第一章 少年サザナミ、十二歳②

 奴隷商人の言うとおり、アルバスの市街地では祭りが開かれていた。

 遠くから鼓笛隊のマーチと人々の歌声が聞こえる。男の話によると中心地から離れているというのにこの騒がしさ。

 耳慣れない民謡に興味を持ったサザナミは、幌の隙間から外の景色をうかがった。石畳の道路を、籠を持った少女らが列をなして歩いているのが目に入る。彼女たちが籠から色とりどりの花びらを掴んで宙に放ると、わあっと歓声が上がった。

 一方の奴隷商人は相変わらず機嫌が悪そうだった。混雑を避けているにしても、なかなか進まない様子の荷馬車に苛立っているようだった。大きな大きな舌打ちが聞こえる。

「クソ、いまから王族がこの辺りを通るらしい。ここは中央広場から離れているから大丈夫だと思ったのに」

「王族?」とサザナミは聞き返す。

「ああ、そうだ。パレードだとよ。このままじゃ待ち合わせの時間に間に合わない。最悪だ」

 男はぶつぶつと悪態をつき続ける。

 サザナミは幌に身体を預けた。

 そのとき、ひと際大きな歓声が上がった。続いて聞こえてくるのは人々の拍手とファンファーレの音色。

 驚いたサザナミはすぐに体を起こす。

 いまにも壊れそうなこの荷馬車はところどころ破れており、サザナミはその隙間から外をのぞいた。花籠を持った少女たちはいつの間にか消えていて、石畳の道路を左右に囲むように民たちが歩道を埋めつくしていた。

 その中央を、白馬の馬車が優雅な足取りで進む。二階建てで、ひと目で高貴な人間が乗っているとわzかる華美な造りの馬車だった。

 ――例の王族だろうか。

 サザナミはとくだん興味はなかったが、することもないので幌の穴を指で広げ、その馬車に乗る人々を静かに観察することにした。

 馬車の上階は吹き抜けになっていて、そこに恰幅のよい壮年の男と、サザナミと同じくらいの年代の子どもが腰を下ろして民らに手を振っている。ふたりとも陽に透ける金色の髪と菫色の瞳だ。

 あの二人しかいないところを見ると、あの大人が国王なのだろう。 

 自分と同じくらいの背丈の子どもはきっと王子だ。王子はこの世の穢れをまるで知らなさそうなあどけない面持ちで、民らに微笑みかけている。ずいぶんと線が細く、肌も白い。遠目でも頼りなさそうに見える。

 異国の民であるサザナミの目にひときわめずらしく映ったのは、ふたりの衣装だった。白く上等な生地に金の刺繍をこさえたジャケット。祖国ホムラでは漆黒が王族の象徴だったから、まるで対照的だ。

 アルバスの王子は陽光を浴び、己が唯一無二の存在と象徴せんばかりにひときわ輝きを放っている。

 眩しいな、とサザナミは思う。

 ――でも俺には関係ない。

 そう思って幌の穴にかけた指を離そうとしたとき、王子と思しき子どもがこちらを見た。

 菫色の無垢な瞳が、サザナミをとらえる。

 その瞬間、サザナミの周りは時を止めたように静寂に包まれた。距離など関係なしに、なぜだか王子から目が逸らせない。

 どくん。

 サザナミの心臓が波打った。

 息苦しさを覚えて目を逸らし、深呼吸をしてからもう一度王子のほうを見ると、彼はすでに街道の民らに視線を戻し、優雅に手を振り続けていた。

 気のせいだろうか。

 しかしサザナミには自分を見ていたように思えてならなかった。

 サザナミは今度こそ幌の穴から指を離し、床に寝転がった。たとえ王子が自分を見ていたとして、だからなんだと言うのだろうか。どうせ自分はこれから売られ、また貴族の男どものおもちゃになるだけだというのに。

 心の奥底にしまいこんでいた虚しさの蓋がはずれかける。闇市に着くまで眠ってしまおうと、サザナミはぎゅっと目を閉じた。


「いったいなんだってんだ!」

 サザナミを微睡みから起こしたのは、これ以上にないほど苛立った奴隷商人の怒鳴り声だった。

「見たところあなたはこのあたりの人間ではないだろう。これ以上先に進むには通行許可証がいるんだ」

「そんなん聞いてねえよ」

 奴隷商人が話している相手はアルバス語をひどく早口でしゃべっている。世界共通語であるアルバス語を、ホムラの民は子どものころに習うことになっていたが、いざ口語を耳にしても半分くらいしか聞き取れない。奴隷商人はふだんから仕事でアルバス語を使っているだけあって、相手の言葉を理解しているようだ。

 サザナミは、言葉がうまく聞き取れない代わりにまわりの音に意識を集中させた。

 がちゃがちゃと金属が擦れる音がする。甲冑か武器だろうか。おおかた、粗末な荷馬車を不審がられて衛兵にでも捕まったのだろう。

「ああ。あなたの言うとおり、いつもなら通行許可証はいらない。だけど今日は見てのとおり祭りの日で、厳重に警備することになっているんだ。申し訳ないのだが、どうしてもここを通りたいのであればあした以降にしてくれないか」

