第55話 ー国境の城塞ー 無明の闇や憎多き 今の世にありてわれを信徒となし給ひぬ 願はくは吾に与へよ力と沈勇とを*
「この荷馬車、途中で壊れませんか? 閣下」
ブレスト・プレートを体の前後に装着し、長剣を腰に
「使える荷馬車の用途は言ったはずだ。かわりに馬は良いものを用意した。ご婦人3人ぐらいであれば背に乗せても問題ない」
そこに少年が
「ご、主人、さまぁ。鏡の、向こう、人、が、現れ、ました」
「ここへ連れてこい」
「わかり、ましたぁ」
子爵の
「今度の日本人は約束を守る程度の知性はあるようだな」
「どういう意味ですか? 」
「ふんっ。
「切り捨てられても仕方のない小者。ということですか? 」
「そういうことだ。クーム侯爵やオールバラ伯爵が、あんな男のどこに価値を見出したのか、酔狂なものよ」
「探り出さなくても宜しいのですね? 」
「どの道手に入らぬものであれば、誰の手にも入らぬ内に処分してしまえばよい」
「なるほど、そういうことですか」
「処分と言えば、少し前に
「閣下が領外へ追放なされたという日本人ですか? 」
「あぁその日本人だ。カモという氏族が全国にネギとかいう神官を派遣すると、全く意味のわからぬことを言っておった。ウィルマは知っているか? 」
「日本人が愚かだということをですか? 」
「違う。いや、それも事実だが、鴨鍋に葱を入れると肉の臭みがとれるのだ。あれを見よ、鴨肉を持った者が葱持参でやってきたぞ」
「あの大荷物は何なのでしょう。日本人と会うのは初めてですが、何とも言葉に困る珍妙な一団ですね」
ジョイントにプラスチックを使用しない帆布製のバックパック。男は110L、女3人は70Lの容量がある。それぞれがバックパックの側面に、見慣れぬ素材を巻いた布の様な物を取り付けていた。
「子爵閣下。お待たせして申しわけありません」
リンが深々と頭を下げる。
「よい。今、荷馬車の準備ができたところだ」
愛想よく振舞っていたリンが屋根のない荷馬車を一瞥し、ロミナのような能面と化し表情を消す。
「城塞までは3日かかるが、水と食料は適時補充してくれ。馬用と人用の水樽、保存食15食分と毛布を5枚、それに馬用の飼料を積み込んである」
「十分なご配慮に感謝いたします」
なんとか愛想の良い声を維持しようとするが、リンの声は当初より幾分硬くなっていた。
「皆さんこんにちは。
「リン・グリンプトンよ、よろしくね。随分と使い込んだ長剣のようだけど、ベテランの方と同行できて嬉しいです」
マヤは但馬に視線を向けるが、但馬は荷馬車の側に移動し、挨拶に参加しない
「マヤ・カトーと申します。御者は私が勤めましょうか? 」
「そうね。疲れたら代わってもらおうかしら。でも、急なことで荷馬車が年代物しか用意できなかったの。ごめんなさい。途中で壊れたら嫌でしょう? だから、慣れている
ウィルマは最後の1人に視線を向ける。
「ロミナ・ファーガスと申します。ファーガスは家名ではなくセカンドネームとして使用するように命じられた平民です。どうぞ、御引き回しの程をよろしく御頼みいたします」
「あらあら。随分と丁寧なご挨拶。痛み入ります。短い間だけど、そう
「俺は但馬」
ウィルマの後ろから男が一声かけた。
「挨拶が終わったのなら行こうか」
ムッとした風のウィルマが声を出す前に、リンが声を上げる。
「あんたねぇ最低限の礼儀ぐらい
「挨拶なら昨日したと思う」
「そうじゃないでしょ! 」
但馬は肩を
「それでは、楽しい旅行に行ってきます」
「あっあぁ。行ってこい」
但馬と女性3人が馬車の荷台に乗り込んだ。
一歩も動こうとしないウィルマに子爵が声をかける。
「どうした? 皆待っておるぞ」
ウィルマは荷馬車を背に子爵の真横まで移動してから耳もとで囁く。
「日本人を殺すことが目的なら、今ここで始末したほうが良くないですか? 」
子爵も立ち位置をずらしてウィルマの耳もとに口を近づける。
「わしもそれを思ったが、『紅宝石』が日本人とわし等2人を等分に見続けておった。『狂犬』は突っ立ておるだけだったが、黒髪もさりげなく重心移動し戦闘態勢に移っていた。今ここでは何もするな」
不満そうなウィルマに子爵は注意を
「中央の古狸共が派遣した神官が1人だけだと思ってはいないな? これからは常に見られていると思え。わしは侯爵に感謝されたいとは思うが、敵にしたいなどとは考えていない。やりたければ
「
ウィルマは込み上げる感情を無理やり飲み込んだ。
荷馬車の中でもリンが小声で但馬に詰め寄る。
「どういうつもり? 」
「俺が行きたがっていないことは知っているだろ。このボロ荷馬車と不相応な毛づやの良い馬。あの子爵が口を滑らした『馬用と人用の水樽』。何で人より馬の水を先に言う? 保存食は足りていないのに、馬の飼料は大量に積んでいる」
「何が言いたいのよ? 」
「俺が言いたいのは、あの金髪が気にいらない。それだけ」
「但馬さん。私も気が気ではありませんでした。何を怒っているのですか? 」
「向こうが俺を嫌っているのに、何で媚びなければいけないの? 」
「何言ってんのよ。あんたには何も言っていないじゃない」
「俺は視線に乗せた感情を読み取れる。勘違いしないでくれよ。何を考えているのかがわかるとは言ってないぞ。最初から俺にネガティブなレッテルを貼って見てくる奴には何も期待しない」
「それって、あたしのことを言っているのかしら? 」
