第25話 場所2

「そうですね。ツアー中に連絡をしないのは、以前からそうでしたから仕方がないのかもしれません。でも、だからと言って連絡すると言われていているのに、半年も放置されるのは辛いですね」


 ここ最近ハの字に下がりっぱなしの仁木さんの眉が、さらに角度をつけながら下がっていく。心配をかけているなという自覚はあるものの、それに対して申し訳無いという気持ちすら、もう持てなくなっていた。


 そんな俺を、周囲は腫れ物のように扱う者と気遣う者に分かれ、有難いことに身近な人たちは俺を守ろうとしてくれていた。ただ、その優しさを頭では理解出来ても、心がそれについていかない。突然失った温もりは、俺の中に大きな穴を残してしまった。今でもそれをどうしても埋められずにいる。


——労ってくれるなら、孝哉がいい。


 ぼんやりとしか考えられない頭で、思わずいつもそう思ってしまう。

 他の人の気遣いなどいくら集めても、孝哉の笑顔には敵わない。空いた穴は塞がらない。そう叫びそうになるほどに、俺は孤独に蝕まれていた。


 歪んだ思考は人の善意すら苦痛として捉えるようになり、こうやって誰かの優しさを無碍にするようなことを考えては、その罪悪感に胃の奥の方がズキリと痛む。この半年間は、ずっとそれを繰り返していた。


「色田、俺は先に上がるな。耀と純によろしく。仁木さん、お願いします」


 俺はそう言って軽く手を上げてコントロールルームへと戻っていく色田に挨拶をすると、心配そうに俺の後ろをついて来る仁木さんと共に家路についた。


 和哉さんは、孝哉がいなくなってからも俺をあの家に住まわせてくれている。出て行こうとした俺を引き留め、事務所には自分が世話をするから任せて欲しいと言っていたと仁木さんから聞いた。

 つまり、俺と和哉さんは今、息子が出ていったにも関わらず、その恋人をそのまま住まわせてくれているという、妙な同居関係にあるのだが、一つだけ約束させられていることがある。それは、この問題が片付くまでは、俺は絶対に引っ越さないというものだった。


 和哉さんも事務所も、孝哉の居場所を知っているらしい。だからこそ、所属アーティストが仕事をしていないにも関わらず、誰もその行方を追おうともしないのだと気がついた。孝哉は火傷をした手の治療のために休んでいることになっているらしい。

 ただ、そのためにどこに行っているのか、それがいつまでになるのかについては、和哉さんと仁木さん以外は知らないらしい。そんなことが許されているのは、数十年に渡り事務所に最高利益をもたらし続けている和哉さんだからこそだろう。


『孝哉のためにも、自分を労ってくれ』


 連絡をくれるたびにそう言ってくれる和哉さんの言葉が、何よりも深く俺を傷つけていた。


「隼人さん、これ」


 仁木さんからおにぎりやゼリー飲料、栄養ドリンクの類が詰まった袋を手渡される。あの日以来、俺は人が手作りしたものが食べられなくなってしまった。

 誰かの温もりや優しさを感じることを、体が拒絶してしまう。そうされる度に、頭の中に孝哉の声が響くようになってしまっていた。


——俺の居場所を奪ったくせに、自分は優しくされていいと思ってんの?


 あの屋上で激しいキスを交わしたあの日、俺が応急処置用のセットを持って屋上に戻ると、孝哉は既にいなくなっていた。

 最初は状況が飲み込めず、孝哉には身の危険が迫っていたこともあって、俺はビルの中を探し回った。会議室のドアを気にしたのかと思って戻ってみても孝哉はいなかった。ケガの治療が待てなくて事務所へ向かったのかと思い顔を出したが、そこにもいなかった。

 そして、もう一度あの場所へ戻ってみると、変わらず誰もいないその場所に絶望した。


「孝哉、どこに行ったんだよ……」


 そう呟いて途方に暮れていると、ポケットの中でスマホが震え始めた。孝哉だと思い、ディスプレイを確認せずに応答した。すると、そこから聞こえてきたのは、出来れば二度と聞きたく無いと思っている条野の声だった。


「……はい」


 歓迎していないという意図を最大に示したかった俺は、出来るだけ愛想を捨てた不快な声で通話を始めた。すると、条野はそんな俺の反応を楽しむように、クッと喉を鳴らす。


『あいついなくなったみたいだな。俺には、自分が抜ければ、チルカの往年のファンは黙ってくれるだろうって言ってたぞ。隼人だけが戻るなら、きっと歓迎されるだろうってな。居場所を教えるとどうしても戻りたくなるから、言わないでくれって頼まれた。しばらくはそっとしておいてやれ』


