第1-2話 『パスタは冷めると美味しさ半減。』

 島崎彩人がこの仕事を始めたのは十五の時だった。正確に言えば初めて人を殺めたのが十五の春で、殺し屋としての経歴上は既に人生の半分が該当しているのだが。

 両親の顔は大して覚えていない。

 父親は自分が生まれて、すぐ離婚したらしく面影すら記憶に存在していない。

 母親は夕日が沈むと同時に仕事に出かけ、アルコールの匂いを纏って朝焼けと共に帰ってくる人だった。「ただいま~」と上機嫌に言いながら帰ってくる日もあれば、「ただいまぁ~」と泣きながら帰ってくる日も、「ただいま…」と見知らぬ誰かへの怒りと失望を滲ませながら帰ってくる日もあった。

 勿論、後者二つに関しては、自分への暴力もセットだった。

 父親と離婚してからの母親の精神状態は常に不安定で、さっきまで笑顔だったと思いきや突然、罵声と暴力が飛んでくる事だってザラにあった。

 自分が狭い布団で体を縮こませて寝ていたとしても、彼女の嵐は突然降りかかる。口から強い酒の匂いを漂わせながら暴言を吐き、絶え間なく拳が振り下ろされ、体の柔らかいところに蹴りを入れられ、未熟な精神を恐怖一色で塗り潰した。

 そして決まって最後は「ごめんね。本当はこんな事したくないんだよ」と優しく抱き寄せられ、薄っぺらい謝罪の言葉をプレゼントしてもらうのだ。

 なら最初からこんな事しなきゃいいのに。なんて口が裂けても言えなかった。言ったらまた嵐が吹き荒れる。安定しているうちはそっとしておいた方がいいと小学校に上がる頃には学んでいた。


 そんな終わらない地獄の日々は呆気なく幕を閉じた。

 空が真っ赤に染まった綺麗な夕焼けの日だった。

 日々更新されていく傷跡を不審に思った教師が、児童相談所に通報したのだ。

ボロアパートの前で母親と同じくらいの年齢で、母親よりもしっかりしていそうな女性に抱きしめられ「辛かったよね、もう大丈夫だからね」と耳元で囁かれた時は思わず涙が溢れた。

 ようやく母親に殴られずに済む。母親の顔色を伺う必要もなくなる。朝までぐっすり眠れる。そんな事をぼんやりと考えながら涙は溢れ続けた。


 でも地獄の日々は形を変えてまた幕を開けた。

 母親と住んでいたボロアパートから、隣の市の児童保護施設に移り住んだのが、そこで再び自分の不幸を呪う事になった。


 ――『アジサイ園』敷地の周りをぐるりと囲うように植えられたアジサイから名付けられた、児童保護施設にボロアパートから移り住む事になった。

 白を基調とした壁に淡い青色の屋根が目を引く建物、ピカピカの床と壁、閉める度に軋んだ音を立てないドア、広くて明るい部屋、開放的な大きな園庭。

 少なくとも自分が今まで経験した住環境の中で一番綺麗で居心地が良かった。といっても比較対象が、あのアルコールとゴミの臭いが立ち込める我が家ぐらいしかないのだが。

 施設に入所している児童はおよそ五十名。上は中学三年生、下は小学校一年生とだいぶ幅広いが、年齢関係なく皆和気あいあいとしていて、まるで大きな家族のようだった。


 表向きは普通の児童養護施設。である。あくまでも表向きは、だが。


「今日こそは絶対に勝ってやる!」「ナイフで刺せ!」「ぶち殺せー!」「本気だせよ!」「そこだ!そこで体を押さえつけて!」「ああ!惜しい~。」「もう少しで殺せたのに~。まあドンマイ!」「今日の訓練はおしまいか~」

 入所して三日目。目の前に広がる異常な光景を見て言葉を失った。

 自分と同じくらいの子ども達がナイフを持って、文字通り殺し合いを繰り広げていたのだ。

 鈍色の光が弧を描いて振るわれる。時には直線となって突き出される。拳や蹴り、あらゆる体術を交えながら、軽快なステップを踏みながら、眼前の少年少女たちは命のやり取りをしていた。

 とは言っても、彼らが持つナイフは先が鋭利ではない訓練用の物だったが、それでも肌を掠めれば生傷が浮かび、思い切り突き刺せばシャツに血の染みが出来るぐらいにはナイフであった。

