兄さん呼び敬語系獣人義妹(依存気味)は兄離れできるのか?

げんゆー

僕のことが大好きな獣人義妹は兄離れできるのだろうか?

 高校から帰ってきて、何気なくテレビを付ける。それはきっと、家にテレビがあるなら誰しもが経験したことがあると思う。たぶん、スマホが普及した現代でも変わらない。


 だから、僕がテレビを付けたことに理由はなかった。結果として、不愉快な気分になったわけだが。



『最近、獣人の犯罪行為が相次いでおり──』


「………………」

 


 僕はテレビを付けて、ものの2秒で切ってしまった。



 獣人──。それは、普通の人間とは違う、動物のような特徴があらわれた人を指す言葉だ。昔からいたわけじゃないらしい。ろくに聞きもしなかった歴史の授業では、確か突然変異とか、人為的に起こされたとか、色々な説があったと思う。唯一明確に覚えているのは、獣人が現れ始めたのは第二次世界大戦が終わった直後のことだったという事のみだった。


 だから、獣人は今になっても被差別民だ。人間は差別が好きな生き物、いくらかマシになっとはいえ、未だに獣人は多かれ少なかれ奇異の目で見られている。獣人というだけで周囲から虐められ、獣人というだけで無実であっても犯罪者扱い。ただ少し、周りと違うだけなのに。


 僕はそんな社会が、世界が、どうしようもなく嫌いだった。だって──。


 

 ……鍵が開く音。そうしてすぐに、リビングのドアが開いた。



「……ただいま、兄さん」


「おかえり、リナ」



 ──僕の大切な妹は、獣人だからだ。



「お風呂、入りますね」


「いってらっしゃい、」



 "スギハラ リナ"。それが、僕の妹の名前だ。国籍は日本人で、人種は──分からない。というのも、僕とリナは血がつながっていない。僕たちがもっと小さい頃に父さんが知人から引き取ったという、いわゆる義妹というやつだ。だから、リナがどこの国で産まれた獣人なのか、未だに知らない。リナ自身も覚えてないだろう。


 そして、このリナという名前は、僕が名付けた。リナには名前が無かったから、父さんが僕に付けさせた。


 でも、リナの名前に漢字はない。日本において、今でも獣人の名前に漢字を使うことは許されていない。なんでも、獣人を人間と区別するためにそうなっているらしかった。兄である僕には"杉原隼人すぎはら はやと"という漢字があるのに、妹にはそれがない。なんだか、それが無性に悔しかった。



「……漫画でも読むか」



 さっきのテレビの内容がまだ引きずっている。一体、犯罪者として捕まった彼らの内、何人が本当の犯人なのだろうか。


 幸い、僕の住んでいる街は"世界的にはマシ"の呼ばれる日本から見ても珍しい、獣人に対する差別がほとんどない街だった。だからリナは近所のおじちゃんおばちゃんたちから可愛がられているし、友達もたくさんいる。


 でもいつか、リナが大きくなってこの街を離れるようなことがあったら──リナも、こうやって犯罪者扱いされてしまうんだろう。


 ギャグ漫画を読んでも、気分は晴れなかった。



――――――――――――――――――――



「──兄さん、上がりましたよ」


「うん……っておい!」



 風呂から上がったリナがリビングに戻ってきた……のと同時に、僕は叫び声を上げた。なぜなら、服を着ていなかったから。下着も着けず、局部を隠すことすらせずに素っ裸で僕の後ろに立っていた。



「ふ、服は着ろって言ってるだろ!」


「………………」



 獣人は、動物の特徴があらわれる。リナの場合は、耳だった。まるで猫のような、頭からぴょこっと生えた大きな獣耳。ガラスの様に透き通ったロングストレートの白髪。宝石のように輝く薄紫色の瞳。モデルのようなスラッとした体型に、決して豊満とは言えないが小さいとも言えないくらいの胸。お淑やかで、少し儚げで、ミステリアス。獣人であるという事実さえなければ、きっと全人類が美少女だと持て囃される容姿だ。



「兄さん、その……そんなに見られると、恥ずかしいです」


「あっ……ご、ごめん……」



 リナにそう言われて、慌てて目を逸らす。……というか、見られて恥ずかしがるなら最初から服を着ればいいのでは……? そのことを言ってみると、



「でも、兄さんなら見ても良いです。私は妹ですから」


「そういう問題なの?」


「そういう問題です」



 そう言って、リナは裸のまま僕に抱きつく。そういえば、僕は今日体育の授業があったはず──。

  