 それが条野の言い分だった。


「そんなわけねえだろう。あいつがお前にそんな話をするわけがない」


 俺はそう呟きながらも、通話を終了した。


——どうにかして条野を会社の中で失脚させねーとな。


 何度も俺の音楽人生を潰してきた男に、言いようのない強烈な不快感を感じた。そして、これまで黙って負け続けていたことを、ひどく悔やんでいた。

 俺が一度でも正面から立ち向かっていれば、孝哉は辛い思いをせずに済んだのかもしれない。闇バイトを雇ってまで孝哉を追い込んだあいつが、何を狙っているのかが俺にはわからないのだ。

 ただ、間違いなくわかっていることは、条野に潰されたバンドはいくつもあって、つつかなくても誇りは大量に出そうだと言うこと。


——やろうと思えば簡単だろう。腹括るしかねえな。


 そう思ってはみたものの、過去一番売れたバンドのギタリストというだけで常務取締役にまでなった強運の持ち主を、俺のような普通の人間が追い落とすには無理がある。もう少し反撃する材料を揃えてから対峙しようと決めた。


 ただ、その直前までの時間があまりにも楽しかったからか、その時生まれた殺意めいた思いさえも、なんの前触れもなく大切なものを失った衝撃に侵食され、だんだんと薄れていき、終には消えてしまった。


「隼人さん、これは一つの提案として聞いていただければと思うのですが、チアグレの隼人として配信をやってみませんか?」


 送迎用の車に乗り込み、車を出しながら仁木さんがそう提案してきた。それは俺の耳に音としては聞こえてきたものの、脳が意味を理解しきれず返す言葉が出てこない。ただぼんやりと車窓から夜の街並みを眺めながら、ネオンに照らされていた孝哉の横顔を思い出していた。


「一人での弾き語りか、もしくはインストでもいいと思うのですが……」


「いや仁木さん、今の俺にはそんなことは出来ませんよ。今の状態で配信なんてやっても、見れくれる人に申し訳なくなるだけです。今の俺のプレイなんて、見てくれてる人がファンじゃなければ、罵られても笑われても仕方がないくらいの出来でしょう? サポートが問題なくやれてるのは楽譜通りに弾いてもそこそこなものになるようにと、そういう細かいところまでを指示してもらってるからですしね。それが出来なくなっていることって結構ダメージ大きくて、だから今旧作の再レックは出来ても新曲は書く事すら出来ないんです。オリジナルをディレクションをすることが今の俺には出来ないんですよ。感情任せに弾くにしても、その感情が動かない。誰かが細かいディレクションをしてくれるなら、その通りに弾くのは可能かもしれないですけどね。でも、それはもう俺の演奏じゃありません」


 身体中が震えるようなセッション……孝哉がいうところの、金色の泡が踵から頭の先まで駆け抜けるような感動を味わう演奏を経験した俺に、それが無くなった状態で前向きな感情を持った普通の演奏を望むなんて、正気の沙汰じゃ無い。


 こういうことは、音楽のことだと理解してくれる人は少ない。でも、それが例えば食道楽の人が病気になって食べられなくなったり、運動好きな人が怪我をしてそれが出来なくなったりするということだと例えると、案外わかってもらえる。今の俺は、まさにその状態なのだ。


 手は動くから弾くことは出来る。練習を欠かさないためにテクニックだけは正確さを増し、日に日に磨き上げられていった。それでも、それをどこでどう盛り込んでいくのかという部分のアイデアが枯渇している。全くと言っていいほどに思いつかなくなってしまったのだ。砂を噛むという表現がこれほどピッタリくるのだなと思うほどに、何をしても心が凍りついたままで、少しも解けようとしない。


 失ったものを補填する事も出来ずに、上がったままのハードルを前にして、どう進んだらいいのかを考える事も出来ないでいる。いつまで経ってもただハードルの前に立ち尽くしているだけで、ハードルが下がってくれないだろうかと願っているような、情けない状態が続いている。


「まずは手を引いてもらいましょうよ。大きな傷を負ったのですから、リハビリは必要です。自分でディレクションが出来そうに無いのでしたら、してもらってもいいと思います。それを頼めそうな人を見つけたんです」


「新しいディレクターをつけるんですか? チルカとは別に?」


「そうです」


 俺が僅かに興味を示したからか、仁木さんはバックミラー越しに俺に笑顔をくれた。下がりっぱなしだった眉が、久しぶりに元気を取り戻す。その姿を見るのは悪くないなと思った。


「それって、今の俺について足りないものがわかる人ってことでしょう? そんな人いますか? 長年プロデュースしてる条野だってわかってないのに。あいつはむしろぶっ壊すだけですからね。でもディレクターさんは毎回変わってたはずですし」


