ? 手を繋いでたどころの騒ぎじゃ済まないよ、きっと」
「それは確かにそうかもしれないけど……」
上手く丸め込まれてしまった。
何も変わったこともなく午前の授業が終わり、そして午後の授業も終わった。
帰り支度を終えて教室から出たところで、廊下の向こう側から宗方先生がやってくるのが見えた。
寮の風呂で関に聞いた話を思い出した僕は、今朝に引き続き何気ないふうな表情を作ると、先生に背を向けて校舎の反対側の階段を駆け下りた。
昇降口までたどり着いたところで振り返り後ろを確認する。
そこには宗方先生どころか人っ子一人おらず、薄暗い廊下がその突き当たりまで続いていた。
もともと僕に用事があったというわけではないのだろうから、当然といえば当然だった。
日課であり委員会活動でもある水やりを終わらせると、寮に帰る前に保健室に立ち寄る。
それは昨夜、屋上で枕になりながらずっと考えていたことを白鳥先生に相談するためだった。
開けれたままのドアの端をノックすると、机に向かっていた先生が顔をあげる。
「あら、杉浦くん。どうかしたの?」
「ちょっと相談したいことが」
「相談? 少しだけ待ってもらえる?」
先生は椅子に座ったまま向きを反転させると、保健室の奥のカーテンに向かって声を張った。
「ねえ、朝比奈さん。続きは明日にしてもらってもいい?」
すぐにカーテンの向こう側から、「はーい」と返事が返ってくる。
やがてカーテンの隙間から茶色い封筒を胸に抱えたクラスメイト、朝比奈ヒナが姿を現す。
「あれ、ユウ。保健室になんか用事?」
「うん、ちょっと。ヒナは?」
「私はコピーを借りてたの。それじゃごゆっくり」
ヒナはそう言うと、白鳥先生に一礼して保健室を出ていった。
「おまちどうさま。じゃあ、こちらにどうぞ」
スツールに腰を下ろし、先生と膝を向かい合わせる。
「それで、相談って?」
「正直に言います。僕はこの学園に来た時から今日まで、症状がよくなっているという実感がほとんど……いや、まったくありません」
僕たちが患っているこの病気は、治療法は確立されていないが時間の経過で改善に向かうと、医者からも学園からも説明を受けていた。
クラスメイトたちは――もし彼ら彼女らが僕と同じように嘘をついていなければ――程度の差こそあれ、何かしら回復の兆候をみせていた。
「僕の症状が特殊ってことはないですか? それとも、他になにか理由があるんでしょうか?」
スツールから腰を半分浮かせながら先生の言葉を待った。
「確かにあなたは、少しだけ特殊なの」
その回答は、予想範囲の内側にあったものの一つだった。。
「それは人よりも症状が重いとか、そういうことですか?」
「そうね。そうかもしれない」
やっぱり訊かなければよかったと、今になってそう思った。
「私はこの学園が設立されてから五年近く今の仕事をしているけれど、あなたのような生徒は今までに一人もいなかったわ」
校舎から寮までの200メートルにも満たない道のりが、今日はやけに長く感じた。
その半分は寝不足のせいで、残りの半分は、今しがた保健室で先生に聞いた話のせいだった。
『あなたがこの学園にやってきたのは今回で二度目なの。一度目は半年ほど前で、その時はすぐに記憶障害が解消されて、たったの二週間でここを去っていったわ』
『七月の転入生の資料を受け取って、その中にあなたの名前と写真を見た時、正直に言えばとても驚いたわ』
『この病気を再発したのは、私が担当した二百人ほどの生徒の中で、あなた一人だけなの』
ただでさえよくわかっていない病気なのに、僕はその中でも特異な存在なのだという。
ただ、保健室を出ようとした時、先生はこうも言っていた。
『先生はね、この学園に来る前は普通のお医者さんだったの。たくさんの患者さんを診てきて、その中には治してあげることのできなかった人もいたわ。こう言ったらあれだけど、あなたたちが罹っている病気は、すぐに命に関わるような性質のものではないわ。それにね、杉浦くん。あなたは一度もう、この病気に打ち勝っているのよ』
僕は白鳥先生のその言葉に、少しだけ救われたような気がした。
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