「すぅーっ……♡ ふぅーっ……♡」


「……………」



 僕のうなじに顔を埋めて、人よりも利く獣人の鼻をくんくんと動かしている。リナは、小さい頃からこうやって僕の匂いを嗅ぐのが好きだった。


 こうやって、体育の授業があった日でもお構いなしに。なんでも、本人曰く「兄さんの匂い、安心します。たぶん、この世界で一番好きな匂いです」……だと。


 リナの本当の両親はもういない。だから、最初は恥ずかしかったけど、こうすることでリナの心の傷が少しでも塞がってくれれば良いと思って始めたことだったのに。


 リナと出会ってもう12年。リナのこの癖は収まるどころか、もっと酷くなっている気がする。



「……満足した?」


「ん。ありがとう、兄さん」



 やがて僕から鼻を離すと、今度は耳元で囁いてくる。



「兄さん。私、テストで100点でした」


「ああ、偉いね」


「体育の実技でも、満点でした」


「流石リナ」



 彼女は天才だった。最初は勉強が出来なかったが、僕が教えるとスポンジの如く知識を吸収し、あっという間に満点をとるようになった。僕の教え方が上手いわけじゃない。試しに僕の友人に教えてみたが、むしろ点数が下がる結果に終わった。


 それに、獣人は身体能力が高い。これも差別される要因の一つなのだろうけど、走り高跳びは3mを軽々と飛び越え、100mを8秒で走り切る。それまでの人類には成し得なかった記録を次々に塗り替えたせいで、今の獣人は公式な大会には参加できないのだが。



「だから、撫でてください。妹が頑張ったんだから、兄さんは褒めるべきじゃないですか?」


「リナが服を着たらね」



 ……お淑やかでミステリアスなんてとんでもない。その実、わがままで少しお転婆な妹だった。



「……兄さんのケチ」


「ケチじゃない」 



 もう高校生にもなるのに、未だにリナは兄離れできていないように思える。僕の友人は妹に「キモい」と言われたのが原因で発狂してしまったというのに。僕もいつか、リナにそんなことを言われる日が来るのだろうか?



「……はい、着ました」


「よし、それじゃあおいで」



 僕の膝の上になんの躊躇もなく頭を乗せ、じっと僕の腹の方を見つめている。何を考えているのかは分からないが、上機嫌なことだけは長年の経験で分かった。



「よしよし、リナは偉いな」


「ん…………」



 気持ちよさそうに目を細めて、耳をピコピコ動かしている。時折もぞもぞと動き、リナの頭が僕の身体をくすぐった。



「あ、そういやさ、父さんたち、来週帰ってくるって」


「そうですか……。ふふっ、楽しみです」



 両親は僕たちを家に残して海外を飛び回って仕事をしている。なんの仕事をしているのかは教えてもらえないし分からないが、リナを拾ってきたあたりまともな仕事ではないと思う。


 でも、そんな両親でも僕は好きだ。獣人と差別せずにこうやってリナを拾ってきたり、時折見ず知らずの人々から届く、父さん達宛の感謝の品々を見て誇らしい気持ちになる。どうやらそれは、リナも同じらしかった。



「リナ、今日のご飯は昨日のハンバーグの残りだけどいい?」


「もちろん。兄さんの作った料理なら、なんでも」



 家事は分担制。といっても、殆どは気づいたほうがやるシステム。唯一、食事は僕で、洗濯はリナという暗黙の決まりがあった。どうしてそうなったのかは覚えていないが、それで上手く回っているんだからこれでいい。



 そんなこんなで僕たちの時間は過ぎていく。リナは、いつも僕の側にいた。年頃の女の子なのに、友人たちと遊びに行くこともせず、スマホで遊ぶこともなく、勉強することもなく、僕の近くにいた。


 そしてそれは、寝るときも。



「それじゃあ、電気消すよ?」


「はい」



 リモコンのスイッチを押すと、部屋の照明が消える。すっかり暗闇に包まれた部屋、横からはリナの呼吸音がする。


 僕たちがもっとも一般的な兄妹とは異なる点──それは、未だにリナが僕と一緒に寝たがることだった。12年前、僕が5歳でリナが4歳。あの時から、中学の時に一度あった修学旅行を除いて僕たちは一度も別々に寝たことがない。