 煌びやかな大通りを抜け、自宅近くの裏通りへと車は流れる。外部のものが簡単に入れない様にと張り巡らされている高い壁と生垣の中には、住人の息が詰まらないようにという配慮から、色鮮やかな庭園が設けられている。この庭園のディレクターは俺と好みが合うのか、ここを通るだけで何度か心を救われたことがあった。

 今はクリスマスが近づいてきている事もあり、ガラス壁を挟んで内部にはポインセチアの赤と白が、外にはヒューケラとシロタエギクの寄せ植えが仲間入りしていた。

 ヒューケラはくすみながらも濃く主張が強めで、その合間に伸びるシロタエギクは、物理的にはそうでは無いにも関わらず、スッキリと真っ直ぐな姿に独特な気品を感じる。そうして強さを表していながらも、どこかに物悲しさを孕んでいるところが、俺の心に何かを納得させるような安心感を与えてくれていた。


「そうですね。条野さんに対峙出来るディレクターさんは中々見つかりません。だからこれまで一曲ごとに変わるという異常な事態が続いていました。でも、そうだとしても作品には一貫性というものが存在する事が出来ると私は思っているんです。隼人さんはここのお庭がお好きでしょう? でも、ここのディレクターさんも実は季節によって担当者が変わるようになっているそうなんです。でも、通年どこかしら似たものがあると思いませんか?」


「それはそうですね。ずっとテイストは似てるというか、一貫したものはあると思います。俺はそれが自分の好みに合ってるんだと思ってます」


「そうですよね。それは、おそらくこの庭園のオーナーさんの好みをディレクターさんが汲みきれているからだと私は思っているんです。これでわかるのでは無いですか? ディレクションというのは、あくまで提案です。それを黙って受け入れるのではなくて、提案されながらも譲れない方向性というものを、ご本人が保つ必要があります」


 庭園を抜けて地下駐車場へと入り、車を止めると指定フロアへと入るためのエレベーターへと乗り込んだ。そして、誰も待つことのない静まり返ったフロアへと向かう。


「信頼出来る方に一旦委ねてディレクションしていただきながら、だんだん感覚を取り戻していくというのはどうでしょうか。そして、その奮闘する様を敢えて配信していただきたいんです。あなたを心配しているファンの方はたくさんいらっしゃいます。批判はもう落ち着いていますけれど、あなたを心配する声はずっと届いていますよ。これまでのかっこいい真島隼人とはイメージが異なるかもしれませんが、リハビリ的に頑張っているよというメッセージを添えていれば、ファンの皆さんも安心できると思うんです」


「出来なくなっている姿を配信するんですか? そんなのミュージシャンとして許されないでしょう。そういう売り方をすると、昔からのチルカのファンはまた怒りませんか? 前と違うのが嫌だって言って」


 俺が抜けた後のチルカは、俺の曲じゃなくなったことで売れなくなったと言われていた。そして、俺が再加入したらまた売れるだろうと踏んだ条野は、自分が切ったメンバーである俺を、臆面もなく引き戻すことにした。そして、いざ俺にアプローチをかけようとした頃に、俺と孝哉が恋仲にあることを知り、それを起爆剤として利用しようとして孝哉を巻き込んだ。


 ただその時、俺たちは誰もそうしない方がいいとは思わなかった。メンバー全員がそうした方がいいだろうと考えて、孝哉は歓迎された。特に色田が孝哉を気に入ったことで、誰も反対することなく再結成話は進んでいった。


 だから、俺たちは今、誰も自分の感覚を信じられなくなっている。まさか自分たちがチルカのためにいいと思って選んだことが、ファンに不評になろうとは、夢にも思っていなかった。そして、だから今でも何も動き出せずにいる。孝哉を取り戻したいとは思っていても、その意思を通すとチルカがどうなるか分からず、何も手を打てずにいるのだった。


「色恋でまともに考えられなくなった隼人がチルカを壊したとまで言われているんです。そんな俺が、まともに演奏も出来なくなっているってわかったら、どうなりますか? もし万が一また誹謗中傷を受けることになると、俺はもう保ちません」


「ですから、一旦責任を他者に預けてみてはどうでしょうか。あなたが自分を信じられなくなっているのなら、あなた以外の人からあなたは素晴らしいのだと教えて貰えばいいのだと思うんです。それも、僕たちのような近い人間ではなく、客観的に実力を見定めることが出来るけれども、全くの他人ではない人物にそれをお願いしていこうと思うんです。それも、その方自身に有無を言わせない実力のある方を選べばどうでしょうか。この人の言うことなら間違いないと思えるほどの実績のある方に認められれば、たとえ外野になんと言われようとミュージシャンとしての揺るぎない自信になりませんか?」

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