09 愛は嵐のように
竜藍がふ、と視線を庭園に向けたので、つられて芙蓉も視線をそちらに向ける。
ふわりと風が池を渡るのを芙蓉は眺めた。
静かに波打つ水面の中には彩る睡蓮が花開き、さながら宝玉のようであった。水面は美しく幻想的な風景だが――水中では水草同士が絡まり合い、水底の泥には蓮の根が沈んでいる。
うわべの美しさにばかり目を向けていては、中のようすは想像することも叶わない――今回の一件のように。
そのとき、乾いた音が聞こえて思わず振り返った。
いや素晴らしいな、と言いながら竜藍が手を叩いていた。
「やっぱり君の眼は特別のようだ。芙蓉にはご褒美をあげなければならないね?」
ご褒美、と言われるほどのことは何もしていない。
ただ、彼の思惑通りに動いて、そのわかり切った結果を淡々と報告したに過ぎない。それでも面白がっている表情は心からのものであるかのように思われた。
芙蓉は首を傾げながらもこれが、唯一絶好の機会であることに思い至った。
いまいち理由は納得できないが、自分が竜藍に認められるような働きをしたのであれば可愛らしいおねだりをしたところで咎められない筈だ。そう、たとえば。
「あ、あのでしたらわたしも他の妃嬪様たちと同様に後宮を追い出し……」
「却下」
「どうしてですかっ」
悲鳴にも近い芙蓉の声音に、竜藍は、それは私が言いたいよ、と呆れたように天を仰いで呟いた。
「可愛い妃に対する褒美が何故、追放になるのかな……?」
「えっ、いや、それは」
しどろもどろになった芙蓉の頬を竜藍が手挟み、自分の方へと引き寄せた。
「むしろ、君のもとに毎晩通う――とか、のほうがふさわしいんじゃないのかな?」
心を蕩かすような甘い声音で囁かれ、芙蓉はぎくりとした。
「めめめ、滅相もない! わたしのような異民族の妃など、いずれ正式に皇后様をお迎えするまでの繋ぎのようなもので」
冷や汗をかきながら芙蓉が辞退する旨を表明すると面白くなさそうに竜藍が目を眇めた。
「まあ、いい、君が私のことを意識するようになった。それだけでひとまずは良いとしようか――焦って嫌われたくはないからね」
「へ?」
何を言われているのか芙蓉はわからなかったが、大きな掌が頭に落ちて来たかと思うとくしゃくしゃと子供にするように撫でられた。髪飾りが落ちそうになるから正直やめてほしくはあったのだが、竜藍が満足げだったので芙蓉は何も言えなかった。
ようやく気が晴れたのか、掌が離れていくときほんの少しさみしいような心地になったのはおそらく気のせいだろう。
「先ほどの話は聞かなかったことにするとしよう。さて……芙蓉は何か欲しいものでもあるのかな? いまの私は気分がいいんだ」
そうですか、と言いながらも芙蓉には竜藍の機嫌を窺えるほどに親しんでいない。うっかり虎の尾――否、蛇の尾でも踏んでしまって返り討ちにあってからでは遅いのだ。
うんうん唸りながら考えている芙蓉に、竜藍が微笑ましいものを見るような眼差しを向けていたことに本人はちっとも気づかないでいた。
ふう、と息を吐いて竜藍に向き合うと芙蓉は「では」と口火を切った。
「今後一切、わたしの身体を傷つけるような真似はなさらないでいただけますか……?」
出来るだけ控えめに申し出たが、それはひどく切実なお願いであった。
竜藍は時々、目玉を繰り抜きたいだの、脚を斬り落とすだの恐ろしい脅しをかけてくるが――そういうのも含めおやめください、と丁重に申し出ると「え」と意外そうに首を傾げた。
「実際にそんなことをするつもりは元々なかったけれど」
本当か、と襟首を掴んで問いただしたくもなったのだが――竜藍は満面の笑みで頷いた。
「それはそれでよしとしよう。聞き入れたよ」
「感謝いたします」
ほっと安堵の息を洩らした芙蓉を竜藍がじっと見つめている。
「……あの、陛下。何か?」
無言の圧が強いので、いやでも気付く。本心では気付かない振りを通したいところだったのだが、さすがに無理だった。皇帝を無視できるわけがない。
「愛しい妻の顔を眺めて何か問題でも?」
「いえ、その……別に問題はありませんが……陛下はわたしの【
芙蓉としてはそれほど持ち上げられるほどのものではない、と考えているのだがどうやら竜藍は未だ興味津々のようだ。その証拠に、芙蓉の手を取り引き寄せて――そこの知れない闇のような眸で覗き込んでくる。
「誰がそんなことを言ったかな? 私は君自身に興味があるのに」
「興味、ですか」
「うん。出来ることなら、私に自制心があるうちに君には私を好きになってもらいたいな」
「す、好き……?」
「そうだよ」
平然と言うので芙蓉は面食らってしまった。
「私は芙蓉のことが好きなのに。君も私のことを好きになってくれないと不公平だと思わない?」
闇色に染まった双眸に射抜かれて身動きが出来なくなる。胸が激しく鼓動して、目の前が真っ暗になる。さら、とこの流漣国で唯一の香りの中に包まれた。
抱き寄せられたのだ、とは遅れて気が付いた。
「竜藍様が私ごときの好意など気にする必要ないのでは……?」
「気にするよ――私は君に嫌われたくない。だから君が私に好意を向けてくるようになるまでは、夜に君を訪ねることはないだろう」
自分の声が掻き消されそうなほどに胸の音が大きくなる。このままだと息が出来なくなりそうだった。
「好きだよ、芙蓉。あいしてる――狂おしいほどに、君が恋しい」
どこまで真に受けて良いのかわからないほどに彼の言葉は軽い。それなのに甘いから勘違いしてしまいそうになる。本当に芙蓉を、気にかけているだけではなくて――恋をしているのだと。
竜藍の吐息が触れると、じん、と唇が痺れるように疼いた。
「好きだよ」
「っ、もういいですから……!」
思い切り胸を押してもびくともしない。代わりに聞こえてきたのはくすくすという軽やかな笑い声だった。
「恥じらう芙蓉も可愛いから、今日はこれくらいで許してあげようかな」
「からかわないでください……」
掠れた声で言いながらもういちど竜藍の胸を叩くと、芙蓉は項垂れたのだった。
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