港町事件簿 探偵事務所編 『母』

@minatomachi

第1話

門司港の静かな夕暮れ時、優しい波の音が遠くから耳に届く。田中直也は母親の美代子の車椅子を押しながら、深い溜息をついた。古いレンガ造りの建物が立ち並ぶこの港町は、美代子が若い頃から愛してやまない場所だった。


「母さん、桜の木の下に行こう」

と直也は優しく語りかけた。美代子はぼんやりとした表情で、息子の言葉に微かに反応するだけだった。痴呆が進行し、彼女はほとんどの時間を過去の記憶の中で過ごしている。


直也の心は疲れ切っていた。5年前、工場勤務を退職してから一人で母親の介護に専念してきた。デパートのパート職員として働いていた母親の年金だけでは、生活費を賄うのも限界だった。彼の手には、年金の残りわずかな額が握られていた。それでも、母親が生きている限り何とか支えようと決意していた。


桜の木の下にたどり着くと、美代子の目が一瞬輝きを取り戻した。

「ここが好きだったね、母さん」

と直也は微笑んだ。しかし、その微笑みはすぐに悲しみに変わる。彼には母親の状態が日に日に悪化しているのが分かっていたのだ。夕陽が桜の花びらを金色に染め、母親の思い出が一層鮮やかに蘇るようだった。


美代子は痴呆と病気を患い、激痛の苦しみを頻繁に直也に訴えていた。

「母ちゃん、ごめん、ここで終わりや」

と直也は心の中で呟いた。美代子は静かに

「もういいよ」

と囁くように応えた。その瞬間、直也の心に深い絶望が広がった。母親の苦しみを終わらせるために、そして自分自身の苦しみをも終わらせるために、彼はある決意を固めたのだ。


直也は母親を殺害した。


しかし、手帳に直也が気付いたのはその後だった。美代子が大事にしていた手帳を見つけ、その中には「里美への懺悔」が綴られていた。そこには、経済的な理由から娘の里美を養子に出したこと、そしてそのことに対する深い後悔と愛情が記されていた。直也は初めて自分に姉がいることを知ったのだ。


「母の懺悔を姉に伝えなければ…」

直也はその思いに突き動かされ、母の死を隠し、妹の探索の旅に出ることを決意した。しかし、その決意が引き起こす運命の波紋は、直也が予想もしなかった方向へと展開していく。彼が知らない家族の秘密、そして失われた絆が再び繋がるための物語が、ここから始まるのだった。


直也と美代子が過ごした最後の瞬間、その後に続く直也の探索の旅、そして香織と涼介が関わることになる親子失踪事件、果たして直也は姉との再会を果たし、母の最後の願いを叶えることができるのか。

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