「ん? リンは最初から感情をぶちまけていたじゃないか。そういう人間だと第一印象で受け止めてしまえば、その感情を俺に向けても、そのまま受け入れるだけで特に思うところはなかったよ」
「今の、あたしへの侮辱よね」
「いつか昔を思い出して『そんなこともあったね』と、笑いあえる関係になれるといいね」
「そんな関係になる未来なんて絶対にこないわよ。て、言うか。あんた何時まであたしにつきまとうつもりなの? 」
「俺は直ぐに切れるけど、いつまで続くかはリンの勉強進度によるんじゃないの? 」
「直ぐに終わらせてみせるわよ! 」
それまでのひそひそ声が突然大きな声にかわる。
但馬が外を見ると、離れたところに立っていた子爵たちが振り向いて馬車を見たところだった。ウィルマは子爵に一礼すると、命じられた仕事をこなすため御者席へと歩き出す。
「ここで買い物をしたいのだけど、魔石で物を買えるのかな? 」
但馬が誰ともなしにぼそりと
「食料ですか? 」
「いや。この荷馬車を補強する板を買っておきたい。釘と道具は持ってきたけど板は手持ちにないからね」
「普段金属の板でできた車に乗っているあんたに木製馬車の修繕なんてできるの? 」
「できるかどうかは明日の朝のお楽しみだね」
「勝手な事はしないで! 」
御者席に上がっていたウィルマが振り向いて但馬を叱る。
但馬が口を開く前にマヤが立ちあがった。
「壊れたときのために
但馬を睨みつけていたウィルマは表情を
「聞いてまいりますので少々お待ちください」
そう言ってウィルマは子爵の方に小走りで向かう。
「マヤ。気を利かせてくれたとこ悪いけど。俺はここの貴族家の使用人ではないから、あの女が戻ってきて俺に『板を取りに行け』と言ってきても無視するから」
「あんた。少しは歳相応に振舞ってよ。子供のようなことをしないで」
「今更生き方を変えられない。俺は子供の頃から相手が大人でも言った言葉の責任は取らせてきた。この馬車の修繕はやらないし、壊れたらそれを理由に旅行を取り止めて日本に帰る。君たち3人は俺に付き合わなくていい。こっちの世界での慣習なんか俺は知らないから各自で正しいと思う事をして」
「わたくしは但馬様の護衛ですから、但馬様が日本に帰られるのであればついて行きます」
「不穏な場所のようですから、契約時の移動手段が確保できないのであれば、オールバラ伯爵家に苦情を申し立てることにはならないでしょう。私も帰ります」
「あたしは……」
そこにウィルマが戻ってきた。
「『帰る』って何のお話をしているのですか? この馬車がお気に召されませんでしたか? 」
4人全員が沈黙しているところに子爵がやってきた。
「荷馬車の修繕がどうのと言っておるそうだが、そんなことに時間をとられて
女性3人は互いに顔を見合わせ、ちらちらと但馬の方に視線を向ける。
「ふむ。決定権は君にあるようだ。何か不満があるのなら話してくれ。今日の君は昨日と態度が全く違うな」
「何が起きようとしているのか、正直に話してもらえますか? 」
「その『何が起きるのか』を調べてもらいたいと昨日言ったはずだ。それに、君は既に前報酬を受け取っている。貴族から報酬を受けたのに、それを反故にするつもりか? 」
但馬はマヤを見る。
「報酬を受け取り、目的地への移動に支障がないのであれば、何もせずに帰るのは差し
「では、代わりの荷馬車の準備ができるまで待つしかないか」
「はい」
成り行きを注視していた子爵は、屋敷の玄関前に待機していた壮年の男性に向けて片手を
「あの者が案内する」
そう言うと子爵はウィルマを伴って屋敷とは別方向に歩いて行った。
「閣下。代わりの荷馬車があるのですか? 」
「わしの馬車だ。どの道家族を逃がすのにわしの馬車は使えん。あれは目立ち過ぎる」
「そうですか……少し気になったのですが、日本人に付いて来ている者たちは、何故日本人なんかの顔色を
「奴の今日の態度はなっとらんが、昨日は礼儀を
「
「あれか……許可を求めずにわしの執務室に踏み込んできて、何やら色々言っておったな。『石鹸を作れる』『活版印刷』『ノーフォーク農法』噂に聞く日本人そのものだった」
「それで、その者をどう
「取り敢えず石鹸を作らせてみたが、いつまで経っても持ってこない。期限を区切ると醜い物を持ってきて、何やらごちゃごちゃと言い
「『ノーフォーク農法』ですか。日本人は必ずそれを言うそうですね」
「うむ。出来るのかと問い質したら
「今回の日本人は、その『ノーフォーク農法』を口にしましたか? 」
「当人はわしと関りあいになることを避けている風でもあった。どちらかというと『狂犬』が積極的であるな」
「ご指示は以前のままで
「うむ。特段変える事もなかろう。馬車の紋章を糊塗し装飾品を外した後に荷物を積み込んだら直ぐに出発せよ。ボックステッド家の家紋入り短剣は忘れずに持ってきたか。フィネステダは4世帯しか在住しておらん小さな荘園だ。水しか補給できんだろう。手癖の悪い小作人はおらぬと思うが一応の注意は心掛けよ」
「閣下。
「ふっ、許せ。親心のようなものだ」
馬丁が子爵を見つけ走ってくる。出発の準備が整ったようだ。
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* 上田敏訳詩集『海潮音』 ポオル・ヴェルレエヌ 「譬喩」新潮文庫 1952
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