第24話 場所1


 ねえ、隼人さん。

 あの日俺が言ったこと、覚えてますか?


 俺にとって弾き語りは、生きていく上での全てでした。自分が生み出した音の中に立って、その音の放つ輝きに包まれて、やっと幸せを感じられた。そして、それさえあれば良かったんです。本当に、音楽が全てだった。

 

 あの日、あの場所であなたに声をかけられるまでは。


 生まれて初めて、音楽以外のものに執着しました。音楽以外のものを手放したくないと初めて思ったんです。あなたを失うくらいなら、あなたと共に奏でる音楽を失うくらいなら、俺は音楽の全てを失ってもいいとすら思っていました。


 だから、別に俺がチルカを辞めても良かったんです。でも、俺がチルカを辞めた後に、条野さんがやろうとしていることを、どうしても阻止したかったんです。だからどうか許してください。


 俺はあなたを壊します。


 ……あなたを守るために。



『うん、オッケーです。隼人さんの分は今日はこれで終了です。お疲れ様でしたー』


 最後に弾いた弦の響きが空気の中へと溶けて消えるまで、どうにか俺は耐え抜いた。コントロールルームにいる和気さんからの終了の声に一気に緊張の糸が途切れた体は、ギターを抱えたまま手も出せずに床へと向かって崩れ落ちていく。


『隼人さん! 危ない!』


 エネルギーの切れた頭は、トークバックから聞こえてくる和気さんの声にようやく我にかえり、ギターが床に当たる寸前でどうにか膝をつくという判断下すことができた。それによって楽器の破損と俺自身の怪我という最悪な事態は免れることが出来た。

 それでも反応が遅れたために打ちつけた膝の痛みはかなり強く、立ち上がるためには椅子に掴まらざるを得ない。ボディを背中側へ回して椅子の背を掴み、しがみつくようにして立ち上がる。まるで老人のような姿に、思わず自ら嘲るような笑いを漏らした。


「あー、すみません。大丈夫です。危なかったけど」


 分厚いガラス窓の向こうから心配そうに俺を見ている和気さんへそう答えるも、こっちのマイクレベルはゼロの状態になっている。俺の声は彼には聞こえるはずもない。そんなことが瞬時に判断出来ないほどに、俺は疲れ切っていた。


「隼人、大丈夫か?」


 レコーディングが立て込んでいて碌に眠れず、青白い顔のままブースから這い出てきた俺に、色田が心配そうに訊く。狼狽えながらも、よろめく俺を気遣って、背中にのしかかっているギターを代わりに運んでくれた。


「おー色田、はよ。お前来るの早くない? 歌録りって夜からじゃなかったか?」


 色田の声にそう返しながら、俺は防音扉のグレモンハンドルを回そうとした。しかし、その硬さと重さに今の俺の力では全く歯が立たない。遊びの部分しか動かせず、その場で四苦八苦する羽目になった。

 ブースからコントロールルームの方へと出てくる時にもこのハンドルを回しているわけだけれど、その時は下へ下ろすだけだから多少体重をかければすぐに回る。しかしそれを閉めるとなると話が違う。小刻みに揺れる手には、それを持ち上げてロックをかけるまでの力はもう残っていない。ハンドルを眺めたまま、薄く長いため息を吐くことしか出来なかった。


「あー、もう握る力が残ってねーぞ」


 そう零しながらも、気を取り直してもう一度ハンドルを引き上げようと試みる。僅かに動く気配があるものの、あのガチャンとしっかり嵌まり込む音がするまで動かすには程遠い。

 見かねた色田が手を伸ばして来て、代わりにハンドルを回してくれた。コントロールルーム内にガチャンという重い金属音が響き渡る。ようやく定位置へと戻ったハンドルに安堵していると、色田が背中に手を添え「お疲れ」と声をかけてくれた。


「サンキュー」

 