 リナ曰く、僕と一緒なら、悪夢を見なくて済むらしい。けれど、僕は知っている。リナがたまに、授業中に居眠りしてしまっていることを。リナの友人から聞いたのだ。「なんでリナちゃんは授業中に寝たりしてるのに、あんなに成績がいいんですか!?」って。その時、僕はリナの悪夢は嘘で、単に僕と一緒に寝たいだけなんだなと知った。



「にぃ、さん……♡」



 僕の腕を抱き枕にして、幸せそうに眠りこける僕の妹。同じ石鹸を使っているはずなのに、どうしてこんなに甘い香りがするのだろうか。リナの全てが好きなはずの僕にとって、この匂いだけは唯一苦手だった。頭の中をリナに支配されて、何も考えられなくなって、このままリナに襲いかかってしまいそうになるような。そんな理性が溶けるような甘くて魅惑的な匂い。血は繋がっていないと言えど、妹にそんな感情を抱いてしまう自分が気持ち悪くて仕方なかった。



 そうだ。このままでいいのか? ずっとこうしていて、本当にリナは幸せになれるのか? 僕とリナは、ずっと一緒。そうならいいけど、未来なんて誰にも分からない。それに、この匂いに溶かされて、僕がリナを害する存在になってしまうんじゃないか? 僕は兄として、そろそろリナを兄離れさせるべきじゃないのか? そして、僕も妹離れをするべきなんじゃないか?


 そんなことを考えているうちに、僕の意識もどんどん朦朧になっていく。僕はそのまま、睡魔に身を任せて目を閉じて……。







「……兄さん?」


「……兄さん」


「寝ました、よね……?」


「……ごめんね、兄さん」


「悪い妹で、ごめんなさい」


「でもね、兄さん」


「手を出してくれない兄さんも悪いんですよ?」


「今は、まだ、我慢できますから」


「でも……いつか絶対、ですよ……♡」





――――――――――――――――――――





「なんだ隼人、相談って。どうせリナちゃんのことだろ?」


「なんでわかったの?」


「お前の悩みなんて、リナちゃんの事しかねぇって」



 昼休み。弁当を頬張りながら僕の親友──村上和人むらかみ かずとは笑った。こいつが例の妹にキモいと言われて発狂した男。今ではすっかり二次元の妹にのめり込み、理想の妹像を追い求めている悲しき男だった。



「その……兄離れさせるには、どうすればいいと思う?」


「はぁ?????」



 まるで信じられないものを見るような目で僕を見る和人。



「お前、あんなに可愛くて良い子な妹を捨てるというのか……!?」


「捨てるって大げさな」


「大げさなものか!」



 椅子を蹴り、大きな音を上げて立ち上がる和人。そのまま机にバンっ!と両手を付き、僕に対して熱弁し始めた。



「いいか隼人! お前の妹はな! 全兄たちが羨むパーフェクト妹なんだぞ!? 自分だけのものにしておきたいとは思わんのか!?」


「妹にそんな感情抱かないだろ」



 やっぱりこいつは頭がおかしいままらしい。冷静に考えて、どこの世界に、妹にそんな邪な感情を抱くやつがいるのか。……いや、僕か。僕もこいつと同じなのかもしれない。だからこそ、一刻も早くリナから離れないといけないのだ。あの匂いが僕を溶かしてしまう前に。



「ファァァァァァッック!! だから貴様はダメなのだ! お前なぁ! リナちゃんがなぁ! どれだけお前を────ぉぎゃっ」



 それ以上、和人の口から言葉が放たれることはなかった。糸が切れたように、床に崩れ落ちる。



「──うちのゴミカス兄貴がご迷惑をおかけしました」



 和人は彼の妹──村上華花はなかの拳に沈んでいた。華花ちゃんはリナの親友だ。実際リナは我が家に友達を呼ぶことは滅多にないが、華花ちゃんだけは別らしい。月に一、二回くらい遊びに来るのだから。


 ちなみに、彼女は齢16にして柔道黒帯、空手も初段。年齢制限がなければもっと上であるという噂。獣人であるリナと体育の授業で張り合うことができるフィジカルモンスターである。



「兄貴の代わりに、あたしが代わりに相談に乗りますよ? リナのことですよね?」


「まあ、そうだけど。リナには内緒にしてよ?」


「もちろん!」

 


