第32話 えっ

「お、王太子殿下!」

「殿下!」


「王子殿下!」


公爵家の広間に王太子殿下が品格のある足取りで従者数名を伴って入ってきた。


これは公式の訪問ではない。先触れも何もなかった。

広間にいる者すべてが立ち上がり殿下に頭を下げる。

驚いて固まったように立ち止まる者もいた。


直接彼の尊顔を見たことのない者もいるだろう。

そこにいた者たちはすぐさま部屋の隅に寄り、控え頭を下げた。



「公式訪問したのではないから皆らくにするよう」


殿下はそう言うとアイリスと父の方に向かって歩いてきた。


「王太子殿下におかれましては……」


私がカーテシーで頭を下げると。


「よい。楽にして。侯爵も挨拶は必要はない」


右手を上げてそれを制した。


「はい」



殿下の姿を確認したムンババ様がやって来た。


「殿下、宮殿を出てこられたのですね」


「こんな時間になってしまったが、なんとか抜け出せた」


ムンババ様は殿下に頭を下げ、今までの状況を報告した。



「そうか。アイリス、大丈夫か?もう少し早く状況を把握できていれば……」



「大丈夫です。殿下にも大使にもご心配をおかけしました」


「いや、とにかく時間があまりない。先程のアイリスの言葉は私の言葉を聞いてからでも遅くはないだろう。侯爵、大使とアイリスで場所を移そう。人払いを」



殿下はそう言うと、連れてきていた側近に指示を出した。




場所を客室に移したが、二人の護衛だけは殿下と共に部屋へと入ってきた。


「スノウは今の状態では話もまともにできないであろう」


殿下はそうムンババ大使に訊ねた。



「信用していた家令の裏切りです。かなりショックを受けているようです」


スノウは殿下の登場にも気が付いていないようだった。

それほど憔悴しきっていた。


「自業自得です」


お父様は王太子殿下の前でも歯に衣着せぬ毒舌っぷりだ。


「今回の件が明るみに出ればフォスター公爵家は信用を失うだろう。大規模な横領を見逃していたとなれば監督責任は免れられないだろう。そして夫人を軽んじ虐待していた事実も表沙汰になれば社交界で生き残るのは難しい」


王太子は厳しい顔をした。


「知らなかったでは済まされないでしょう」


ムンババ大使も深く頷く。



「アイリス。調査していてわかった事はスノウは……いや公爵家が長年執事たち使用人達によって良いように操られていたという事実だ」


「はい。長い時間をかけて計画されていたようですね」


何となくそうだろうと思っていた。

あれほどまでにスノウの信頼を得ているのだ。昨日今日の話ではないだろう。

おそらく幼少期からすでに洗脳されていたのだと思う。


私が妻としてやって来なければきっとマルスタンたちの計画はうまくいっていただろう。




「フォスター領には海がある。何もせずとも豊かな土壌に恵まれ海路も得られる場所に、広大な土地を有する。フォスター公爵家は、通行税だけでも莫大な資産を得ているからな」


隣り合う領地を持つ父はフォスター家が有する土地がどれほど潤っているかよくわかっているようだ。


「執事のマルスタンは自分の娘をスノウの妻にして、確実に実権を握るつもりだったようです。そこにアイリス嬢がやってきた。思わぬ誤算だった」


「王家が決めた婚姻となれば簡単に潰す事もできない」


スノウはほとんどを王宮で過ごし、屋敷の現状に目をやる事をしなかった。

だから……



「アイリス。スノウとの婚姻は無効になる。それに異議はないか。王家の勝手で君は危険な目に合うこととなり辛い思いをさせてしまった」


辛いどころじゃなかったわよと憎まれ口をたたきたくなる。

流石に殿下に向かっては言えない。


けれど私は、スノウとの関係をこのまま終わりにし新しく自分の人生をやり直したい。そこだけは折れたくない。


「私はもう誰にも振り回されたくありません。スノウとは離婚して、すべての縁を切りたい」


正直に気持ちを伝えた。


「全てなど、それは私が許さない」


父が言った。そして続ける。


「お前は貴族の令嬢として生まれた。生まれながらに責任が生じる立場にある。逃げ出すな」


逃げという言葉を使われると腹が立つ。

そうさせたのはあなた達でしょう。

私だって貴族としてのプライドはある。

ずっとそうやって生きてきたから。


「けれど、私は王太子殿下との婚約はなくなり、今回スノウとの結婚に失敗し、殿下の前でも言うのもなんですが、いわく付きの貴族令嬢になります。もうお父様や王家の為に役立てるような存在ではないでしょう。貴族の中で生きていくことは難しいと思います」


私には運がないと父は言った。

その通りだ。


政略結婚の駒にすらなれない。

良い婚姻は今後望めないし、噂の的になる社交界に顔を出すのは嫌だ。


生活の面倒を見て貰う必要もない。

自分の事業で生きていける算段はできている。個人名義の資産もある。



「私が、アイリス嬢と結婚します」


突然、ムンババ様が言った。

皆の時間が一瞬止まった。



私。「え?」



お父様。「は?」


王太子殿下。「おい!」




ムンババ様はとんでもない事を言い出した。


「何が悪い?」


「待ってくれ、大使殿……それはどういう意味だ」


お父様が驚いている。


「ムンババ大使、そういう事じゃない。そうではない」


殿下が珍しく焦り気味に声を上げる。




ゆっくりと堂々とムンババ様は発言する。


「何か問題がありますか?」






私はただ成り行きを見守るしかなかった。



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