「クソが」

 気に入らないことがあるとすぐ暴力を振るう男だったが、さすがに衛兵には強くは出られないようだ。

「ところでお客人。この荷馬車には何を積んでいるんだ」

「か、関係ねえだろ! おまえらの言うとおり、今日はここを通らないと決めた。だからもう帰らせてくれ」

 ほら行くぞ、と大きい声を出し、馬に鞭を振るう。

 衛兵の困惑した声が聞こえる。

 さて、とサザナミは考える。

 たとえばここで自分が出ていったとしたら、どうなるのだろうか。

 運がよければ一時的に衛兵に保護してもらえるだろう。しかしその先は? そもそも身寄りもなく、アルバスの言葉もそこまでわからないうえに、まだ子どもの自分がどうやって生きていくのだろうか。

 どうせ奴隷に逆戻りだ。

 だったらもういまのままでいいだろう。

 齢十二の子どもは己の無力さに、己の人生に、とうの昔に絶望していた。

 諦めてふたたび眠りにつこうとしたとき、「団長!」と衛兵と思しき男の大きな声が聞こえた。

「アキナ団長!」

「おまえたち、民間人の荷馬車を止めていったいなにをしているんだ」

「すみません。ですが、この男、どうにも怪しくて」

 少しの間があり、アキナと呼ばれた男が口を開いた。

「異国のお客人、すまないが荷馬車の中を見せていただけないか」

 男はゆっくりと冷静に、しかし厳しさをはらんだ声色で奴隷商人にそう言った。

「いやだね。俺は急いでいるからもう行く」

 奴隷商人はひどく苛立っていた。

「このとおりわれわれは警備にあたっている身なんだ。今日はハレの日。なにかあってはいけないとどうにも気を張っていてね。すまないが、少しだけでいいので確認をさせてくれ」

 沈黙があたりを包む。

 まずい、とサザナミは直感で思った。

 この男が黙るのは、たいていが本当に苛ついているときだった。前は奴隷仲間のエリックが雇用先で皿を割ったとき。偶然その場に居合わせた奴隷商人は虫のいどころが悪かったのか、己の失態に怯えるエリックを静かに見下ろし、なにも言わずに拳銃で額を撃ち抜いた。

「……うるせえな」

 奴隷商人はサザナミにしか聞こえないほどの小さな声でそう呟いた。

 すぐに、パンッと乾いた音が空気をつんざく。

 一瞬の静寂ののち、銃声を聞きつけた人々が一斉に騒ぎはじめた。

「おいおいおいおい! 危ねえだろうが!」

 アキナと呼ばれていた男が怒鳴る。

「お客人、誰かに当たったらどうするつもりだったんだ! アルバスは拳銃の所持を認めていない。これは異国の民であるおまえも知っていることだろう。申し訳ないが、逮捕させてもらうからな」

 奴隷商人が喚く声が遠のいていく。反対に、アキナの声が近づいてくる。

「さあ、中をあらためさせてもらうよ。どうせ麻薬の類とかそういうんじゃ……」

 勢いよく幌がはずされ、陽の光がサザナミのまぶたを刺激する。サザナミは反射的に目を閉じた。

「子ども……?」

 うっすらと目を開けると、父親くらいの背格好の男と目があった。思ったよりも軽装で、腰に携えた長刀に手をかけて、?然とした表情でこちらを見ている。

 男はサザナミの姿を認めると、翡翠色の瞳を溢れんばかりに開いた。すぐにサザナミを上から下まで観察し、さぁっと顔を蒼くする。

 衣服とは名ばかりのぼろきれを身にまとい、野良犬のように乾ききった瞳で見上げる異国の子どもは、さぞ異様に映っただろう。

「おい、大丈夫か。俺の言葉がわかるか」

 男は一音一音はっきりと発音する。

 サザナミはこくこくと頷く。

 男の発音はひどく丁寧で、だからサザナミには問題なく伝わった。だが、わかる、と答えたいのに言葉が出てこない。

 男は大きなため息をつき、すまなかったと口にする。

「とつぜん大きな声を出して驚いたよな。俺はイエイル・アキナ。この国の騎士団長を務めている。大丈夫だ、俺はおまえを害さない」

 荷馬車の外から手が差し伸べられる。自分の倍くらいの大きさがあって、日に焼けていてしわと傷だらけの手のひら。

 それをそろりと掴むと、力強く引っ張られ、そのまま荷馬車の外に出される。

 サザナミは裸足で石畳の地面に立った。

 ――眩しくて、あたたかい大地。

 ふと、サザナミの瞳から大粒の涙がこぼれた。

 こうして少年サザナミの凄惨な人生はいともあっけなく退けられたのであった。

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