 まあたしかに、和人とかいうイカれた狂人に相談するよりもリナの親友に相談したほうが有益な情報を得られるかもしれない。早速僕は先程和人にした話を華花ちゃんにもすることにした。



「はぁ?????」



 和人と同じ反応をした華花ちゃん。どうやら、兄妹は似るものらしい。



「……お互い苦労するね、リナ」



 華花ちゃんがボソリと呟いた言葉は、教室の喧騒に掻き消されて聞き取ることはできなかった。



「それで、具体的に隼人お兄さんはどうするつもりなんですか?」


「別居くらいしか思いつかなかったんだよね……。でも、流石に別居なんて無理だからさ。なんか良い方法はない?」



 うーん。と、華花ちゃんが顎に手を当てて思案する。



「鈍い隼人お兄さんが悪いけど……でも素直に言わないリナも悪いし……。……素直に言えないのはあたしも同じか」


「?」



 小さくボソボソと呟く華花ちゃんの声は届かないまま。そうしてしばらくすると、華花ちゃんは「あ」と声を出して。



「それじゃあ、こういうのはどうですか?」










「──ありがとう華花ちゃん。助かったよ」


「いえいえ、どういたしまして」



 ペコリとお辞儀をして、隼人お兄さんとバカ兄貴のいる教室から自分の教室に戻る。



「余計なことしちゃったかなぁ。バレたらリナに怒られるかも」


 

 廊下の途中、あたしの可愛い親友の顔が思い浮かぶ。不器用で、ちょっぴり重くて、とっても兄思いな彼女。血が繋がってなくて・・・・・・・・・、鈍感な兄を持つもの同士、分かるものはあるけどね。



「まあ、大丈夫かな。頑張ってね、リナ」



 そうしてあたしは、過去に兄貴の服に付いてた虫に対して「キモい」と言ったら兄貴が勘違いして、結果オタクになってしまったあのバカをどうすれば元に戻せるか考えることにした。


 有効な手立ては今のところ、あのリナの頭を持ってしてもあたしが素直になること以外ないらしいけど。





――――――――――――――――――――





「リナ。大切な話がある」


「どうしたの? 兄さん」



 その日、家に帰ってきたリナに。いつになく真剣な顔を作って、いつも通りに僕の側にいるリナに話しかける。少し心が痛むけど、これがリナのためになると信じて。



「僕さ、彼女ができたんだ」



 これが、華花ちゃんが考えてくれた兄離れさせる方法。彼女ができたから、距離をとる。 嫉妬深い彼女だから、妹に嫉妬して不機嫌になるかもしれないと伝えれば距離が取れるはず。華花ちゃんはそう言った。


 そうしてしばらくの間が空いた後、リナの口から放たれたのは──。



「────は?」


「…………っ!?」



 その言葉に乗せられた感情は、言葉で表すことなんてできなかった。怒り、悲しみ、絶望、疑問、恐怖、嫉妬、混乱──そんな感情が入り混じったような、ドロッとした、心が凍りつくような声色だった。



「兄さん。冗談を言うなら、もっと面白いものしてください」


「い、いや……冗談、なんか、じゃ……」



 ──どんッッ!!!



「兄さん」



 リナに押し倒されたと理解するまでに、数秒の時を要した。僕の心を見透かすような、責めるような、縋るような、そんな目だ。


 僕は、こんな目をさせたかったのか?


 でももう、止められない。だって、これはリナのためなんだから。



「リナ、離れろ」


「…………っ」



 初めての、僕からの拒絶。リナは僕の言うことに逆らえないと、僕は知っていた。だって、小さい頃からずっとそうだったから。こんなこと、おかしいのに。僕が兄だから何でも言うことを聞くなんて、おかしいんだよ。リナ。



「わ、わたし、は……っ」



 反射的に僕から離れたリナ。涙をポロポロとこぼし、それでもなお何かの間違いだと。縋るように祈るように手を伸ばしてきて──。


 僕は、その手を振り払った。



「そろそろ、兄離れするんだ。リナ」


「…………ぁ」



 僕はその日、あの時のように絶望したリナを瞳を見た。



――――――――――――――――――――



 僕とリナが初めてあったのは12年前の、僕が5歳でリナが4歳の時だった。当時、母さんと二人暮らししていた僕の元にふらっと帰ってきた父さんが連れてきたのが、当時名前すらなかったリナだ。