 そんな物を振り回し、瞳には鋭い眼光を宿し、激情を滲ませ、体中に傷をつくり、血が流しながら、彼らは命を本気で奪い合っていた。

 そしてそれを外から眺めて野次を飛ばす少年少女たち。メモを取りながら殺し合いを見つめ講評する大人たち。全てが異常だった。

 今まで暴力の雨に打たれ続けた日常が何処までも「普通の日常」でしかないと思うぐらいには「異常な日常」が目の前にはあった。

 大人の一人が大声で殺し合いを止めさせる。自分と同い年かそれよりも下の女の子が、二回りも大きい青年の首筋にナイフを突きつけて組み伏せていた。

 ぴゅうと口笛を吹いて颯爽と立ち去る少女、唇を噛み締めて震える青年。

 状況は何一つとして飲み込めずにいたが、ただのごっこ遊びの範疇を越えた事情が渦巻いている事だけは彼の表情から伺えた。

 首筋に突きつけられていた銀色の刃の冷たい輝きだけが網膜に残った。


 三日目までは此処での生活に慣れるためのオリエンテーションと称して、見学しているばかりであったが、四日目からは自分も『運動』と呼ばれるトレーニングに参加する事になった。

 簡単なストレッチの後、園の裏山でランニング二十キロ。急勾配な上り坂、下り坂を休むことなく走り続けた。全身の筋肉が引き千切れそうになり、吸い込む空気が刃物のように喉を切り裂いていく。

 足を止める事は出来なかった。

「なぁに止まっているんだぁ!」

 背後で大人の怒号が飛ぶ。何事かと、視線を後ろに滑らせると小さな女の子が路上で蹲っていた。どうやら限界が来てしまったらしい。

 大人は小さく舌打ちをして小走りで彼女のもとに寄り、彼女に手を――。

「ご、ごめんなさい!でも、もう走れませ――」


 ゴフッと鈍い音と呻き声。

 幼い彼女の可愛らしい顔に大人の拳がめり込んでいた。


 唖然とした。

 頬を殴られた衝撃で路上に転がった少女は鼻血を吹き出しながら、「ごめんなさい、ごめんなさい」と言葉を必死に吐き出す。

 まるで命乞いをするかのように。

 だが、その言葉も大人には届かず、彼女の鳩尾に蹴りの一撃が入る。声にならない絶叫を上げた少女はゲホゲホと咳き込むがその間にも次の拳が飛ぶ。

 鈍い音が二度三度と追加で鳴った後、ギラついた目をした大人は彼女に吐き捨てる。

「黙れ!貴様らの軟弱な精神がそう言わせているだけだ!罰としてその場でスクワット五百回!早くやれ!そしてそこで止まっているお前ら!コイツみたいに指導されたくなかったら死にもの狂いで走れ!今すぐ!」

 導火線に火を強制的に点けられる。ズタボロのボロ雑巾のようになった少女を尻目に自分たちは一気に坂を駆け上がる。あんな目に遭いたくない。その一心だけで悲鳴を上げる肉体を無理やり動かした。

 児童の健康な肉体と精神を養うため。そんな謳い文句と共に行われているトレーニングだったが、実際は大人と児童での強い上下関係を植え付けるため。そして意思の無い駒として洗脳するための訓練だったのだな。と大人になった今は思う。

 結局、二十キロ走り終わる頃には時計の針が天辺を超えていた。早く寝た方が小学生にとっては健康な肉体と精神を養えるはずなのに。


 ご注文のジェノベーゼとペペロンチーノです。とやたら元気な声の店員が二人の前に皿を運んでくる。自分がジェノベーゼ、彼女がペペロンチーノの図だ。

「…あの、さっきは…」

「冷めないうちに食べたらどうだ?」

 と、さっきの件を謝りたそうしていた彼女にパスタを勧める。何度か視線が此方とパスタを行き来した後、「いただきます」と手を合わせ、フォークでくるくると麺を巻き始めた。

 垂れた髪を左耳に掛けてパスタを口に運ぶターゲット――浅井怜にスマホの液晶を割られてから二人は近くのファミレスの席についていた。

 涙目ながらに「弁償するから!」と彼女に何度も言われ、周囲の視線が痛く刺さってしまい渋々、「場所を変えよう」と提案し今に至る。

 ――さて、どうした物か。と皿の上で巻かれていく麺を見ながら思う。

 本来であればターゲットとの接触は絶対に避けるべき事項である。そもそも殺し屋は誰の目にもついてはならない仕事だからだ。

 当然、アニメやマンガの様な戦闘なども有り得ない話だった。大抵の場合、戦闘なんてする時点でその仕事は失敗しているからだ。

 仕事の八割は暗殺方法の策定とそのスポット探し、そして逃走経路の確認ばかりで、ターゲットを始末するのなんて出来上がった料理を皿に盛り付けるのと同じである。

 それに戦闘なんてすれば警察が黙っていないのもある。

 現代の警察の捜査能力の飛躍は目覚ましい。一度捜査線上に名前が出てきてしまえば、殺し屋の存在に辿り着くのはさして難しい事では無い。

 現に仕事で失敗し警察に存在が露呈した殺し屋は皆、組織に抹消される。先月だって組織からの仕事で失敗し、警察に追われるようになったフリーランスの殺し屋は不思議な事に廃業していた。