 それに対して軽い口調で返してはみるものの、俺は胸の中にベッタリと張り付いている寂しさが、さらに厚みを増していくのを感じていた。この重い扉によって突如生まれた境界線は、まるで俺と孝哉の気持ちの境界を表しているように思えてしまったのだ。


「お前さあ、ハンドルも回せねーなんて、よくそんな状態で演奏が出来るな。それだけが不思議なんだよ。レベルも落ちてないみてーだし。ちゃんと食ってスタミナつけろよ。お前、碌に食って無いだろう?」


「……全く食って無いわけじゃねーよ。ちゃんとっては言えないかも知んねーけど、まあまあ食ってはいる。大丈夫だから、心配すんな。ありがとうな」


 そう言って強がってはみても、ついさっき感じた胸の痛みへの苦悶が顔に出ていたのだろう。色田は、今にも泣きそうな顔をして俺を見つめ、何かを言おうと肩を掴んだ。

 しかし、どうやらその言いたいことよりも気になることが出来たらしく、大きく目を見開いて息を呑んだ。


「お前……なんだよこの痩せ方。本当に一人で大丈夫なのか? あれから半年は経ってるんだぞ。仕事にはギリギリ問題がないからって事務所は何も言ってないらしいけど、俺たちは心配で仕方ねーんだよ。いくら孝哉がいなくなってショックだからって、お前がこんな風になることをあいつが望んでるわけ無いだろ? あいつに心配かけるようなことすんなよ」


 そう言って、俯いて下ばかりを見ている俺の目を、至近距離から睨みつけるように覗き込んで来た。


 俺は僅かに視線を上げて、プラチナブロンドの短い髪とその下に覗く意志の強い目、そしてその周囲をギラギラと光らせている大量のピアスをぼんやりと眺めた。心底俺を心配しているその目には、かつて無いほどのエネルギーが漲っている。それは今の俺には燃えかすほども存在しない、生命の輝きだ。


「どうだろうな。俺にはもう何もわかんねえよ」


 色田は、プライベートでずっと抱えていた問題を最近すっきりと解決したらしく、憑き物が落ちたようにイキイキとしていた。こいつがこんな風に前向きになれたのはチルカに孝哉が加入した頃からで、間違いなく孝哉の影響だろうと事務所ではもっぱらの噂になっている。


 このバンドが長年燻っていたのは、色田が条野を盲信していたことが理由として大きい。その目を覚まさせたのが孝哉だった。立ち向かうべき問題に目を逸らし、人に依存することで自分の存在を保っていた色田に、正面から問題に立ち向かって行こうとする孝哉の輝きは憧れとなった。


 孝哉と親しくなった色田はその頃から生活の全てを見直し、歌うための努力を楽しみ始めた。ストイックに追い詰めるスタイルをやめたことで、だんだんと理想の自分に近づき始めたのだという。周囲も驚くほどに、明るく社交的になっていった。


 孝哉という人間は、見た目に惑わされて自滅していく人を除けば、いつもそうやって誰かの人生をいい方へと変えていく不思議な力を持っている。俺もかつてはその力に影響されたうちの一人だった。


 それなのに、今の俺は孝哉によって打ちのめされている。あいつは、俺を置いていなくなってしまったのだ。

 あの日俺が戻ると、そこには俺が渡したミネラルウォーターのペットボトルが落ちているだけで、それを持っているはずの孝哉は見当たらなかった。あいつはそれからずっと帰ってきていない。


「わかんねえし、いい方に考えると反動が怖え。だから何も考えたくねーんだ」


 話しながらもコントロールルームを抜け、ミーティングルームへと進む。そこで待っている仁木さんに手で合図を送ると、仁木さんは俺の荷物を持って忠犬の如くに走ってきた。


「隼人さん、お疲れ様です。……本当に、お疲れ様でした」


 そう言って飲み物を手渡そうとするが、俺はそれを固辞した。その代わりに用意していた上着だけを貰い、そのまま二人に背を向けて、冷たい靴音を響かせながら歩いた。


「うん、今回はちょっときつかったですね。でも、明日から連休だし。しっかり休みます」


 俺が振り返らずにそういうと、色田が小さく「眠れてねーくせに」と呟くのが聞こえた。音を吸収しきれてない廊下では、その硬質な響きが、言葉に含まれている物悲しさを膨らませていく。