 僕は信じられなかった。もちろん獣人は僕たちとは違うってことはなんとなく知っていたけど、5歳のガキに差別なんて概念が良く分かるわけもなくて。自分より一つ下のこんな小さな女の子が、ガリガリに痩せこけて、こうも死んだような目ができるのか? それくらい、当時の僕には衝撃的だった。


 その時、父さんは僕に聞いたんだ。


「隼人はどうしたい?」


 だから僕は答えた。口が勝手に動いた。


「ぼくが、しあわせにする!」 


「この子は獣人だぞ?」


「かんけいない!」



 思い返せばプロポーズみたいだなと思う。恥ずかしくてむず痒くもなる。それでもあの日、僕は誓ったんだ。僕がこの娘を幸せにしてみせると。リナに一目惚れした、あの日から。





「…………んぁ」



 目を覚ます。どうやら、いつの間にか寝てしまっていたらしい。当たり前だが、辺りにリナはいなかった。家で一人で寝るのなんて、リナが修学旅行に行った時ぶりだ。



「リナは……?」



 隣の部屋──リナの部屋だ。華花ちゃんが来たときくらいにしか開かれない扉を、そっと開こうとして、止めた。僕も妹離れするべきだと決めたんだから。



「……外、行くか」



 なんとなく、家には居づらくて。だから僕は当てもなく外に出ることにした。



――――――――――――――――――――



「なにしようかな……」



 何もする気にならなかった。リナが僕に依存していると思っていたが、案外僕のほうがリナに依存していたものなのかもしれない。



「本屋……」



 最近は電子書籍に頼りっぱなしで、紙の本なんてろくに読んでない。なんとなく、昔リナと絵本を買いに行ったいつかの日を思い出して、ふらり立ち寄る。やはり、妹離れは簡単にはできならしい。



「…………ん?」 



 ふと、ある本が目に止まった。それは獣人に関する本らしかった。今までの経験上、獣人に関する本の殆どは獣人が如何に醜いかを力説し、人間が如何に素晴らしいかを語った紙屑だらけだ。それでも何故か、無性に。その本の中身を読みたくなった。



「獣人の習性……」



 表紙を捲る。万年金欠である高校生にとって、立ち読みできるのはありがたい。まあ、褒められたことではないが。



『まずここに、この本の内容は獣人を非難するものではないと明言しておきます』



 こんな文章、獣人に関する本なら必ずと言っていいほど付いている。こんな文章を載せておいて、平気で獣人を蔑み嘲笑うのだ。



『近頃、獣人による犯罪行為が増加しています。そしてこれは、冤罪でも、差別に対する怒りからなるものでもなく、痴情のもつれから起こる犯罪であることが圧倒的に多いのです』


「…………は?」



 人間、本当に想定外のことを経験すると、勝手に声が出るものだ。このときの僕もそうだった。



『というのも、最近になって獣人の地位は飛躍的に向上しています。なのに何故獣人の犯罪行為は増えているのか? それは、人間が獣人について調べる機会が減ったためです。現代の人間──特に若者は、圧倒的に獣人を知らないのです。』


「獣人を、知らない……?」



 獣人を、知らない……? 僕は、そんなことないはずだ。誰よりも獣人を知っているはずだ。だって僕には、リナがいて……。



『知っていますか? 獣人には、"マーキング"と呼ばれる習性があります。これは主に動物が自身の縄張りを主張するために用いる行動でした。』


「まー、きんぐ……?」



 そんなの、聞いたことがない。リナがそんなことをしているのだって、見たことが──



『獣人におけるマーキングとは、自身のモノに身体をこすりつけて臭いをつける行為を指します。そしてこれは、人間にも行われることがあるのです。』


「ぇ……」


『この行為は、獣人がその対象を好きであれば好きであるほど高頻度に、かつ強い匂いを擦り付けようとします。実際、獣人の夫婦はお互いに裸になり、毎日のように身体を擦り付け合うのが習慣となっているようです。』



 身体を、擦り付ける……? そういえば、リナは毎日僕に抱きついていた。 いつも風呂上がりの、裸姿で。……そうだ。それだけは僕の言うことを聞かなかった。僕の言うことならなんでも聞いていたはずのリナは、既に僕の言いなりではなくなっていたのだ。