 誰の思考も及ばない所から静かに、そして確実に始末するのが一流なのだ。

「…おじさんは食べないの?」

 彼女が不思議そうに上目で此方を見ながら首を傾げる。見れば彼女のパスタの半分以上が既に無くなっていた。

 状況を踏まえれば食べられるはずではないと思うのだが、さらっと砕けた話し方とおじさん呼びをしている辺り、肝が据わっている子なのかもしれない。

なんて考えていると「パスタは冷めると美味しさ半減。さあ、どぞどぞ」と何故か勧められてしまった。

 食べる前と今で立場が逆転している事に、イマイチ納得いかなかったが、彼女の言っている事も尤もである。

 テーブルに置かれた皿に視線を落とし、目に鮮やかなジェノベーゼソースが絡んだ麺を口に運ぶ。鼻を抜ける清涼感のあるバジルの香りが口いっぱいに広がる。やはり、ジェノベーゼは自宅で作るのは難しいので店で食べるに限る。

 確かにちょっとだけ冷めていて美味しさ三割減ではあったが。

 そうして、八割程食べ終わったところで、眼前のターゲットは口を開いた。

「…さっきはいきなりぶつかってごめんなさい。スマホも割れちゃったし」

「混んでいたホームで突っ立っていた自分も悪かった。それにそろそろ買い替えようと思っていたどころだから気にするな」

 そもそもスマホ自体にそこまで興味が無い。と言ったほうが正しいのだが。

「確かにおじさんのスマホ、随分と古いしねー。やっぱり買い替えたら?」

「そうさせてもらうよ」

 テーブル上の数世代も古いスマホをまじまじと見つめながら彼女は言う。最後に買い替えた時も画面の反応が無くなってからだった。

「てかさ、おじさんこんなとこで油売ってて良いの?お仕事中じゃないの?」

 そう彼女は訊いてからメロンソーダをストローでちゅーと飲む。ちゃっかり注文時にドリンクバーまで頼んでいたのかと今になって気づいた。ターゲットを目の前にして自分の正体がバレないようにしていたのが裏目に出たか。

「気にするな。どうせ仕事なんかあってないような物だからな。外回りの営業の特権って奴だ」

 彼女の疑問についてサラリと嘘をつく。「君を殺そうと思っていて今も好機を伺っているよ」なんて口が裂けても言えない。

 外回り、と言った通り、自分は表向きには主にスマホ向けゲームアプリを手掛けている小さなゲーム会社の営業担当という事になっている。今日もその外回り営業という体でこんな真っ昼間からフラフラしているのだった。

 勿論、それは建前上の話で社員は全員、組織に所属する殺し屋なのだが。

「…ふーん、じゃあアタシと一緒のサボりか」

 彼女はストローでグラスの氷をかき回しながら小さくそう言う。氷がぐるりとコーラの中で踊って、小さな炭酸の泡が何処か寂しさを滲ませた彼女の声と一緒になってしゅわしゅわと水面から抜けていった。

 お昼時の渋谷のファミレスにスーツの男性と制服姿の女子高生。傍から見たらパパ活でしか無いこの状況。周囲からの視線と居心地の悪さも相まって、寂しげに零した彼女になんと返すべきか最適解が見つからなかった。

 そうして二人の間には奇妙な沈黙が漂う。口を噤む自分の代わりに彼女がまた口を開く。

「…ねえ、おじさん。この後も時間あるんだったらもうちょっと付き合ってよ。お詫びにスマホ選んであげるし」

「………。」

 ――この誘いには乗っていいのか。と考える。

 もうターゲットにも顔を見られた上に、二人の行動は監視カメラには記録が残っているはず。どうここから立て直して始末に成功したとて、芋づる式に自分の存在は浮かび上がるだろう。

 仕方がない。こういう時はサブプランでの始末に切り替える事にする。そのためにはもう少しターゲットを親密になる必要があった。

「…分かった。どのスマホが良いのかサッパリだし是非教えてほしい」

 最大限出来る笑顔を添えてそう返す。ピンチでもチャンスでもあるこの状況を活かしてみせる。

「オッケー。それじゃあ早速、行こっかおじさん!」

 コーラをぐびっと飲み干し、そう言って立ち上がる彼女。随分と勢い良く言うものだから隣のおばさん達に変な目で見られていた。

 マズイ。いくらプランを切り替えていたと言え、変に悪目立ちしたくは無い。

 小さく嘆息を溢して、

「こう見えてまだ二十代だ。おじさんと呼ぶのやめろ」

「あー確かにおじさんって感じじゃないか。じゃあなんて呼べば良いの?」

 思わず苦言を呈すと、彼女はケロッとした顔で名前を訊く。

「自分は、島崎彩人。彩る人で彩人だ」

 胸ポケットの名刺入れにもそう記されている、思い入れも歴史も何にも無い確か十七個目の名前を告げる。

彼女は何度か「彩人さん、彩人さんね」と口の中で転がす。この仕事が終われば捨てる仮初の名前というのに、彼女はちゃんと覚えようとしていた。

「アタシの名前は浅井怜。よろしくね彩人さん!」

 もう既に知っている彼女の名前を聞いて、どうしてか虚しい気持ちになった。

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