「まーな。でも、そんなの仕方ねーだろ。でも、気絶なら出来るぞ。一応寝てんだよ。一応、な」


「まあ、それに関しては俺が偉そうに言えたことじゃ無いけどな……」


「そうだな、条野みたいなクズと付き合ってたお前には言われたくないわ。寂しいからって人に八つ当たりしてた頃のお前は酷かったしな」


 俺の返しに色田は言葉に窮した。八つ当たりにしても酷いものだろう。以前の色田なら、殴り合いの大げんかに発展してるはずだ。今はそういうこともしようとしなくなった。さらに、色田は今の俺の発言を許そうとしてくれている。ただし、かける言葉は見つからないのだろう。そこに生まれた静寂の中に、ブーツのヒールの音がカツンと響いた。


——あの日もここでヒールの音が響いたなあ。


 その音は、孝哉の消えた日を思い出させた。


 ここの八階外階段の踊り場で孝哉を失ってから、もう半年が経つ。いくら探しても見つからず、かといってなぜか周囲はあいつを探そうとしない。自分だけが知り得ない何かがあることに、俺は気を揉んでいた。

 俺がどれほど知りたがっても、皆頑なに教えようとしてくれなかった。気を紛らわせようとしてギターを抱えても、それと一緒に抱えていた温もりがそこに存在しなくなったことで、俺は以前のように弾けなくなってしまった。孝哉に出会う前のように。


 それでも、求められるものがはっきりしていれば、それを機械的にこなすことは相変わらず出来ていて、心が死んでいても音は生きているからなのか、事務所はメンが求めている俺のケアなど、歯牙にも掛けようとしなかった。仁木さんが個人的に世話をしてくれている以外には、事務所側の人間は誰も俺を気にかけないようになっていった。


 そうやって毎日を無感情のままに過ごすため曲が書けなくなり、過去の作品を演奏すれば孝哉を思い出してしまう。抜け出せなくなった負のループが体をも蝕み、碌に食べることも出来無くなっていた。そして、同じ期間をほぼ眠れずに過ごしている。


「和哉さんから連絡はありましたか?」


 仁木さんが走り寄ってきて俺を気遣ってくれる。どんな時も俺の味方であることを徹底してくれている彼は、実は孝哉の居場所を知っているそうだ。ただし、それを俺に伝えることを禁じられている。そしてそれを禁じているのは、今でも俺と一緒に暮らしてくれている、孝哉の親父さんである和哉さんだ。

 彼の言動で一つだけ不可解なことがある。それは、俺に孝哉の居場所を教えないのに、戻ってくるのを待っていてあげて欲しいと言われていることだ。


『隼人くん、孝哉を待っていてくれないか? 俺があの子を安全な場所へ連れて行った。だから心配しなくていいよ。でも、今は誰にも会わせないようにしたいんだ。そのあたりは親心だよ。他意はない。時期が来たら話すから』


 その話をしてからすぐに和哉さんはツアーが始まり、結局その後一度も連絡をもらっていない。


「いえ、ありません。まだ待ってろってことでしょうね。和哉さんツアー中で日本にいないし、連絡なんてする暇も無いでしょうし。待つしか無いでしょう」


 そうやって理解あるふりをしながら、乾いた声で笑う。


 親が子供のことを心配して立ち回っている。それを俺が邪魔するわけにもいかず、ついていかない心を置いたままそれを受け入れた。その代わりと言ってはなんだけれども、俺はまだ新木家に居候させてもらっている。

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