08 顛末は花の香
風に乗り、ふわりと清涼感のある香りが漂ってくる。
宮廷香料師が調合する
「やあ、芙蓉」
現れた竜藍を前に芙蓉はついにこのときが来たか、と覚悟を決めた。
おそらく今日の立ち居振る舞いで芙蓉の処遇が決まる。なんとなくそんな気がしていた。
(……怖い、けど――わたしはわたしのなすべきことを)
嵐華族の巫女姫と呼ばれ、大切にされてきた――その力を示して、竜藍に認められなければ……他の妃たち同様に待ち受けるのは「死」であるのかもしれない。期待に応えなくては。じっと敷かれた絨毯の文様を眺めながら芙蓉は唇をきゅっと引き結んだ。
顔をあげて、と優しく声を掛けられる。
まっすぐに面をあげれば「いい眼」だと口元を緩めたのがわかった。
「その表情だと、そろそろ私が出した課題への答えが出たようだ」
聞かせてもらおうかな、といつもどおりの笑みを張りつかせて竜藍は言った。
「陛下からの問いの答えになるとは限りませんが、わたしがこの両の眼で『視た』すべてをお話しさせていただきたく存じます」
「それは楽しみだな」
竜藍は膝をつくと、芙蓉の顎を掴んで瞳の奥を覗き込む。緊張で額に汗が滲んだのを悟られないように、芙蓉は深く息を吸い込んだ。
「では遠慮なく――第一に、玉璽が吏部執務室消えた理由は何者かに持ち去られたのではないか、と」
「それが私が見つけるように指示した『盗人』と芙蓉は考えたのかな」
いえ、と小さく首を振った芙蓉を見て、竜藍は面白がるように指の背で芙蓉の頬を撫でる。
「玉璽を持ち去ったのは――竜藍様ご自身でしょう? 玉璽は元より竜藍様のもの、盗人たり得ません」
「……くく、いいね。続けて」
竜藍は目を瞠り、笑みが深くなった。どうやら喜んでいるようだ、とはわかるが妙に迫力があって怖い。
「竜藍様が玉璽を持ち出したひとつの理由は……吏部を引っ掻き回すため――そこにわたしという駒を紛れ込ませるためです」
男装姿の芙蓉を北部にある後宮から連れ出し、政務領域である百楽殿付近に放置するという荒業をやってのけたことで、いかにも暇そうにぼさっと突っ立っていた芙蓉の存在は
玉璽紛失で大騒ぎになっていた吏部においては、暇そうな人間がいるなら使わない手はない。室内清掃の名目で玉璽探しを行う下働きを臨時募集していることを、内々に報告を受けていた竜藍は知っていた。
偶然が重なった結果ともいえるが芙蓉が吏部に連れて行かれることはある程度予測していたのだろう。
実際に、芙蓉は吏部の中に潜入することがかなったわけだ。
「それに吏部尚書と陛下は、あの……お友達? のようですし」
「うん。大親友だよ」
高威はそう思ってはいなさそうだが、そこに言及するのはさすがに憚られた。
「吏部は陛下もご存知のとおり、官吏登用試験で大忙しのところ、預かっていた玉璽を紛失する大問題を抱えて、吏部尚書などは夜も眠れないごようすで……」
「本当に気の毒だよね。高威には可哀想なことをしてしまったかな」
心がこもっていない、と芙蓉でもわかる。高威が聞いていたらさらにげっそりしてしまっていたことだろう。
「ですが……竜藍様はわたしの【嵐眼】で、この児戯めいた紛失騒動の犯人を竜藍様と名指ししてほしかったわけではないと思うのです」
竜藍は芙蓉の眼を食い入るようにじっと見つめている。
さあ、早く答えを教えてとせがむ子供のように。
「竜藍様はわたしに『合格証明書偽造』の犯人を見つけろ、と。そう言っていたのではありませんか?」
竜藍は微笑んだまま、唇を動かすこともなく芙蓉の話に耳を傾けていた。
✣✣✣✣
芙蓉が吏部の執務室で手伝いを始めてから気になったのは、董良ら正規の吏部の官吏が部屋の片づけと並行して行っている業務のことだった。
流漣国官吏登用試験――吏部尚書となった高威が制度改革を行ったとされるこの試験は、官吏の人事をつかさどる吏部にとっては一大事である。
それが間近に迫った状態で、ただでさえ多忙な状況にある中、合格証明書への押印のために貸し出しを受けた玉璽を紛失したのだ。吏部総出(追加で補充要員も入れて)での捜索活動をするのもやむなしといえる。
その渦中、とある人物がその捜索の合間にしたためていたのが「偽造」された合格証明書だったのだ。
その原本を芙蓉は執務室の中で一度「視て」いる。
『それを寄越せ』
すぐに高威に奪われてしまったが、芙蓉の眼は確かにその内容をあらためていた。
「わたしがこの眼で『視た』偽造書類には官吏登用試験の合格した、という旨のほかに氏名が既に書かれていました。事前に証明書の下書きを準備しておくにしても普通、この箇所は空欄であるべきですから不自然です。それに――陛下が教えてくださった登用試験合格者の優遇措置の話を聞いて、理解しました」
――流漣国官吏登用試験合格証明書――
証明書さえあれば、市場で必要な物資を無償または安価で得ることが出来る。
物資を売却すればそれなりの利益は得られるだろう。証明書を担保に金貸しから金を借りることもできるかもしれない。
偽造する利点はかなりありそうだ。欲しがるものは少なからずいるだろう。
吏部の中に、合格証明書を偽造したものがいる――それを竜藍は「盗人」と言っていたのではないか。
「竜藍様が吏部から玉璽を持ち出したもうひとつの理由は……むしろ、此方の方が主たる理由であってほしいのですが――これ以上合格証明書を発行させないため、ですね」
竜藍は何も答えなかったが、視線で「続けて」と促してくる。
「高威様にも確認しました。近年、偽造された合格証明書が市井に出回り、予算がひっ迫しているのだ、と。粗悪なものであれば商人たちも見破れるようになったそうですが……玉璽が押印されている本物そのものである偽物を持ち込むものが出ているそうですね」
いっときは官吏になる道を選ばずに、一時金のために証明書を売り払う者がいた、ということなのだろうと考えていたのだが……それにしても数が合わない。
内部に偽造証明書を発行している官吏がいるのでは、と吏部尚書は頭を悩ませているようだった。
「君のことだから誰が偽造していたのかももう気付いているんだろうね」
「……ええ」
精巧な偽造証明書が出回り始めたのは、とある官吏が吏部に着任してからだった。それに一度目にしたあの偽造証明書の筆跡は、彼の手によるものだとわかってしまった。
彼と話しているときに、視えたじわりと立ちのぼった灰色の靄――あれは隠し事をしている者特有のものだった。
「……董良様は、どうなったのですか」
芙蓉がそう尋ねると、竜藍は首を横に振った。
「一身上の都合で官吏をやめることにしたようだよ。今頃、故郷にでも帰っているのではないかな」
しれっと竜藍は言ったが既に手を打ったのは間違いなかった。彼がいるのは故郷ではなく地中だろう。
表向きにすることは出来ない事件であるだけに内々に処理をしたのだ。
竜藍は既に答えを得ていたのに敢えて、芙蓉を吏部に送り込んで――試した。芙蓉の眼力をはかるために。
「やっぱり君の眼は特別のようだ」
浮かべたその微笑みが酷薄に見えたのは気のせいではないだろう。
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