『獣人は匂いに敏感です。特に、自身がマーキングした対象に他の匂いがついていた場合、酷い嫌悪感を示すようです。本能的に、汚されたと思い込み、それは激しい憎悪になります。それが原因で、犯罪行為に走ってしまうことも珍しくありません。』



 ページを、捲る。



『また、獣人の特徴として、番の匂いを覚えます。そして、その匂いを"この世で最も良い匂い"、"この世で最も安心する匂い"として認識するようです。』


「番、って……」



 番、つがい。それは、動物における伴侶のこと。そういえば、リナは言っていた。僕の匂いが、この世界で一番いい匂いだって……。



『また最近の研究で、イギリスのチームは獣人について新たな発見をしました。それは、獣人が人間を番だと認識した場合、その人間にとって最も好ましい匂いを発するようになる、ということです。』


「匂いを発するって、どうやって……」



 僕の疑問は、次のページで解消されることになる。



『獣人は、愛する者と共に睡眠することを好みます。その時に僅かずつですが、自身が発する匂いを変えているのです。そうして、人間の反応を機敏に察知して、獣人本人すらも無意識のうちに、どんどん番と認識した人間が最も好む匂いに変化していきます。それは多くの場合、"甘くて魅力的で、理性が溶けるような匂い"だと形容されます。そしてそれは、同じ寝床で睡眠を繰り返せば繰り返すほど匂いとその効果が強くなるというのです。』


「…………っっ!?」



 その匂いには、心当たりがあった。リナの、あの匂い。寝るときにより一層強くなる、あの甘くて怖い匂い。もしもこの本の内容が本当なのだとしたら、リナは、僕のことを……?



『そして、最後に。もしこれを読んでいる人間のあなたへ。もし身近にいる獣人に、この本の内容に心当たりがあるならば。どうか、その獣人を嫌わないであげてください。その獣人は、あなたのことを愛しているだけなのです。』


「ぁ…………」



 僕の予感は、当たったらしい。でも、だって、リナは義妹で、僕は兄で、そんなの、ダメで……。



『もちろん、その獣人の方と結ばれないことはあるでしょう。その時はどうか、急に距離を取ろうとしないでください。徐々に距離を離してください。特に、長い付き合いで匂いを覚えられていたり、あなたを惑わせるような甘い香りを纏うようになった獣人を突き放せば──』


『あなたは、餌になってしまうでしょう。』



 ──ピコン。


 SNSの通知音が鳴った。送信元は華花ちゃんだった。内容は一言だけ。


『ごめん』


 何に謝っているか、僕は分かった。分かってしまった。それと同時に、もう一つのことに気づいた。



「見つけましたよ、嘘つきな兄さん?」



 散々嗅いだあの甘い匂いが、目の前にあることを。





――――――――――――――――――――





「そろそろ寝ますか? 兄さん」



 どうやって帰ってきたのか、帰ってきてから今まで何をしてたのか。その実あまり覚えていない。それくらい、あの本の内容は衝撃的だったから。ただ分かるのは、僕もリナも寝間着で、もう今から寝ようかという状況のみ。


 それでも、まだ僕は信じていなかった。あんな本は眉唾もので、リナは僕のことを兄として見ているはずだ、と。


 けれど。



「すぅ〜〜〜……♡ はぁぁ〜〜〜……♡」



 寝る前だというのに、僕に正面から抱きついて匂いを嗅いでいるという事実が、幸せそうな顔が、あの日の言葉が。現実から目を逸らすことを許さない。



「……兄さん」


「ど、どうしたんだ、リナ? 離れて──」


「離れません」



 リナらしくない、強い否定。僕にこんな態度を取るリナは、初めて見た。



「兄さん。私、最初から分かってました。兄さんに彼女ができたなんて、嘘だって。だって、兄さんから嫌な匂いがしないんですもん。代わりにしたのは華花ちゃんの匂いだけ。だから、すぐに気づきました」


「えっ……?」



 ぎゅう。と、強く抱きしめられた。あっという間に僕は動けなくなる。当たり前だ。人間が、獣人に力で敵うわけないのだから。



「でも、悲しかったです。私、まだ兄さんの妹だったんだって。こんなに、アピールしてたのに。私は、まだ兄さんに守られるだけの妹なんですか?」


「…………っ!!」



 ……僕は、どうやら間違っていたらしい。


 僕は、リナのことについてなら何でも知っていたはずだった。兄として何でも知っているつもりだった。けれど、今になって分かった。一番リナを見ていなかったのは、僕だったのだ。


