血の流れ

きづきまつり

 

 使い始めて二年は経過したであろうピーラーの刃がなまっていることはとっくにわかっていて、それでも使える以上は研ぐのも買い替えるのも面倒で、そのままにしていたツケが、3つ目の新じゃがいもの皮を剥くその時に私の左の親指の先に回ってきた。剥いたじゃがいもの皮とほぼ変わらない色をした私の皮膚はおそらくそのまま流しに落ち、一瞬鋭く、その後じわじわと響くように痛みが現れてくる。じゃがいもとピーラーをまな板の上に置き、指先を見ても一見どこが切れているのかわからない。血は遅れて出てくる。滴る。

 反射的に流しの水を出し、大量の水を親指の先にあてると、冷たく流れる水の中で怪我した指先はだんだんと熱さを増していくようで、それを冷やすように水の勢いを高めると、先端以外は体温を奪われて、熱感はかえって強くなっていく。水を止めると、一瞬血も止まったかと思わせるが、その期待もつかの間、再び血は滲んでくる。指先についた水気に混じる。流れる。

 水を止めたおかげで、リビングのテレビから流れる音声が、どこの誰とも知れぬyoutuberの、ゲームを実況する過剰な抑揚の声がカウンターキッチンにまで聞こえてきて、その粗野な言葉遣いと、そんなものを親の顔よりもはるかに真面目に見つめる我が子に、若干の怒りを覚えて眉をひそめる。怪我した親指の先を人差し指で押さえると痛みは強くなるが出血は止まる。深呼吸をしながら十秒数えて人差し指を離すが、血は止まらない。人差し指も赤く染まる。赤く。

 普段は皿を洗うときに使っている、使い捨ての薄いビニール手袋をシンクの下の収納から取り出し、濡れた左手になんとかはめるが、はめる段階で親指の先は手袋内のアチコチに触れたらしく、手のひらまで血で薄く赤く染まる。youtubeは長いCMに入り、子は飲めもしないアルコールの宣伝を、先程までとあまり変わらぬ表情で見つめている。手袋の先端の赤みは濃さを増していく。血は流れている。

 まな板においていたピーラーとじゃがいもを持ち直し、一見して赤いところはなかったが、改めて水で洗い流し、そのでこぼことした表面に刃を這わせ、皮を剥いていく。じゃがいもを剥いて切って、あとは玉ねぎを2つ切ればいいか。冷蔵庫にある常備菜と、すでに一口大にカットされた鶏もも肉と玉ねぎと卵で親子丼はできる。面倒な調理過程はじゃがいもと玉ねぎの味噌汁だけだ。親指の先はもはや赤く覆われて、指そのものは見えない。赤く、染まる。

 左手だけビニール手袋をつけたまま、鍋にじゃがいもと玉ねぎを入れて顆粒だしを混ぜて火にかけて、小型のフライパンにはめんつゆとみりんと醤油を入れて、そこに鶏もも肉と玉ねぎをいれてこれもまた火にかける。いずれも中火だが料理について習ったこともなく、ネットで調べて材料と大まかな手順を見るぐらいで、それが正しいのかどうかはわからない。ただ、くだらないyoutubeを見る我が子が六歳になるこれまでの間、食中毒になるほどおかしな料理も作ったことはない。甲高いyoutuberの笑い声がリビングに響く。手袋を外す。

 外気にふれた赤い左手から強い鉄の臭いを感じるが、調理中のキッチンで体温程度のぬくもりでそこまで匂いが広がるとも理性では思えず、錯覚を打ち消すように水を再び流し、手の表面にまとまりつく血を、その数mm内側に流れていれば気になりようもなく、ないほうがむしろ困るはずの血液を流し落とす。左手の親指を右手の親指と人差指で作った輪で絞る。左手全体としては冷え、その熱が親指の先に集まっていく。血は水流に飲まれていく。

 一〇歳のとき経血が初めて便器の中に浮いたことを、一五のとき左手首から流れた血を母が泣きながら押さえてその手が赤く染まったことを、一七のときの膣から抜け出た陰茎にまとまりついた血を、七年前に子宮から出てきた子を覆っていた羊水を、水にまじりゆく血液は思い出させる。ピーラーを、気づいたときに買い替えておけば、必要のなかった出血だ。無意味な血が、赤く流れていく。赤い流れは、排水口に消えていく。

 テレビを見ていたはずの子どもが急に立ち上がり、私の手が止まっていることに気がついたのかと思い反射的に水を止め、流水に冷やされて感覚の失われた傷口を右手で押さえる。

「鼻血出た」

 子はそういって鼻を噛むと、こちらまでティッシュを持ってきて広げてくる。透明な鼻水の中にわずかに血が混じっていた。

「鼻ほじるからでしょ」

 声をかけても、にやりと笑うだけで、さほど気にする様子もなく、ティッシュをゴミ箱に投げ入れてテレビ画面の前に戻る。私の左手は段々と感覚を取り戻す。僅かな痛みはあるが、血はもう止まっているようだ。

 私の胎内で私の血を受けて生まれ育ち、羊水にまみれ会陰を切り裂いて出てきた我が子が、私の母乳を飲み育つ。鈍った刃のピーラーでじゃがいもの皮を剥き、指から血を流して今日の食事を作る。もはや母乳を離れた我が子の胃に、私の作る親子丼と味噌汁が流れ込み、消化され、血肉へと変わる。生み出されたその血は、鼻をほじりすぎて破れた粘膜から流れ、ティッシュに包まれてゴミ箱に入る。私の子宮の中で、ドップラーエコーを通して聞こえた臍帯血の脈動は、いまやyoutuberの悪態となっている。火にかけた鍋はそろそろ沸く。指先に、また少しずつ、血が滲んでくる。

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