 リナは獣人だから守らなきゃいけないと、驕った考えを持って。どうせ獣人差別の内容だと、獣人のことを知ろうともしないで。結局、一方的にリナを傷つけてしまって。自分の気持ちにも、蓋をして。



「ねぇ、兄さん」



 僕は兄で、リナは妹。その一線を、超えてはいけない。血は繋がっていないとしても、僕らは兄妹なんだから。


 それを建前にして、その先を恐れた。リナに拒絶されて、リナが妹でもなんでもなくなる未来に耐えられなかった。僕は12年前からずっと、妹離れができていなかったんだ。



「私──兄さんのことが好き。世界で一番、愛してます」



 リナは、もうずっと、はるかに僕よりも強かった。



「んっ…………♡」



 僕のカサカサになった唇に、リナの柔らかい唇が重なる。



「ぷはっ。……兄さんの料理はどれも好きですけど、一番好きな味は更新ですね」


「り、リナ……?」

 


 くすくす。と、いたずらっぽく笑うリナ。



「ごめんなさい兄さん。私、そんなに兄さんを追い詰めていただなんて知りませんでした。兄さんは、私のことを大切にしてくれていたんですよね?」


「ち、違っ……! 謝らなきゃいけないのは、僕の方で……! 僕が、獣人の習性を知らなかったから……!」


「ん?」



 首を傾げてしばらく考え後に、リナは「ああ」と声を漏らして、



「もしかして、知らなかったんですか?」


「え?」


「だから、獣人わたしたちの習性」


「は、はい……」



 凍ったように固まったリナ。そして、数秒後。



「ふふっ……! あはははははははっ!!」


「り、リナっ!?」


「じゃあ、仕方ないですね。知らなかったなら、仕方ないです!」



 こんなに明るく楽しそうなリナは、たぶん初めて見た。吹っ切れたような、清々しい笑みだった。



「兄さん、私は悩んでいたんです。たくさんマーキングして、たくさんアピールして、兄さんの好きな匂いになって、それでも全然手を出してくれなくて」


「ご、ごめっ……!」


「でも、そっかぁ。知らなかったのなら仕方ないですよね。あんなに悩んで、何度も涙で兄さんの腕を濡らしたのに……」



 ……あれ、やっぱりリナだったのか。たまに腕が濡れてておかしいと思ったんだよな。



「それで、兄さん。女の子が告白したんですよ? 返事……貰えないんですか……?」



 そうか。そうだよな。僕も彼女に向き合わなきゃいけない時だ。答えは、決まっていた。



「──ごめん。リナの想いには、答えられない」



 本当は答えたかった。一目惚れの、12年続けた初恋だった。でも、それは許されない。僕がリナを兄として幸せにすると決めた日から、僕は紛れもなくリナの兄なのだ。兄と妹は結婚できない。それは、紛れもない事実なのだ。



「そう、ですか」



 リナが、僕から離れていく。でも、どうしてだ? こんなのにも、胸が痛むのは。僕が望んだことのはずなのに、なんで僕は泣きそうになっている?


 なんで僕たちは結婚できないんだろう。



「分かりました、兄さん」

 

「リナ、分かってくれて──」


「やっぱり兄さんは、私のモノです」



 は? と、声が出るよりも先に唇をリナに塞がれた。それは、二度目のキス。けれど今回はあまりにも深くて長い、淫猥な大人のキス。



「んちゅ、ちゅっ……♡ ぢゅぷ……♡ ちゅるるぅぅ〜〜〜……♡♡」



 抵抗なんてできなかった。リナが獣人だからなんて関係ない。僕は、ただ気持ちよくて幸せで、腰が抜けてしまった情けない男だった。



「兄さん、兄さん……♡ 我慢しなくて、いいんですよ……♡」


「リ、ナ…………?」



 完全に力が抜けてしまった僕を、リナは優しくベッドに押し倒す。



「私は、兄さんのモノなんです。兄さんは、私のモノなんです。知ってましたか? 獣人はとーっても執念深くて、嫉妬深くて、怖いんですよ……?♡」



 それは、僕の知らないリナだった。爛々と輝く瞳が、僕の視線を釘付けにする。



「12年前に私を幸せにしてくれると約束してくれた、あの日から」



 僕の脳を支配する、その優しい声。



「獣人だった私に幸せをくれた兄さんに」



 僕の視界いっぱいに広がる、リナの整った顔。



「私は、恋をしています」



 それら全てが、僕を狂わせる。



「12年間、我慢しました。それは兄さんも同じでしょう? 血が繋がっていない私たち、生物学的にはなんの問題もないでしょう? 日本における民法上も、問題ないわけですし」



 …………ん?



「……へっ?」


「……えっ?」



 …………民法上、問題ない???



「あの、もしかして、ですけど。兄さん。私達、結婚できることは……ご存知ですよね……?」


「…………」



 え、いや、そんな、ばかなこと。



「……民法736条、直系血族又は兄弟姉妹の間では、婚姻をすることができない」


「ほ、ほら! やっぱり……!」


「──ただし、養子と養方の傍系血族との間では、この限りでない。」


「…………えっ、し、知らない……」



 僕がつい口にした言葉に、気まずい沈黙が部屋を支配する。そして、すぐに。



「……ふふっ」


「……ははっ」


「「ははははははははははっ!!」」



 そうか、僕が全部悪かったのか。何も知らずに、知ろうともしないで、全てから逃避していた僕が。その結果が、これか。



「はぁ〜……。私の12年間、なんだったんですか……。兄さんのせいですよ」


「ごめんな。全部、僕が悪かった」


「そうです、兄さんが悪いです。本当なら死刑ですけど……兄さんですからね。兄さんが死んじゃったら、私も死ななきゃいけなくなっちゃいます」


「それは……怖いな」


「ええ、怖いですよ。獣人が一度狙った獲物を逃がすなんてありえませんからね」



 それからはもう、どちらからということも無く。



「んっ……♡ にぃ、しゃん……っ♡」


「りな……っ!」



 何度も何度も、色んな種類のキスをした。僕の知らないことを、リナはたくさん知っていた。きっと、もっともっとあるのだろう。



「ぷはっ。……リナ。僕も愛してるよ。凄く遠回りして、待たせたけど……それでも、愛してくれるか?」


「……もちろんです、兄さん。……嬉しいです。この日を、12年間待ってたんですよ? でも、もう待ちませんからね?」



 え、それってどういう──。


 そんな言葉が出る前に、僕の顔は柔らかいものに塞がれた。



「ですから──これ以上、兄さんが変な我慢をしないように……♡ 兄さんが、私を遠慮なく愛せるように……♡ 私の匂いで、のーみそトロトロにしちゃいましょう……?♡」



 リナの胸に顔を埋めさせられて、強制的にあの甘い香りを嗅がされる。どんどん理せいが溶けていって、りナのこと、いがい、なにも、かんがえられなくなって。



「きゃっ……♡」



 いつのまにか、りなが、したにいて。



「いーですよ、兄さん……♡ 私は、兄さんのものですから……♡」



 そこから先のことは、あまり覚えていない。



――――――――――――――――――――



「いたたた……」



 腰を擦りながら目を覚ます。部屋は……その、酷い有様だった。けれど、その中で僕に手を握って眠る幸せそうなリナは、とても綺麗で、愛おしくて。そんなことを思っていたら、リナも目を覚ました。



「ごめん、起こした?」


「……いえ。でも」



 リナは恨みがましそうに僕を見つめながら言った。



「……兄さんは、鬼畜です……っ!」


「そんなぁ」


「いくら私が兄さんのモノだと言っても、限度があるじゃないですか! あんな、私を! 私を……! 私の、乙女の全身にあんなことを……!」


「リナも喜んでたじゃん……」



 まあ、その、酷いことをした自覚はある。でも、リナも凄かった。積もりに積もった12年間分の想いは、お互い重かったということなのだろう。



「うぅ……変な感じです……。兄さんのが、私の中に……。酷いです……」


「いやだった?」


「そ、そうは言ってないじゃないですか! 幸せですよ! …………あっ」


「じゃあいいじゃん」


「に、兄さんは意地悪です!」



 ポカポカと僕を叩くリナ。それがなんとも心地よくて。幸せで。


 とても、遠回りをしたけれど、僕はリナの兄で──それでいて、また一つ新しい関係になった。たったそれだけのこと。


 これはどこにもない、僕の、僕たちだけのお話だ。



「大好きだよ、リナ」


「……私も大好きですよ、兄さんっ!」

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